20221219

 それは、小説とは、〝個〟が立ち上がるものだということだ。べつな言い方をすれば、社会化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するかということで、その社会化されていない部分は、普段の生活ではマイナスになったり、他人から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない。つまり、小説とは人間に対する圧倒的な肯定なのだ。
保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』)



 10時半起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックし、モーメンツをのぞく。二年生の(…)さん、声が出ないと訴えている。感染した模様。(…)さんも感染。昨日39度4分まで熱が出たという。地獄やな。上海で働いている卒業生の(…)くんは社員70人中10人しか出勤していないと報告。同じく卒業生の(…)さんも感染報告。食ったメシを吐いたという。
 街着に着替える。部屋を出る。おもては今日も晴天。濡れた路面が光線を反射して目に痛い中を自転車に乗って第四食堂に向かう。麺の店が閉まっている。マジか。呆然として立ち尽くしていると「先生!」と呼びかけられる。(…)さんと(…)さんと(…)さんの三人が近くのテーブルでメシを食っている。(…)さんの姿を見るのはずいぶんひさしぶりだったので、どんぶりの店で打包したのちそちらに移動し、いよいよあと一週間だけどだいじょうぶと話しかける。(…)さん、もっと時間が欲しいという。大学内でも感染者が出ているというので、三人とも気をつけてねと伝える。
 (…)の(…)くんも近くのテーブルにいる。勉強の調子はどうだとたずねる。先生は冬休みどうするつもりなのかというので、去年と同じくひきこもって本を読むつもりだと応じる。もしかしたら(…)に一度くらい出かけるかもしれないけどと続けると、(…)は「よいとうし」ですという反応。とうし? 投資? うん? としばらく考えたところで、「都市」か! とひらめく。
 帰宅。メシ食う。状況が状況であるし、やはり木曜日の健康診断は避けたほうがいいだろうと思い、(…)に微信を送る。いま病院内は感染者でいっぱいだと思う、この状況で健康診断を受けたらふたりそろって感染してしまうかもしれない、可能であれば今回の健康診断はキャンセルしたい、ただし健康診断なしでビザの更新をできるのかどうかじぶんはよく知らないのだが、と。
 (…)からの返信はのちほど授業中に届いたのだったが、先取りしてここに書いておこう。こちらのresident permitが来年20日にexpireするのでそれまでにmedical checkを受ける必要があると(…)はまずいった。しかしmedical check抜きでもどうにかなるかもしれないのでまずはpolice stationに連絡してみるという。medical checkがどうしたって必要だという話であれば、そのときは通常の病院ではなく健康診断専門の施設の予約をとる、そうすれば感染リスクを減らすことができるからと続いた。で、それからちょっと時間を置いて、police stationから返事があったとふたたび微信が届いた。曰く、resident permitがexpireするまでまだ少し時間がある、なのでyou can wait for a few days to see whether this situation would change or notというのだが、いや、a few daysでこの状況は悪くなりこそすれど良くなることはまずないだろう。とりあえず来月の6日に健康診断専門の施設で予約をとりなおす、situationが変化すれば(つまり、感染状況が好転すれば)その日にmedical checkを受ける。もし変わらないようであれば、もういちどpolice stationにcontactしてみるとのこと。Got it.
 ちなみに、こちらが送った最初の微信に対する最初の彼女の返信は“Hello (…)老师 That is a very good question.”で、おいおい池上彰かよと思ったのだった。ところで、こちらはわりと最近まで、池上彰と「今でしょ!」のひとは同一人物だと思っていた、池上彰が「今でしょ!」と言っているひとだと勘違いしていた。まあ、必ずしも間違いではないのかもしれんが。あのふたり、マリオとルイージリュウとケンみたいなもんやろ。
 コーヒーを飲みながらきのうづけの記事を書く。(…)くんから短歌の音数チェックの依頼。一年生の(…)くんからは「お花を見ました」という文章は文法的に問題ないかとたずねる微信。(…)さんからは短歌の提出は今日の授業前までなのかとたずねる微信。さらに(…)くんからいまさら友達申請が届くと同時に、紙切れに書いた短歌の写真が無言のまま届く。グループチャットのほうでも(…)さん、(…)さん、(…)さんの三人が、短歌はいま提出するのか? とか、午後の授業は期末試験であるのか? とか、マジで頓珍漢な質問を寄越すので、おめーら全然ひとの話聞いてねーな! とけっこうイライラした。
 (…)の事務局から電子版の表彰状が届く。(…)さんと(…)さんの二人の分をお願いしていたのだが、二枚とも名義が(…)になっていたので、訂正を申し入れる。とりあえず(…)さんのものだけ本人におめでとうのメッセージとともに送信。感謝の返信がすぐに届く。「ところで、最近大連のコロナがとてもひどいです。周りの人が感染しています。」「とても怖いです。」と続く。解熱剤がまったく購入できない状況が続いているという。「私の姉、父感染しています。ですから今私本当に心配です。」というのだが、彼女は一人っ子だったはずなので、この「姉」というのは従姉妹のことだろう(中国の学生は年上のいとこのことを「兄」「姉」とよくいう)。父君は高熱に苦しんでいるらしい。(…)さん自身は、じぶんが感染することよりも同居中の祖父母が感染することをおそれている様子。そりゃそうだ。こちらも実家に居候中、なによりもおそれていたのは決して若くない両親の感染だった。「今の政策はみんなに感染させることかもしれないです。」と泣き顔の絵文字付きで(…)さんはいった。突然の開放について、「完全に準備不足だね。開放する前にワクチンや医療体制をしっかり準備しておくべきだった。そうする時間はあったと思うのだけど」というと、「もう十分なお金がないかもしれないです」「以前毎週のコロナ検査をするとたくさんのお金がかかりますね」とやはり泣き顔の絵文字付きでいって、彼女はこちらの知るかぎりけっこうな愛国少女であるはずなのだが(たとえごくごくひかえめなものであったとしても、彼女が政府に対する文句を口にしているところを見たことがない)、やはり今回の一件ではいろいろと思うところがあるらしい。
 14時半から日語閲読(三)。まずは期末試験について説明。その後、このクラスの授業をするのは今日が最後であることを告げた上で(以前も軽く触れたことがあるはずだが、日頃おとなしい(…)さんがわざわざチャット欄で「本当ですか?」とコメントするほど驚いていた)、2019年の卒業生に送った手紙の抜粋を配布。解説しながら読みあげる。(…)で働いていた時代に知り合ったさまざまな「虐げられた人」(ドストエフスキー)と「ニーバーの祈り」の話。
 30分はやめに授業を切りあげる。(…)さんから短歌は字余りないしは字足らずでもいいのかという確認。よいと答える。なんとなく来るだろうなと思っていたが、(…)さんからこれまでどうもありがとうございましたのメッセージ。授業外での交流は数えるほどしかなかったが、たぶんこのクラスでもっとも熱心にこちらの授業を受けていてくれた学生(ありていにいえば、転移関係が成立している相手)。当然めちゃくちゃ褒めておくし、感謝もしておく。きみのような学生がクラスにひとりいるだけでとても支えになるのだ、と。(…)さんは「ちょっと悲しい」といった。それから、「(…)先生のおかげで、世の中にはもっと豊かで面白いものがあることがわかりました」「これはとても珍しいことです」「(…)君は(…)先生はとてもいい人だと言ってくれたことがあります」「私もそう思います。」と続けた。ちなみに、彼女の故郷も感染者が続出しているというのだが、「私は毎日たくさんのご飯を食べて自分を守っています」とあったので、これはちょっとかわいいなと思った。
 グループチャットのほうでは(…)さんが、たぶん授業がなくても交流はできるという意味だろう、「先生、私たちはあなたと一緒に散歩することができます」というので、そんなことより体調はよくなったのか? 彼氏と一緒に感染したのに君だけ無症状だったんでしょう? とちょっと茶化す。免疫がついて無敵になったというアレなんだろう、今日はこれから火鍋を食べにいくという。なんとなく思うのだが、中国人の大部分は、一度感染したらもう感染することはないと勘違いしているのではないか? このレベルで感染爆発を起こしているわけだし、今後ほかでもない中国が変異の震源地になると思うのだが、たぶんそこまで理解している人民はけっこう少ない。

 先述した(…)とのやりとりはこのとき行った。で、それとは別に、クリスマスのデコレーションをオンラインで買ったので、届いたらこちらにもお裾分けするという話があった。さらに大学からのクリスマスプレゼントとして、予算150元内のものであればなんでもオンラインで購入することができるという話もあったので、あ、これは毎年やっているクリスマスパーティの代わりなんだろなと察した。礼を言う。じぶんの感染はそれほどおそれていないのだが、じぶんの感染が発端となってきみの娘に感染するかもしれないのが心配なのだ、健康診断はじぶんひとりで行ってもかまわないとも告げる。(…)はThank you very much for your kindnessといったあと、しかし経費のやりとりの関係でじぶんは付き添う必要があるのだといった。このやりとり、そういえば以前も交わしたな。
 やりとりのすんだところで淘宝をのぞいた。150元だったらいつも買っているコーヒー豆を一袋お願いしようかなと思ったが、いやせっかくのクリスマスプレゼントであるし、こういう機会でもなければわざわざ買うことのないものをチョイスしたほうがいいかと考えた。で、本の栞なんてどうだろうと思って、いろいろのぞいてみた。せっかくなのでちょっと中国っぽいデザインのやつを——と、サーチしているうちにけっこう時間が経ってしまったので、これはいったんストップ。
 明日と明後日は一年生の口語試験であるのだが、感染している学生も複数いるだろうし、体調の悪い学生は連絡をください、別の日程で試験を行いますからとグループチャットのほうで通知。すると、(…)さん(喉がかすれて声が出ない)、(…)さん(39度2分の高熱で点滴中)、(…)さん、(…)さん(39度3分の高熱)から連絡があった。ちなみに感染を報告する(…)さんのモーメンツに対して三年生の(…)さんがじぶんも感染したとコメントしていたのだが、彼女は熱が39度5分まで達したらしい。これやっぱりワクチンの差だろうか? 日本ではオミクロンで39度の高熱なんて話あまり聞いたおぼえがないのだが、こっちではけっこうみんなバンバン高熱を出しているという印象を受ける。職業柄、体の小さな女子の知り合いが多いというアレもあるんだろうが。ちなみに、こちらはもし感染して高熱を出すことがあれば、iPadスーファミ時代のドラクエかFFのアプリ版をダウンロードし、布団にくるまったまま延々とプレイする覚悟をすでに決めている。そうでもせなやっとれんしな! ロマサガでもええで!
 ふたたび街着に着替えておもてに出る。自転車にのって(…)楼の快递に向かうも扉は閉ざされている。10時半から15時半までしか営業していないという貼り紙あり。学生の数も少なくなったし、営業時間を短縮したということだろう。しゃあない。第四食堂に立ち寄ってどんぶりメシを打包。
 帰宅して食す。『私家版 聊齋志異』(森敦)をちょっと読んで寝る。仮眠のすんだところでコーヒーをいれ、きのうづけの記事にとりかかる。最後まで書き終えたところでウェアに着替えてストレッチ。ジョギングへ。前回同様、やや控えめのペースで地下道入り口まで走る。気温7度。タイムは12分29秒で、前回より30秒もはやい。これにはちょっとびっくりした。そんなに急いだつもりは全然なかったのだが。しかし走り終えてしばらく、ちょっとだけ吐き気をおぼえた。
 大学の図書館が閉まるのは22時。だから21時半をまわるころには図書館をあとにする学生らが各自寮に向けてぞろぞろと歩く姿を見かけるのがいつものアレなんだが、今日は全然見かけなかった。やっぱりみんな感染をおそれて図書館を避けているのだろう。院試は24日からの二日間だったか? このタイミングで感染なんてしたら最悪だもんな。
 帰宅。浴室でシャワーを浴びる。(…)とのやりとりを思い返す。自分自身が感染することよりも、自分がトリガーとなって彼女の娘が感染することのほうが心配だと伝えた話、それが掛け値なしの本心であることにちょっと驚く。まさか自分がそういう考えを有するようになるとはな、と。二十代のころであれば、絶対そんなふうに考えることはなかったと思うし、そういう考えを口にする人間のことをなんだったら軽蔑すらしていたと思うのだが。姪っ子の影響? まあ、それもあるかもしれんけど、それだけではないだろう。三十代も半ばを過ぎて、なんだかんだで系譜を意識するようになったということなのかもしれない(これは一種の保守化でもあるのだろう)。いつだったかも書いたと思うけれども、本を読めば読むほど、小説であっても哲学書であってもそうなのだが、作風の系譜、知の系譜の見取り図みたいなものがおのずとあたまのなかで作成されていき、かつ、じぶんもそのなかにマッピングされうる存在であるという意識が働くようになる。つまり、やっぱり系譜(歴史感覚)が強化されるというのはあると思う。
 ただ、「子ども」を特権化するというか、一種のマジックワードのように、あるいは言説における切り札みたいにして「子ども」を使う、それこそ俗情の極北ともいうべきアレとは、やっぱりちょっと距離を置きたいというのはある。タイトルも著者も完全に失念してしまったし、読んだわけではないのだが、なにかそういう子ども神話に対する批判的な著作の翻訳が、数年前にどこかで出ていた気がする。もしかしたら反出生主義の文脈につらなる本だったかもしれない。
 それでいえば、サッカー日本代表吉田麻也が、なんかのインタビューで、子どもたちに夢を与えることができてうんぬんかんぬんと語っていて、綿矢りさじゃないけれどもやっぱり「夢を与える」というフレーズにはひっかかりをおぼえるし、ここでもやっぱり「子ども」という言葉が、それさえ持ち出しておけばだれも反論することのできない無敵のワードみたいな使われ方をしているなと思ったのだったが、ただこれもフレーズそのもの陳腐さや紋切り型の言い回しに対する食傷というアレを差っ引いて受け止めれば、彼なりの系譜意識のあらわれとして解釈できないこともない。主体を一プレイヤーである自分自身にではなく、サッカー日本代表という一種の場(器)に託してみる、そういう観点。『百年の孤独』の主役がマコンドという土地そのものであるように、メンバーが年々入れ替わる場(器)としてのチームが主役であるという見方。もちろん、こうした見方には全体主義との危険な接近が認められるのだが、ただそういう危うさとうまく距離をとりながら場(器)をことほぐ、そういう隘路もどこかにあるんではないか。ちなみに、そういう場(器)を主役とした小説の一種として、『百年の孤独』を下敷きに(…)での経験を圧縮して書こうと思ったこともずっと以前あったわけだが(タイトルはサム・シェパードの「モーテル・クロニクルズ」を踏まえて「(ラブ)ホテル・クロニクルズ」にする予定だった)、(…)での経験はすでに部分的に——ほんの一部分だが——「実弾(仮)」にぶちこんでしまったので、もうそれはいいかなという感じにいまはなっている。
 ストレッチをする。ヨーグルトを食し、餃子を食し、ジャンプ+の更新をチェックする。それからきのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2021年12月19日づけの記事を読み返す。

(…)漢文脈(・欧文脈)は、近代の日本人を日用の言葉(パロール)ではなく他者たる言語それ自体に対峙させる、という去勢的な機能と、また同時に、その去勢の刻み(=違和感のある響き)の様々なるリズム-形態(リュトモス)の上で内容空疎な(日用的ではない、ファンタジックな)イマージュを、イマージュとしてのイマージュを増殖させるという去勢的否認=倒錯的な機能を、併せ持つと考えられる。
 言い換えれば、禁欲性の翳りが、逆説的にも、舞踏する言葉の「無償の愉悦」に染み渡っていなければならないのであり、あるいは、去勢の多様な切断線が舞踏している、のでなければならない。禁欲と淫奔の両立である。
(千葉雅也『意味がない無意味』より「言語、形骸、倒錯——松浦寿輝『明治の表象空間』」 p.200-201)

梶井基次郎の「海 断片」を読んだのだが、以下の風景描写を読んだだけで大満足してしまった。

海の静かさは山から来る。町の後ろの山へ廻った陽がその影を徐々に海へ拡げてゆく。町も磯も今は休息のなかにある。その色はだんだん遠く海を染め分けてゆく。沖へ出てゆく漁船がその影の領分のなかから、日向のなかへ出て行くのをじっと待っているのも楽しみなものだ。オレンジの湿った弱い日光がさっと船を漁師を染める。見ている自分もほーっと染まる。

『あいまいな日本の私』(大江健三郎)を読みはじめた。(…)先生の置き土産。おもしろい。やっぱりものが違う作家だなという印象。以下、「「家族のきずな」の両義性」より。

 それでは、どういうふうに上下関係を解消して、対等の関係にするかということが問題になります。私はこう考えるのです。家庭というひとつのモデルのなかで、上下関係があるということは、父親とか母親、まあ、父親をひとつの例としますと、父親が子供たちに向かって立っているわけですね。父親からの力のヴェクトルが子供たちに向かっているわけです。矢印が下に向いている。そして子供たちは親たちに向かって立っている。上に向かうヴェクトルを持っているわけです。それでカウンター・バランスを達成する。緊密な家庭というものは、親の圧力と子供のカウンター・バランスが均衡している状態です。それがしばしば愛によって緊密な家庭と見える場合があるのです。わが国には、とくにそういう家庭が多かった。日本の会社は大体そういう感じの家族イデオロギーで成立していると思います。
 しかし上からのヴェクトルと下からのヴェクトルが競い合っているのですから、下からのヴェクトルが強くなって、上からのヴェクトルを打ち倒せば、関係は逆転して、子供たちが上からの圧政者の矢印、年老いた親たちが下から上に向かう矢印となるわけです。
 それに対して、置き換えるべき新しいモデルは何かというと、私は父親と子供たちが同じ方向のヴェクトルを持てばいいだろうと思います。親が子供に向かうというのではなく、子供が親に向かうというのでもなくて、親と子供が同じ方向を見ればいいだろうと思う。それはどういう関係か、そんなことはありえないか。現実に、信仰を持っていられる方たちの家庭には、そういうヴェクトルがあるのじゃないですか? 超越したものに対して、自分たちの日常生活を超えたものに向かって、お父さんがまなざしを注いでいる、子供たちもそれと同じ方向にまなざしを注いでいるということがあるのじゃないでしょうか? 祈るということは、お父さんが子供に向かって祈るわけではないでしょう。あるいは子供もお父さんに向かって祈るわけではない。お父さんも子供も同じ方向に向かって祈っていられるのじゃないだろうか、と私は思うんです。
大江健三郎『あいまいな日本のわたし』より「「家族のきずな」の両義性」 p.89-90)

このくだり、ラカン的にいえば、想像的父の殺害から象徴的父による去勢への移行ということになると思うのだが、面白いのはここで同じ方向をながめるという比喩が登場すること。ここにサン=テグジュペリの「愛とは、お互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」というフレーズを接続すると、去勢と愛との関係を語る新たな論理の筋道を見出すことができる。

 あとは、2020年12月19日づけの記事からの孫引き。

数日前、朝方にいちど目が覚めたとき、夢の中で考えていたことを寝ぼけまなこのままスマホのメモ帳に記録していたのだが、それを当日の日記に書き忘れていたので、いまここに記録しておく。といってもたいしたことではない。ただ、西洋社会では自分の意見をしっかり主張することが良しとされているが、それのせいでかえって分断が深まったり、陰謀論が強い影響を持ったりするのではないかという思いつきを得たのだ。曖昧さに滞留することが許されず、常に白黒はっきりした意見を表明することが求められるので(英語圏では相手の質問には必ずYes or Noで答えなければならない)、表明したその意見が一種の呪いと化し(言霊の論理)、それに束縛されるかたちで翻意や撤回や転向の余地がせばめられてしまうのではないか。こういうと必ず西洋社会は日本とちがってじぶんに非があるとわかればそれをすぐに認める習慣があるし、翻意や撤回にたいして鬼の首をとったようにむらがるようなみっともない真似をする人間もいないと反論する人間が出てくるんだろうが、そんなものが一種の神話でしかないことは、インターネットを介して英語圏のやりとりにたやすくアクセスできる現在だれの目にもあきらかである(その神話をぶっ壊す象徴的な一撃が、トランプのアメリカ大統領就任だったといえる)。そこを踏まえれば、日本式のあいまいさ、どっちつかず、日和見主義、それからある種の無関心を、オルタナティヴな技法として洗練させていく道も(おそろしく困難だろうが)あるのではないか?

 そのまま今日づけの記事にも着手する。1時になったところで中断。モーメンツをのぞくと、卒業生の(…)さんが同僚もルームメイトも全滅したと嘆いている。また、同じく卒業生の(…)くんも感染して高熱が出たという。ふたりともたぶん(…)省在住だったはず。
 で、「コロナ有症状でも「通常勤務可能」 中国・重慶市、方針大転換」(https://www.afpbb.com/articles/-/3443978)という記事を読む。

【12月19日 AFP】中国南西部の直轄市重慶(Chongqing)当局は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の症状があっても「通常通り」出勤できるとする通達を出した。国営メディアの重慶日報(Chongqing Daily)が19日、報じた。
 中国ではこれまで、感染者が1人確認されただけで数千人がロックダウンの対象となってきただけに、劇的な方針転換となる。
 感染の徹底的な封じ込めを図る「ゼロコロナ」政策の突然の撤廃後、国内では感染が急拡大。当局も、感染状況の追跡はもはや「不可能」と認めた。
 こうした中、重慶日報によると、中国最大規模の人口約3200万人を抱える重慶市当局は18日、「軽度の症状のある」市、党、州の公務員は「体調や仕事の必要性に応じて、個人的な防護措置をとった上で通常通り勤務できる」と通達した。
 また、介護施設や学校、刑務所など特定の施設を除き、「不必要に」ウイルス検査を受けたり、陰性証明を求めたりしないよう市民に呼び掛けている。
 中国各地の地方政府では一般的に、新型コロナの症状がある間は自宅待機を奨励しており、重慶市の方針は大転換といえる。
 国内有数の経済拠点で6000万人以上が暮らす東部・浙江(Zhejiang)省の当局も18日、症状が軽い場合は「必要に応じて、個人的な防護策を講じることを前提に、勤務を続行できる」との方針を示した。
 中国では、複数の病院や火葬場で感染者数や死者数の急増が報告されている。また、新年や春節の休暇で、農村部での感染が拡大するとの懸念も指摘されている。

 なんでやることなすことここまで極端にふれるのかという感じ。ほんのちょっと前まで、検査の結果陽性となった母親を幼子ひとりうちに残した状態で隔離施設に強制連行しようとしたり、陽性者の出た家庭の犬猫を強制的に殺したりしていたのが、突然これだ。マジで「駆り立てるのは野心と欲望、横たわるのは犬と豚」(タクティクスオウガ)の世界やな。しんどい。
 歯磨きをすませてからベッドに移動。『私家版 聊齋志異』(森敦)の続きを読み進めて就寝。