20140519

 そんなある日のこと私はふと自分の部屋に一匹も蠅がいなくなっていることに気がついた。そのことは私を充分驚かした。私は考えた。恐らく私の留守中誰も窓を明けて日を入れず火をたいて部屋を温めなかった間に、彼等は寒気のために死んでしまったのではなかろうか。それはありそうなことに思えた。彼等は私の静かな生活の余徳を自分等の生存の条件として生きていたのである。そして私が自分の鬱屈した部屋から逃げだしてわれとわが身を責め虐(さいな)んでいた間に、彼等はほんとうに寒気と飢えで死んでしまったのである。私はそのことにしばらく憂鬱を感じた。それは私が彼等の死を傷んだためではなく、私にもなにか私を生かしそしていつか私を殺してしまうきまぐれな条件があるような気がしたからであった。私はそいつの幅広い背を見たように思った。それは新しいそして私の自尊心を傷(きずつ)ける空想だった。そして私はその空想からますます陰鬱を加えてゆく私の生活を感じたのである。
梶井基次郎「冬の蠅」)



 おそらく8時ごろだったように思うが、おもての引き戸をバンバンバンと叩く物音で目がさめた。一昨日の予告どおり赤飯をもってきてくれたのだろうと思いながら出るとはたしてそのとおりだった。朝はやく食事を持ってくるのはやめてほしいと、これまで何度かやんわりお願いしてきたのだけれど、まるで功を奏さない。起こしてしまって堪忍してくださいというばかりで、行為そのもののあらたまることはぜったいにない。善意は善意であるので強くいうのは気がひける。どうしたもんかと思う。赤飯を受けとり皿のうえからラップだけかぶせてふたたび布団にもぐりこんだ。尿意をおぼえたので小便にだけ立って、そうしてふたたび寝床にもどるころにはけっこうしっかり目がさえてしまっていて、このまま起床して活動開始といこうかと一瞬迷いもしたが、この時間だとたとえ目が冴えていても頭はまだ思うように働いてくれないはずだと思われたので、やはり二度寝することにした。そうして次に起床すると12時半だった。まあこんなもんだろうと思った。途中で中断をはさみつつも11時間にもわたる長丁場だった。背面がきしんで痛んだ。
 歯を磨くためにおもてに出ると、水場にだれのものともしれない赤飯が突き返されていた。こんな無礼を平気でしてみせるのはおそらく通り魔くらいだろうと思われた。じぶんの部屋に赤飯を運んだ大家さんがそのあと彼の部屋におもむく足音を夢うつつに聞いたおぼえがある。あれだけ部屋に来るなとクレームの手紙を送りつけられておきながら朝早くに玄関の引き戸を思いきり叩きつけて住人を無理やり起こす大家さんも大家さんだと、戸のたてるバンバンバンという音を間遠に聞きながら思ったのだった。部屋にもどってから掛け布団と敷き布団と枕のシーツをはぎとった。それらすべて洗濯機にぶちこんでスイッチを入れ、部屋の前の物干竿に毛布と掛け布団を干し、水場のトタン屋根のうえに(猫や鳩がやってくるのをひそかにおそれながら)敷き布団と枕をならべ、ほかの住人らが自転車やバイクを停めている一画にある物干竿に敷き毛布を干した。部屋にもどり赤飯を温めてから食べ、昨日づけのブログを読み直してから投稿した。シャブ&アスカに関連する記事に「吸引具」とあり、ということは射たずにあぶりにとどめていたはずで、じじついちどクラックパイプをくわえている写真を週刊誌に掲載されたことがあったように記憶しているけれども、内偵のはいっていること必至なそうした状況下にもかかわらず今回こんなふうに手を出してしまったという事実を考えるかぎり、それ相応に依存していたと見るべきなんだろうけれど(そうでないとしたらいくらなんでも脇があますぎる!)、あぶりでそこまでいくっていうのもなんというかめずらしい、というか中途半端な話だなとは思う。
 洗濯の終了するピーピーいう音が聞こえたのでふたたびおもてに出て、掛け毛布をはやばやと部屋にとりこみ収納袋におさめて片付け(朝晩はまだまだ冷え込むのがいくらか心配だけれど)、物干竿の空いたスペースにシーツを干した。それから部屋の掃除にとりかかった。ゴミをすべておもてに出し、たまっていたダンボールをガムテープでくくってこれもやはりおもてに出した。コロコロをつかって畳のうえの塵芥を除去した。デスクの下に足を置くための台としてブロックをふたつ設置しているのだけれど、コンクリトートの破片といぐさのほつれたのがいっしょになっているあたりが、とくにひどかった。ダニ対策としてスプレーをふっておこうかとも思ったけれど、だんだんとめんどうくさくなってきたのでやめにした。デスクにもそのとなりにあるスチールラックにも結局手をつけなかった。当然、拭き掃除などするはずもなかった。じぶんがこの人生にいちばんつよくもとめているものはハンディクリーナーだと思った。どっかあまっているひとはいないか、方々に当たってみたい。
 掃除を終えると16時半だった。布団のない部屋はとてもひろびろとして見えた。ハーフパンツとヒートテックと黒のニット帽の三位一体モードに着替え、スペースをたっぷり使ってストレッチをしたのち、ジョギングに出かけた。きのうおとといの自転車の影も形もなくなって殺風景にひえびえとしてみえる空き地と離れへといたる細道のその境界にはえている雑草を抜いている大家さんの姿を見かけたのであいさつをした。転ぶとあぶないからいうて禁止されてるんですけど、草が生えとると気色悪いさかい、と大家さんはいった。それからこちらの身なりを目にとめて、マラソンですか、というので、はい、ちょっと鴨川のほうまでいってきます、と応じた。95歳で草むしりをしているというのもすごい話だなとあらためて思った。帰ってきて、そのときまだやっているようだったら、手伝ってあげようと思った。
 東へわたる信号の切り替わったところでゆっくり走りだした。河川敷におりたったところで前回と同様、流れにさからうかたちで北上しつづけた。以前にくらべるとランナーの姿は少なかった。かわりに犬を連れた姿が目立った。ベンチに腰かけてアコギの練習をしている若い男がいた。テニスをしている小学生くらいの男の子がいた。芝生に直接尻餅をついて談笑している西洋人の集団がいた。川沿いの石造りのベンチに腰かけて書見をしている大学生くらいの男がいた。流れにぼんやりと目をむけて突っ立っている男女がいた。三十路も半ばをすぎてしかしいやにういういしい親密さをまとっているふたりだった。女はすこしくたびれているようにみえた。入水の瞬間を間近にひかえた恋人たち、と、不吉さよりもむしろはかない感傷にかたむくところのある想像がはたらいた。前回とは異なり空腹ではなかったのでよく走れた。道幅のせまくなった地点で折り返し元来たところまでもどった。その途中で、たびたび見かけるボーダーコリー二匹連れの女性をまた見かけた。ボーダーコリーは実家にいるものよりもやはりひとまわり小柄にみえたが、うちのほうがむしろ通常サイズよりもひとまわりでかいのだった。白黒模様は五月の芝生によく映える。いとおしい。
 規定のコースを走り終えてもまだまだ体力のあまっている感があった。(長)コースよりも短いのかもしれないと思った。下宿にもどると、羅生門(公道と離れにつづく細道の境界線にもうけられているぼろぼろの門を便宜的にそう呼んでいる)の足元にカバーの剥がされた緋色の書物が一冊立てかけられているのがみえた。手にとってみると、奥泉光『虚構まみれ』とあった。下宿のだれかの私物か、あるいは臨時駐輪場が撤回されたさいに見つかった落とし物のたぐいかもしれない。べつだん食指の動くところもなかったので回収せずそのままにしておいた。部屋にもどりネットで今日走った川べりのコースの距離を計算してみると、往復で4キロしかなかった。下宿から河川敷にいたるまでの距離もふくめてみたところでおそらく5キロ程度である。(長)はたしかいぜん計測してみたとき6キロあった。以前住んでいた閉鎖病棟めいたアパートのほうまで出かけるコース(便宜的にこれからはそのコースのことを「50番」コースと呼ぶことにする、くだんのアパートの大家さんがこちらのことを部屋番号で読んだ事実にちなむ)はたぶん6キロ以上ある。次回から鴨川に出かけるときはもうすこし長めの距離を(次の電柱までは走りつづけると決めた下校路の小学生さながら体力を見極めつつたとえば次の橋まで走るみたいなかたちで)走ることに決めた。
 シャワーを浴びた。あがって身体を拭いていると大家さんがやってきて、ジョギングの話題になるとかならずうれしそうに口にする以前の間借り人の話(同志社を卒業して弁護士になった男性、夕刻になるとたびたび今出川から北山までのコースをとるジョギングに出かけ、帰宅してシャワーを浴びたあとは大酒を飲んでそのまま寝てしまうのが習いだったという)をしたので、うんうんとうなずいて聞いた。部屋にもどりストレッチをしてから着替えて近所のスーパーに出かけた。今年はじめてサンダルを履いた。一昨年の夏にパーイで購入したもので、安っぽいけれども色合いがよいので気にいっているのだけれど、すでにずいぶん薄汚れている。かまうことない、グランジだ、と思った。ヒッピーよりもグランジノマドよりもビートにシンパシーをおぼえる。
 帰宅するころにはずいぶん頭痛がひどくなっていた。11時間も眠ったためだろうと思った。カレーをこしらえながらミネラルウォーターをがぶがぶ飲んだ。いっこうによくならないので、鍋をとろ火にかけたまま近所のコンビニに出向き、ポカリを買った。冷凍玄米のストックはあったが、パンの耳を消化するのが先決だと思ったので、合計で八枚焼いた。バターを塗ったものと、チーズをのせたものとの、半々だった。やきあがったものを六つに切り分けて、カレーにディップして食べた。さすがに満腹になった。TからCan you skype now? と携帯のほうにメールが入ったけれど、頭痛がひどかったので、取り入れたばかりの布団の四つ折りして重ねてあるのをクッション代わりにしてもたれこんで返信する気力もないまま目を閉じていたら、そのまま眠ってしまった。
 目がさめると0時半だった。過眠に過眠をかさねてますます悪化するかと思われた頭痛だったが、むしろきれいさっぱりなくなっていたので、ひょっとして風邪気味だったのかもしれない、あるいは昨日の少年のように日射病だったとか? どうだか知れたもんじゃあない。いずれにせよすっきりしたのでよかった。それからTに詫びのメールを入れた。日曜日の夜をスカイプ曜日にあてるのはありかもしれないと思った。Tにかぎらずだれか都合のつくひとを見つけておしゃべりする、みたいな。
 四つ折りした布団をひきなおしてそのうえに寝そべり三好銀『もう体脂肪率なんて知らない』を読んだ。三好銀を読んだあとにかならず感じるあの独特のポエジーの余韻に今度もやはりまたじんわりと包まれた。そうしてこれもやはりまた読後にかならず考えることであるが、この空気感を可能にする論理を探求しその成果を小説に応用してみたいと思った。次から次へと新しい小説のアイディアが、指標が、野心と欲望が生じる。そのうちいったいいくつをじぶんはかたちに残すことができるのだろうと思った。仮に80歳まで生き延びることができるとして、それでもあと50年しかじぶんにはない。50年! なにごとかを達成するにあたってひとの寿命はあまりにも短い。じぶんの意思とかこのわたしとかそういうのはこのさい度外視することにして、この記憶と経験をこの身体がなくなったあとにもなんらかのかたちで保存しあわよくばだれかに継承してもらいたい。カフカムージルの域に達するには世代をまたがなければならない、ほんの一世代ではあそこまでとても届かない。テクノロジーに期待する。あるいはこのブログをして記憶と経験の劣化コピーであるとすることもできるのかもしれないが(「劣化」はそのとき継承にあたっての生産性、いわゆる「遊び」として有効に作用するかもしれない)。『もう体脂肪率なんて知らない』にはやはり(ほんの一コマだけだけれど)バスの後ろ姿をとらえたカットがあった。「謎」(非-意味)につらぬかれたようにみえる奇譚の連続のなかにも、たとえばベランダに設置されたロッカーと、幼子がみずからの額におもちゃの切手をはりつけてそのなかに閉じこもってしまうポスト、あるいは交通事故で亡くなったとされる小学生と、認知症の老人宅の屋根裏に隠れ澄む小学生というようなそこはかとない類似とかかわりがたしかに認められ、その構図を介してはじめて意味のための余白がたちあがるような感触がある(そしてその余白には極限にまですみわたりうすめられた「死」のにおいがそれでいてたしかにつきまとう)。ここに三好銀のポエジーがある。
 読後ここまで一息にブログを書きつけると3時半だった。途中でどうしたわけか不意にかつての同居人Kがむかし組んでいたユニットの相方であるKくんのことを思い出し、彼の音源のなかからゆいいつこれはけっこういいかもと思ったものをリピート再生しながら、ユニット解消後上京したらしいという噂を聞いて以降それきりになっていた彼の現状をはじめてネットでサーチしてみた。Kという名字にかつてのユニット名をひっつけたTwitterアカウントがすぐに見つかったのでのぞいてみると、どうやら関西のほうに出戻ってきているらしく、「人生の方向を転換」したとあった。音楽活動にいったん見切りをつけていまは勤め人になっているという報告が無沙汰を詫びる謝罪の言葉とともにつぶやかれていたが、同時にまた、関西圏でもういちどあたらしいバンドを組んで動きだそうと画策しているようでもあった。東京時代のおそらくは携帯電話で撮影されたものらしいライブ映像がYouTubeにあがっていたので視聴してみると、京都にいたころにはまともに音程をとることすらできない、それこそ矯正不可能なくらいの音痴だったのが(Kはよくこの点について愚痴っていた、鍵盤を用いて音程練習させようにもドレミファソラシドをまともになぞることもできないのだといった)、けっしてうまいわけではないしどちらかといえば下手な部類に入るのだろうけれどもそれでもふつうに歌えていて、その事実にわりとそっちょくに感動した。すごいじゃんと思った。大学に入学して最初の年だったように思うけれど、学園祭のステージに立っていた学生バンドのなかで唯一、しっかりと完成されているふうにみえたバンドがあって、当時じぶんもバンドをしようとはりきっていたころだったから対抗意識を燃やして彼らのウェブサイトをチェックしていたりしたのだけれど、そのバンドのドラムの名前を数日前とつぜん思いだし、というのもドラムの彼がバンド内でもっとも力をもっているように当時見えたし、作詞から作曲からウェブサイトのデザインまでいろいろやっていたし更新されるブログの文章もほかのメンバーとはちがってしっかりしていたし、それでその名前が記憶の片隅にたぶん刻みこまれていたんだろうけれど、とにかくその名前を思い出したので突発的に検索をかけてみたのが数日前、するとやはりTwitterアカウントがすぐに見つかって、くだんのバンドも、それに次いではじめたらしいいくつかのバンドもすべて解散してしまったらしく現在フリーであるということであったけれど、それでもサポートドラマーとしていまだなお関西圏のバンドにいくつか籍を置いているようで、ウェブデザイナーとして働きながらこの十年近く、いろいろあったんだろうけれどもそれでもなおしつようにドラムを叩きつづけている、その事実にやはりおおいに感動しおおいに励まされたのだった。そういう経緯を思うと、じぶんの活動をひそかに追いつづけているかもしれないいくつかのまなざしを意識せざるをえなくもなる。彼らがたまたまなにかの拍子にそういえばあいついまなにやってんだろと関連するキーワードで検索してヒットした先のじぶんが相も変わらず執拗に小説を書きつづけている、そんな画が浮かんだ(しかし以前のブログは閉じてしまったのだった!)。続けなければならない。じぶんが書いたものが、決して多くはないとはいえそれでも幾人かの人生に決定的な影響を与えてしまったことを知っている、その意味での責任をになって、というよりはその事実に重責ではなくむしろ矜持をこそ抱き、書きつづけなければならない。この指先が叩きつけた無数の言葉、どれもこれも無力じゃあない。「A」を世に問うて以降、冗談なのか本気なのかしれないがいまこそ死に時なんではないかと突発的な衝動に駆られそうになることがたびたびあるが、そうした行為の完遂によって完成されるものなどしょせんは偽の完成にすぎない。スキャンダラスを武器にするのは炎上商法がそうであるようにやはり美しくない。美意識にもとる。
 4時から一念発起して「G」執筆にとりかかった。7時までかけて、ひさびさにあたらしい断章を四つ(鴨川での光景ふたつに職場での光景ふたつ)書き加えた。プラス6枚で計265枚。はかどったし、うまく書けた。とはいえ、この四つの断章のうちいったいいくつが最終稿にいたるまで重ねに重ねられるだろう推敲のあらしに耐えてくれるかは不明である。すべて生きながらえてくれればありがたいのだがと祈るような気持ちである。
 夕飯をとっているときに大家さんが余った赤飯をもってきてくれていたので、それを温めてなおしてから食べた。そうして『今昔物語』片手にきもちのよいふかふかした布団にもぐりこみ、8時には寝た。