20221217

(…)十幾年前、三月三日の雛を飾って祝う女の節句の日の朝、二十四の若さで酒びたりになり、幻聴がすると言っていた郁男は突然、首をつったのだった。その日の前の夜、郁男は仏壇にむかって経をあげた。経をあげている最中にも幻聴があるらしかった。素肌にはおったジャンパアの胸をはだけて、「よし、よし」とうなずいた。「皆んなには手を出すな、おれが行く」そうどなった。それは謎の言葉としていつまでも残った。
中上健次枯木灘』)



 11時前起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。上の部屋が少し騒がしい。コツコツコツコツ床を叩くような音がしたり、椅子や机をひきずったりする音がしたりする。最近はわりとおとなしかったのだが、大学関係者以外もキャンパス内外の出入りがふたたび可能となり、上の部屋にもだれかおとずれているのかもしれない。そういえば、昨日の昼間だったか夕方だったか忘れたが、寮の門を出た先で爆弾魔と高齢の男性が一緒に歩いているのを見かけた。父親の訪問中なんだろうか?
 モーメンツを見ると、卒業生の(…)さんが真っ赤になった健康コードのスクショを投稿していた。感染したらしい。ほかにも、薬をどこどこで買ったという報告や、感染したとしてもパニックになる必要はないという記事へのリンク、感染したときはどうすればいいかという記事へのリンクなどを投稿している人間がちらほらいて、昨日あたりからモーメンツもコロナの話題がガンガン増えている感じ。感染する前にさっさと期末試験を受けさせてくれと訴えている学生もいる。
 街着に着替える。自転車にのって第四食堂へ。おもては晴天。今日もハンバーガーを二つ買う。海老と牛肉。帰宅して食し、コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回する。その間ずっと寒気を感じていたので、あれ? これとうとうきたかな? と思ったが、ふつうに暖房を入れ忘れていただけだった。馬鹿が! こういうトンマがいるかぎり人類は救われない!
 洗濯する。今日づけの記事も途中まで書く。2021年12月17日づけの記事を読み返す。

 モーメンツにさらなる陽性報告。元日本語学科の二年生女子が感染した模様。(…)さんの先の投稿には元クラスメイトの(…)くんが握手の絵文字。察するに、彼も感染したらしい。去年卒業した(…)の学生で、いまは専攻を農学か何かに変更して(…)で大学院生をしている(…)くんのルームメイトも感染。夜には彼自身も発熱したと報告していた。
 14時半から二年生の日語写作(一)補講。期末試験その二。(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)くん、(…)くんの7人。優秀な学生が多かったので、一時間もかからなかった。10問正解のパーフェクト、とうとう出た。(…)くん。すばらしい。大学院に進学するつもりはあるかとたずねると、あるという返事があったので、絶対にそうするべきだ、いつでも手助けすると激励。ほか、(…)さんも10問正解だった。ただし、(…)くんとは異なり、1問だけ二回目のチャレンジでの正解。しかし現状、クラス二位の高得点ではある。相棒の(…)さんは9問正解(内、2問が二回目で正解)。最低スコアは(…)くんの6問正解(内、3問が二回目で正解)。彼は高校時代から日本語を勉強している学生であるが、いまはクラスの最底辺を構成するひとり。
 テストを終えてほどなく(…)さんから微信。「先生、お邪魔します。今回の試験で私はまた失敗したことを知っています。私の脳は真っ白で、先生と話すたびに、先生も他の先生も、私は緊張して、脳は空白になります。今回の試験で、私の不足が分かりました。次の試験では、私はきっととても努力して、お疲れ様でした。」とのこと。いやいや、そんなダメな結果では全然なかったでしょうと思ったので、すぐに「(…)さん、君のテストの結果は全然悪くないですよ。10問中7問が一度目の挑戦で正解、2問が二度目の挑戦で正解でした。間違えたのは1問だけです。この結果はクラスでもかなり上位です。」「それから、授業中に提出してもらった作文も、ぼくはほぼ毎回高い点数をつけていますよ。だから安心してください。」と返信。くわえて「君はもっと自分に自信を持ったほうがいいですね。そうすれば、きっと緊張もしなくなりますから。少なくともぼくは君の能力を評価していますよ。」と激励する。相棒の(…)さんがかなりできる学生であるわけだし、彼女に引っ張り上げてもらうかたちでがんばりさえすれば、卒業までにぎりぎりN1にも手が届くと思うのだけど。
 夕飯までまだ時間があったので書見。『「エクリ」を読む 文字に添って』(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳)の続き。ラカン派を読んでいると、とりわけ享楽とかサントームとかにかかわる議論を追っているとよく思うのだが、これってつまり、ものすごく大雑把で解像度の低い言い方をすれば、小学校の道徳の授業で使用される紋切り型のフレーズであるところの「みなさん、じぶんの個性を大切に!」だよなと思うことも多い。いや、この場合の「個性」という語はとんでもなく複雑にねじれており、非常に多岐にわたる文脈をずるずるとひきずりまくっていてひどく重く、いってみれば、一般的な意味で用いられる「個性」の何周も何十周も先にある「個性」なのだが。ラカン派で個性という語が用いられることはないが、あえてその語を用いて続けると、こうした個性とは、かならずしもポジティヴに受け止めることのできるものではない。一般的な意味で用いられる個性という語は、基本的にはポジティヴな響きを有しており、その力能は社会的に正の印をおびた生産性と結びつけられる(そのとき、そのような個性は「長所」とほぼ同義として取り扱われる)。いわゆる「障害は個性である」という言説においても、事情は変わらない。その場合の障害は、やはり正の生産性と結びつけられている(というよりも、「生の生産性と結びつけられるべきだ」という抑圧が、善意と理解の名のもとに押しつけられている)。それに対してラカン派における個性は、そもそも通常の意味で生産的であるとはかぎらない。そしてまた、生産的であったとしても、社会的に負の印を帯びた生産性と結びつけられていることもままある。一般的な意味での個性が、言語化可能であり、カテゴライズ可能であり、しかるがゆえに社会に組み込み可能であり、社会的に正しい生産性に奉仕するかたちにたやすく包摂されてしまうのに対して、ラカン派における個性とは、そもそもが〈他者〉に含まれていない。それは、何の役にも立たない残滓であり、ゴミである。それは、不気味であり、他人を居心地悪くさせるもの、落ち着きなくさせるもの、絶句させたりどもらせたりするものであり、この社会に居場所のないもの、おさまりのつかないものである。そしてだからこそ、ガタリであれば、そこに革命可能性を見る。
 だから、と続けてしまっていいのかどうかわからないが、語りを喚起する芸術作品というのは、良くも悪くも佳作止まりということなのかもしれない。本物の傑作は、それを前にしてもどこかうまく語れない、どもってしまう、あるいはそもそも語る欲望が喚起されない、そういうものなのかもしれない(だからそれは、少なくとも同時代の人間からは傑作と呼ばれることなく、多くの場合は黙殺される)。この社会に固有の位置を与えられていない、単なる邪魔者、障害物、ゴミとしての芸術作品。それでいてときに、物好きから不確かな言葉を浴びせられ、あいまいな光で照らされしているうちに、あるとき不意に、〈他者〉をこそ更新するものとして——みずからの位置を社会から奪いとるのではなく、社会そのものをその分だけ拡張するものとして——見出されることになる。そういうものがやっぱり本物なのかもしれない。
 あと、「主体の二つの面とは、言語と享楽、意味と存在」であるとする文章に続けて、「知の体制と真理の体制」というフレーズが並置されている一節があり、そこを読んだとき、あ、ラカンのいう知と真理ってそういうことだったんだといまさら理解した。言語・意味・知の〈他者〉陣営と、享楽・存在・真理の主体陣営ということね。
 17時半に中断。自転車で第四食堂へ。どんぶりを打包する。米の量がちょっと少ないのが難点。帰宅して食す。(…)がグループチャット上で、“Is anyone else having problems connecting to the www?”と質問。Chinese internetのことではないと続けたのち、もう二週間くらいemailを含むあれこれにアクセスできない状態が続いているのだという。要するにVPNが使えなくなっているということなのだろう。乌鲁木齐での一件以降、当局の規制がバチバチに強化されているのだと思う。こちらの使用しているVPNは幸いなことに問題なく機能しているが、たぶん(…)が使用しているのは大手なんではないか? そういうところは狙われやすいというのがこちらの実感だ。こちらがいま使っているVPNは日本語しか対応していないやつなので、(…)にすすめるのもアレだろうし、たぶん(…)か(…)が助言するはずだと見越して、特に返信はせず。
 ベッドに移動。『ほんとうの中国の話をしよう』(余華/飯塚容・訳)の続きを少し読む。それから20分ほど仮眠をとり、浴室でシャワーを浴びる。あがってストレッチ。コーヒーを入れてから「実弾(仮)」第三稿執筆。20時半から23時半前まで。プラス1枚で971枚。枚数だけ見ればいまひとつっぽいが、まずまず順調に捗った。残りをどう書き進めばいいかもほぼ固まったし、年内に第三稿を終えることはひとまずできそう。2023年中に第四稿、第五稿と加筆修正を重ねて、できればそのまま発表までもっていきたい。
 作業を終えたところで腹筋。冷食の餃子と(…)さんにもらったお菓子を食し、ジャンプ+の更新をチェック。歯磨きしながらモーメンツをのぞくと、今度は(…)さんが高熱報告。体温計の写真を投稿していたのだが、39度近く出ている。モーメンツに普段投稿する習慣がない学生も当然多数いるわけだから(学生らはむしろQQのほうを多用している)、そのあたりを含めて考えると、これ、現時点ですでに相当数の学生が感染しているっぽい。こりゃあ寝正月確定かもしれんな。
 ベッドに移動する。『ほんとうの中国の話をしよう』(余華/飯塚容・訳)の続き。最後まで読み終わる。これ、想像していたよりもずっと良い本だった。以前も書いたけど、タイトルでちょっと損をしていると思う。社会派的な評論なんかでは全然ない。ただただ余華の経験したこと、見聞きしたことが、テーマこそいちおう存在するものの、いかなるかたちにもまとめあげされることもなければ、通りのよいアフォリズムや教訓に還元されることもなく、生身のままごろりと差し出されるだけ。評論ではないし、エッセイですらない、読書中の感覚としてはやっぱりガルシア・マルケスの小説に近い。無数のエピソードがたてつづけに語られるのだが、それらは決して乗算されることもなければ除算されることもなく(「物語」とならず)、ほとんど機械的にプラス1、プラス1を重ねていくのみ。すばらしい。
 余華の小説はまだ『死者たちの七日間』しか読んだことがない。これには別段そこまでひかれなかった。余華といえば、文学にさほど興味のない学生らもけっこう読んでいる印象があり、だからそういうタイプの作家だと思ってこれまであまり気にしてこなかったのだが(逆に、残雪や閻連科のことを知っている学生なんてほとんどいない)、この一冊でかなり印象が変わった。ほかの小説も読んでみよう。