20140604

 夜の底をゆるやかに流れる河が、際限もない闇を吐く。古代の詩の伝える冥界の様子である。冥界であるからにはもともと闇の支配する境であるはずなので、闇から闇へ、闇を絶え間なく吐いていることになる。こうなると闇もなかなか、光の欠如というようなものではない。それ自体生成するなら、無際限とは言いながら濃密が極まって、蛤の吐く蜃気楼ではないが、生命を孕むことにもなりかねない。それにしても、水の上に神の息が漂ったり、混沌から大地と奈落が生まれると早々に愛欲が現われたりするのと違って、何者が干渉するでもないので、世話はない。いや、世話はないなどと言うのも、誰かの立場である。誰の立場もない光景のはずだ。
 闇夜に川から白い靄のような、光の立ち昇るのを見たことはある。川霧ではなくて、たしかに光だった。微かながら、時折、はっきりと照る。しかし周囲の闇とは一向に、没交渉だった。川面すら照らさない。闇をすこしも破れない光とは、徒労だと眺めた。ついでに、そんな光を呑みこめない闇も、徒労だと思った。若いだけに考えることが豪気だった。徒労感のうちにわずかな、主(ぬし)もないような自足が点じた。
 鼻をつままれてもと言われるような、すぐ鼻先から闇に籠められた夜に、草むらに向かって用を足したことがあり、股ぐらを探る手もともおぼつかぬほどなのに、やがて定まった放水の弧がひとり白く光った。闇に呑まれず闇を排さず、人も知らず草むらも知らず、時もないように宙に架かって、まるで銀河だった。弧が絶えると闇はひときわ濃くなった。だいぶ離れた川の音が伝わってきた。闇とは本来、生まれたてには、白いものなのではないか、と考えた。
古井由吉『野川』より「森の中」)



 11時過ぎ起床。二度寝の誘惑をどうにかしてふりきることのできたおのれに万感の拍手を贈りたい。背中の痛みがきのうに引き続きひどい。一晩経って筋肉痛でもなければ寝違えでもないことがはっきりした。首が回らない(物理的な意味で!)。頭を下にむけると手指にしびれが走る。首の付け根から肩甲骨に沿うて腰にいたるまでの太い筋がぴーんと張る。ストレッチをしていても腰がガチガチにこわばっているのがよくわかる。面倒なことになったと思った。梅雨入りが近いためかもしれないと思ったが、そればかりではきっとない。
 歯を磨き顔を洗い入念にストレッチをしてからパンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。午後から雨降りだという。予報によれば明日から本降りということで、となると金曜日も降ることになるのかもしれない。だとすれば降らないうちに外での用事はすませておきたい。ゆえにポンチ絵展覧会に出かけようかと考えたが、明後日金曜日が初日であった。
 13時より16時までクソだらだらと英語の勉強をした。とちゅうで父の日が近いことに気づき、例のごとくあられかおかきでも実家に送ろうかと思ってamazonで検索をかけていたところ、アラレちゃんグッズがいくつかヒットして、これは面白いと思い、手頃な価格のアラレちゃんフィギュアを送りつけるというオヤジギャグも甚だしい作戦に変更することにしたが、アラレちゃんのフィギュアどれもこれもクソがつくほどの高いのな! 一万円越えザラだったからあきらめて和菓子のほうのあられに切り替えたわ! 検索にかけた時間ぜんぶ返してくれ!
 頸椎の具合がいまひとつよろしくないままであるのをはたしてどう判断すべきかと迷ったあげく、ここで甘えたらこの先もずっと甘えてしまうというアレからおのれの身体をむち打ち懸垂と腹筋にとりくんだ(そしてのちのち悪化するというのがいつものパターンである)。体育会系の、というか軍隊直系の精神論みたいなものがクソがつくほど嫌いで、そのようなニュアンスを多分に含む論理でひとからなにか言われるのもひとになにか言うのも虫酸が走るほど反吐が出るほどサブイボが立つほど大・大・大嫌いで、それがきっかけで過去にもめ事に発展したことさえなくもないくらいなのだけれど、しかしながらこと自分自身に下す命令や判断にかぎってはやたらとマッチョなところがあるというか、精神論根性論万々歳でやってしまうのはなんでだろうか。精神論のたぐいが有効でない、むしろ害毒でしかないと論理的にそう判断しているからその手のものを厭うのではなくて、その手の論の容赦なさをこそ弱者の立場にたってむしろやり玉にあげて批判している(すなわち精神論の有効性を部分的には認めている)じぶんのあらわれではないかと考えると、いつうらがえるかわかったものではないおのれのなかの悪魔を見る思いがする。
 炊飯器のスイッチを入れたのち、小雨の降りはじめたなかを急いで近所のスーパーまで出かけた。帰宅してからウェブ巡回をすませ、玄米・インスタントの味噌汁・納豆・冷や奴・茹でたブロッコリーとササミ肉・赤黄パプリカと水菜のサラダをかっ喰らった。『今昔物語』を片手に寝床に横たわり(ここ数日ふとももや二の腕にダニの噛み痕らしきものが散見せられはじめたのでダニスプレーを噴きつけたばかりである)、まもなく仮眠をとった。
 20時過ぎに目がさめた。風呂に入った。ゴキブリはいなかった。部屋にもどりストレッチをし、ここまでブログを書くとすでに21時半をまわっていた。今週はずっとたるんでいると思った。どうにかしないといけない、頭をきりかえてもっと手厳しく生きなければいけない。気をとりなおして「G」に着手した。ひさびさに新しい断章をいくつか追加したが、うまく書けたという手応えに欠けた。予定時間を一時間オーバーして1時半までねばった。プラス3枚で計265枚。この3枚は明日になればすべてボツにするかもしれない。徒労の感。うまく書けないと気落ちする。うまく書けることなんて滅多にない。つまりほとんど毎日気落ちするはめになる。それでも書く時間が失われることにくらべたら別次元の幸福だ。ここ十日ほどはうまくいかないことふくめて「G」にたいするモチベーションを維持できている、というか日に日に上昇志向にある。S来日前の勉強特化の三ヶ月と滞在中の二ヶ月、帰国後から「A」発刊準備の三ヶ月と、八ヶ月間にわたって「G」と没交渉だったその分の埋め合わせがようやく整って、かつてのように習慣化しきって身体に馴染んだといえるのかもしれない、と、書いたがそればかりではない、「作文」「読書」「英語」を一日二コマの中で回転させていく例の方式に手こずりつづけた期間も短くはなかったし、三課目制度に移行してからも具体的にどの時間帯をどの課目にあてるかはその日次第だった。それじゃあだめだ。やはりどこまでも徹底的に判で押したような日々を送るほうが性に合っているのだ。つまり一日につき三時間「作文」のための時間を確保する、というだけではなくその三時間を具体的に一日のどこに配置するのか(起き抜けか? 仮眠明けか? 就寝前か?)、そこまできっちりと固定して日々のリズムを作りあげたいのだ。でないと落ち着かない。今週は起き抜けに「英語」、仮眠明けに「作文」、余った時間で「読書」というリズムを維持している。このリズムの持続(というとまるで語義矛盾のように聞こえなくもないが)だけが、おそらくはじぶんに充実感というものを与えうる。命令と服従の一致、王でありながら奴隷であること、たったひとりの専制国家。すなわち「だれもいないこの国なら王様にでもなれる」(Syrup16g)。
 Aさんにいただいたマルクス貯金箱、当初は500円玉貯金として使おうと考えていたけれど、印税保管用にしたほうがいいんでないかとひらめいた。聖なる貨幣の金庫だ。ネットの辺境から辺境へとんずらこきまくる無名作家の軍資金!
 作業に区切りをつけたあとは『レトリックと人生』を読みすすめた。3時をまわったところで就寝準備を整え、寝床についてからさらにページをめくり続けた。4時をまわってしばらく経ったところで『今昔物語』に切りかえた。5時に達するか否かのおりに消灯したおぼえもないでもないが、はっきりした時刻はしれない。寝床についてからこれほどたっぷりとページを繰ったのもひさびさだった。