20140515

「痴呆のような幸福だ」と彼は思った。そしてうつらうつら日溜りに屈まっていた。――やはりその日溜りの少し離れたところに小さい子供達がなにかして遊んでいた。四五歳の童子童女達であった。
「見てやしないだろうな」と思いながら尭は浅く水が流れている溝のなかへ痰を吐いた。そして彼等の方へ近づいて行った。女の子であばれているのもあった。男の子で温柔(おとな)しくしているのもあった。穉(おさな)い線が石墨で路に描かれていた。――尭はふと、これはどこかで見たことのある情景だと思った。不意に心が揺れた。揺り覚まされた虻が茫漠とした尭の過去へ飛び去った。その麗かな臘月の午前へ。
 尭の虻は見つけた。山茶花を。その花片のこぼれるあたりに遊んでいる童子たちを。――それはたとえば彼が半紙などを忘れて学校へ行ったとき、先生に断りを云って急いで自家へ取りに帰って来る、学校は授業中の、なにか珍らしい午前の路であった。そんなときでもなければ垣間見ることを許されなかった、聖なる時刻の有様であった。そう思って見て尭は微笑んだ。
梶井基次郎「冬の日」)

 これまったくおなじようなことを過去にブログに書きつけたことがある。たしかそのときは「遅刻者の特権」みたいな表現を使った気がするのだけれど、「聖なる時刻」のほうがずいぶんカッコイイ!