20221226

わたしはときどき屋上にあがった。そこからだとフアレスと、エルパソダウンタウンがすべて見わたせた。人ごみの中から一人を選び、見えなくなるまで目であとを追う遊びをよくやった。
(ルシア・ベルリン/岸本佐知子・訳『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』より「ドクターH.A.モイニハン」)



 10時半起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。トースト三枚食し、コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きをカタカタやる。
 14時半になったところで期末試験延期組の試験。日語基礎写作(一)の(…)さん(壊滅)、日語会話(二)の(…)くん(やばい)、(…)くん(優秀)、(…)さん(ぼちぼち)、(…)さん(ちょっとやばい)、日語会話(一)の(…)さん(堂々とカンニングしてなおかつ壊滅)。
 試験のすんだところであらためてきのうづけの記事をカタカタやる。書き忘れていたが、きのうはじめてきいた『Rideau (2022 Remaster)』(Tape)があまりにすばらしく、おもわず(…)にLINEを送ったのだった。(…)からは最近これが好きだといって『Some More Smiles - EP』(No Rome)という音源を紹介してもらった。
 きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年12月26日づけの記事を読み返す。途中、(…)くんからめずらしくボイスメッセージが送られてくる。院試を終えた、思っていたよりもずっと簡単だった、良い点をとることができると思う、しかしホテルに戻ったあたりから喉の具合がおかしい、たぶんコロナに感染したのだと思う、でもじぶんはある意味ラッキーだろう、と、だいたいにしてそのような内容。試験当日に発熱せずにすんだのだからラッキーに違いないと受ける。二次試験では面接が必要になるわけだし、その場合はいくらでも練習に付き合うから、結果が出たらまた連絡をよこしなさいと続ける。(…)くんは(…)の(…)くんが会場にいたといった。じぶんの前の席だった、同じ(…)大学を受験するようすだったというので、(…)を受験するのは(…)くんで、(…)くんはたしか(…)大学ではなかったかと受けたところ、志望校の欄みたいなところにたしかに(…)大学と書いてあったという。ただじぶんが通訳専攻であるのに対して、彼は翻訳専攻であったというので、(…)くんの夢は日本でラノベの編集者になることであるし、だから通訳ではなく翻訳を専攻したんでしょうと受けた。
 (…)大学で思い出した、ほかでもないそこで院生をしている(…)さんと今日の昼前に連絡をとったのだった。以前スマホでなんとなくネットを見ていたところ、彼女そっくりの男性アイドルの写真が見つかり、たぶんジャニーズに所属している若手だと思うのだが、バラエティ番組に出演している一コマを切り取ったものらしいその画像が本当に! びっくりするくらい! 目! 髪型! 髪の色! 肌の色! なにからなにまで(…)さんにそっくりだったので思わずスクショを撮った、撮ったまま(…)さんに知らせるのを忘れていたその画像を今日思い出して送ったのだった。(…)さんはいま期末試験に備えて勉強しているところだといった。来年日本語の作文コンテストがある、それに応募するつもりだからまた指導教師になってくれませんかというので、これはもちろんオッケー。きみは感染したのとたずねると、以前37度7分の熱が出たけれども一晩で治ったというので、かなりラッキーな部類だなと応じた。(…)さん自身、そう思うとのこと。

 今日づけの記事もここまで書くと、時刻は17時過ぎだった。街着に着替え、マスクを二重に装着して、寮を出る。一階におりると、こちらの自転車の出口を塞ぐ位置に、普段見ない電動スクーターが停まっている。例のクソババアのものだなと思い、猛烈にいらつく。常識という常識がことごとく欠落したカスが! 五十六億七千万年後の弥勒菩薩ですらこいつを救うことはできん。
 自転車に乗って第四食堂へ。どんぶりメシを打包する。先客がふたりいたので、彼らの注文が終わるのを後ろにひかえて待っていたのだが、そんなこちらを追い越すように、あとからやってきた男子学生が先客の対応をしている厨房のおばちゃんに声をかけて注文したので(そしておばちゃんもそれを引き受ける)、は? となった。こういうことは時々ある、時々あるのだが、多くの場合はカウンター付近でちゃんとした列ができておらず学生らがだまになっている状況で起こる。つまり、あとからやってきた人間が、先客は全員オーダー済みであとはオーダーしたものが出てくるのを待っているだけだと、そういうふうに勘違いして悪意なく順番抜かしをしてしまう、そういう現場はこれまで何度となく目にしてきたのだが、今回はそれとは違う、あきらかにふたりの尻にひかえている格好でこちらが順番を待っているのがわかる、そんな状況でひょいっと割り込んできたものだから、なんだこいつ? サイコパスか? となったのだった。若者は国家の宝であるみたいなアレをよく聞くが、こいつのようなカスが宝として珍重される国なんて、正直終わっているとしかいいようがない。小学生の頃、兄が下校途中の工事現場で植物の化石を拾ったことがある。それを見てじぶんも化石が欲しくなったので、母に化石はどうやって作ることができるのかとたずねたところ、石と石のあいだにはさまったものが長いあいだ地面の中に眠り続けることでできるのだという返事があった。そこでこちらは化石をじぶんの手で作ろうと思いたち、当時ファイリングしていたカードダスのキラカードばかり集めたものの中から一枚だけ選び出し、そいつを石にはさんだ状態で庭に埋めることにしたのだが、腐ってもキラカード、たった一枚とはいえ地面に埋めるのは忍びない、しかしキラカードの化石はどうしたって欲しい、そういうぎりぎりの葛藤の果てに、ま、キラカードキラカードやけど、でもこいつやったら最悪失ってもさほど痛くないな! というアレから、『ストリートファイターZERO2』のナッシュのキラカードを選び出し、弟と一緒に庭の物干し台付近に埋めたのだった。つまり、キラカードであるという意味で、あれはいちおう宝と呼べるものだったのだが、その宝のなかではもっとも価値のないクソカードだった。食堂でこちらの順番を抜かした男子学生は、とどのつまり、あのナッシュのキラカードみたいなもんだと思う。若者は国家の宝であるという観点からすればキラカードかもしれんが、所詮はあたまの悪い小学生の手によって庭に埋められるほどの価値しかない。とんだC級品だ。化石になるまで土の中で詫びつづけろカス。
 帰宅。メシ食う。食後はベッドに移動し、『荘子の哲学』(中島隆博)の続きを少し読み、仮眠をとる。30分ほど眠ったのち、浴室でシャワーを浴びる。あがってストレッチ。期末試験や成績表のことでちょっと(…)先生に相談したいことがあったのだが、このあいだモーメンツで感染報告していたし、いまはまだしんどい時期かもしれないから、明日か明後日まで待とうと考える。のちほど、その(…)先生がモーメンツにあたらしく投稿しているのを見たが、咳は止まったのだが痰に血が混じっている、どうすればいいのだろうというもので、それに対して三年生の(…)さんが肺が炎症を起こしているのかもしれないとか毛細血管から出血しているのかもしれないとかアドバイスしている一方、卒業生の(…)さんが咳が出ないのであればどうして痰に血が混じっているのがわかるの? みたいなちょっと揶揄の調子すら感じられるコメントをしており、なんやこいつもサイコパスか? とぞっとした。連日selfieばかり投稿している人間は考え方までselfishになるらしい。くわばらくわばら霊剣!

 コーヒーを淹れて書見。『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』(赤坂和哉)の続き。

 ラカン前期では「大文字の他者大文字の他者は存在」するのであり、後者の大文字の他者は父の名(…)であることは先に述べた。ラカン中期においては、シニフィアンの集合を中心で支えていた、この後者の大文字の他者は存在しないのである。つまり、父の名が一般的に排除されているのである。そして、この排除された父の名の代わりにシニフィアンの集合[A]を支えるものは、「存在の見せかけ(semblant)」(…)としての対象aである。
(…)
「もし大文字の他者において真理と呼ばれるものの一貫性が、いかなる方法でも保証され得ずにどこにもないなら、それはどこにあるのでしょう。あるとすれば、真理延いては一貫性は、小文字の他者[対象a]のこの機能がそれを請け合うもののところにあるのです」(…)。
 この(…)引用をもう少し噛み砕いてみよう。シニフィアンではない「おそらく実質的なもの(substantiel)としての享楽の一要素である」(…)対象aが、シニフィアン連鎖としての大文字の他者[A]に組み込まれていることで、ラカン前期においては大文字の他者の中に見出されていた真理や意味は、保証されなくなる。しかしながら、対象aが存在の見せかけとして機能して、シニフィアン上で論理的一貫性を支えることによって、真理や意味はあたかも大文字の他者の中にしっかりと存在しているようなものとして見出される。また、対象aがこのように見せかけとして機能することで、無意識はあたかも一つの幻想のように提示されるのである。
(84-85)

 ここを読んだとき、父の名の役割を対象aが引き受けるというのはどういうことだろう、「大文字の他者大文字の他者は存在しない」なかで対象aがその「大文字の他者大文字の他者」である父の名の機能を引き受けるというのはどういうことなのだろうと思った。で、考えてみたのだが、対象aとはそもそも存在(享楽)ではなく意味を選択した瞬間に誕生した主体——そこではじめて主体化するにいたった主体——の残滓であり、失われた享楽の残滓でもある。主体は失われたその享楽を求めるが、それは原理上、決して手に入るものではない(欲望は満たされることがない)。結果、生じるのは、あれでもないこれでもないという欲望の終わりなき換喩的運動であり、永遠の満たされなさである。しかし、たとえそれが決して満たされないものであったとしても、いつか満たされるだろうという幻想(欲望の換喩的運動の動力)は保証される(対象aとはそもそも、欲望の対象であり原因であるものだ)。
 この構造が、「シニフィアンの集合[A]が無意識なのであり、それは父の名という特別なシニフィアン(…)に支えられて構造化されている」という、「大文字の他者大文字の他者」である父の名による体制についても当てはまる。父の名とは象徴的去勢であり、主体の十全たる享楽(すべてを思うがままにする原父の享楽)を禁ずるものであるのだが、神経症的主体はそれでもなおもしかしたらという一縷の望みにすがるようにその享楽の満足をもとめて欲望から欲望へと旅をする。だから、去勢を別の言葉に置き換えて別の角度からとらえたのが、主体と対象aの誕生ということなのだろう(=疎外と分離?)。
 と、このあともいろいろと書いていたのだが、途中でこんがらがってしまったので、そこはもうまとめて消してしまった。力不足。
 あと、前期ラカンは「同一化の臨床」、中期ラカンは「幻想の臨床」という区分けがされているのだが(元々はミレールによる区分けだったか?)、これはもうそのまんま文芸批評の理論の歩みだなという感じだった。「同一化の臨床」では、解釈が重視される。「分析主体は自らの歴史を語り、分析家とともにパロールを積み重ねていくことでシニフィアンを連鎖させ、その連鎖に句読点を入れて事後的に意味を産出させていく」(64)、「そうした作業によって自らの歴史が再構築され、抑圧されていた症状の意味が解放される。そして、そこで分析主体は「それが私の真理だ」と感じ、それまで自ら知らずにいた症状の意味を受け入れることができるだろう」(同)。それに対して「幻想の臨床」においては、「真理は確定されず、シニフィアン連鎖上には真理が複数存在することができるという意味で、嘘としていくつもの真理が存在することになる。それは、分析主体の側から述べれば、いくつものシニフィアンを数え上げるということに対応している。つまり「それが私の真理だ」は何度も繰り返されるのである。(…)要するに、前期のアプローチと同様に分析主体と分析家はシニフィアン連鎖を追っていくのであるが、中期ではそれを数え切れないほど繰り返すのである」(87)。そしてその結果、「大文字の他者(知を想定された主体)はフィクションに過ぎないことに気づ」(89)く。これはつまり、解釈=物語が失効するということだ。そして、「「私はこの幻想に捕われて人生を過ごしてきたのだ」と実感し、そうした幻想を失墜させるに至」(89-90)った主体は、大文字の他者(=物語)から離れていくと同時に、その欲望は「対象aに基づいた享楽的な色合いを帯びた欲望となっていく」(90)。すなわち、「テクストの快楽」(ロラン・バルト)の出現。『テクストの快楽』(沢崎浩平訳)の中でバルトはクリステヴァを踏まえていった。「意味形成性(シニフィアンス)とは何か。官能的に生み出されるという限りにおいての意味である」!
 書見を中断し、今日づけの記事を途中まで書く。23時半をいくらかまわったところでデスクを立つ。懸垂。左肩にまた痛みを覚える。なんか古傷みたいになりつつあるな。夜ベットで寝るときも、左肩を下にした状態で横向きになると、痛みを覚えることがときどきある。
 餃子を食す。ヨーグルトも食す。あいまにジャンプ+の更新をチェックする。餃子を茹でているあいだに思ったのだが、なろう界隈で一時期流行っていた(いまも流行っている?)「無双系」および「チート系」、あるいは最近だったら「追放系」というのもあるようだが、ああいうのはいまさらいうほどのことでもないのかもしれないが、フィクションの衰弱というほかないな。何年か前、こわいもの見たさで、『賢者の孫』というなろう系小説のコミカライズ版を読んでみたことがあるのだが、あのときは心底びっくりした。欲望がこれほどまであさましくダダ漏れになっているものがフィクションとして広く流通しているのか、と。
 たとえば、『エヴァンゲリオン』が社会現象として流行したとき、あるいはその後セカイ系とくくられた作品群が一定の支持を得たとき、ひとはそれらの作品そのものについて解釈することができたし、(それが妥当であるかどうかは別として)それらの作品を支持した社会の無意識を分析することもできた。少なくともそれらの作品には、そのような語り、解釈、分析を呼び込むだけの余地があり、無意識の闇にひとしいものがあった。しかし、「無双系」「チート系」「追放系」の作品群には——という言い方をしてしまうと、実際にその手の作品を読んだことがないので問題がある、だからここでは、そのようなジャンルないしはフォーマットには、という言い方をしたほうがいいだろうと思うのでそうするが、そのようなジャンルないしはフォーマットには、まったくもって解釈の余地がない。欲望がどこまでもあけすけであり、いかなる屈曲も経ておらず、ただただ露骨に露出している。無意識が干上がっているのだ。これもある意味『露出せよ、と現代文明は言う』(立木康介)なのかもしれない(未読なので推測になるのだが、もしかすると『動物化するポストモダン』はこうした現象まで見据えて書かれていたものだったのか?)。
 誤解をおそれずにいえば、日本の人口問題や経済問題うんぬんよりも、こうしたフィクションが相応の規模で流通し支持されている現状のほうに、こちらはより切迫した「まずしさ」を感じる。というより、ほとんど恐怖すらおぼえる。そして、一部のYouTuberがただただ金にものをいわせた企画でブイブイいわせていたり、いつからか芸能人がバラエティ番組で過去最高月収を語ったりするようになったのも、こうした「まずしさ」とまったく軌を一にしていると思うし、畜群らをオーディエンスとする「論破」がゴールのゲームをプレイヤーするだけの人間が(似非)知識人として台頭している現状のまずさにも遠く共鳴していると思う。
 歯磨きをすませたのち、ベッドに移動。中国入国後の隔離措置撤廃の報道を知る。これで夏休み中の一時帰国は決定した。寿司死ぬほど食ったる。『荘子の哲学』(中島隆博)の続きを読み進めて就寝。