20221214

「統計局でずっとやっていくつもりなのかい?」父が尋ねた。
「わからない」私は答えた。「まず今現在やりたいと思っていることをやり終えたら、それから考えてみる」
「正直に言うと」父は一瞬躊躇してから続けた。「ちょっと意外だったんだ」
「自分でもそう」私も言った。「でもね、ある日突然夢の中で自分が何をしたいのかがわかったの」
「どんな夢だって?」父は興味を持ったようだった。
「といっても本当に夢の中でというより、半分眠っているような状態の時に思ったことだけど」私は言葉をきって思い出そうとした。「つまり考えてたのは、人の理性はどう定義されるべきか、どうするのが理性的な選択になるのかということ。その後わかったんだけど、人の理性的選択というのは、目にしたものすべての中で最も合理的に見えるものを選択してそれを信じること、それから目にしたあらゆる方法の中で最も理智的と思われるやり方でそれを行うこと。このプロセスの中で一番大切なのは、実はどうやって選択したかということではなく、何を見たかということ。たいていの問題は見たものが少なすぎることから来ているとね」
 父はしばらく考えていたが、また尋ねた。「それで?」
「閉鎖的な村があって、誰かが病にかかった時に、病気の原因は一つ、つまり悪魔に取りつかれたからだと言われた場合、その村人が悪魔祓いを選択するのは理性的か否か。理性的でしょう。なぜならその人は、病気は悪魔に取りつかれたからだという解釈しか知らないのだから、選択肢は『悪魔祓いをする』か『そのまま病にかかったままでいる』かしかないし、その中で、『悪魔祓い』を選択するのは相対的に合理的なものでしょ。もし今二種類の解釈を知っていて、その一つが『悪魔に取りつかれた』でもう一つが『血液が変質したので、瀉血する必要がある』だったなら、後者がどれだけ馬鹿げて見えようとも、『悪魔に取りつかれた』より少し合理的に見える瀉血を選択するというのも理性的でしょ。人の理性は全くその視野如何にかかってる。どんな選択にもその背景には必ず一つの物語があって、一つの世界観があるはず。光と闇の戦いから、天国と地獄とその間にある煉獄、輪廻の中のある地点、それからピラミッド状の階級闘争にいたるまで、どれもが描かれた一枚の絵図。もしその一つの絵図のことしか聞いたことがなければ、その聞いたことに従って事を進めるのが理性的ということ。ほかの人間には狂っているようにしかみえなくてもね」こう一気に話したところで私は少し混乱したので、一度口を閉ざし頭を整理し、それからまた話をつづけた。「時々思うんだけど、この世界には『真相』なんていうものはなくて、あらゆる『真相』は実はある種の描かれた絵に過ぎないんじゃないのかって。その後に思ったのは、それがあるか否かにかかわらず、『真相』は自分で見つけることはできるということ。もし『真相』があるなら、それを見つける。もしないのなら、できるだけ多くの絵を集める。その絵を全部みんなに見てもらえたなら、たとえそれが真相でないとしても、一枚だけの絵を見せるよりはずっといい。これが私がやろうと決めたこと。できる限り多くを皆に見せること」
(郝景芳/櫻庭ゆみ子・訳『1984年に生まれて』)



 10時前起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。街着に着替えて寮を出る。自転車にのって第四食堂近くにある快递へ。解熱剤(アセトアミノフェン)を受け取る。受け取り用のバーコードが淘宝や支付宝のどこにも見つからず、は? なんでや? となる。見かねた快递のおっさんが伝票を差し出す。それに手書きのサインをする。コロナ以前の快递は全部こういうアナログ式だったなと思い出す。都市部ではあの時点ですでにセルフになっていたんだろうけど。
 第四食堂で西红柿炒鸡蛋面を打包する。はやい時間帯だったので食堂はそれほど混雑していなかった。帰宅して食す。それからたまっていた衣類をまとめて洗濯。厚手のヒートテックは加湿器代わりに寝室に干す。
 食後のコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。投稿すると、時刻は14時前。一年生のグループチャットにVoovMeetingのURLと授業で使用するPDFを送る。で、30分後にひかえている授業のシミュレーション。
 14時半から日語会話(一)の補講。第8課。めちゃくちゃ簡単な内容であるし、後半に期末試験の説明が控えているので、基本事項はざっと駆け足ですませる。で、応用問題に時間を割く。こちらが適当に用意したさまざまな画像を形容詞+名詞で説明させるという趣向。これは事前に用意しておく画像次第でいろいろに盛りあがる。今日はまたひとつ発見があった。発音のとてもきれいな学生がいたのだ——にもかかわらず、それが誰であったかメモしそびれている! アホか! たぶん(…)さんだと思うのだが。ま、そのあたりは期末試験でじっくりチェックできるので、問題なしとする。残り四回はすべて期末試験にあてるつもりであるし、通常授業は今日でおしまいなので、どうもみなさん今学期はありがとうございましたとあいさつ。気の早い学生らがあけましておめでとうという。来学期また教室で会えるといいねといったあと、健康に気をつけてくださいねと続けたわけだが、実際、学生らは現在の感染拡大をどのように受け止めているのだろう? モーメンツなどのぞいていても、感染がおそろしい! というような声はまったく見かけないし、オミクロンなんてただの風邪みたいなもんですよという中央の激烈な掌返しをそのまま素直に受け入れているのが大多数だったりするのだろうか? あるいは、中央がオミクロンやばいオミクロンやばいとさんざん吹聴しまくっていた頃からすでに疑念を抱いていた? いや、そういう学生も一部いるにはいるだろうが、うちのような決して学力が高いとはいえない田舎の大学の、それも愛国心マシマシ教育を受けまくっている世代である現一年生の大半が、VPNを駆使したりネット上に流通する隠語・暗語の類をかきわけたりしてまで壁の外の実情に触れているとはちょっと思えない。そもそも感染がまだそこまで身近に感じられない地域に住んでいる学生が大半なので、不安の声がこちらの観測範囲に聞こえてこないだけの話なのかもしれんが。中国はでかすぎる。
 また快递から通知が届いている。今度はポカリが届いた、と。第四食堂近くの快递ではなく、老校区のほうの快递だというので、夕飯までまだちょっと時間があるし、散歩がてら歩いて向かうことにする。

 寮をあとにする。バスケコートはもぬけのから。バドミントンコートには小さな子どもがふたりいる。ネットをはさんで対峙し、体の半分くらいあるラケットを手にしてシャトルを打つのだが、ラリーは一度も続かない。ただ互いにサーブをくりかえすだけ。
 地下通路を抜けて老校区へ。外国語学院の前を通り抜ける。老校区の北門をちらっと確認するが、やはり封鎖されている。道路をはさんだ先にある新校区の南門も同様。中央がフルオープンすることに決めたんだし大学もそれに従えよと思う。この門が封鎖されていると色々不便なのだ。
 老校区内にある幼稚園の前を通りがかる。迎えの保護者らしい姿がちらほらある。マスクの装着率はやはり高い。九割以上だと思う。医療用マスクをつけているひとも時々いる。
 快递に到着する。淘宝で荷物の番号を調べ、棚の上に並んでいる小さな段ボール箱の中から同じ番号のシールが貼られているブツを探すわけだが、頭の数字からして全然異なる。つまり、こちらの荷物が届いているのはこの快递ではないらしい。同じ菜鸟なのだがと思う。店員に聞いてみようかと思うが、店内は無人。通路をはさんだ向かいにある店——なんの店か不明、携帯電話まわりのグッズかもしれない——のカウンターにおっさんがひとり腰かけていたので、そちらに近づいていって淘宝のページに表示されている快递の住所を見せながら、この快递ってそこじゃないのとたずねる。違うという返事。早口でなにか続ける。え? え? なに? と反応すると、学校外面! とたいそうめんどくさそうにいいながらおもてを指差してみせる。それでぴんときた。老校区のさらに南にある快递だ。たちならぶ団地の足元にあるごちゃごちゃした通りに軒をつらねている店舗だ。普段そこに荷物が配送されることはないのだが、夏休みや冬休みのあいだは后街の快递が営業をやめてしまうからだろう、長期休暇中にかぎってはブツがそこに配送されることがあるのだ。
 しかし遠い。寮からくだんの快递まで、ちょうど大学の北端から南端まで横断する格好になるので、徒歩ならば片道30分以上かかる。しゃあない、これも散歩や! と割り切ってふたたび歩き出す。閑散としたバスケコートを横目に老校区の南門へ。若い守衛が立っているが、特になにもひきとめられることはない、すんなりと外に出ることができる。門を出たところで左に折れ、右手に車道をひかえるかたちで、しばらくそのまま歩く。街路樹から野鳥のさえずりがふりそそいでくる。ここらへんでよく耳にする野鳥のさえずりは日本で耳にするものよりもずっとうるさい。声がするどくとんがっており、背景として聞き流すことがむずかしい。ちょっとDurutti Columnの“Sketch for Summer”みたいでもある。うた子のさえずりもやはりうるさかったなと思い出す。うちで保護していた時期、毎朝あのするどい鳴き声で起こされたものだった。道路沿いのメシ屋はほとんど閉まっている。なかには当然学生をターゲットにした店もあるわけだし、その手の店が長期休暇中に店を閉じるのは別にめずらしくないのだが、ここはあきらかにそういうタイプはないだろうというような、酒をのみながら鍋をつつくタイプの店まで閉まっているので、これももしかしたらコロナの影響なのかもしれないと思う。

 団地のそばに到達する。きわめてlocalな一角(と、ローカルではなくlocalと英語で表記するのは、こうした用法をほかでもない(…)から学んだからである、つまり、カタカナのローカルはじぶんの語彙にないのだがアルファベットのlocalは彼女から譲り受けたものとしてじぶんの語彙にある)。小汚いメシ屋の老板が店の玄関口に出ておもてにある水道からつないだホースで食器を洗っている。その水がとなりにある八百屋の店先にまで達してちょっとした水たまりを作っているが、だれも気にしない。診療所がある。その前で痰を吐くおっさんがいる。どんぶり茶碗の中身をかっこみながらふらふら歩いてる顎マスクの少年がいる。道路のいたるところに細々としたゴミが落ちており、得体の知れない水たまりがある。この衛生環境であれば、感染爆発するときにはそりゃド派手に爆発するわなと思う。
 快递でブツを受け取る。元来た道を引き返す。若い守衛にteacher’s cardを見せる。守衛はこくりとうなずく。問題なし。健康コードの提示なしに老校区に足を踏み入れることができる。話のわかるやつだ。それにひきかえ、新校区北門のあの守衛はなんなんだとまた怒りがわいてくる。もう少しでうんこを漏らすところだったのだ。あいつは孫の代まで恨む。
 そのまま地下通路に向かう。通路の出口階段手前で、蜜雪冰城のソフトクリームにかぶりつきながら歩いてくる薄着の男子学生とすれちがう。こいつ絶対元わんぱく少年やろと思う。新校区に出る。第三食堂の前を通りすぎる。地面にブルーベリーみたいな色をした木の実がたくさん落ちている。踏むとパキっと乾いた音がする。細い木の枝を踏んだときと同じ音だ。その木の実をついばみに来ている野鳥の群れが、同じ木が周囲に複数あるにもかかわらずなぜかその中の一本にのみ集中して群がり、枝から枝へとしきりに飛び移っている。そのせいでその木だけがまるで強風でも受けているかのように枝葉をぐらぐらぐらぐらと揺らしている。女子寮の門前には女子学生が二人いる。そのうちのひとりがロックされたゲートの前で、快点! と内側にいるだれかに向けて叫んでいる。もしかしたら彼女もうんこが漏れそうなんかもしれんと思う。
 第四食堂に立ち寄る。おかずを三種類を指名してどんぶりにしてもらう。打包して帰宅。すぐに食う。
 ベッドに移動して30分ほど仮眠をとる。覚めたところで浴室に移動し、シャワーを浴びる。あがってストレッチ。コーヒーを用意して飲みながら、(…)さんと(…)さんの分の電子表彰状を発行してもらうべく、(…)の事務局にメールを送る。それから今日づけの記事を途中まで書き、2021年12月14日づけの記事を読み返す。
 その後、書見。『「エクリ」を読む 文字に添って』(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳)。127ページに、ことわざや慣用句などは語単位ではなくそれ自体で単一のシニフィアンとしてみなされなければならないという話がある。で、その具体例として「ちょうどアメリカ英語で“How do you like them apples?”〔あなたはそれについてどう思うか〕が単一のシニフィアンとしてみなされなければならないように」という文章が続くのだが、あれ? これちょっとおかしくない? と思った。文脈的に“How do you like them apples?”という英文はなにか特殊な意味を有しているものであるはずなのだが、その日本語訳は「あなたはそれについてどう思うか」になっていて、これってHow do you like…? を直訳したものでしかないのではと思ったのだ。気になったので、“How do you like them apples?”でググってみたところ、これはやはり特殊な言い回しであるらしく、「どうだ!」と「やった!」という意味になるらしい。語源としては第一次世界大戦時に使われていた砲弾にToffee Apple Bombというものがあり、それを敵兵に直撃させるたびにイギリス兵らが“How do you like them apples?”と口にしていた、と。英語版のWiktionaryでは以下のように説明されている。

"How do you like them apples?” is an expression that supposedly originated during the first World War, when the Allies' anti-tank grenade was colloquially called a “toffee apple” because of its bulb-like appearance on a stick. The phrase was a taunt against the enemy.

 以下の説明と用法を見ると「どうだ!」と「やった!」という和訳もどうなんだろと思わないでもない。文脈次第でいろいろな訳語が考えられるフレーズということになるか。

(colloquial, rhetorical question) directed jestingly or mockingly at someone who has received surprising information, ridiculing the situation.
"Our governor has just vetoed a bill that would offer more money to our schools. How do you like them apples?"

(colloquial, rhetorical question, Ireland, US) Used after an actual or proposed action with which the listener might be displeased. Also used after refuting an argument.
"I can't give you a raise now; if I did, this whole company would go bankrupt, and you wouldn't have a job at all. Now how do you like them apples?”

 それからもうひとつ気になった点。『「エクリ」を読む 文字に添って』の142ページ。

 私のある分析主体は、何回かのセッションで自分がペテン師のようで、信頼に値しないし、信用もされていないように感じると語ったあと、二つの異なる方向へと伸びている線路を夢に見た。線路についても二つの異なる方向についても彼にはいかなる連想も浮かばなかった(そしてもちろん彼は「文字の審級」を読んでいたわけではない)。しかし、私が「線路 rail」をさかさまにした言葉、すなわち「嘘つき liar」という語を口にしたとき、彼は突然笑いだしたのである。このことを解釈の「健全さ」の確認として受け取る必要はない。健全さは解釈が生みだす新しい素材のなかにのみ見いだされるからである(E 595)。このことはむしろ、夢が、嘘つき liar を表象することができずに(それは単純なイメージによっては表すことのできないきわめて抽象的な概念である)、より描きやすいものを表象することに訴えた可能性を示唆している。これが、ラカンが分析家にクロスワードパズル(E 266)や暗号ゲーム(E 511)をすることを薦める理由のひとつである。なぜなら無意識は、思考をイメージへと翻訳しようとして、様々な語と戯れ、同音異義語アナグラムや合成語を見つけだし、簡単に視覚的に表象することができる思考をつくり上げるからである(…)。
 もちろん、このことは、すべての分析主体の夢にでてくる線路すべてが嘘つきや嘘をつくことを指すということではない。むしろ、自分自身の夢についてのそれぞれの分析主体の説明が、そのディスクールの文字のレベルで読まれなければならないということである。あたかも夢イメージと夢思考のあいだに一対一対応があるかのごとく「デコーティング」(E 510)を行うのではない。むしろ私たちは、「解読」(E 511)するのである。

 こうした夢の読み方、つまり、「自分自身の夢についてのそれぞれの分析主体の説明が、そのディスクールの文字のレベルで読まれなければならない」という原則に触れるたびに、綾屋紗月がじぶんは夢の元ネタがなんであるのかだいたい指摘することができると語っていたのを思い出す。

 私の夢は(…)主に過去の記憶の部品と、将来に対する不安や予想が、好き勝手に話をつくりあげるものである。それはとても構成が単純で、「ああ、あれとこれとあれがまざったな」とすぐに分析できる代物である。「明日は子どもの幼稚園の運動会だ」という緊張と、寝る前に見た「フラダンスの映画」がまざって、「幼児が運動会の演目でフラダンスをとても上手に踊っていて驚く夢を見る」といった具合だ。
 夢を構成するのは、最近考えていることや気がかりなこと、前日に見たものの細かい記憶であり、それらがランダムに選択されながら、「よくもまあムリヤリひとつの夢としてまとめあげられたものだ」と他人事のように感心するほど、うまく同居して世界をつくりだす。
 たとえば「外国人教授の研究室で、医療用手袋をした友人がその教授から、『これをよろしく頼むよ』と『間主観性』と書いてある本を渡されていた」という夢を見たとする。すると目が覚めたときには、「今日の夢は、『きのうはじめて行った研究室の壁一面の本棚』『研究室を出た廊下に貼ってあったポスターの外国人学者の写真』『学校帰りに出会った友人』『帰宅後に行った病院で、看護師さんが持っていたゴム手袋』『次に私が読もうと思っている本のタイトル』でできていた」というように、夢の素材となった細かい写真記憶を思い出すことができる。
(綾屋紗月+熊谷晋一郎『発達障害当事者研究 ゆっくりていねいにつながりたい』 p.96-97)

 これは自閉症的主体——と、ASDラカン派の文脈に即してひとまずそうよびならわす——に特異的なものなのだろうか。自閉症的主体は綾屋紗月+熊谷晋一郎いうところの「まとめあげ」が苦手である。特異性を一般性に変換する、メモリを節約して抽象化する、それはとりもなおさず言語化とかかわる働きであるわけだが、そうであるからこそ、(「意味」にではなく「存在」に重きが置かれている)自閉症的主体は、その大半が特異的なイメージの次元に回収されうるような素材をそのまま夢に見るのだろうか。
 仮に夢にはすべて(想像的な次元で)元ネタがあるとする。しかし、ロラン・バルト的にいえば、唯名論的ではなく実在論的である神経症的主体は、象徴化の過程でそれら元ネタの起源を見失ってしまうことが多いということなのだろうか? 多くの場合において、特異的なイメージが一般的なイメージに変換されてしまう、のみならず文字のレベルにまで還元されてしまう、そういうことなんだろうか?
 書見を中断して腹筋。冷食の餃子をこしらえて食す。ひさしぶりに海老の餃子を食ったが、やっぱりこれがいちばんうまいな。ジャンプ+の更新をチェックしたのち、「「愛国を飯の種に」SNSで暴露された中国反日ネット民の過去」という西日本新聞の記事を読む(https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1027306/)。

(…)発端は8月中旬。日本の繁華街や商店街を再現した江蘇省蘇州市の「日本街」で日本の人気漫画の主人公をまねて浴衣を着ていた中国人女性が、公共秩序騒乱容疑で警察に連行される動画が出回った。
 中国のSNSでは今夏、日本文化を称賛する若者を「精日(精神的日本人)」とやゆする投稿が続出。反日感情が高まり、日本の夏祭りや盆踊りをイメージした催しは次々と中止に追い込まれた。その急先鋒(せんぽう)が「愛国大V」と呼ばれた6人の有名ネット民だった。
 しかし、ある“糾弾”で風向きが一変した。6人が過去にSNSで日本のコンドーム製造大手オカモトの製品を宣伝していた事実を突き止めたネット利用者が「中国人が日本の着物を着るだけで有罪なら、少子化が深刻な中国で日本の避妊具を宣伝するのは亡国の罪ではないか」と反論した。
 同社の避妊具は中国でも根強い人気がある。コンビニで広く販売されるなど企業の認知度が高いことも相まって、6人を「岡本六君子」と呼び、冷ややかな目が向けられるようになった。六君子とは清朝末期の政治改革運動「戊戌(ぼじゅつ)の変法」で粛清された6人の官僚「戊戌六君子」にちなむ。
 ネット上では、6人がフォロワーを増やして金もうけにつなげるため、故意に「愛国」「反日」「反米」を主張しているとの批判が噴出。「愛国を飯の種にしている」という意味のハッシュタグ(検索目印)も登場した。
 さらに、浴衣を着た女性を拘束した警察に「どういう服を着るかは個人の自由だ」と反発する声も高まり、反日ムードは一気に沈静化。北京の外交筋は「こうしたネットの論争が、日中関係のさらなる悪化に歯止めをかけた」と分析する。

「岡本六君子」についてはさすがにクソ笑うわけだが(ちなみに十年ちょっと前の話なのでいまはどうかわからないが、タイでもカンボジアでもこちらが日本人であることを知ったlocalたちはだいたいみんな「okamoto!」か「ajinomoto!」と笑いながら言った)、「夏祭」の一件がその後こうした経緯をたどっていたのはまったく知らなかったので、ちょっとびっくりした。「夏祭」の件は当時ネットでけっこう話題になっていたし、字幕組にも所属しているまさに精日分子である(…)くんと夜いっしょに散歩している最中に詳細を聞きもしたのだった。というかそれこそ、今日の授業中、まさに「お祭り」という単語を紹介する機会があったのだが、そしてそのときこれで変に噛みついてきたりする学生はいないだろうなとすこしだけ警戒したのだったが、まさかこんなことになっていたとは!
 ちなみにいま過去ログを「夏祭」で検索してみたところ、2022年8月2日づけの記事がヒットした。ペロシが台湾をおとずれるまさに数時間前のできごとだ。

 老校区の南門から外に出た。右に曲がれば東北料理の店だが、左に曲がった。暴走する愛国心の話題から最近南京で夏祭が禁止されたという話を聞いた。日本風の夏祭を開催する計画があったのだが、日本の夏祭には戦没者を悼む意味合いがあるからそれを南京で開催するなんて——みたいなかたちで炎上。夏祭は当然禁止。のみならずほかの地域で開催が予定されていた類似のイベントも続々と中止になったという話。中国はある意味世界一のキャンセルカルチャー大国だなと思った。戦没者を悼むうんぬんについてはおそらく「盆」のニュアンスが混じった結果としての誤解だろう。(…)くんを含む日本語学習者は当然それが不当な炎上であることは理解している、しかし仮に夏祭自体にそんなニュアンスはないと説明しようとすればすぐにネット上で袋叩き、おまえには愛国心がないのかとリンチされるのが目に見えているので、だれも反論できない状況だとのこと。

 今日づけの記事も途中まで書き進める。1時になったところで中断して歯磨き。その後、ベッドに移動し、『「エクリ」を読む 文字に添って』と『ほんとうの中国の話をしよう』(余華/飯塚容・訳)の続きを読み進めて就寝。