20221206

 私は何か選択するとき、コインを投げて決める。コインが地面に落ちた瞬間に心の感触を見極めるのだ。もう一度投げたいと思ったのか、安堵のため息を漏らしたのか、その一瞬に自分の本当の願望や自分の気持ちの方向が分かる。
(郝景芳/櫻庭ゆみ子・訳『1984年に生まれて』)



 10時ごろ起床。国外オンライン組を含む外教グループチャットで(…)が長文を投稿している。こちらの記憶が確かであれば、このひとはインド出身の女性だったはず。コロナ発生前、12月にひらかれたクリスマスパーティーでほんの少しだけ言葉を交わした記憶がある。投稿内容はオンライン授業について。かれこれ一ヶ月ほどオンライン授業をしているわけだが、most of the students are indiscipline according to what I have observedだと。授業中にもかかわらずtravellingしたりhaving nucleic acid testしたりまったく理解できない、事前に連絡なく休んだ学生は欠席扱いするようにしているがそういう学生はのちほどじぶんは授業に参加していたと不平をいうこともある、大学のほうでどうにか対策してほしい、教師がこうして朝の4時半に起きて授業の準備をしているというのにどうして同ようなことを学生はできないのか? と、だいたいにしてそういう内容。外国語学院以外の外国人教師、つまり、母国からオンライン授業をしている面々の状況はよくわからないのだが、察するに、これまでは学生は教室に集まり、その教室にあるモニターでオンライン授業を受けていたのではないか? それがここ一ヶ月、学生らが各自寮でオンライン授業を受けることになったあたりから授業の出席率が低下し、それでいい加減あたまにきたということだろう。この投稿に対して(…)がすぐさま同意。(…)はかつてa policy of 3 absences = failがあったはずだといっていて、えー! そうなの! そんなルールあったんだ! とちょっとびっくりした。さらにさらに国外組の(…)も(…)の不満に同意する長文を投稿。(…)というのはたしかアメリカ出身の黒人で奥さんはロシア人、やはりくだんのクリスマスパーティーでいくらか言葉を交わした記憶があって、たしかこちらのことを芸術学院に所属する美術教師か音楽教師だと勘違いしたのではなかったか? で、おまえはartistみたいだという相手の言葉に、artよりもliteratureのほうが好きだと応じたその流れで奥さんのほうに向けてロシア文学はすばらしい、ドストエフスキーチェーホフも最高だと語った記憶がある。あと、夫婦そろってちかぢか日本に旅行に行く計画がある、東京と京都を見物したいというので、おれは10年以上京都に住んでいたから案内してあげることができるよ、ただし相応の金をくれたらの話だけどと冗談を言ったところ、you are like Chineseみたいなことを笑いながら言って、おいおいよくもまあそんな屈託のない笑顔で差別的な言葉を口にするもんやな、さすが米帝のアジア人蔑視は年季が入ってますわと思ったものだった。ちなみにこの(…)の微信アカウント名は、いつだったかの記事にも書いたおぼえがあるが、ロシアによるウクライナ侵攻以降、ロシアと中国の国旗にみずからの名前を挟み撃ちさせたものとなっている。セルビア人の(…)や陰謀論者(…)なんかと同じで、要するに、ロシアを支持する立場なのだろう。地理的・文化的に関係の深い東アジアの面々とはまったく条件の異なる欧米諸国出身の博士号持ちにもかかわらず、この時期の中国のそれも片田舎にある無名大学にわざわざ籍を置くというその時点で、思想的にそういう偏りをもった人物が集まりやすい環境であることは避けられないわけだが、しかしじぶんは気がつけばいつでもこうした「(根っこのところでは)わかりあえないひとたち」の輪の中に身を置いているなと思う。過去十年ずっとそうではないか? けれども、象徴的な言葉として言及されるようになってひさしい「分断」の時代にあって、正反対の勢力、正反対のイデオロギー、正反対の価値観、正反対の三观の持ち主らと、地べたに足をつけた生活のレベルで、たとえそれが必要にせまられてのことでしかなかったとしても、交流未満の接触でしかなかったとしても、おたがいがおたがいに属性ではない実存で対峙することのできる距離での接点を持ち続けることができているのは、たぶん、非常に貴重でよろこばしいことなのだと思う。
 これについては、過去の日記を引いたほうがはやい。2020年8月17日づけの記事。

 ニュースをチェック。Twitterで「Amazonプライム解約運動」というのがハッシュタグつきでおこりつつあるようだ。キャンセル・カルチャーはこうして日本でもすっかり一般化しつつある。先行している欧米の事例など見ていると、それだけでげんなりした気分になるが。エクストリーム化したポリコレ+キャンセル・カルチャーの合わせ技が、全体主義的な言論統制状態を結果的に後追いすることになるんではないかという危惧をどうしても拭えない。こういうことをインターネットの目立つ界隈で口にすれば、一部のキーワードに脊髄反射する有象無象らによって、こちらはたちどころにネット右翼として認定されるにちがいないという見込みがたやすく得られることも含めて、やはりげんなりする話だ。
 インターネット上の言論といえば、匿名性に由来する難点ばかりが槍玉にあげられてきたし、それはそれで絶対に間違いのないことなんだろうが、同時に、実名性、というかこの場合は同一性といったほうがいいかもしれないが、それによる問題というのも多々あるんではないかという気がする。Twitterなど特に顕著だけれども、たとえ本名と自分の顔写真を使っておらずとも同一のアカウントで長らくつぶやきを続けていれば、当然そこには同一性が生じるわけであるし、同一性というのは首尾一貫性としばしば愚かしくも短絡される。結果、アカウント歴の長いユーザーであればあるほど——あるいは、フォロワー数(=目撃者)の多いアカウントほど、そしてまた、クラスタに対する所属意識の強いアカウントほど——「翻意」や「転向」の余地が失われてしまうという問題が生じる。
 そんなことはない、誤りを拡散したり過ちを犯したりしたのであればその点を撤回し謝罪すればいいだけではないか、と反論する向きもあるだろうが、保守だろうとリベラルだろうとそう容易に「撤回」も「謝罪」もしないのは公然の事実だ。都知事選の真っ最中に宇都宮の餃子がうんぬんという宇都宮健児をにおわせるツイートをした枝野幸男が、その恥知らずなふるまいを撤回し謝罪したか? こちらの知るかぎり、本人に確認したところ単なる偶然でしかないことがわかったみたいなことを党関係者がツイートしていただけだ。法を無下にして子供騙しのような理屈で堂々と居直るそのようなふるまいこそが、叩くべき政敵がかくも長いあいだとりつづけてきた唾棄すべきふるまいそのものではなかったか? 同じようなツイートをしていた佐々木中も当然同罪だ。あの件で界隈の底が知れてしまった。大文字の法を原理原則としてそれにもとづく批判をくりだしていたはずが、みずからその法を裏切りかつ居直っている。これによって彼らの批判の多くが、法という原理原則に基づきなされたものではなく、対象ありきであることが露呈してしまった。
 だからといって両者を公然とクソ味噌に言うつもりもいない。問題はことあるごとに「撤回」と「謝罪」をもとめる抗議活動を続けている当事者さえもが、その「撤回」と「謝罪」に抵抗を感じてしまう言論空間の性質にある。SNSというエコーチェンバー強化装置+フォロワーという監視装置によって両面張りされた首尾一貫性の魔力をたちきるためには、こういってしまってはいかにも軽々しいが、もっとカジュアルに「撤回」と「謝罪」、ひいては「転向」できる環境を整えるのがいちばんなのではないか。SNSによる社会の「分断」がさわがれはじめてひさしいが、そのような「分断」のコアにあるのが、「撤回」と「謝罪」、ひいては「転向」を許さない空気にあるような気がこちらにはどうしてもする。キャンセル・カルチャーによって四方八方から叩かれまくった人間が心の底から反省するとはどうしても思えない。失言をした人間が公的には「撤回」することもあるだろうし「謝罪」することもあるだろうが、本心からそうすることは稀なのではないか? それどころかむしろ、多くの場合、私的にますます鬱憤をつのらせることになるだけでは? それは本当に反省していないからだ、本当に反省するくらい徹底的に叩きまくればいいだけだという反論もたやすく予想されるが、そういう考えは結局、「転向」をうながす作業であるところの「説得」をあまりにないがしろにしているものと思われてならない。
 これはここ数年ずっと思っていたことなのだが、ヘイトスピーチに対するカウンターカルチャー発生以降、「説得」がどうにもないがしろにされてしまっているんではないか。もちろん反ヘイト活動における「怒りの表明」の重要度を低く見積もるつもりはないが、「怒りの表明」を言い分にして、おそろしくわずらしく困難で、時間もかかるし効率も悪いが、かといって「議論」を対立の解決とするという大義を背負っている以上決して諦めてはいけないはずの「説得」が、ほとんどかえりみられなくなってしまっているんではないか。
 そういうことを考えるのはやはりこちらが長いあいだ(…)で調停者としてふるまってきたからだろう。レイシストといえばレイシストだらけだった職場だ。というかポリティカル・アンコレクトなものをいっさいがっさいあつめて寄せ鍋にしたような環境だった。こちらの目と鼻の先でひどい言葉が毎日のように交わされてもいたが、おそらく「怒りの表明」に過度にのめりこんでしまっているひとは、そうしたこちらの話を聞けば、「どうしてその場で叱らなかったんだ!」とこちらを責め立てるだろうし、場合によっては「そんな職場どうして辞めなかったんだ!」というかもしれない。後者については、底辺労働者にはまず職場環境を厳選するようなゆとりがないという地べたの想像力を持ってもらえばと思うのだが(もっとも、大卒でありまだ三十代であるじぶんのことを底辺だと思うほどこちらの社会認識は甘っちょろくないので、そこは断っておく)、前者については、本当に相手の考え方を根っこから変えたいのであれば、正論を大きな声で言うだけでは絶対に無理だという当然の認識をまず持ってもらいたい。ものすごくわかりやすい例をいえば、(…)さんみたいな人間にいったいどうやれば正論が通じるのだということだ。(…)さんだけではない、(…)さんも(…)さんも(…)さんも(…)さんも(…)さんもがっつりレイシストだ((…)さんと(…)さんのふたりはまとめサイトの流言飛語を真実として受け取ってしまったタイプのいわゆるネトウヨだったので、ほかとはちょっと毛色が違うが)。たとえば、アルバイトとして採用されて出勤したその初日、目の前で彼らが差別発言を口にしたとき、「あなたそれは間違っている! 撤回しなさい!」と言ってだれが耳を傾けるのだ? という話だ。確信をもって言うが、仮にそう言ったとしても、「じゃあ、どう間違っているっていうの?」という反論は絶対に来ない。来るのは「大卒の若造がなにを偉そうな口利いとんねん殺すぞ」だ。正論うんぬんの話ではない。議論うんぬんの話でもない。論理が通じる通じないの話ですらない。じぶんの話に耳を傾けてもらいたいのであれば、まずそれを先方が良しとする関係性の構築からはじめなければならないのだ。こちらが念頭においているのはそういうレベルの話だ。それが地べただ。
 こちらは四年かけて、少なくとも(…)さんと(…)さんにはある程度相対的な視点を持ってもらうことに成功したと思っている。もちろん、界隈のもとめる水準にはまったく満たない。それはたとえば、中国人観光客が毎回客室をひどく汚していくのを彼らの国民性に還元しようとするふたりにたいして、バブルのときの日本人も現在の中国人と同様に海外からマナーの最悪な観光客として認識されていた、それをまずいと思った政府が啓蒙活動がおこなった結果いわゆるマナーを守る日本人ができあがったのだという歴史的事実を了解させたという程度のものでしかないのかもしれない。だが、その了解をきっかけに、少なくとも相対的なものの見方というのが、こう言ってはなんだが中卒でろくに教養もないふたりにしかと埋め込まれたのをこちらは知っている。中韓に対するバッシングにかすかな留保がついたり、同じバッシングをそれまで向けることのなかった日本政府にも適用するようになるという、微妙な変化が生じたことにこちらは気づいている。それまでまったく興味もなかっただろう政治的トピックについて、あれは何が問題なのだとふたりのほうからこちらにたずねてくることも、最後の一年間にはたびたびあった。たったそれだけのことに四年もかかった!
 もう何年前になるかわからないが、國分功一郎レイシストTwitterで相互フォローになっているとして界隈から叩かれまくったことがあった。と思ってあらためてググってみたが、ここにまとめがあった(https://togetter.com/li/729842)。Twitterで「ゴキブリチョン」がうんぬんかんぬんと書いている中宮崇なる人物と相互フォローになっているという理由で、ボロクソに言われているわけだが、この騒動のとき、こちらはやはり(…)の面々のことを考えざるをえなかった。というか國分功一郎という人物の日頃の発言であったり著作物に触れたことのある人間であれば、彼がある意味ではほとんどオールドファッションといってもいいほどの左翼であり、仮にレイシストと相互フォローになっているのであれば、それ相応の理由があるにちがいないとまずは考えるのが筋だと思うのだが、しかし残念なことに、現代の想像力はだいたい対象を過小評価する方向にばかり先鋭化してしまっている。國分功一郎は「俺の身近に問題行動を起こしている人物がいるとして、俺がそいつに働きかけないということがあるだろうか。地元で起こった政治問題にまで、全力で取り組んでいる。」「いいか、問題行動を起こしている人物を遠ざけたり、そいつと縁を切ったり、そいつを罵倒したりすることは、問題を解決することとは全く無関係だ。そんなものは当人の自己満足にすぎない。自分は正義の側に立っているという満足にすぎない。」「この前も講演会で言った。政治問題について意見が違うからといってそいつと絶交するのはやめようと。俺は言論の世界にいるが、「あいつと対談したあいつとは話しない」とかそういうくだらないことをやっているやつがいる。本当にくだらない。そうやって潔癖症で保身してれば満足なのだろう。」と言っているが、界隈はその発言に満足できず非難をくりかえす。そして國分功一郎はあらためて公式に事情を説明し、その説明はこちらからすれば行間からさまざまな事情のおしはかることのできるものであるのだが、それでもなお界隈は中宮崇ヘイトスピーチをやめさせろ! しか言わない。こういうのを見ると、このひとたちはマジで「他者」と接したことがないのではないか? あるいは同質性集団である運動(体)に肩入れしすぎるあまりそういう「他者」と接する機会をほとんど失ってしまっているんではないか? という気がしてならない。もし中宮崇ヘイトスピーチをやめさせたいのであれば、いや、やめさせるのではなく心の底から彼を「転向」させたいのであれば、まずは彼と個人的に転移関係を構築する必要があるし(國分功一郎は実際、中宮崇の発言の数々を「症状」だと語っている)、その上で長期にわたる段階的な対話が必要になることは明白だろうに、それをよしとせず、いますぐ白黒はっきりするようにせまった上で、黒であれば手を切れ! といってしまう、その短絡に心底うんざりする。
 ウイグル人の置かれた窮地に注目が集まる昨今、たとえば中国政府から給料をもらって働いているこちらのような人間を指弾する向きもおそらくあるだろう。それに対してはたとえば、官(公)における対立を補償するものとして民(私)における交流があるのだという常套句で対応することができるだろう。あるいは、日本語学習を介して日本文化を学習することで、学生らに母国を相対化する契機を与えるという、いわば遅効性の種まきに尽力しているのだという論理も成り立つ(文学の授業を隠蓑にしてこっそり自由の尊さを吹聴する!)。少なくとも先の批判を口にする人間のうち左派は、このような論理にある程度納得してくれるんではないかと思うのだが(というか左派はそもそもそういう批判をせず、むしろそのような批判をする右派に対抗するかたちで先ほどこちらが述べたことと似たような論旨を口にすると思うのだが)、この構図というのは、こちらと(…)の面々、あるいは、國分功一郎中宮崇の構図と同じではないだろうか?
 怒りの表明は重要だ。たとえば転移関係の構築できた(…)さんや(…)さん相手にこちらが沖縄のひとびとが置かれている窮状について語ったとする。その言葉をすべて鵜呑みにすることはないとはいえ、「あの(…)くんが言っていたこと」だからとなんとなくふたりのあたまの片隅に残っていたところ、当の沖縄人や支持者たちの「怒りの表明」がテレビや新聞でフォーカスされているのを見て、よりシリアスにその問題を受け止めるようになるということはおおいに考えられるだろう。地べたの説得と「怒りの表明」としての運動は、本来、このようにして相乗的に機能すべきであるはずなのに、度を超えた「怒りの表明」によって説得の現場である地べたが根こそぎ荒らされてしまっている——こちらの違和感とは要するにこういうふうに総括することができる。そもそも民主主義的な意味での「議論」とは、おまえは敵か味方かと相手にせまることではない。隠れキリシタンにたいするものであれシベリア抑留者にたいするものであれ、踏み絵とは常に弾圧者の身振りであった。

 で、話を戻す。(…)の言い分は(…)とほぼ同じ。学生らはzoomで授業を受けているのだが、大半が帰宅途中の道筋であったりどこかに向かう途中であったりのながら聞きで、全然授業に集中していない、ただzoomにアクセスだけしている、さらに授業を欠席する学生も多い、理由をたずねてもパソコンが壊れたとかカメラがうまく機能しないとかそういうのばかりだ、it’s thing which hard to comment! とのこと。のちほど(…)がこれらの不満に応じるかたちで、昨日から学生の帰省が急遽はじまった、そのせいでこうした事態が発生している、国際学部と相談してなんとかしてみると返信していたのだが、その際に、the students are leaving campus and going home because the influences of epidemicと説明していて、あ、公式の理由づけとしてはやっぱりコロナなんだ、と思った。
 しかしこのやりとりでちょっと安心した。昨日の三年生のオンライン授業、あまりに反応がとぼしくてちょっとイライラしたし、同じような環境であと二回か三回やらなければならないのかと考えるとなかなか気が滅入りもしたのだが、来週になればおそらくほとんどの学生がすでに故郷に到着しているだろうし、そうすれば授業ももうちょっとしっかり受けてくれるだろう。いや、もっとひどくなる可能性もあるにはあるが!
 ベッドを抜け出す。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。外はひさしぶりに快晴! 気温は低いのだが、なかなか良い天気なので、ちょっと日光浴したほうが良さそうだなと考える。街着に着替えて第五食堂へ。外はやはり寒い。暖かったらベンチで書見でもしようかなと考えていたのだが、さすがにそれはちょっとしんどそうだ。

 打包して帰宅。メシ食う。秋物の衣類のうち、まだ洗濯していなかったナイロンジャケット二着とジャージ風ブルゾン一着を洗濯機につっこむ。三着ともボチボチ値段のはったものなので、ちゃんと洗濯ネットに詰めた上で、羊毛モードで洗う。それから午後の日語会話(一)に備える。オンライン授業用に教案を部分的に改稿し、ざっとシミュレーションする。
 その最中、一年生たちから続々と微信が届く。午後は飛行機/電車/車に乗る予定なので授業に出席できませんとか、「核酸を作らなければならない」のですが授業がはじまるまでに終わるかどうかわかりませんとか。授業の様子を録画して送ってもらってもいいですかと打診してくる学生もちらほらいて、一年生はやっぱりまじめだなァ、最初はみんなそうなんだよなァとしみじみする。事前に連絡があった学生だけで5人以上いたのだが、その後14時になったところでグループチャットのほうにVooVMeetingのURLを投稿したところ、同様の理由で授業に出席することができないという学生の報告がさらに数件たてつづけにあり、数えてみたところ、10人以上授業に参加できないようだったので、今日やろうと思っていたのは期末試験にも関係する重要な内容(「あげます/もらいます」)であるし、じゃあもう中止! と決断。グループチャット、お祭り騒ぎになる。「先生!天才!」「先生!優秀!神!」と続々と賛辞が届くので、「アホ」と返信。来週の授業は実家でまじめに受けろよと釘を刺したうえで、ぼくは去年と同様冬休みは大学の中でひとり孤独に過ごしますというと、(…)さんが彼女の故郷である浙江省に遊びにこいという。外国人なので省外に出ることができないというと、「変態なルール」と(…)さん。
 (…)くんからはグループチャット経由ではない個人的なメッセージが届く。いまはPCR検査を受けるための行列に並んでいるところだという。故郷には明日帰るというので、実家で失恋の傷をゆっくり癒せよと返信すると、「傷が全然ない」「僕 楽しい毎日です」「次の彼女はたぶん綺麗になるんじゃない?」とのことで、そりゃなにより。「先生も頑張ってね」というので、「不合格!」と応じる。冬休み中に雪が降るかもしれないというので、去年はたしかクリスマスに大雪が降ったなというと、今年もちょうどそれくらいの時期に雪が降るかもしれないという予報が出ているとのこと。でもその頃にはだれも大学に残っていないだろう。だだっぴろいキャンパスにこちらと野良猫と野良犬しかいないあのポストアポカリプスな日々がまたはじまるのだ。
 授業が中止になって——というより中止にして——だれよりも嬉しいのはしかしこちらだったりする。コーヒーをいれ、洗濯物干し場に椅子を出し、ひさかたぶりの日光をやや間遠に浴びながら書見することに。漱石ラソンは結局年内に終わりそうにないし、終わらせる必要も別段ないので、Flannery O’Connorの短編だけでもひさしぶりに再読するか、いやそれともラカン派関係を読むかと迷う。迷った末、紙の本を読みたい気分だったからというアレで、『「エクリ」を読む 文字に添って』(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳)を手にとる。これは二年か三年前の誕生日に(…)くんがプレゼントとしておくってくれた本だ。まあむずかしいだろうな、きっとなかなか大変な読書になるだろうなと覚悟を決めてページをめくりはじめたのだが、全然そんなことなかった、思っていたよりもすらすらあたまに入ってきたので、あれ? おれっていつのまにこんなにラカンが読めるようになっているの? とびっくりした。いや、まあ、去年一昨年あたりはラカン派まわりの書籍をけっこう集中的に読んでいたわけだが、それにしても! という驚き。継続は力なりやな(なんかあるたびにこういうふうにことわざや慣用句や成語を持ち出すやつってけっこう鬱陶しい)。
 小一時間ほど読み進める。鼻がむずむずしはじめる。最近ちょくちょくそういうふうになるのだが、これってもしかして部屋の埃のせいかもしれない。寝室はちょくちょく掃除機をかけているが(といっても普通のひとよりも圧倒的に少ない頻度でだと思うが!)、ほかの部屋はずいぶん長らく放りっぱなしである。なので、このボーナスタイムを利用して、今日は全室がっつり掃除機をかけようとひらめく。
 で、その通りにする。とんでもない量の埃が掃除機内部にたまる。寝室、リビング、キッチン、洗濯物干し場、すべてきれいになる。洗濯物干し場に掃除機をかけたのなんて、去年の11月、およそ二年ぶりにこの地にもどってきたとき以来ではないか? リビングにはとても長い髪の毛が一本落ちていた。最後に学生をまねいたのはいつだっけと思う、と、書いたところで過去ログをググってみたところ、今年の9月17日だった、(…)さんと(…)さんと(…)さんの三人がやってきて料理を作ってくれた日だ。あのときの(…)さんの手料理はマジでうまかった。学生の手料理、これまで何度も食べたことがあるが、(…)さんがダントツだと思う、本当にいますぐ大学辞めて店を開けよというレベルだった。

 きのうづけの記事に着手する。17時半になったところで作業を中断し、ふたたび街着に着替える。一年生の(…)さんから無事故郷に到着しましたという律儀な微信が届く。彼女は黒竜江省出身。以前も書いたが、東北出身の学生の大半はマジで全然勉強しないというか、各クラスのワースト3はほぼほぼ東北人なので、この経験則からなる偏見をぶちこわしてくれる学生といい加減出会いたい、彼女にそうなってほしい。
 運動不足解消のため、徒歩で第四食堂まで向かう。ひさしぶりにトマトと卵の炒め物がのっかった麺を打包する。ここはいつも注文してから出てくるまでけっこうな時間がかかるので、今日もそうなるだろうと見越してKindleを用意していたのだが、全然そんなことなかった、5分も待たなかったと思う。食堂をあとにする。ついでに以前、(…)さんと(…)さんと一緒に食った海老のハンバーガーも打包しようかなと思ったが、あんまりだらだらしていると麺が伸びきってしまうので、そのまま帰宅。
 食す。あいかわらずクソうまい。ここの麺と(…)の麺と(…)の麺はマジで日本でも食いたい。(…)と(…)の老板はいつか海外に店を持つことが夢だといっていたし、海外第一号店は東京がいいともいっていたが、川魚の小骨処理さえどうにかすれば、日本でも絶対にうけると思う。
 食後、ベッドに移動して『彼岸過迄』(夏目漱石)の続きを少々読み進める。それから仮眠をはさみ、コーヒーを用意して、きのうづけの記事の続き。書きあげて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2021年12月6日づけの記事の読み返し。
 浴室でシャワーを浴びる。あがってストレッチし、今日づけの記事も途中まで書く。夕飯が麺だけでやたらと腹が減っていたので、いつもであれば10個しか食べない夜食の水餃子を今日は20個茹でてしまったのだが、普通に茹ですぎてアホや、2個残してしまった。こういう加減を知らない馬鹿がいるから世の中どんどん悪くなっていくんだよな。
 昨日と今日で『Palm』(空間現代)と『A Softer Focus』(Claire Rousay)と『Notes With Attachments』(Pino Palladino & Blake Mills)と『Gyropedie』(Andy Guthrie)と『CAPRISONGS』(FKA twigs)と『lotus deluxe』(LANNDS)と『Torus』(SjQ)をききかえした。空間現代はやっぱりめちゃくちゃかっこいい。FKA twigsは“thank you song”がマジでクソすばらしい。あと鼻ピアスがこんなに似合う女子は地球上にほかに存在しないと思う。