20140518

 私は山の凍てついた空気のなかを暗(やみ)をわけて歩き出した。身体はすこしも温かくもならなかった。ときどきそれでも私の頬を軽くなでてゆく空気が感じられた。はじめ私はそれを発熱のためか、それとも極端な寒さのなかで起る身体の変調かと思っていた。しかし歩いてゆくうちに、それは昼間の日のほとぼりがまだ斑らに道に残っているためであるらしいことがわかって来た。すると私には凍った闇のなかに昼の日射しがありありと見えるように思えはじめた。一つの燈火も見えない暗というものも私には変な気を起させた。それは灯がついたということで、もしくは灯の光の下で、文明的な私達ははじめて夜を理解するものであるということを信ぜしめるに充分であった。真暗な闇にもかかわらず私はそれが昼間と同じであるような感じを抱いた。星の光っている空は真青であった。道を見分けてゆく方法は昼間の方法と何の変ったこともなかった。道を染めている昼間のほとぼりはなおさらその感じを強くした。
 突然私の後ろから風のような音が起った。さっと流れて来る光のなかへ道の上の小石が歯のような影を立てた。一台の自動車が、それを避けている私には一顧の注意も払わずに走り過ぎて行った。しばらく私はぼんやりしていた。自動車はやがて谿壁を廻った向うの道へ姿をあらわした。しかしそれは自動車が走っているというより、ヘッドライトをつけた大きな闇が前へ前へ押し寄せてゆくかのように見えるのであった。それが夢のように消えてしまうとまたあたりは寒い闇に包まれ、空腹した私が暗い情熱に溢れて道を踏んでいた。
梶井基次郎「冬の蠅」)



 6時20分起床。パンの耳とコーヒーの朝食。8時より歓びなき労働。職場に到着してすぐにバナナを2本食った。真昼時に職場の前の道路で、というか駐車場にいたる進入路に自転車を停めて地面にごろ寝している若い二人組の姿が監視カメラのモニター越しに認められたので、どこの馬鹿野郎だこいつらはと思いながら注意するためにおもてに出ていくと、小学生とも中学生ともつかない幼いふたりで、その片割れがいくらか血の気のない顔で地面に横たわっていた。寝そべっているほうにむかいあって立っているほうがやたらと焦ったようすで、なにやっとんやきみらとたずねるこちらに、すみませんちょっと気分が悪いみたいでとぺこぺこしながらいうので、さては日射病かと思い、寝そべっている子のほうに腰をかがめてだいじょうぶかと問うてみせると、だいじょうぶですといいながら無理して上体を起こそうとするので、いやいや寝とってええからと制した。とりあえずその場はTさんにまかせることにしていったんなかに引きかえし、在庫置き場から冷えていないアクエリアスのペットボトルを見つくろって持っていってやった。そのあいだにTさんはふたりの自転車を車の進行の邪魔にならないところに移動させて当のふたりを日陰に呼びまねいて腰かけさせており、事情をたずねてみるとどうも日中おもてでバスケをしていたその帰りらしく、ふたりとも手持ちの金を持ち合わせていなくてと元気なほうが申し訳なさそうにいうので、そんなんかまへんからちょっとゆっくり休んでき、しんどかったらなか入ってもええから、畳あるし横になれるで、といい、それからタオルに氷を包んでもっていって、これで首まわり冷やしときと手渡した。ちょっとでも気分わるなったら言うておいで、トイレもあるしベッドもようけあるからな、とほとんど笑い話みたいなことを口にして持ち場にもどると、元気な子のほうにも飲みものをあげたほうがいいだろうとTさんがディスペンサーからグラスにカルピスを注いでこちらによこしてみせるので、きみもこれ飲んどきといってふたたび裏口から彼らの腰かけているほうに出向いて差し出すと、え、ぼく、ぼくにですか、すみません、すみませんとやたらと恐縮したふうにいってみせるので、かまへんから、きみまでまいってしもたら大変やしな、と押しつけた。そうしておもてのふたりはいったんそのままにして引き下がったのだけれど、しばらくすると裏口のほうからすみませんとこちらを呼ぶ声がして、元気な子のほうが空になったグラスを持って立っていたので、どうや、ちょっとはよくなったか、といっておもてに出てみると、ダウンしていた子もたちあがっていて、はい、もうだいじょうぶですと緊張した面持ちでいってみせるので、ちょっと楽になったからって無理して動くとまたえらいで、おもて日射し強いしもうちょいゆっくり休んでってもええで、というと、いやもうだいじょうぶです、ほんとうにありがとうございました、とふたりそろってきっちり頭をさげて礼をしてみせ、あげくのはてには失礼しますとかなんとか口にして去っていったので、すごい礼儀正しい子らでしたねーとTさんと感心しあった(しかしあとになってよくよく考えてみると、あれくらいの年頃ってヒゲが生えていたり髪を染めていたりピアスをつけていたりする年長の同性を目にするとそれだけですごく萎縮するようなところがあったような気がする)。あの子ほんまにだいじょうぶすかね、もうちょい休んでったほうがよかったんちゃうかな、というと、いや顔色ぜんぜん変わってた、しっかり回復してたわ、とTさんがいうので、じゃあ大丈夫だろうと思った。アクエリアスの110円とソフトドリンクの50円はこっちが持った。アレだったらバスで帰ることができるように小遣いをやればよかったとも思ったが、あとの祭りである。
 Bさんが帰りぎわ、先週にひきつづきひそひそ話のていでこちらによってきて、Oさん伝いに聞いたというMさんによるTのおっさんイジメの実態をひとしきり吹きこんでいった。Tのおっさんがうんぬんかんぬんよりもそういうやりとりを目の当たりにするほかの若いバイトたちがどんどん職場が離れていくんでないかと、そういう懸念のおこるところまですでに事態は進展しているらしく、だんだんとなにかがせまってきている気がする、ちかぢかひと波乱ありそうな気がする、「またトラブルか!」とキャパオーバーになったEさんが苛立ちのあまりぶっ壊れるようすもたやすく想像できるが、さすがにここまでいろいろとさしせまってくるとMさんをどうにかしないかぎりは解決の見込みも得られないような気がする。Eさんにはちょっとふんどしを締めなおしてもらってことに当たってもらうことになるかもしれないが、しかしこの一件、Eさん対Mさんの構図になったら確実にこちらも火の粉をかぶることになってしまうというか、場合によっては計略と暴力のいりみだれる混戦模様にもなりかねないので、率直にいって、かなり面倒だし考えるだけでうんざりする。かといって放置すればどうにかなる話でもない。外堀埋めて逃げ場をなくさせたところで完全に息の根を止めるみたいな、やるからには徹底的にやる覚悟を決める必要が出てくるのかもしれない。憂鬱になる話だ。
 今日も今日とて下宿のとなりにある空き地は祭のための臨時駐輪スペースになっていたのだけれど、前夜祭のきのうとはちがって満車で、路上にまで自転車があふれかえっていて、それはまだ許せるとしてもこちらの離れのある一画にいたる細道にまで自転車が駐輪されており、下宿人の出入り口が完全にふさがれているかたちで、その光景を目の当たりにしたとたん猛烈に頭にきた。ゆえにそれら違法駐輪自転車が横倒しになるのもいっさいかまわず、ただでさえ細い道の駐輪自転車によってますますせまくなっているところをガシガシ自転車で突き崩しながら進んで離れのあるほうまでたどりついた。だれにも文句なんていわせない。いわせてたまるか。
 労働明けの打ち上げというわけで(きのうも食べたばかりだけれど)値引き品の寿司を買いにいくつもりだったのだけれど、またあの混雑のなかを自転車でひきかえすのも馬鹿らしくおもわれたので近所のコンビニでなにか適当に買ってすませようと思って家をでた。そのまえにとりあえず当の神社のほうはどうなっているのか様子見がてらおとずれてみることにし、屋台のたちならぶひとごみのなかを歩いていった。境内で地元の中学生高校生らが和太鼓の演奏をしているのを見物したのはあれはいつだったか、Sが帰国してからかあるいは来日するまえだったか、とにかくひとりで、彼女の不在を思った記憶がたしかにある。和太鼓をとりかこむ聴衆の円陣のなかでみつけた幼子を抱いた若い女性のことを「G」にも書いたし、昨年末にはTといっしょに初詣におとずれたのもここだった。境内はたいへんな混雑で、仲良し同士ではしゃぎまわっている小中高生らの姿や幼子を連れた親らのが目立つなかにところどころ留学生らしい西洋人がまぎれこんでいたり田舎趣味の高じた大学生らがなつかしいなつかしいと口にしながら屋台のあれこれに目を輝かせていたり、そんななかでおまえひとりでこんなところになにしにきてんだよと顔を見るなり問いかけたくなるたぐいのプロフィールのはっきりしない独り身の姿がちらほらあって、むろんじぶんもこの枠にカウントされる存在であるわけだが、境内の奥、ちょうどいぜん和太鼓を演奏していたあたりで密集する人壁があり、そのむこうで神輿が小刻みに上下していてかけ声のようなものがあがったり幟のようなものがふられたりしていた。湯をそそいだカップ麺が食べごろになるくらいのひとときを林立するひとの頭のむこうでなにやらはげしく上下しているものの輪郭をぼんやりなぞって過ごし、そしてまたのろのろとした参道の歩みに従順にしたがうかたちで境内をあとにした。コンビニに入ると案の定ドリンクが十種類近くも売り切れになっていた。屋台がたくさん出ているためにか弁当のほうはしっかり残っていて、そこからアサリのスープパスタを手にとってミネラルウォーターといっしょにレジにもっていった。職場で昼飯にボンゴレビアンコを食べたばかりであるが、冷凍食品のアレとこちらのはたしてどちらが美味か食べくらべてみたかったのだった。
 帰宅してから懸垂と腹筋をして筋肉を酷使した。それから風呂に入って部屋にもどりストレッチをして、ブログをここまで一気呵成に書きあげるともう0時近かった。ブログを書いているあいだひょっとしたらTがあらわれるかもしれないとおもってずっとスカイプにログインしていたのだけれどあらわれなかった。Sはずっとログインしていたけれどおしゃべりをする気にはなれなかった。結局こうしてすごすことになるのかと思いながら豆電球ひとつ灯した六畳一間でいつものように五感の大海原をただよいおそらく1時半には寝落ちしていた。