20221211

「ほかの人に影響されるのが怖くて、いつもそれから逃げようとして、誰からも影響を受けない場所に逃げようとしてたの。でもそんな場所なんて存在しない。世界のいかなる片隅でも、ほかの人間の影響から逃れるところなんてないの。数日前にふっとね、なぜ自分が間違えてたのかわかったの。実際には、自由はいろいろな影響を受けないのではなくて、どうやってそれを扱うかを自分自身で決めるものなの。自由は逃げて得るものじゃない。どこかに逃げていく必要もない。自分で引き受けて、自分で処理をすればいいだけ」
(郝景芳/櫻庭ゆみ子・訳『1984年に生まれて』)



 10時半起床。晴天。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックしたのち、街着に着替えておもてへ。良い天気であるので散歩がてら(…)の快递に向かう。ブツはネスカフェゴールドブレンド二本。ようやく届いた。二週間以上待ったのではないか? これはもちろん備蓄用。今後また中央が方針を切り替えてロックダウンするみたいなアレがないともいえないので、封を開けずキッチン下の収納に閉まっておく。
 帰路、第三食堂の前を通りがかる。入り口は開いている。でも中は一部しか照明がついていない。最後の大掃除だろうか? わざわざ中まで入って確認しようとは思わない。
 第四食堂に立ち寄る。入り口のハンバーガー屋で海老のハンバーガーを二個注文する。近くに置いてあった椅子に勝手に座り、『ほんとうの中国の話をしよう』(余華/飯塚容・訳)の続きを読む。「文化大革命」とか「毛沢東」とか「天安門広場」とか、そういう繁体字の並びが縦書きの文章の中にまぎれこんでいるテキストを、学生らがうろうろしている環境の中で読む格好になるので、どうしてもちょっと警戒してしまう。外で気軽に読んでいい本じゃない。
 ハンバーガーを受けとって帰宅。食す。コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所巡回。2021年12月11日づけの記事を読み返す。
 16時半に(…)さんと待ち合わせなので、その前にシャワーを浴び、ひげを短くカットする。鏡と向き合って気づいたのだが、鼻の穴から「は? 嘘でしょ?」と言いたくなるほど大量の鼻毛が出ている。卒業生の(…)くんは、いついかなるときでも左右の鼻の穴から最低でも合計10本以上の鼻毛がごっそりと出ている系男子で、相棒の(…)さんもそのことをしょっちゅう笑っていたものだったが、今日のじぶんの左の鼻の穴はまさしく(…)くんの域に達していた。あごひげには白髪が三本か四本混じっている。うんざりする。
 街着に着替える。何週間ぶりになるのかわからないが、ひさしぶりに香水もつける。香水をつけるときにひさしぶりだなと感じると、あ、おれ最近まともな外出してないんだな、と気づく。これは日本にいたときからずっとそう。その感覚が一種の目安になる。
 寮を出る。出てほどなく(…)さんから微信。ちょっと遅れるという。了解。北門の外に出る。今日は別に守衛から呼び止められることもなかった。門の外で突っ立ち、Kindleで『ほんとうの中国の話をしよう』(余華/飯塚容・訳)の続きを読む。10分もしないうちに電動シェア自転車に乗った彼女があらわれる。ひさしぶりーとあいさつする。(…)さんの銀髪、根本が黒くなっている。瞳が大きいこともあり、ちょっとアメリカンショートヘアみたいだなと思う。
 (…)さんが滴滴で呼んだ車に乗りこむ。車内はたばこ臭い。運転手は医療用マスクをつけている。こちらはウレタン。(…)さんはノーマスク。いつまでこっちにいるのとたずねると、はいという返事。ちょっと噛み合わない。言葉を変えて何度かやりとりを重ねる。13日に故郷の福建省に帰るとのこと。(…)まで電車で移動したのち、その後は飛行機に乗り換える。ほかに(…)に残っているのはだれかとたずねると、ちょっとはっきり覚えていないのだが、たしか(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さんだったか、いずれにせよ彼女以外にも四人か五人、大学の外にアパートを借りて住んでいるらしかった。図書館で勉強するためだというので、たぶん全員N1を受験するつもりだったのではないか? コロナでそれも立ち消えになってしまったわけだが。
 車が洒落たカフェの前に停まる。大学からそう遠くない。歩いていける距離ではないか? (…)さん曰く、オープンしてまもない店だという。直接おとずれるのは今回がはじめてだが、以前外卖して食べたパスタがおいしかったとのこと。おもてにはテラス先が一席だけある。入り口にはクリスマス仕様の飾りつけがちらほら。中に入る。右手すぐがレジカウンター。若い女性スタッフがひとりいる。のれんで区切られたその奥に厨房がある。左手の十畳ほどがホール。二人がけのテーブル席と四人がけのテーブル席が全部で五つか六つほどある。客はわれわれのほかに女子二人組が一組のみ。その後、あらたな女子二人組がやってきたり、黒のラブラドールレトリーバーを連れた女子三人組がやってきたりしたが、男はこちら以外にひとりも見かけなかった。スタッフは三人いるようだったが、やはり全員が女子。去年はじめて(…)さんと(…)さんに誘われておとずれたパンケーキのカフェも、店内にいる客は全員が若い女子ばかりだった。(…)にはコーヒーを飲みながらゆっくり読書できるカフェがないからこういうお店を紹介してもらえると本当に助かりますというこちらに対して、でも中国ではこういうお店に来るのは若い女の子ばかりだからちょっと変に思われるかもしれませんよと(…)さんは笑いながら言ったのだった。
 四人がけのテーブル席に座る。こちらの左手、向かいに座った(…)さんの右手が、ちょうど壁際になる。壁際にはたくさんのポラロイド写真やポストカードが、これは中国のカフェでよく見かける飾りつけなのだが、壁に直接はりつけられるのではなく、だらーんと吊り下げられた細い紐に留めるかたちで飾られている。運動会の万国旗みたいに。
 (…)さんがスマホに表示されたメニューを見せてくれる。パスタは二種類。どちらもよく似ている。クリームソースでもトマトソースでもない。これってさ、結局パスタっていうよりもおもいっきりローカライズされた意大利面じゃねえの? 炒面じゃねえの? という感じだったし、値段も普通に40元ほどしてクソ高いわけだが、ま、いいやというわけでそのうちのひとつを注文。(…)さんはシーフードカレーみたいなやつを注文。さらにふたりで取り分けるためのサラダも注文。飲み物はこっちはホットコーヒーで、(…)さんはホットラテ。先生、温かいコーヒーを飲むんですか? とびっくりした表情でいうので、むしろアイスコーヒーのほうが邪道でしょうと思いながら基本的には温かいほうを飲むよと応じたところ、温かいコーヒーは中药みたいですというので、これには笑ってしまった。漢方薬と同じ味がするということだ。
 で、これも中国あるあるなのだが、コーヒーが食前に運ばれてくる。それもめちゃくちゃぬるいし(そもそもホットなのにグラスで出てくるしストローもついてくる)、味も全然良くない。さらに同じタイミングで注文したホットラテがなかなか出てこない。食事のことを先に書いてしまうが、パスタはやはりローカライズされており、とにかく唐辛子だらけでクソ辛いし、麺もこれ本当にパスタ用の麺かというほどのびきって太いものだった(アルデンテなんて概念は存在しない)。(…)さんのシーフードカレーも一口もらったが、こちらは普通においしかった。今学期はじめの外教ランチ会でおとずれた(…)——あとでこの店の話をすると、(…)さんは何度かそこでコーヒーを外卖したことがあると言った——で食ったパスタもやっぱり辛かったし、もうこの土地でパスタはしばらくいらねーな。文句ばかり書いてしまってアレだが、(…)さんのシーフードカレーが出てくるのもやっぱりめちゃくちゃ遅くて、似たようなことは(…)でもあったが((…)が何度も厨房まで催促しにいった)、個人経営の洒落たカフェ、うちのような田舎ですら四年前五年前とくらべてどんどん増えているのだから、都市部にいけばそれこそ山ほどあるのだろうし、チェーン店よりもそういう場所に重きを置く若い人民らが増えているという話も以前(…)くんから聞いたわけだが、でもやっぱりほとんどがこの店と同じでガワだけなんだろうな、肝心のコーヒーや軽食の味は全然アレで調理やサーブの要領も死ぬほど悪いんだろうなと思わざるをえない。実際、(…)でも店側から依頼された网红らしき女子三人組が女優ライトを使って死ぬほどたくさん自撮りしていたし、今日もカウンターのところで洒落た女子がやっぱりずっと自撮りしていたけど、それがメインの目的になっている。だから内装にはそこそここだわるのだろうし、食事も盛り付けはがんばるんだろうが、肝心の味がマジで全然だめだ。何年か前に(…)くんが、中国でスタバに通っている人間でコーヒーが好きな人間はいない、彼らはみんなスタバにいるじぶんが好きなだけだ、みたいなことを言っていて、なんか同様のしょうもない批判を十年くらい前の日本、ちょうどノマドワーカーがうんぬん言われだしたころだったと記憶しているが、その頃の日本でもたびたび耳にしたもんだなとそのときは思ったものだが、その帰結として次にあらわれたのが、こうしたガワにばかり力をいれたいわゆる映えるカフェでありそこをひいきにすることなのだとすると、本質的なところはなにも変わってないじゃんと思う。しかしこれに関しては日本でも同じだろう。これもやっぱりかれこれ十年ほど前になるわけだが、逮捕される前の(…)さんがバイトの休憩中にしょっちゅうカフェのメシをディスっていたのを覚えている。曰く、最近雑誌の特集でカフェ飯うんぬんというのをよく見るが、あんなものはことごとくクソだ、カフェのメシなんて基本的にまずいものばかりだ、ブリブリのマンチーで行ってようやく食えるレベルだわ、と。当時エコフード(残飯)ばかり食っていたこちらとしては、なにを言っとんねんという感じだったが。
 食事をしながらいろいろと話す。まずはインターンシップの件。来年の3月から最低でも半年の契約だという。行き先はまだはっきりしていないが、おそらく鹿児島の温泉旅館になるだろうとのこと。参加するのは(…)さんのほか、(…)くん、(…)さん。それ以外にふたりいたはずだが、失念してしまった、先の三人にくらべると能力のやや劣る学生だったはず。毎月25000元以上は稼げるというので、毎月じゃないでしょというと、いえ毎月ですという返事。いやそれはおかしいよというと、ちょっと待ってくださいといってスマホを操作、人材派遣会社のものとおもわれる中国語のチラシを見せてくれたのだが、時給がたしか950円だったろうか? まあ妥当であるなという額であったのだが、同じそのチラシに、仮に一ヶ月で550時間働いたらその月の給料はこのくらいだと人民元換算された数値がデカデカと表示されており、なるほどたしかに25000元以上になる、日本円にして50万円オーバーであるわけだが、あのね(…)さん、まず一ヶ月で550時間働くというのがおかしいよ。そう言ってからスマホの電卓で550÷30する。18時間。そんなに働くことができないでしょ、と。仮に一日10時間働くとして日給9500円。一週間に二日休みがあるとして22日をかけると、209000円。そこからもろもろ差っ引かれたら、10000元もないよ、と続ける。(…)さん、なるほどと納得した様子だったが、こちらとしては不安しかない。まず、550時間労働のおかしさを彼女を含む参加者全員が疑問に思わなかったという点。それから、実習生を騙す気まんまんのチラシを作成しているような人材派遣会社に身をゆだねてもだいじょうぶなのだろうかという点。これもコロナ以前の話であるが、当時三年生だった(…)さんが、うちの大学はクソだ、インターンシップに参加するにしても派遣会社を自由に選ぶことができない、みんな大学の指定した評判の悪い会社を選ばなければならない、癒着しているのだ、みたいなことを言っていたのをおぼえているし、ほかの学生からもなにかの機会に、中国の派遣会社は中国のヤクザとつながっていることが多いみたいな話を聞いたことがある。インターンシップ、マジで当たり外れがでかいので、学生らにたいして無邪気に参加をすすめる気には全然なれない。北海道のホテルにいった(…)さんなんか死ぬほどエンジョイして卒業後もまた北海道で働くと張り切っていたほどだったし(コロナのせいでそれもダメになってしまったが)、長野のゲストハウスにいった(…)さんと(…)さんのふたりも、彼女らが日本語を聞き取ることができないと思いこんでいたらしい本社のおっさんがふたりの目の前でほかの社員相手に外国の研修生が嫌いだと大きな声で話しているのを聞いてしまったという一件についてはずいぶん悲しんでいたし怒ってもいたようであるものの、その一件以外は相当満喫していたようだった。しかし逆に、石川の旅館にいった(…)さんのように、ごうつくばりのクソババアどもによって死ぬほど差別されたというケースもやはりたくさんあるのだ(あの旅館のババアが一人残らずなるべく苦しみながら死にますように!)。だから、やっぱり心配だ。コロナ以降、とくに対中感情が底の底まで悪化しているわけであるし、田舎の旅館に勤めているクソババアどもが中国人だからという理由だけで彼女らのことをいじめるんではないかと想像するだけで、連中のこと、火葬場で骨のひとかけらも残らないほど焼いてやりたくなる。
 インターンシップには(…)くんも本当は参加したかったらしい。でも彼女がはなればなれになるのは嫌だと引き留めたのだという。(…)さんは二年間付き合っていた彼氏と三日前に別れたばかりだといった。びっくりした。遠距離恋愛していたあの彼氏だよね? と、彼女がモーメンツに投稿していた彼氏——『青の稲妻』(ジャ・ジャンクー)のシャオジィにちょっと雰囲気の似ている男前——とのツーショット写真を思い出しながらいうと、遠距離じゃないよという。同じ(…)の学生だというので、ええー! とびっくりしていうと、以前先生に言ったことがあるよとのこと。すっかり忘れていた。経済学部の同じ四年生だという。(…)にいた頃、(…)さんは寮を出てひとり暮らしをしていたわけだが、あの一人暮らしというのは実は嘘で、本当は彼氏と一緒に暮らしていたらしい。もう一度びっくりした。都市部の大学であればどうなのか知らんが、うちのような田舎の大学で学生同士が寮の外で同棲するなんて話を聞いたのはこれが初めてだったから。彼氏は今年広州で就職する、じぶんはインターンシップで日本に行くつもりだしその後も日本で働き続けるつもりだ、でもじぶんは遠距離恋愛に耐えることのできるタイプではない、恋人とはずっと一緒にいたいという人間だ、だからまだ「感情はある」が別れることに決めたのだと、だいたいにしてそのような説明があった。なるほど。先生はまだ恋人がいないのというので、いないよと答える。さびしいと感じることはないのというので、全然ない、恋人がいたとしてもずっと一緒にいるのは絶対に無理というタイプだから、むかしそういうことで揉めたこともあると伝えると、先生は強い! うらやましい! というので、他人にそこまでもたれかかることのできる人間もある意味では強いと思うよと答える。小さな子どもや犬なんかを見ているとよくあそこまでじぶんをまるごと他人にあずけることができるよな、あの信頼はすごいよな、ああいう強さは自分には絶対にないよなと思うこともあるからと、ゆっくりとした口調で噛み砕きながら説明する。たぶん伝わったと思う。
 インターンシップを終えたあと、そのまま日本で就職することを考えているという一件について、どうしてまた? とたずねると、こんな大学では卒業してもどこの会社からも採用してもらえないからと卑下した返事。もし採用してもらっても——といって言葉に詰まるので、996? というと、そうです! と言う。最近の中国の就職率は相当やばいよねというと、うなずいてみせる。でも最近コロナに関してもいろいろオープンになったでしょうというと、苦笑しながらはいというのだが、その苦笑がどういったアレの表現なのかはわからない。だったら今後就職状況も若干マシになるんじゃないのというと、それでもやっぱり難しいと思うという返事。どうも国内の状況を見限っているようだ。
 男尊女卑やフェミニズムの話にもなる。別れた彼氏となんだかんだで復縁する可能性もあるんじゃないのというこちらに対して、そもそも男はしばらくいらないと答えた彼女の発言がきっかけ。中国の若い世代におけるフェミニズムの広がり、本当にここ数年でものすごく感じる。(…)先生から以前、上野千鶴子の本が若い世代の女子のあいだでけっこう読まれているという話を聞いたことがあるし、卒論に取り組んでいる学生からも彼女の名前をたびたび聞くことがあるわけだが、四年前五年前の学生とはそのあたりの意識が全然違う。(…)さんは中国の男はだめだといった。中国だけじゃないアジアはだめだと続けた。ヨーロッパにくらべて100年遅れていると続けたが、こちらの私見では、欧米もたいがい、特にアメリカなんていまだにごりごりのマッチョ思考の持ち主ばかりじゃんと思う。男だけに責任があるわけでもない、社会の構造のせいで男たちがそんな考え方になってしまう、だからといって古い考え方をする年寄りたちが死ぬのを待っているだけというのは嫌だ、いますぐ社会が変わってほしい、と、だいたいにしてそのように(…)さんは続けた。
 なにかの拍子に兄弟はいるのとたずねた。すると、これは秘密ですよという前置きとともに、妹が二人と弟が一人いるという返事があった。秘密というのはやはり一人っ子政策世代であるのにということなのかなと察しつつ、どうして秘密なの? といちおうたずねてみたところ、怎么说と中国語で漏らしたのち、スマホの翻訳アプリをたちあげてなにやら入力。そして画面をこちらに見せる。「面目を失う」と表示されている。面子だなと思う。やはり決まりが悪いのだ。クラスメイトには妹が一人いるとしか言っていないと(…)さんは言った。でも(…)くんと(…)くんのふたりは○○委員の関係でクラスメイト全員の家族構成を知っているから、わたしが本当は四人兄弟であることも知っているだろうと続けた。四人兄弟になったのは、親がどうしても男の子が欲しかったからだという。つまり、弟は四人のなかで一番下に当たるわけだ。しかし四人も子どもを産んだ結果、母親はそれで体を悪くしたし、両親の「感情も悪くなった」とのことで、じぶんがそもそも男社会を嫌だと思う理由のひとつはこれなのだと(…)さんは言った。そういう状況であるから家計も楽ではなく、じぶんは長期休暇のたびにアルバイトをしているのだと続いた。高校時代わたしは実は(…)先生みたいでしたよというので、ぼくのよう? どういうこと? とたずねると、親のいうことを全然聞かない、ただわたしは先生みたいに不良ではなかったけどと続くので、だれから聞いた話やねんと内心苦笑しつつ、なるほどと応じた。
 (…)さんの話を聞いてちょっと思ったのだが、(…)さんのところは四姉妹である。一人っ子政策に違反したということで罰金を払いながらも三人産んだわけだが、もしかしたら彼女のところの両親も男の子がどうしても欲しかったという事情があったのかもしれない。はじめて彼女から四姉妹だと聞かされたとき、『若草物語』や『細雪』みたいじゃん! いいね! と無邪気によろこんでしまったわけだが、彼女のうちも、彼女自身にも、そのあたりに関するいろいろ複雑な感情や背景がもしかしたらあるのかもしれない。アジアで男尊女卑というとやはり儒教の影響が挙げられるわけだが、中国の場合、そうした価値観を一人っ子政策がブーストしまくったという背景は確実にあるよなと、この手の話を聞くたびにいつも思う。卒業生の(…)さんだったと思うが、これは彼女から直接聞いた話ではなくルームメイトの(…)さん経由で聞いた話だが、母親が酒に酔うたびに彼女に向けて、わたしは本当は男の子がほしかった! 女の子なんていらなかった! というみたいな、めちゃくちゃ気の毒できついエピソードもあった。

 13日に福建省に帰る。3月からは半年日本で過ごす。だから卒業論文の答弁もオンラインですませるし、卒業式に出席するために大学に戻ってくることもない。つまり、教師やクラスメイトらとはもう二度と会うことがないかもしれないという。だから先生を今日食事に誘いましたというので、どうもありがとうと礼をいう。(…)さんがいないのはちょっと残念だけどねと相棒の名前を出すと、彼女はもう故郷に帰ってしまった、最後に一緒に食事できなかったのがとても残念だと(…)さんはいった。(…)さんは大学院を受けなかったんだねというと、彼女は压力が嫌だと言っていましたという返事。内卷だねと受ける。
 一緒に写真を撮りましょうという。隣の席に来てくださいというので、そちらに移動。並んで椅子に腰かける。スマホのカメラ設定をあれこれ細かく調整する彼女に、いちばんかわいく撮れるようにしてねとふざけて言う。で、たくさん撮る。たぶん10枚以上撮ったんではないか。途中、いつものように白目を剥いたところ、「先生!」とたしなめられる。(…)さん、対面で着席していたときから気になっていたのだが、犬歯が両方ともすごく尖っている。それが生まれつきそうだったというよりも、歯医者でわざとそういうふうに削ったんじゃないかというくらいの尖りかただったし、彼女は親に内緒で鎖骨の下にタトゥーをいれてしまうほどパンクなところもある子だから、マジで一種ファッション感覚でそういう施術を受けたのかなと思ってたずねそうになったが、いやでもこれでもしあの歯が生まれつきであり、しかもそのことを彼女が気にしていたらそりゃもう大事故になってしまうなと思い直し、ぎりぎりこらえた(中国人は日本人よりもはるかに歯並びにこだわる)。
 撮影のすんだところで店を出る。帰路は歩く。ワインを売っている店の前を通りがかる。あ、ここ以前(…)さんと一緒に歩いた場所だ、と気づく。知ってるよここ! あっちに行けば(…)だよね? と言うと、全然違いますという返事。WTF! ぼくは子どものときからずっと方向音痴なんだよねという。
 途中、(…)を見かける。いつも通っているパン屋と同じチェーン店。中に入って食パンを二袋買う。カットしたフルーツやヨーグルトをビュッフェ方式で皿に盛る、中国でよく見かけるタイプの店の前も通りがかる。この店が好きだと(…)さんがいう。日本にいったらしばらくフルーツは我慢だね、スイカなんて高くて絶対買えないよというと、それに野菜も! という反応。果物と野菜がいちばん好きなのに、どちらも高いなんて! と楽しそうに笑いながら言うのに、この子が日本で嫌な思いをしなければいいんだけどと心の底から憂慮する。
 大学最寄りの交差点にたどりつく。信号待ちをしているあいだに便意をもよおす。しかもやばいタイプの便意。あ、これまずいかも、とあせる。とりあえず(…)さんと少し距離を置いたのち、様子見がてら屁を数発たてつづけにこいてみる。いまでも悔やまれるのだが、これが完全に判断ミスだった、せまりくるものを歓迎する号砲となってしまったのだ。
 信号が変わる。横断歩道を渡る。今回N1に失敗したら日本語の勉強をやめるつもりだったと(…)さんがいう。試験は中止になってしまったけれどインターンシップという機会が偶然めぐってきた、だからもう少しがんばろうと思ったのだと続けたのち、わたしはバカだから勉強しても全然話せるようにならないと細い声で漏らす。なぐさめてほしいのだな、はげましてほしいのだな、と分かる。しかし肛門は限界に達しつつある。それまでは彼女の歩幅にあわせてゆっくり歩いていたのだが、そんなゆとりはすでにない、やや早歩きで歩みを進めながら、きみはじぶんのことをしょっちゅうバカだバカだというけど、でもきみのクラスにぼくとふたりきりで食事に行くことのできる学生がいったい何人いる? ほとんどの学生はそんなことできないでしょう? という。もっといえば、きみは三年生の時点でそれができたでしょう? 三年生のとき、(…)の裏町でふたりでいっしょにご飯を食べたでしょう? 少なくとも口語に関してはきみと(…)くんのふたりがクラスでトップだよ、と続ける。先生はいつも褒めすぎですと(…)さんは笑う。こちらは笑えない。漏らす覚悟がすでに固まりつつあったからだ。
 漏らすのは前提にして、せめて彼女と別れたあとに漏らそうと考える。それか野糞だと思うが、中国の町中は監視カメラだらけであるし、なにかの拍子にじぶんが植え込みで野糞をしている動画が流出しないともかぎらない、それがWikiLeaks経由でバズってしまったらどうしようと思う。だったらもう漏らしたほうがいいかもしれない、いま穿いているのはユニクロのボクサーパンツであるし漏らした状態でもどうにか寮までこぼさず持ち運べるんではないかと思う。
 そうしたこちらの葛藤をよそに、でもわたしより上手なひとはたくさんいますと(…)さんが言う。そりゃ上には上がいるよ、そこはきりがないけどさと受ける。実は今日ほかのクラスメイトも食事に誘いました、でも彼女たちは怖いといった、みんな日本語で先生と話す自信がないからというので、そうでしょう? ほとんどの学生はそんな感じなんだよ、でもきみはこうやってときどきぼくとふたりでご飯を食べたり散歩したりするでしょう? じぶんからぼくを誘ってくれるでしょう? ちょっとは緊張するかもしれないけど、でも怖いと思うことはないでしょう? だからもっと自信を持ちなさい、と、早歩きのペースをはやめながらはげます。クラスメイトたちは先生のことが大好きですよと(…)さんは言った。先生のことを——と続けたところで詰まり、スマホで辞書を確認したのち、崇拝していますと続ける。崇拝って! おおげさだよ! と言うと、これは本当です! みんな先生の知識量に驚いています! 本当に崇拝しています! と熱っぽい言葉があり、そのあといろいろポジティヴな評判を聞かされたのだが、このあたりの記憶はすでに遠い。限界だったのだ。
 すべての神経が肛門に集約されつつあった。ようやく北門に到着。(…)さんは門の手前に停めてあるシェア自転車にのってアパートまで戻るわけだが、当然その前にまだひと山ある。つまり、これが今生の別れになる可能性が実際高いわけだから、本来ならここでしんみりと感傷モードに入っている彼女に対して、こちらもいろいろ言葉を尽くしてその感傷に付き合ってあげるのが筋なのだ。しかし、何度もいう、本当に限界だった。結果、「(…)さん、ごめん! トイレ行きたい! うんこしたい! またね! なにかあったら連絡ちょうだい!」そう言い残してダッシュすることになった。
 北門では当然守衛に捕まった。itinerary codeを読み取れという。うおおおおおおおおお! とその場ダッシュをくりかえしながらQRコードを読み取る。見せる。それでキャンパス内に入ろうとしたら、まだなにかいって引き止めようとする。外国人か? どこの人間だ? というので、外教だ、日本語を教えていると答える。は? みたいな反応があったので、こいつマジで殺すぞと思いながら、リュックの中からteacher’s cardを取り出して見せる。それでも納得しない。おまえ日本人なのか? 教師なのか? と離そうとしないので、「もうええやろが! うんこしたいんじゃ!」と日本語でブチギレる。びくりとした守衛を置き去りにしてダッシュ。まるでゲートを強行突破した正体不明の不審者みたいだ。これで守衛が後ろから追いかけてきて取り押さえられたらそのはずみで確実にうんこが出るなと思う。でもその場合はむしろ申し開きが立つのでは? 元々うんこを我慢しており漏らしたのではなく、守衛による暴力的な措置の結果うんこを漏らすことになったという体裁を保つことができるのでは? と、いま冷静になって考えてみるとそれで全然体裁保つことなんてできないでしょというアレなのだが、そういうことを狂ったあたまで考えながら寮に向けて全力で走り続ける。疲れも息切れもいっさい感じない。すべての神経が肛門に集中している。走りながら、これいま完全に火事場の馬鹿力が出ているぞ、と思う。最近ろくに運動なんてしていなかったのに、この距離をこのペースで休憩なしで走り続けているなんて絶対おかしい、脳のリミッターが解除されているのだ。あとで吐くことを覚悟する。吐いてもいい、吐いてもいいのでうんこだけはどうにか間に合わせてほしい、漏らしたくない! そう念じながら寮の門前に到着する。ゲートをひらく。階段を五階まで駆けあがる。一段抜かしで階段を上がるわけだが、足を大きく開くたびに肛門も自動的にゆるみ、もうダメだ! という危機的瞬間が何度もおとずれる。鴨川事変を思い出す。あのときも(…)の共同トイレの扉に手をかけたまさにその瞬間に糞を漏らしたのだった。あの失敗だけは繰り返したくない!
 五階にたどりつく。扉の鍵を開ける。電気もつけず、靴を履いたまま、一気に寝室まで移動する。リュックとコートをベッドに放り投げて便所に駆け込む。ゴールはすぐそこ。最後の最後まで気抜くな! パンツおろすまで気抜くな! 鴨川事変の二の舞になるぞ! とじぶんに言い聞かせながら便座をあげる。ズボンをおろす。気抜くな! 気抜くな! アディショナルタイム! アディショナルタイム! 便座に腰をおろす。セーフ! とんでもねえ下痢ラ豪雨!
 出すものを出す。便座に腰かけたまま、しばらく動けなくなる。ものすごく息が切れている。膝がガクガク震えている。よくここまでもちこたえたなと、しみじみとした感謝の念がわきあがってくる。ありがとう、ありがとう、と心の中でつぶやく。泣きそうだ。本当の、本当の本当の限界というやつを見た気がする。ボールを1ミリ残してセンタリングを上げた三苫もこんな気持ちだったのかもしれない。じぶんの人生を要約して他人に語り聞かせる機会があれば、この出来事は絶対に外すことができない。
 寝室にもどる。ベッドに倒れこみ、来るべき吐き気にそなえる。部屋着に着替える余力はない。ベッドに倒れ込んではあはあやっているうちに、案の定、胸とも腹ともつかないあたりで悪心がぐるぐるしはじめる。ぐるぐるするだけでなかなかピークに達さない。達してくれたほうがむしろすっきりするわけだが、その瞬間がいつまでたってもおとずれず、ただひたすらうーんうーんと苦しむ。パスタに大量に入っていた唐辛子のせいだと思う。唐辛子とコーヒーの食い合わせがまずいのだ。火鍋を食ったあとにコーヒーをたてつづけに飲んだ場合もこういうことになる。過去に何度かあった。
 十五分くらいは苦しんだろうか。波がひいたかもしれないというタイミングで一度起きあがる。部屋着に着替える。寒気がするのでそのままベッドにもぐりこむ。横向きになればいいのか、あおむけになればいいのか、全然わからない。うーんうーん言っているうちに眠気がおとずれる。
 どれくらい寝たのかわからない。三十分かもしれないし、一時間かもしれない。(…)さんからカフェで撮った写真が届く。食事代は割り勘でいいというのだが、ここは当然こちらが多めに支払うことに。最後のお別れかもしれないのにさっきは申し訳ない! (うんこの絵文字)が限界だった! と弁明する。「ははは大丈夫!」とのこと。日本でまた会えますかというので、政策次第だけどいまの感じだったら来年一時帰国できそうだし向こうで会う機会もあるかもしれないねと返信する。

 浴室でシャワーを浴びる。先の出来事をあらためてじっくりと思い返す。外出中、気軽に立ち寄ることのできるトイレがないというのは、本当に不便なもんだなと思う。(…)が京都に滞在していたとき、日本はどこにでもコンビニがあるのがいい、トイレに困ることがないから、Londonではこういうわけにはいかない、外出するたびにトイレの心配をしなければならずそれがストレスだといっていたが、中国も同じだ。(…)はパニック障害をわずらっていたから、けっこうしきりに尿意を気にしていた。
 それにしても漏らさずにすんで本当によかった。しかし思い返せば思い返すほど北門の守衛に腹が立って仕方ない。あいつほんまになんやねん、と。そもそもの話、まともな神経の持ち主であれば、相手の顔色を見た瞬間、あ、こいつうんこ我慢しとるな、と察するものだ。それが人情だ。それをあのすっとこどっこいは何度も何度も引き止めやがって! 一日三食いったいなに食っとったらあんなひとでなしに育つ? 親の顔が見たいわ。
 あがったところでストレッチ。母親からLINE。従姉妹の(…)がコロナに感染したという報告。(…)は東京在住。そりゃまあ仕方ない。ほか、(…)の飼い主である奥さんとその娘さんが感染したという話もあった。大阪在住の娘さんが田舎まで持ち帰ってきてしまったという格好らしい。全員症状は高熱とのこと。両親は12月に五回目のワクチン、弟は11月に四回目のワクチンを接種したとのことで、どちらもオミクロンに対応しているという。うらやましい。あと、(…)のサプリを一日三回に増やしたという話もあった。足腰がかなり弱ってきており、なんでもないところでつまずいたり、よろけたり、こけたりすることが多いのだという。13歳なのだ。仕方ない。ボール遊びやタオルの引っ張り合いは相変わらず大好きらしいので、元気がないわけではない。(…)の13歳というのは、人間に換算すると96歳らしい。それで介護も必要とせず元気にやっているのだから、御の字といえば御の字だ。うまくいけば、来年の夏一時帰国できるかもしれないわけだし、もう会うこともないだろうと覚悟して去年出国したとはいえ、もしかしたら再会のチャンスがあるかもしれない。
 今日づけの記事をひとまずメモ書きする。それから明日に控えている日語閲読(三)の授業の事前チェック。これはほぼ問題なし。トースト二枚を食し、(…)さんからもらった重慶土産のスナック菓子をついばみながらジャンプの更新をチェック。その後、歯磨きをすませ、日付が変わる前にベッドに移動。『ほんとうの中国の話をしよう』(余華/飯塚容・訳)の続きを読む。余華、生きた時代が時代だけに、おもしろエピソードに事欠かん人生を送っとる。