20140505

 書く方を放棄してから一週間余りにもなっていただろうか。その間に自分の生活はまるで気力の抜けた平衡を失したものに変っていた。先ほども云ったように失敗がすでにどこか病気染みたところを持っていた。書く気持がぐらついて来たのがその最初で、そうこうするうちに頭に浮ぶことがそれを書きつけようとする瞬間に変に憶い出せなくなって来たりした。読み返しては訂正していたのが、それも出来なくなってしまった。どう直せばいいのか、書きはじめの気持そのものが自分にはどうにも思い出せなくなっていたのである。こんなことにかかりあっていてはよくないなと、薄うす自分は思いはじめた。しかし自分は執念深くやめなかった。また止まらなかった。
 やめた後の状態は果してわるかった。自分はぼんやりしてしまっていた。その不活発な状態は平常経験するそれ以上にどこか変なところのある状態だった。花が枯れて水が腐ってしまっている花瓶が不愉快で堪らなくなっていても始末するのが億劫で手の出ないときがある。見るたびに不愉快が増して行ってもその不愉快がどうしても始末しようという気持に転じて行かないときがある。それは億劫というよりもなにかに魅せられている気持である。自分は自分の不活発のどこかにそんな匂いを嗅いだ。
 なにかをやりはじめてもその途中で極って自分はぼんやりしてしまった。気がついてやりかけの事に手は帰っても、一度ぼんやりしたところを覗いて来た自分の気持は、もうそれに対して妙に空ぞらしくなってしまっているのだった。何をやりはじめてもそういう風に中途半端中途半端が続くようになって来た。またそれが重なってくるにつれてひとりでに生活の大勢が極ったように中途半端を並べた。そんな風で、自分は動き出すことの禁ぜられた沼のように淀んだところをどうしても出切ってしまうことが出来なかった。そこへ沼の底から湧いて来る沼気(メタン)のような奴がいる。いやな妄想がそれだ。肉親に不吉がありそうな、友達に裏切られているような妄想が不意に頭を擡げる。
梶井基次郎「泥濘」)



 6時起床。肌寒い朝だった。歯を磨きストレッチをし、パンの耳とバナナとヨーグルトとコーヒーの朝食をとった。家を出るとあるかなしかの小雨だった。念のため傘をもって職場に向かった。
 地獄の四連勤三日目。ひどい忙しさだった。ここまでバタバタしたのはじつにひさしぶりである。きのう一昨日とヒマだったぶん余計にしんどかった。明日もこんなふうだろうかと思うとげんなりする。今日から禁煙をはじめるつもりだったTさんが目の回るような忙しさに、あかん、今日はちょっと煙草ないと無理や、イライラする、とさっそく挫折していた。その気持ち、わからないでもない。じっさいひどい一日だった。
 仕事を終えるころには両足首とかかとに独特の重たるさがつきまとっていた。関節をのばしたりぐるぐるまわしたりするとすごく気持ちがいいというのはつまるところそれだけたっぷりと疲労が蓄積されているということだ。くわえて起き抜けから腰まわりの調子がよくない。しかしこれは雨天のせいであると、おなじく雨の日の腰痛に悩まされているBさんの発言によって思いいたった。
 就職を機に三月末に職場を去ったSさんが夕方いきなり姿をあらわした。GWを利用して京都をおとずれているらしくそのついでに立ち寄ったらしかった。お目当てのHさんもいなければEさんもいないのだから来たところで意味ないだろうにと彼女の間の悪さに同情した。ほかの同僚らが話相手になっているあいだはまだよかったのだけれど、途中から控え室にのこっているのがわれわれふたりだけという状況になってしまい、これには難儀した。率直にいって、相手をするのが面倒でならなかった。昼寝をしそびれていて眠いし両脚は重いし腰は痛いし電話はひっきりなしでイライラするし、そんなこんなでゆっくりとおしゃべりを楽しむどころではまったくもってないこちらの口数の少なさを補うために(つまり彼女なりの気遣いのつもりで)、職場のいざこざにたいする質問であったり新生活についての感想が口に出されたりするのだけれど、ただでさえバタバタやっているところにくわえて彼女への受け答えも果たさねばならないことによってますますイライラげんなりみたいな、どうしようもない負の循環ができあがっていた。かといって忙しさに目処がついたらついたでゆっくりおしゃべりすることができるのかといえばそうでもなく、ようやくゆっくりと内職に励むことができる安らぎのひとときを邪魔されることになるというその見通しがたつたびごとに、たのむからはやく帰ってくれないかなと内心ひそかに祈ってばかりいた。そんなふうにストレスを感じやすくなっているじぶんに三勤目のありようを見た。
 Eさん譲りのスマートフォンで読んだ昨日付けの『偽日記』の記事がおもしろかった。

NHKの「サイエンスゼロ」が面白かった。最近のこの番組は「攻め」ている感じ。超能力特集なのだけど、最初にやっていた「透視」の話は、まだよくある話でどうということはないのだけど、乱数発生機(0/1を、ランダムに、しかも等確率で発生させる装置)の「確率」を人間の集団的な感情の盛り上がりが乱すという話はすごく面白い。ここで「感情」によって変化させられているものは何なのかと考えてみると、それは純粋な「確率」そのものということになるのではないか。それは、物としてあるスプーンを曲げるというような分かり易い話ではない。
最近の科学の解説書を読んでいて強く感じられるのは、この世界の「実在」というものは「確率」そのものとしてあって、我々が実在すると感じている個々の事例や事物は、実は実在としての確率から投射された「影」のようなものでしかないのではないかという感覚だ。個々の事例が先にあって、それらを集計し、統計的な操作を加えることで、確率という抽象的なものが得られる、というのではなく、確率こそが先にあり、我々はその効果でしかなく、集計および統計という手法を使うことによってようやく、(確率という)実在の隅っこに触れることができる、ということのではないか、と。
いずれにしろ、確率という概念や、統計という手法を使えなければ、この世界について何も分からないのではないかという感じはすごくする。
(仮に、確率こそが実在であるとして、しかしだとすれば、実在としての確率の「効果」でしかないはずの「感情」が、今度は逆に実在としての確率を動かす――乱す――という相互作用があるというのも不思議で、面白い。心身問題というのは、心と物の間にあるのではなく、感情と確率の間にある、ということになるのかも。あるいは、個が確率の効果でしかないとしても、個というものは確率には還元できず――確率→個という方向はスムーズに移行できても、逆の、個→確率という方向にはスムーズに移行できない――その還元できないという事実のことを「こころ」と呼ぶ、ということなのだろうか。)

 帰路はやはりあるかなしかの小雨だった。いちおう傘をさして帰ったが、なければないでいっこうにかまわない程度のものにすぎなかった。いちど帰宅してから近所のコンビニに出かけてカツ丼を購入した。ちょっとした夕飯を作る気にさえなれなかった。 食事を終えて風呂に浸かりひげを剃った。部屋でストレッチをしているところに職場から電話があり、予約をとったという客が来ているのだがとMさんがいうので、予約は一件も受けていない、ホラを吹いて宿泊場所を確保しようという魂胆でしょう、と応じた。
 フラナリー・オコナー『賢い血』を片手に布団にもぐりこんだ。冒頭からしてかなり良い感じ。ゾクゾクするようなすごい「小説感」を感じる。0時半消灯。