2013-02-01から1ヶ月間の記事一覧

20130228

法は、一方の場合は、欲望に対する外的な反動として現われるのだが、もう一方の場合は、欲望の内的条件として現われるのである。 (ジル・ドゥルーズ/宇野邦一・訳『フーコー』) しかし、西欧の共和制、君主制に共通していることは、自らを法的な一貫した…

20130227

もし言表が、語とも、文とも、命題とも、区別されるなら、それは言表自体がみずからの派生物として、主体の機能、対象の機能、概念の機能を含んでいるからである。まさに、主体、対象、概念は、根本的なものから、または言表から派生した機能にすぎないので…

20130226

一つの命題は、一つの指示対象をもっていると考えられる。つまり、指示対象あるいは志向性は、命題の内在的な定数であるが、それをみたすことになる(あるいはならない)ものの状態は、外在的な変数である。しかし、言表に関しては事情が異なる。というのは…

20130225

言語とは解読されるものではないという結論は、言語からあらゆる超越的装置をとりのぞくフーコーの議論の前提から考えても当然の帰結であるかもしれない。しかしこれを言語の議論のただなかで展開することはかなり挑発的でもあるだろう。それは言語の存立に…

20130224

以上で述べられていることとは何か。それは簡単にいえば、エノンセが歴史的な規則性としての配置であり、その事実の具体的な産出としてこそ描かれるということだろう。対象が歴史的に現出する「座標系」と結びついていること、そこで主体の位置を確保するこ…

20130223

回帰することのなもの、それは類似せるもの、相似せるもの、同一的なるものである。差異は回帰する。そして存在は、同じ仕方で差異として言及されるものだが、だからといって「生成」の普遍的な流れなのではない。また、「同一的なるもの」の中心の確かな円…

20130222

差異を解放するには、非=カテゴリー的な思考の創出が必要なのだ。創出とは、しかし単なる口さきの言葉ではない。哲学の歴史の上ですくなくとも二度、存在の一義性の根源的な編成がなされているからである。すなわち、ドゥンス・スコトゥスとスピノザによって…

20130221

差異を解放するには、矛盾なき思考、弁証法なき思考、否定なき思考がわれわれに必要である。多様性に向って肯定の言葉を口にする思考が必要である。分離という手段をそなえた思考が必要である。倍数的な思考――同一なるもののいかなる拘束もその限界を設定す…

20130220

概念が差異を統御しうるには、多様性と呼ばれるものの核心にあって知覚が概括的類似を把握することが必要である(そして包括的類似性は、そののち局部的な差異と同一性とに分割されよう)。新たにかたちづくられる表象関係は、その一つひとつが、ことごとく…

20130219

事件とは、命題にとっての指向対象として役立つ事物の状態ではない(死んでいるという事実は、それに照らしあわせて立語が真理とも誤謬ともなりうる一つの状態である。死ぬということは、断じて何を立証することもありえぬ一つの純粋な事件である)。指向対…

20130218

プラトンは、――アリストテレス派の連中が口にしているごとく、――「狩猟家」、「料理人」、あるいは「政治家」といった種を不完全に分割しているわけではない。彼は、「漁夫」、「罠を仕掛ける猟師」といった類的特質を知ろうとしているのではない。プラトン…

20130217

「ここで何してる?」 「何も」と彼は言い、メキシコの巡査部長に似た男に微笑みかけると、男は彼の手から手綱を奪い取った。「何も。地球が動くのを見ているんだ。ちょっと待っていれば自分の家が通りかかるから、そしたらなかに入ろうと思って」 (マルカ…

20130216

「とっつぁん、狂人や酔っ払い、激しい興奮状態にあって苦しんでいる者の行動というのは、その行動をとった者の精神状態を知る者には自由度が低く必然性が高いものに見えて、知らない者には自由度が高く必然性が低いものに見えるのだよ」 (マルカム・ラウリ…

20130215

歓喜と同じように沈黙もうつるものだとイヴォンヌは思った。ある集団が気まずく黙り込むと、別の集団もぎこちなく黙り込み、さらにそれが別の集団にもっと漠然とした、無意味な沈黙を引き起こし、全体が静まり返る。この説明のつかない突然の沈黙ほど、この…

20130214

何を象徴しているのかは思いつかないが、象徴的だということはたしかだ。 (マルカム・ラウリー/斎藤兆史・監訳/渡辺暁・山崎暁子・共訳『火山の下』) 狂人が救命帯のように古い自転車のタイヤをつけて通った。落ち着かない様子で首の周りのぼろぼろのタ…

20130213

二十九個の雲。二十九歳になると、人生、三十年目に入ったということだ。そして、自分はその二十九歳。そして、午前中ずっと自分のなかで強まっていたらしい感覚がついにはっきりと意識に上った。それは、二十二歳のときに気づくはずでなぜか気づかなかった…

20130212

「(…)昔、『戦争と平和』の哲学的な部分をすべて暗記するという苦行を自分に課したことがある。(…)だけど、この間気づいたんだが、あの本のなかで覚えているのは、結局、ナポレオンの脚がつったという部分だけなんだ――」 (マルカム・ラウリー/斎藤兆史…

20130211

ラリュエルは時計を見て――ビヒルはまだ三十分は来ないだろう――それからまた手のなかでくしゃくしゃに丸まった紙に目をやった。雨で洗われた新鮮な冷気が日よけ扉から酒場に流れ込み、屋根から雨が滴り落ちる音、街路の溝を走る水音が聞こえた。そして彼方の…

20130210

ひとの知らないもの、けっして見るはずも愛するはずもないものは、われわれの思考、われわれの行為が白昼の光の中に生みだしたものよりも重要なのだ。この夜はわれわれの光よりも明るく、この空虚はわれわれの現存よりも濃密かつ現実なのだ。それらは、結び…

20130209

芸術は超越的思考の惰性の中にとどまっている。他処なるものが何であるかはどうでもよい、人間にとってはその《他処》なるものが要るのだ。(…)それはつまり、彼らが、生命と思考のあいだ、物質と精神のあいだ、現実とフィクションのあいだにある、あの昔な…

20130208

ぼくには、それを言うことはできないが、それでも、できることなら……というのも、ぼくにはそれがすぐそこに、ぼくのまわりにあると感じられるのだ、そのことは、たぶん他の人たちがいつの日か知ることになろう。ぼくはためらう、なぜならたぶんもうすでにぼ…

20130207

なぜいつまでも、感情のうちに、個々別々の力、ときには矛盾し合いさえする力があるという見方にこだわるのか? いくつかの感情があるのではない。ただ一つの、生命の形があるだけ、それが多種多様な力にしたがってわれわれに顕示されるのだ。この形をこそ、…

20130206

世界への回帰は原始主義への回帰ではない。人間が自分のために創りだした世界もまた《自然》なのである――冷蔵庫、自動車、飛行機、橋やハイウェイ、鉄筋コンクリートのビルなどは装飾ではない、鏡ではないのだ。それらは生きており、それらに固有の生活を持…

20130205

他人とのあらゆる接触は狂信に基づいている。情緒に。共感に。その人が頭がいいということは、彼がぼくに似ているということなのだが、それにしても、ぼくが頭がいいと誰が保証してくれるのか? (ル・クレジオ/豊崎光一・訳『物質的恍惚』) 自己の中にあ…

20130204

確実性におけるそれらの貧しさは、偶然性における豊かさである。 (ル・クレジオ/豊崎光一・訳『物質的恍惚』) 生きてあるということ、それはまず何よりも見つめる術を知ることだ。人生が確実なものと感じられない人たちにとって、見つめることは一つの行…

20130203

世界は分解不能である。一塊をなしているのだ。世界に理由があるとすれば、目的性が、起源があるとすれば、それらは現在の時に混じり合っているのだ。それらは、われわれにとって産物、仮設公準、帰結であると思われるものと一体をなしているのだ。原因と結…

20130202

だいじなこと、重要なことというのは、自己についての体系的意識であり、個人はそれから外に出ることはけっしてない。このことは不道徳なのでもなければ、絶望的なのでもない。そうではなくて、こういう肝要な真実を認めることを余儀なくさせるものだ――人間…

20130201

いいものだ、自分だけの風景を持ち、観察したり理解したりできる品物や、小さな記号や、しみや、ミニアチュア的事件などの数々を持つということは。それはあなたをして意識的であることを余儀なくさせる。あなたを強いて、ほんのちっぽけになるよう、奇妙な…