2023-03-01から1ヶ月間の記事一覧

20230331

シニフィエあるいは意味作用が欠けていることは、ここで、シニフィアンとシニフィエの関係は問題含みであるということ、あるいは存在しないということさえ示唆している。このことは、男と女の非関係、すなわちラカンの有名な「性関係はない Il n'y a pas de …

20230330

しかし以前からラカンを読んできた者なら、特定の命題、たとえば不安についての命願をまず突きとめ、それをさらに補強し、臨床的に応用することが、どれほど思うようにいかないことであるかを知っている。これはラカンの側での神経症的戦略、すなわち回避な…

20230329

これこそが、ラカンが、一件するとパラドックス的に思える考えを導入する理由である。すなわち、「分析家自身の抵抗以外に分析への抵抗はない」(…)という考えである。ラカンによれば、抵抗が生じるのは、分析家が象徴的なポジションを採用することを拒否し…

20230328

ラカンは、患者の存在への情熱を満足させようとする——それは同一化をとおして満足されうる——よりはむしろ、分析主体を自らの“manque-à-être”(存在の欠如、存在しそこなうこと、存在への憧れ)に出会わせようとする。分析家は、分析主体に対して、〈他者〉に…

20230327

(…)分析家の発言は、分析主体が分析家に転嫁する人物によって発せられたものとして聞き取られる。たとえそれが、分析家自身は自分にそんなところがあると思っていないとしても、また分析のなかでそのような位置を占めようとしていなくても、そうである。分…

20230326

たいていの場合、ひとが助言を求めるのは、ただそれに従わないためである。あるいはもし助言に従うのだとすれば、それは助言をくれたそのひとを責めるためだ。 ——アレクサンドル・デュマ『三銃士』 (ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『…

20230325

いったい、あの世があるものか、あるとすればそこにはどんな眺めがあり、なりわいがあるかということほど、人々の大きな関心をひくものはありません。それもこうした世なればこそですが、明朝が倒されて清朝になり、戦乱あいついで匪賊が横行し、目を覆うば…

20230324

(…)それから、とって置きの酒を温め、丁生員の手をとって榻(ねだい)に上がり、『周礼』によって飲みあいをしようと言うのです。これはまず何冊何帖何行目と言っておいて『周礼』をめくり、もし食偏三水篇酉偏があたれば、罰として盃を受けさせるというも…

20230323

およそ三年前、ある都市の教育局が地元の教員の質を向上させ、大学入試を受ける高卒生に競争力をつけるため、一つの措置を講じた。全市の高校教師に資質試験を義務付けたのだ。合格者は引き続き教育に従事できるが、不合格者は淘汰されてしまう。これと同時…

20230322

もう一つ、CCTVを梃子に、自分を忽悠して富豪になった男の話をしよう。それは民間企業家の出世物語である。二十年ほど前のことだろう。当時の中国はまだインターネット時代ではなかったが、広告はすでに氾濫していた。テレビや新聞の広告は花盛りで、いろい…

20230321

経験交流の時代、中国の大地を走る汽車はすべて紅衛兵を満載していた。座席の下に横たわっている者もいれば、網棚で寝ている者もいる。多くの人は何時間も立ちっぱなしだった。列車のトイレにも人があふれ、誰も用を足すことはできない。だから汽車が駅に入…

20230320

我々の町の元紅衛兵たちは、そのころみな農村に送られ、苦難の日々を過ごしていた。文化大革命初期の混乱が収まったあと、毛沢東は厳しい現実に直面した。一九六六年以来、文革の動乱で、中学高校と大学は三年間、学生募集を行わなかった。そのため、全国の…

20230319

そのころ、私がいちばん羨ましく思ったのは、十歳ほど年上の人たちだった。彼らは一九六六年十月に始まった紅衛兵の全国「経験交流」に間に合った。当時は学校が革命のため授業停止となり、紅衛兵は文化大革命の経験を持ち寄って相互交流を図るという名目で…

20230318

一九五八年の大躍進は、ロマン主義の不条理喜劇だったと言える。虚偽と誇張と自慢が蔓延していた。当時、水稲の一畝当たりの生産高は、良質の水田でも四百斤程度だった。しかし、「人が大胆になれば、それだけ生産量も上がる」というスローガンのもと、全国…

20230317

最後に、一つの実話を手短に語って、この文章を終わりにしよう。それは中国南方の都市で発生した事件だった。近代的なビルとショッピングセンターが林立し、人通りが絶えない、経済発展のただ中で、小学六年生が誘拐された。 生活に困っていた二人の犯人は無…

20230316

社会生活の不均衡は、理想の不均衡をもたらす。十年ほど前、CCTVは六月一日の「児童節」に各地の子供を取材し、この日にもらいたい贈り物は何かという質問をした。北京の男の子は、本物のボーイングジェットが欲しいと答えた。西北地区の女の子はおずおずと…

20230315

今日、中国には投資可能な資産を一千万元以上持っている大金持ちが、すでに数十万人いる。二〇〇九年のフーゲワーフ(中国名は胡潤、イギリスのジャーナリスト)の調査によると、中国では資産一千万元以上の富豪の数がすでに八十二万五千人に達した。この数…

20230314

二〇〇六年五月一日、CCTV(中国中央テレビ)の名司会者で、私の友人でもある崔永元(ツイ・ヨンユアン)は、撮影クルーと二十六名の職種の異なる人々を連れて、かつて中国共産党の紅軍がたどった長征のルートを歩き始めた。所有日数は二百五十日、行程は六…

20230313

いま、私の息子はすでに高校生になった。この今日の少年が昔日の少年である私に語ったところによると、中学の家庭科の授業で、先生は女子生徒を男子生徒の膝にすわらせるという。男女が体を密着させた状態で、先生は男性と女性の生理的な違いから始めて、性…

20230312

いまだに誰なのかわからないが、ある同級生が教室の黒板にチョークで「愛情」という言葉を書いた。それは我々がよく知っているのに、使ったことのない言葉だった。当時、高校一年のクラスは四つあった。曲がりくねった「愛情」の二文字が一年一組の黒板に出…

20230311

当時の我々は街をぶらつき、よく騒ぎを起こして、同年齢の少年たちと殴り合いのケンカをくり広げた。ときには大胆にも、頭半分ほど背丈の違う年上の連中を相手にした。激戦が始まると、その同級生は身を隠して、近くで様子をうかがっていた。逃げることもな…

20230310

文革の頃、私は「魯迅」という強力な言葉を十分に利用した。私の成長過程には、革命と貧困のほかに、絶え間ない論争があった。論争は幼年期と少年期の贅沢品であり、貧しい生活における精神の糧だった。 私は小学校のとき、同級生と論争した。太陽が地球に最…

20230309

まず、この本当の記憶について語ろう。文革時代の小さな町での生活は、暴力に満ちあふれているとは言え、退屈で重苦しいものだった。記憶によると、犯人が銃殺されるときだけ、町じゅうが節句のような賑わいを見せた。先に述べたように、当時はあらゆる判決…

20230308

私が北京から戻ったあと、小さな海塩(ハイイエン)の町は大騒ぎになった。私は中華人民共和国史上初の北京で原稿修正をした海塩人なのだ。県の指導者は私の才能を認め、歯を抜くことはやめて、文化センターで働くべきだと考えた。その後、複雑な異動手続き…

20230307

私は一九八〇年代の初めが懐かしい。文革が終結し、十年間禁止されていた文学雑誌が続々と復刊し、さらに多くの新しい文学雑誌が生まれていた。ほとんど文学雑誌のなかった中国が、あっという間に千種類以上の文学雑誌を発行する国になった。大量の紙面が飢…

20230306

当時、私は二十歳を過ぎたばかり。昼休みには病院の通りに面した窓の前に立ち、賑やかな街を眺めていた。心に何度も、恐ろしい考えが浮かんだ。私はここで一生過ごすことになるのだろうか? まさにそのとき、私は小説を書こうと決めた。窓の前に立って見てい…

20230305

その後、私の署名入りの最初の壁新聞が生まれる原因は、ここにあった。その年、私は小学一年生、兄は小学三年生だった。人生のどん底にあった父は、政治的な芝居を自作自演し、家族全員で革命的な春節(旧正月)を過ごした。大晦日の夜、ほかの家は一年間の…

20230304

文革中、人々は壁新聞を書くことに熱中した。今日の人々がブログに熱中するよりも激しかった。違いと言えば、当時の壁新聞は千篇一律で、基本的に『人民日報』の剽窃だった。革命的な言葉と中身のないスローガンの氾濫が、最初から最後まで続いていた。一方…

20230303

私は霊安室の向かい側に十年ほど住んだから、泣き声の中で成長したと言っていい。病死した人は火葬される前に、わが家の向かい側の霊安室で一夜を過ごす。霊安室は、死の世界へ向かう客を静かにもてなす旅の宿だった。 私はしばしば夜中に突然目を覚まし、肉…

20230302

四つ目の読書体験は、一九七七年に始まる。文化大革命が終結し、毒草と見なされた禁書が改めて出版された。トルストイ、バルザック、ディケンズらの文学作品が最初に我々の町の書店に並んだときの反響は、現在で言えばスター歌手が田舎町に登場したようなも…