20221227

記憶喪失は神様が酔っぱらいに与えた恵みね。自分のしたことを覚えてたら、恥で死んでしまうもの。
(ルシア・ベルリン/岸本佐知子・訳『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』より「ママ」)



 10時半起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。朝っぱらからババアの下品な笑い声が上の部屋から響いてくる。平日のはずなのに。やはり年末年始をまたいでしばらく居候するつもりなのかもしれない。勘弁してくれ。
 トースト二枚を食し、コーヒーを淹れ、きのうづけの記事にとりかかる。途中で追加してさらに一枚トーストを食し、コーヒーももう一杯淹れる。ここ一ヶ月ほど、コーヒーは一日の前半(夕飯前)に二杯、後半(夕飯後)に二杯というペース。むかしにくらべるとずいぶん減った。
 きのうづけの記事を投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年12月27日づけの記事を読み返す。まずはジョン・ケージ『サイレンス』からの抜き書き。

 テープを使おうと、あるいは伝統的な楽器のために作曲しようと、現在の音楽の状況は、テープが出現する以前とはだいぶ変わってきている。これについても警戒するには及ばない。というのは、新しきものの到来がそのこと自体によって、古いものから本来の場を奪うことはないからである。ものごとはそれぞれ独自の場を持っており、他の何かにとって代わることはない。また、ものごとは多ければ多いほど、いってみればそれだけ楽しいのである。
ジョン・ケージ柿沼敏江・訳『サイレンス』より「実験音楽」 p.29-30)

 この日は(…)で口語テストを行っていたようなのだが、試験の途中、便意を催して便所に駆け込んでいる。そのときの様子として「下痢ではないが、大量にうんこが出たし、そのうんこから湯気がたちのぼった。なんてこった。漫画の記号的表現としてまきまきうんこから湯気がたちのぼっているやつがあるが、あれはリアリズムなのだ!」とあり、あったあった! そんなことあったな! と感動した。
 ところで、こうして毎日一年前の日記を読み返していて思うのだが、じぶんの日記に最頻出するワードはもしかしたら「うんこ」なのではないか? 少なくともそうした印象を抱いてしまう程度には、本当にしょっちゅううんこの話が出てくる。まあ実際うんこの話をするのは嫌いじゃない。それでいえば思い出すのだが、(…)病院の便所でかつてとんでもなく巨大なまきまきうんこが残されていたのを発見したことがあった。コロナ以前の話、いまから四年ほど前になるだろうか、それこそマジで「漫画の記号的表現」を地でいく立派なうんこだったものだから、とりあえずスマホで撮影したのち、病院の一階で待っている(…)さんに教えてあげようと興奮したのだったが、ただうんこの写真を直接見せるのはやはりちょっとアレかなと思い、結局、口頭で、(…)さん! やべえ! めっちゃ大きいうんこ見つけた! と意気揚々と報告するにとどめたのだったが、それに対して彼女は、ああ、そうですか、みたいなものすごく冷たい返事を寄越したのだった。こちらはいまでも(…)さんのことをもっとも思い入れのある学生として記憶しているし、当時のわれわれは本当に距離が近く、彼女の言葉を借りれば「親友」のような間柄であったといえるかもしれないし、というか転移および逆転移によりそれ以上のところまで半歩踏みこんでいたわけだが、ただあのとき彼女がこちらに対してものすごくそっけない態度をとったこと、こちらの興奮に冷や水をぶっかけてみせたこと、そのことについてはいまでもすごく根にもっている。うんこの写真も恥ずかしくなって削除してしまったし。あれが地元のツレだったら——つまり、(…)や(…)や(…)だったら——きっとあんなふうな態度はとらなかったと思う、それどころかこちら以上に興奮し、とんでもないおまつり騒ぎになっていたと思う。ま、文化の差だ。国際交流は容易ではない。

 今日づけの記事をここまで書くと時刻は15時半だった。日語閲読(三)の採点作業に着手。まずは学生から送られてきた回答用紙の写真をまとめてPDFに変換。iCloudにデータをアップロードしたのち、iPadのほうでペンを駆使して採点。問2(短歌)と問3(オノマトペ)だけ、あらかじめ設けておいた基準点に即して厳密かつ慎重に採点。
 17時半前になったところで作業を中断。街着に着替えて部屋を出る。棟の階段をおりている最中、両手に巨大なビニールの買い物袋を提げた爆弾魔とエンカウント。N95を装着し、黒のロングダウンコートのフードをかぶっている。厳重装備だ。たぶん買い出しに出かけていたのだろう。あの分だと一週間分ほどの食料をまとめて買ってきたのではないだろうか? おたがいにあいさつしないまま、すれちがう。
 外は小雨。自転車に乗って第四食堂に向かう。食堂内はガラガラ。店は二つ三つしか開いておらず、そのせいで全体的に薄暗い。客の数と厨房のスタッフの数はほとんど変わらない。あわせて10人もいなかったんではないか? がらんとして静まり返っている薄暗いその広間に、N95マスクをつけた厚着の男たち(例外なくソロプレイヤー!)がぽつりぽつりと点在している。殺伐感がすさまじい。この期に及んで感染していない選ばれし上級者らがただならぬオーラを醸し出しつつ配給に並んでいるとでもいうような。スーファミ時代に量産されたRPGあるあるだが、ラストダンジョンのラスボスのいるフロアの手前にはたいていセーブポイントと回復の泉が用意されているご都合主義的なフロアがある。で、そういうフロアというのは得てして飾り気がなく殺風景で、BGMも無音になっていたりするわけだが、まさにそうしたフロアに足を踏み入れてしまった感じだ。なんやこの比喩! 殺すぞ!
 どんぶりメシを打包して帰宅。上の部屋からババアの怪鳥じみた笑い声が聞こえてくる。春節までこのまま居座り続けるつもりなのかもしれない。マジで困る。なんとか追い出す方法はないだろうか? 爆弾魔はあの様子だとコロナに対する警戒心が相当強いほうであると思う。だったら、こちらが毎日咳をしまくればいいのでは? おいおい下の鬼子コロナやんけ! ずらかるぞ! みたいなあたまになってくれるのでは? 然り。それでちょっと思ったのだが、紙コップとタコ糸で長めの糸電話をこしらえて、いっぽうの紙コップを天井に固定、もういっぽうの紙コップがベッドに寝転がったこちらのちょうど枕元にあたる位置か、あるいはデスクに向かうこちらの手元に当たる位置にまっすぐ下りるようにセットすればどうだろう? で、上で物音がたつたびに酸素吸入器みたいにその紙コップで口元をしっかり覆ったうえで、ごほごほやりまくればいいのでは?
 メシ食う。(…)くんから微信。先生の人生にタイトルをつけるならなに? という質問。なにに影響を受けてこんな質問を突然寄越したのかわからん。タイトルをつけるということは要約・圧縮するということであるが、こちらはじぶんの人生を要約・圧縮したくはないのでタイトルをつけることはできないと紋切り型の答えをひとまず送る。もちろん、要約とも圧縮とも異なる、それ自体がセリーの一部をなし、数ある隠喩の結節点のひとつとして権利上ほかの結節点とひとしく作用する、そういうタイトルもありうるのだろうが、そんな細かい話をする相手ではない。そもそも先の紋切り型ですら彼に通じるかどうかけっこうあやしい。(…)くんはその後、なんの脈絡もなく、中国人美女が日本語のあいさつの言葉かなにかを口にしている抖音の動画をハートの絵文字付きで寄越した。おれをなんやと思うとんねん。
 四年生の(…)くんからも微信。『タクティクスオウガ リボーン』のキャプチャ。先生が前言ってたゲームはこれ? と確認するボイスメールが届いたので、そうそうそれそれ! めちゃくちゃすばらしいストーリーだよ! とおすすめしておく。
 食後、ベッドに移動。30分ほど寝る。起きる。上の部屋から今度はババアの泣き声が聞こえてくる。おーいおいおい! みたいな、え? 泣き女なの? みたいな、おおげさに芝居がかった抑揚たっぷりの泣き声。爆弾魔のほうもなにやらキレているらしく、ババアに向けて強い口調でまくしたてている。マジで勘弁してくれ。
 浴室でシャワーを浴びる。ストレッチをする。「中国コロナ急拡大、岸田首相「詳細な状況の把握が困難」…中国からの入国に限り水際対策強化へ」(https://www.yomiuri.co.jp/politics/20221227-OYT1T50214/)という記事を読む。

 岸田首相は27日、中国での新型コロナウイルスの感染急拡大を受け、中国本土からの全ての入国者を対象に入国時のウイルス検査を実施すると発表した。政府は10月に全世界を対象に入国時検査を原則撤廃し、水際対策を緩和していたが、中国からの入国者に限って再び強化する。30日午前0時から適用する。
 首相は、中国国内の感染状況について「詳細な状況の把握が困難で、日本国内でも不安が高まっている」と述べ、対策強化の必要性を強調した。首相官邸で記者団に語った。
 現在、全ての国・地域からの入国者にワクチン接種証明か、出国前72時間以内の陰性証明の提示を求めている。30日以降は中国本土からの入国者と、第三国経由でも過去7日以内に中国本土に滞在歴のある入国者は、接種証明か陰性証明の提示に加え、入国時検査の対象となる。国籍は問わない。香港、マカオからの入国者は検査対象外だ。
 検査で陽性となった人は、待機施設として指定されたホテルで隔離される。待機期間は症状がある人は7日間、無症状なら5日間となる。すべての陽性者を対象にウイルスのゲノム解析を行う。
 検疫業務の効率化のため、中国本土と香港、マカオからの航空便の到着は、成田、羽田、関西、中部の4空港に限定し、今後の増便は認めない方針だ。国土交通省によると現在、中国本土からの直行便は週60便だという。
 出入国在留管理庁によると、11月に日本に入国した中国人(香港などを除く)は2万6478人(速報値)だった。コロナ禍前の2019年11月の64万8590人に比べて4%にとどまる。厚生労働省によると、ここ数日、中国からの入国者が発熱などの症状で検査を受け、陽性となるケースが出ている。中国政府が海外旅行を解禁することで、入国者の増加も予想されていた。

 これ、好意的に解釈するのであれば、中国政府が国内民間会社にゲノム解析を禁止して変異株の調査を行わないようにと通達した一件を受けて独自に動いたということなのかもしれないが(それにしたところでどこまで効果があるのか不明だが)、政府のこれまでのぐだぐだっぷりを見るに、実際のところは、政権をコアに支持する層に対する人気取り的なアレでしかないんじゃないか。中韓に対して強く出れば出るほどコアなバカが熱狂的に支持するという仕組みの開発ないしは発見、安倍晋三の遺したレガシーといえばそれに尽きる。
 コーヒーを二杯たてつづけに飲みながら採点作業の続き。問1(キャッチコピー)と問4(作文問題)をチェック。ルール上、テスト(7割)+平常点(3割)の合計が60点以上あれば合格。テストの点数だけであれば、60点未満は6人もいる。しかしこちらは基本的に、授業に出席さえしていれば平常点はほぼ満点をつけるようにしているので(救済措置)、最終的に不合格となったのは(…)さんのみ。下駄を何足履かせたかわからんくらいアレしたが、それでも52点止まりだったのだ。最高点は(…)さんの100点。まさか出るとは思わんかった。ほか90点以上は、(…)くん(91点)、(…)さん(96点)、(…)くん(92点)、(…)くん(94点)、(…)さん(96点)。
 作業を終えたところで腹筋を酷使する。冷食の餃子とヨーグルトを食し、ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませる。その後ベッドに移動して書見。『荘子の哲学』(中島隆博)を最後まで読み進める。以下、「魚の楽しみ」の解釈。面白い。

 「泳ぐことの快さ」は、「身体配置をもった体験」において生起するものであって、孤立した心的現象ではない。また、ネーゲルのように、「魚の楽しみ」を、人間もしくは自己の「主観的な」楽しみを想像的に変容したものとしての理解に留めてはならない。桑子は、「魚の楽しみ」を「荘周の身体配置のうちで、他者の身体と環境と身体のうちで生じる心的状態の全体性として」捉えようとする。それは、荘子の「身体配置をもった体験」を通じて捉えられる「他者の楽しみ」に他ならない。
 そうであれば、この「魚の楽しみ」が告げていることが、知覚の明証性とは別の事柄であることがわかるだろう。知覚の明証性は、「主観的な」明証性にすぎず、荘子が「魚の楽しみ」を特定の時空の中で生き生きと知覚したことによって、その経験の切実さを証明するものである。ところが、ここで問われているのは、荘子という「主観」もしくは「自己」が前提される以前の事態である。「自己」があらかじめ存在し、それが魚との間に特定の身体配置を構成し、その上で「魚の楽しみ」を明証的に知ったということではない。そうではなく、「魚の楽しみ」というまったく特異な経験が、「わたし」が魚と濠水において出会う状況で成立したのである。この経験は、「わたし」の経験(しかも身体に深く根差した経験)でありながら、同時に「わたし」をはみ出す経験である(なぜなら「わたし」にとってはまったく受動的な経験であるからである)。
 こうした経験が「わたし」に生じるか生じないかは、誰にもわからない。(…)
(…)
濠水で魚を目にしたとしても、それにまったく触発されずに通り過ぎることはよくあることだし、あるいは魚を、釣ってみたい客体だと思うだけで、「魚の楽しみ」に思いを馳せることなどないかもしれない。したがって、「魚の楽しみ」を経験するというのはまったく特異な事態なのだ。それは「自己」の経験の固有性を確認するのではなく、ある特定の状況において、「他者の楽しみ」としての「魚の楽しみ」に出会ってしまい、出会うことで「わたし」が特異な「わたし」として成立したということである。ここにあるのは根源的な受動性の経験である。「わたし」自体が、「他者の楽しみ」に受動的に触発されて成立したのである。
 別の言い方をすれば、「魚の楽しみ」の経験が示しているのは、「わたし」と魚が濠水において、ある近さ(近傍)の関係に入ったということである。それは、〈今・ここ〉で現前する知覚の能動的な明証性ではなく、その手前で生じる一種の「秘密」である。それは、「わたし」が、泳ぐ魚とともに、「魚の楽しみ」を感じてしまう一つのこの世界に属してしまったという「秘密」である。知覚の明証性は、受動性が垣間見せるこの世界が成立した後にのみ可能となる。

 ここを読んでいる間、あたまをよぎったのはやはり、できごとが先行し、その後に個体(わたし)が生まれるという、ベルグソンを踏まえたドゥルーズの議論だった。実際、『荘子の哲学』でもこの後、ドゥルーズの生成変化に対する言及がある(毎度思うのだが、哲学の世界におけるドゥルーズのラスボス感は比類ないな!)。
 これはちょっと議論の水準が変わってくる話だが、精神分析の主体(無意識の主体)も、常に行為・発語の事後に否定性というかたちで一瞬姿を見せるものとしてあるわけで、つまり、最初からそこにそれとしてあるものではない。
 わたしが最初からあるのではなく、わたしとはあるできごとのあとに生じる事後的な産物であるというこの考え方は、当然、小説の語り(手)に関する議論ともいちじるしく共鳴する。特定の人称を有する一個の人格であれば到底なしえることのできないスケールの「語り」を、小説という形式にデフォルトとして備わっている単なる機能として括弧に入れてしまうのではなく、あえて「語り手」というひとつの人格として見なす。そこでたちあがる人格とは、当然、通常の意味における人間の範疇を越境した異形のもの、百面相あるいはのっぺらぼうの怪物となる。そのような異形の怪物の出現を、それが「人間」に対していかなる影響をおよぼしうるかという点にこだわらず、純粋な可能性としてひとまずことほぐということ。