20221228

大江 せんだって上智大学で門脇佳吉という学者の神父様に招んでいただいて討論したときに、先生は聖書の同じところに即して語られました。例えば「娼婦と結婚する」という言葉がありますでしょう。僕たちキリスト教の外側の人間は、「娼婦と結婚する」という言葉を見ると、まあ比喩として考えます。ところが、門脇神父のようなキリスト教の専門家は、それをそのとおりに読み取られるんですね。
 本当に娼婦をやっていた人物がいて、その人と結婚するというのはどのようなものであるか、具体的にどのような不都合が生じ、どのような恐怖があり、どのような喜び、魅惑があるか。しかも砂漠の中で。すべて具体的にとらえられているわけですね。
古井 信仰がある人は当然そう読むでしょうね。最初から比喩としてつかまえると、それなりの意味の深さへしかいかないんですよ。自分の常識にさからっても、神殿にいる娼婦をめとって、子供をなす、そういう現実の方へ想像を持っていかないと、読んでいて追い詰められない。比喩としてとってしまうと、エホバの弾劾がいかに激しくても、こたえない。しかし、仮にしても、娼婦をめとった立場で読むと、いっていることが一々こたえてくるんです。
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る』)



 10時半にアラームで起床。モーメンツをのぞくと、学生らが雪が降った雪が降ったと騒いでいる。マジで? とおもって窓辺に近づいてみるが、こっちは全然降っとらん。騒いでいるのは(…)省在住の学生ばかりだったのだが、(…)以外の土地の話らしい。
 歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。身支度を整えて寮を出る。寮の門前に中身のまんたんになったゴミ箱が三つか四つ並べて置かれている。寮の敷地内に置いてあるやつとまったく同じプラスチック製のもの。あふれたゴミを野良猫があさっている。昨日まではこんなところにゴミ箱などなかったはずなのだが、なぜ突然、それも中身がまんたんになった状態でここに放置されているのか?
 13舎近くの快递に向かう。ずいぶん以前に注文した出前一丁が届いたとの通知が昨日ようやく届いたのだ。まだフルオープンする以前、この先いまより激しいロックダウンが実施されるかもしれないからというアレから、袋麺だけでも備蓄しておこうと思って淘宝でいろいろ探してみたところ、日本のものは当然どれもこれも輸入費込みで割高になる中、出前一丁だけがなぜか普通の価格で売られているのを見つけたのだった。なんでだろと思って詳しく見てみたところ、香港でローカライズされて販売されているものらしく、これだったら安いし良いなと思ってポチったのだったが、当時はガチガチのゼロコロナ政策真っ只中だったからそもそも商品が発送されることすらない、その状態のままずいぶん時間が経ってこちらもほぼ気にしていなかった、そのブツが昨日ようやくここ(…)にまで届いたのだ。快递にはおばちゃんがひとりいた。棚に貼ってあるステッカーの番号とこちらの荷物の番号がここでもまったく一致していなかったので、おかしいなと思っておばちゃんにスマホを見せたところ、棚にではなくフロアに直置きされている段ボールがいくつかあり、そのうちのひとつがこちらの荷物なのだった。回収。
 そのまま第四食堂へ。ところどころ道が赤いコーンで封鎖されている。教師の資格試験のためかもしれない。あるいはこれはのちほど思ったのだが、一年前の日記に、政府の視察団みたいなのがくるのでキャンパス内を清潔にするようにという通知が(…)から届いたというアレが記録されていたのだが、仮にそれが年に一度の恒例イベントだったとしたら、なるほど、道路の封鎖も、それからゴミ箱の不自然な出現も、すべてそれ対策で行われたということになりそう。第四食堂ではどんぶりメシを打包。今日は学生の姿が昨日よりも多かった。
 帰宅。メシ食う。(…)先生に成績表について問い合わせの微信を送る。体調を崩してらっしゃるところ申し訳ないですがの断り付きで。感染してもう五日か六日になるはずなので、おそらく大丈夫だとは思うが。食後のコーヒーを二杯たてつづけに飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿する。そのままウェブ各所を巡回し、2022年12月28日づけの記事の読み返し。

 リハーサルをしてみると、この新しい音楽では、テープのためのものであれ楽器のためのものであれ、数台のスピーカーや数人の演奏家が、近くにまとまっているよりも、空間内で引き離されていた方がはっきり聞こえるということが分る。というのはこの音楽は、いくつかの要素の融合によって和声的な性質が生まれる場合のように、一般に理解されている調和性にかかわるものではないからである。この音楽で問題となるのは、異なるものの共存である。融合の起こる中心点は数多く、聞き手がどこにいようと、その耳の数だけ中心点がある。無秩序についてのベルグソンの言葉を言いかえるなら、この不調和はたんに、多くの人々がまだ慣れていない調和であるにすぎない。
ジョン・ケージ柿沼敏江・訳『サイレンス』より「実験音楽」 p.31)

 16時になったところでふたたび寮を出る。后街の快递へ。南門が封鎖されていたので、なんでや! となったが、近くにひかえている守衛に声をかけたら、無事開けてもらえた。后街は前回おとずれたときよりも活気があった。ぼちぼちの人出。快递ではセーターを回収。N95を装着したおばちゃんが対応してくれたが(前回は見かけなかった顔だ)、目元がちょっと西洋人風だったので、もしかしたら新疆人なのかもしれない。
 (…)にも立ち寄る。やっぱり例の食パンがない。どういうこっちゃ。製造中止になったのだろうか? 代わりの食パンやメロンパンを買う。今年も故郷に帰らないのかとおばちゃんがいうので、帰らないと応じる。
 南門からキャンパスに戻る。銀色の鉄柵に覆われている芝生の空間に白い野良犬が一匹いる。どこから入りこんだんだろうと思って近づいてみたところ、あれ? 犬ではなく子ヤギじゃない? となる。なんかそういう学部が管理して飼育しているやつなのかもしれないが、それにしては周囲に小屋も寝床も見当たらない。やっぱり野良犬? マスクを二枚重ねているためにめがねがアホみたいにたやすく曇り、視界が常に悪い状態だったので、ちょっとよくわかんなかった。寮の門前では(…)らしき姿を見かける。(…)一家、寮にいるのだろうか? 外にも家を持っているはずであるし、長期休暇はそちらで過ごすものと思っていたのだが、もしかしたら感染をおそれて人口密度の低いキャンパスに避難してきているということなのかもしれない。そういえば以前、たしか夏休みごろだったと思うが、(…)の散歩をするのにも寮暮らしのほうが都合がよいみたいなことを言っていたな。
 帰宅。セーターを試着。悪くない。悪くないのだが、もうワンサイズ上でもよかったかもしれない。イージーパンツとあわせるオーバーサイズ気味のものをもとめて今回Lサイズを買ったのだったが、おもいのほかぴったりしている。XLのものに交換してもらおうかとも思ったが、手続きだのなんだのがめんどくさいし頼れる通訳(学生)もいまはいないし、もういっか、しょせんは150元であるし使えないことはないのだから。しかしLサイズでまさかぴったりするとは、知らないあいだにこちらの身体もごつくなっているということだろうか?
 家を出る前から二年生の(…)さんと(…)先生とやりとりしていたのだった。(…)さんからは「私はドラマ仮面ライダーを見て日本語を勉強しています」というなんでもない報告。彼女、仮面ライダーなんとかに主演しているイケメン若手俳優が好きだみたいなことを以前言っていたので、たぶんそのシリーズを見返しているのだろう。コロナはもう治ったのかとたずねると、「私はもう熱はありませんが、咳がひどいです」「病気でとても苦しくて、咳で出血して、肺が壊れそうな気がします」との返事。(…)先生からは問い合わせについての返信。教務室の先生らに確認してみたところ、今回は事情が事情であるので、教務室に提出する書類は教学手冊のみでオッケーであるとのこと。つまり、学生らの成績だけバババッと用紙に記入して教務室に持っていくだけでミッションコンプリートということになるらしくて、これはありがたい! めんどくさいペーパーワークに時間を奪われることがないのだ! コロナのほうはどうですかとたずねると、「おかげさまで今日は少し良くなった気がします」とのこと。(…)先生は? というので、ハゲはコロナに感染しないようですよと受ける。息子の(…)も感染したようだが、いちはやく回復したとのこと。体感的には周囲の六割か七割は感染しているんじゃないかという気がしますというと、「わたしの周りだとこれを超えているかもしれません」という返事。以前、年末までに中国人全員感染するんじゃないかと書きつけたのだったか、学生相手に言ったのだったか、とにかくそういう予想を冗談半分でアレしたわけだったが、マジでそう遠くないレベルにすでに達している。
 メシ作る。前回よりも小さくカットした鶏肉、トマト、ブロッコリー、みじんぎりにしたにんにくをタジン鍋にぶちこむ。料理酒、塩、鸡精で適当に味付けしてレンジで7分30秒。今回はまずまずちゃんとできた。食しながら最近放送されたばかりらしい2022年版のご長寿早押しクイズをみる。死ぬほど笑う。(…)なしでもこれだけ笑えるのだからすごい。
 二年生の(…)さんに連絡をとる。コロナはだいじょうか、明日テストを受けることはできるか、と。できるとの返事。14時半に約束する。
 ベッドに移動して仮眠をとる。20分ほど。起きて耳栓を外すと、また上の部屋がドシンドシン! と床を踏み鳴らしたり、ギィィィィィギィィィィィ! と机や椅子をひきずったり、とにかくクソうるさい。子どもがいるのであればまだわかるが、なぜ大のおとながそこまで生活音に無頓着なのか? 椅子をもちあげてベッドの上に立ち、天井をガンガンガンガンやりまくる。すると静かになる。静かになったところに向けて、うるせえ! と思い切り巻き舌で怒鳴りつける。騒音の主が爆弾魔であるのかババアであるのかはわからない。
 コーヒーを淹れる。今日づけの記事を少しだけ書いたのち、『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』(赤坂和哉)の続きを読みはじめる。第五章に記録されている症例、おもしろい。なるほど、ラカン派の分析はこうやって進んでいくわけか、と。かなり具体的にイメージできる。
 22時前に書見を中断。ストレッチをしたのち、今日もパジャマのままジョギングへ。上下灰色のスウェットに黒のニット帽といういでたちなので、なんか減量中のボクサーみたい。キャンパス内の道路、やはり一部が封鎖されている。どうでもええわと無視して入り込み、いつものコースを走ったわけだが、北門付近には赤地に金抜きでなにやら記されているのぼりがたくさんあり(裸眼だったので文字を読むことはできなかった)、あ、これやっぱり偉いさんがちかぢかやってくるんだな、たぶん共産党系の会議があるんだなと察した。今日は前回に増してひと気がない。すれちがったのは男子学生ふたりと清掃人ひとりのみ。上下迷彩服を着た清掃人、なんでこんな時間に竹箒で落ち葉を掃いているのだろうと思ったのだが、これもやっぱりお偉いさんたちがやってくるのに備えてということなのかもしれない。
 帰宅。シャワーを浴びる。ストレッチをする。届いたばかりの出前一丁をさっそく一食分こしらえて食す。今回買ったのは二袋で、ひとつは日本で売っているふつうの出前一丁であるのだが、もうひとつは黒いパッケージのもの。「黒蒜油 豬骨湯味」と書いてある。これ、日本で見かけたおぼえがないので、たぶんローカライズされた海外専用の商品だと思う。今日食ったのはこっち。ひさしぶりにラーメンを食ったからというのもあるんだろうが、マジでクソ美味くて、汁まで全部飲んでもうた。最高や。
 満足したところで書見の続き。以下、愛という転移について。

 まずは凶の方である愛という転移を分析家の欲望との関係で検討していこう。愛という転移についてラカンは次のように述べている。
 「転移が私たちにはっきりと見せてくれるのは、愛の次元の基礎的構造ではないでしょうか。私たちを補完することができるものをあなたは持っているのです、と他者を説得する際に、私たちはまさに自分たちに欠けているものを無視しつづけることができると確信するのです」(…)。
 これを理論的な形のまま分析状況の会話にすると、分析家が「あなたは私を補完することのできるものを持っているのです」と患者を説得して、患者が「わかりました。私はあなたを補完します。だから愛して下さい」と分析家に返答する、という場面を想定することができるだろう。分析家は患者の愛によって欠如を埋めることになり、患者も同様に分析家の愛によって欠如を埋めることになる。それがここで問題になっている転移である。
(135-136)

 この愛という転移においては分析家の欲望と患者の欲望は結びついている。それは第三章の「愛と分析家の欲望」で示したラカン第一臨床(同一化の臨床)の問題の構造である。同一化の臨床においては、分析家の欲望、卑近な言い方をすれば分析家の意図や意志が分析主体にそれとはっきりわかる場合、換言すれば、分析家側の解釈が一つのシニフィアンとなり、意味を産出させた場合、欲望を欲望する分析主体は、明示的な形で表現されたその意味を分析家の欲望と捉えて、愛のためにそれに想像的に同一化する傾向がある。この構造の観点のみから言えば、分析家の欲望が陽画化されているかぎり、その内容にかかわらず、分析家の欲望を欲望する分析主体がそれに同一化していくことは避けられない。そして、無意識は閉鎖してしまうのである。
(136-137)

 以上より、愛という転移と分析家の欲望の関係をまとめると、対象aが愛という転移として機能するのは、シニフィアン解釈などの「内容のある解釈」によって分析家の欲望が陽画化され明示された場合である。それによって、対象a[a]と自我理想[I]とが重なり、同一化によって欲動的無意識は閉じてしまうのである。
(137-139)

 これってまんま占い師とその常連客にもあてあまるパターンだよなと思った。いや、占い師なんてまさに、それにすがろうとする人間にとっては知を想定された主体であるわけだから、あてはまって当然であるわけだけど。占い師は当然ただ黙っているわけではない、占いの結果(託宣)を口にしなければならない、それは「内容のある解釈」なので、ものすごく卑近な言い方をすれば、客はいわば(無意識的に)空気を読んで、その解釈の通りに自己の来歴や来し方を改竄してしまう。
 以下は、フロイトの区分する「意識的な陽性転移」と「無意識的な陽性転移」、それから「陰性転移」を、ラカン的に整理しなおした箇所。ここはすごくわかりやすい。

 フロイトは転移を「治療に対する最も強力な抵抗としてあらわれる」と述べると同時に、転移は「治療を成功させる最も強力な要因」であると考えている(…)。このパラドックスフロイトは、無意識的な陽性転移と陰性転移が抵抗的な転移となり、意識的な陽性転移は治療効果的な転移となると論じることで解決した。
(142)

 まず、無意識的な陽性転移と陰性転移について。

 無意識的な陽性転移は、ラカンでは愛という転移に対応する。というのも、これまでに見てきたように、愛は分析を停滞に導くものであるからである。そして、陰性転移とは、愛が逆方向に転換した攻撃性に特徴づけられていることから、それも愛という転移の一側面であると考えられる。これらの抵抗的な転移は、ともに解釈を通して愛を要求していると言えよう。無意識的な陽性転移は「いつでも全面的に解釈を受け入れます。早く解釈して下さい」といういわば誘惑のかたちをとった解釈の要求であり、陰性転移は「この状態を解釈しないと分析は終わることになりますよ」という脅しの形をとった解釈の要求と考えられる。
(142)

 ついで、意識的な陽性転移について。

 ここで、ラカンにおいては効果的な転移とは幻想であることを思い出してもらいたい。それが効果的と言いうるのは、この幻想という転移が欲動との出会いを可能にして分析の出口を提供する転移であるからである。フロイトは意識的な陽性転移に関して、感情に力点をおき、いわば「分析家に対する感情的な信頼」が重要であると言っている感もあるが、おそらくこの陽性転移で大切なのは「分析家の知への信仰(croyance au savoir de l’analyste)」と呼びうるものである。ラカンを引こう。
 「陽性転移、それは私が知を想定された主体(sujet supposé savoir)の名のもとに定義を試みたものです。誰が知を想定されているのでしょうか。それは分析家です。それは一つの割当て、想定されたという語がすでに示しているように一つの割当てなのです」(…)
 ここで「割当て」という言葉に十分注意を払うなら、「分析家の知への信仰」とは厳密には分析家に割り当てられた知の位置への信仰であることがわかる。
 「想定されているのが知であるということは明らかです。それを間違えた人は今まで誰もいません。誰に対して想定されているのでしょうか。もちろん分析家に対してではなく、分析家の位置に対してです」(…)
 以上の議論から、意識的な陽性転移はラカンにおいては「分析家の位置における知への信仰」に基づく幻想、簡略化して言えば「分析家の知への信仰」に基づく幻想であることがわかるだろう。
(143-144)

 で、まとめ。ここは実にわかりやすい。

 そして、この幻想という観点から、ラカン派の臨床を、とりわけ幻想の臨床を考えてみると、それは、意識的な陽性転移を基礎として、沈黙とスカンシオンという「空白をもつ解釈」で具現される「私は知らない」という知の拒絶の態度を維持しつつ、分析家が無意識的な陽性転移と陰性転移という二つの抵抗的な転移(享楽的残余への固着の反復)を分析主体に展開させることである。もう少し言葉を足そう。まず分析家は知を想定された主体というその位置のために、〝あなたの問題の解答を知っている〟や〝あなたの本当のことを知っている〟というような「私は知っている」存在として分析主体に見なされる。そして、そのために分析主体は愛や攻撃性を使って分析状況を揺さぶることによって分析家に解釈を求める。こうした状況に対して分析家が通常の解釈で応えてしまうと、解釈への同一化によって、分析主体が自らが好む人物や嫌いな人物に分析家をより重ねることで、愛や攻撃性が強まったり、逆に解釈への反発によって、愛と攻撃性が互いに転化したりして、抵抗が強まる状況に陥る可能性がある。そこで分析家は「私は知っている」と見なされつつも、意味内容を持たない解釈で応えることによって、「私は知らない」という態度を表明して抵抗的な転移に対応することで、分析主体に自ら思うところ幻想を展開させるのである。無意識的な陽性転移という愛や陰性転移という攻撃性の過程を含んで、幻想という意識的な陽性転移を展開することを通して、分析主体はシニフィアンを数え上げていくのである(抵抗→真理的効果)。
(143-144)

 書見中、足元が冷えて仕方なかった。デスクの下のスペース、やたらと冷えるのだ。(…)先生が帰国前、まさにそうした状況を見越してこれがあると役に立つよとハロゲンヒーターをくれたのだったが、あれはたしか去年守衛の(…)にあげてしまった。しかたない。
 歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェック。その後ベッドに移動し、読み差しのままだった『東京の生活史』(岸政彦・編)の続きをちょこっとだけ読み進めて就寝。
 また記録しそびれていた。ここ最近あらたにきいた音源。『Double Action』(TWIN COSMOS)/『The Moon, Its Recollections Abstracted』(Kei Matsumaru 松丸契)/『I Get Along Without You Very Well』(Ellen Arkbro & Johan Graden)/『i don’t know who needs to hear this…』(Tomberlin)/『卵』(betcover!!)/『The World Is Ending and I Love You』(Jack Goldstein)/『A Leaf Adrift』(Derick Penrod)/『Hikaru Utada (Live Sessions from Air Studios)』/『Man Plays the Horn』(Cities Aviv)/『Nicks and Grazes』(Palm)/『Suave Pendiente』(Niños Del Cerro)/『Darklife』(death's dynamic shroud)。
 以下、『Double Action』(TWIN COSMOS)についての説明文。ちょっとすごい。

まさに「双子の宇宙」とも言うべき和モノ/国産ニューエイジ最深部の1枚が史上初の再発!三重県四日市市出身の双子の兄弟・伊藤安人と伊藤守人による幻のユニットTwin Cosmosが1982年に自主リリースしたコンセプチュアルなアルバム『Double Action』が〈Left Ear〉からアナログ・リイシュー。実に過去40年に渡って音楽を作り続けてきたとのこと。兄弟それぞれがLPの片面を担当し、まさに陰と陽のアプローチで制作された作品であり、流通網を持たなかったため、家族や友人への販売しかなされず、長年無名の存在となっていた知られざる和レアリック~ニューエイジ~サイケ・フォークの大傑作。

 あと、ききなおしていたのは『M.I.D. The First Annual Report of LAUSBUB - EP』(LAUSBUB)/『Tan-Tan Therapy (2022 Remaster)』(Tenniscoats)/『Forms (feat. Butaji & Yusaku Arai)』(butasaku)/『Wandering Fire』(Yuji Takahashi & Masahiko Togashi)/『Notes With Attachments』(Pino Palladino & Blake Mills)/『Prrr / Tripp / Sakuragicho - EP』(bringlife)など。
 『Tan-Tan Therapy』はTapeとの共作らしい。全然知らんかった。Tapeという存在自体つい先日知ったばかりだったし。『Notes With Attachments』(Pino Palladino & Blake Mills)はめちゃくちゃかっこいい。今年の10枚に入る。bringlifeははやくアルバムをリリースしてほしい。