20140506

 有楽町から自分の駅まではかなりの時間がかかる。駅を下りてからも十分の余はかかった。夜の更けた切り通し坂を自分はまるで疲れ切って歩いていた。袴の捌ける音が変に耳についた。坂の中途に反射鏡のついた照明燈が道を照している。それを背にうけて自分の影がくっきり長く地を這っていた。マントの下に買物の包みを抱えて少し膨れた自分の影を両側の街燈が次には交互にそれを映し出した。後ろから起って来て前へ廻り、伸びて行って家の戸へ頭がひょっくり擡(もたぐ)ったりする。慌しい影の変化を追っているうちに自分の眼はそのなかでちっとも変化しない影を一つ見つけた。ごく丈の詰った影で、街燈が間遠になると鮮やかさを増し、片方が幅を利かし出すとひそまってしまう。「月の影だな」と自分は思った。見上げると十六日十七日と思える月が真上を少し外れたところにかかっていた。自分は何ということなしにその影だけが親しいものに思えた。
梶井基次郎「泥濘」)



 6時15分起床。肌寒い早朝だった。歯を磨きストレッチをし、パンの耳とバナナとコーヒーの朝食をとってから昨日づけのブログを投稿した。いつもより五分ほど早く家を出てデイリーヤマザキで総菜パンをふたつ買った。職場に到着してからさっそくひとつ食べ、もうひとつは昼食の時間に冷凍パスタといっしょに食べた。
 労働。地獄の四連勤最終日。そこそこヒマな一日だった。Jさんに五千円貸した。利子は例のごとくコンビニスイーツである。三時のおやつにTさんがクラブサンドを作ってくれたのでみんなで食べた。美味かったし腹いっぱいになった。Nくんからガルシア・マルケスって読んだことありますかとたずねられたので『百年の孤独』は二度読んだと応じた。訃報に接してその名を知ったらしかったので、『百年の孤独』がいちばん有名であるし難しくもないから入門としてもいいと思うけれど、コアなファンは『族長の秋』のほうを推すみたいだしマルケス本人もそう考えていたみたいだと話した。ついでにフアン・ルルフォも推しておいた。『百年の孤独』はそこそこ傑作だが、『ペドロ・パラモ』は文句なしの大傑作である。『百年の孤独』で印象にのこっているのは磁石の棒かなにかをひきずりながら道を歩いてスクラップを集めまくる(たしか冒頭の)「魔法」の場面と、レメディオスが昇天する場面(ここの場面がどういうわけかアブダクションめいたものとして記憶されているのだがじっさいはたぶんちがうはず)で、後者にはじめて触れたとき『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』のミニヨンがおのずと想起されたのもよくおぼえている。上中下三段組の死ぬほどぶ厚い『ヴィルヘルム・マイスター』の一巻本を読んでいたのはたぶん大学卒業まぎわで、中古ゲーム屋の店番をしながら毎日延々とページを繰っていた。こちらの読み書きについてはほとんど触れることのなかった当時の彼女がめずらしく「あんたそんなん読んどんの!」と三段組の分量に驚いてみせるという一幕もあった。肝心の内容についてはほとんどおぼえていないが(ゲーテ的な面白さとゲーテ的な退屈が混在していてつまるところ完璧なまでにゲーテ的な小説だった)、ただミニヨンという少女との再会の場面と彼女の死に強い印象を受けたというその事実だけははっきりとおぼえている。
 スーパーで四割引の寿司とカップ麺と甘いものを購入して帰宅した。Tから日本人たちとつるんで遊んでいるとの報告があったので、勉強どこいったんだよと思った。語学学校なのに(というかむしろ語学学校だからこそなのかもしれないが)みんなぜんぜん英語をしゃべることができないみたいで、どれくらいできないかというと「俺が一番出来るって噂が学校で流れるくらい」らしい。でもまあ「せっかくやし楽しまなな〜みたいな感じで気楽になって来た」という。
 シャワーを浴びてからストレッチをし、洗濯物を干してからたっぷり引っかけて酩酊した。飯を食って音楽を聴いてYouTubeで古いお笑いを観て3時前には寝た。またいろいろ書き残していた。

Hくんの「夏」はよすぎる、人類の遺産レベル、これを地上に残しただけでもHくんは文明に足跡を刻印した巨匠に仲間入りする資格があると思う
これが苦難の時期にあみだされたメロディーか? 世界を愛しすぎている男の本音だ
Hくんの才能を疑うやつはアホ
聞き返すたびごとに印象の異なる楽曲というのがある、Hくんの「夏」はそうではない、いつきいてもなんどききなおしてみてもその印象はつねに愛である、この高潔なる強情さ、鉄面皮のあまのじゃく!
ほんとうに美しい、美しいという言葉がこれほど似合う聴取の感情もない

お笑いの脱線ネタは酩酊と相性がいい、観るものの知覚の形式と観られるものの内容が一致する