20221231

古井 説明するというのは、普通結び目をほどくことと解釈されるけれども、結び目をつくることでもあるわけですね。
大江 あなたの書き方は、確かに結び目をつくることによってなされている。いつまでもいつまでも結び目をつくってゆく。
 僕は文芸時評で、古井さんの小説の締めくくりの部分を、僕だったらこう書くだろうと実例を示してみたことがあるのですが、あれはつまり僕として説明してみたんです。古井さんは結び目のつながりのあとにもう一つ結び目をつくって、最後の結び目は解けないままだけれども、最後から二番目の結び目の意味ははっきりとわかるように小説を終わっていられる。
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る』)



 朝方に一度目が覚めた。肌寒かったし、咳が出た。これはもしかしたらと思いつつ二度寝を試みたが、うまくいかず、しかたないので便所に立った。小便をし、口をすすぎ、白湯をのんだ。それからふたたびベッドにもぐりこみ、スマホでニュースをチェックした。そのうち寝た。
 10時半ごろにあらためて起きた。のどの調子が変だったが、乾燥のせいでそうなっているだけなのか、いよいよコロナなのかちょっとよくわからない。ま、よくなるかわるくなるか、今日中に判明するだろうということで、動けるうちにやるべきことをやっておこうと決める。
 歯磨きをしながらニュースをチェック。その後、街着に着替え、自転車に乗って第四食堂へ。門前で老夫婦とすれちがいそうになったが、ふたりはあきらかに感染をおそれるように、いったん離れた場所にひきさがってこちらに道を譲った。第四食堂はガラガラ。警備員のおっさんらが、こいついったいなにものだ? みたいな表情でこちらをじろじろ見る。
 帰宅。メシ食いながらビリビリ動画で『クイズ☆正解は一年後』をみる。きのうテレビで放送されたばかりのやつ。毎年の楽しみだ。30分ほどで切りあげる。敷布団のシーツを洗濯機につっこみ、裸の敷布団、毛布、掛け布団を次々と掃除機できれいにする(この掃除機はもともとが布団用のものであるのだが、フロアの掃除にもそのまま使っている)。ものすごい量の埃が吸引できたので、ここ数日のちょっと鼻炎っぽい感じや今日の喉の違和感などすべてこいつのせいかもしれないぞと思う。そうであってほしい。
 コーヒーを用意し、『Atak026 Berlin』(Keiichiro Shibuya)をイヤホンでききかえしながら、きのうづけの記事の続きを書く。この音源、めちゃくちゃいい。こういう方向性の音楽、繊細で作り込まれた電子系ノイズのなかでは、最高峰の音源なんじゃないかと思う。きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年12月31日づけの記事を読み返す。

 作曲家たちは「実験的」という言葉で自分たちの作品が言い表されることに対して、異議を唱えることがしばしばある。その言い分はこういうことだ。いかなる実験も、最終的な決定が行われる段階に先だって行われるものであるし、決定を行うということは、意図して用いる要素の特定の秩序を、それが伝統的なものではないにしても、事実上認識し、採用することを意味している、と。こうした異議が出てくるのも、たしかにもっともではある。だがそれは、今日セリー音楽が示しているように、人の注意が集中する境界や構造、表現にもとづいてものをつくることが、相変わらず問題とされる場合にかぎられる。ところが一方、環境的なものを含めて、一度に多くのものを観察し、聴くことに注意が向けられる——つまり排他的ではなく包括的である——ところでは、理解しうる構造をつくるという意味で、ものをつくることはもはや問題とはならない(人はここでは観光客である)。そしてここにおいて、「実験的」という言葉がふさわしいものとなる。ただしそれは、後からその成否が判断されるような行為ではなく、たんにその結果が予知できない行為を言い表すものとして、この言葉が理解されたときのことである。
ジョン・ケージ柿沼敏江・訳『サイレンス』より「実験音楽—教義」 p.33-34)


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 今日づけの記事もここまで書くと時刻は16時。『30』(LITTLE CREATURES)をききながら今学期の授業で使用した資料をまとめる。資料はPagesで作成しており、すべてiCloud上に保存されているわけだが、なんらかのトラブルによりデータが消えたり、あるいはクラウドにアクセスできなくなったりする可能性もなくはないので、学期末にまとめてPDFにして別に保存するようにしているのだ。そういうわけで四科目分の資料を手作業で地道にPDF化する。それを最後にzipに圧縮し、外付けハードディスクとMicrosoftのOneDriveにそれぞれ放り込んでおく。ついでに「実弾(仮)」まわりの原稿や資料も同様に保存。これでいちおう今学期および今年が同時に締まったかなという感じ。
 作業を終えると時刻は17時半前だった。キッチンに立つ。米を炊く。鶏胸肉とトマトとサニーレタスとパクチーとにんにくをタジン鍋にぶちこみ、料理酒と鸡精と塩をぶっかけてから、レンジで7分チンする。で、できあがったものを食しながら、『クイズ☆正解は一年後』の続きを視聴してゲラゲラ笑う。
 食後はベッドに移動する。仮眠をとるつもりだったのだが眠気がおとずれず、ひとときスマホをいじってだらだら過ごす。それから浴室に移動してシャワーを浴びる。あがったところでストレッチ。上の馬鹿が日曜大工でもしとんのけというくらいの勢いでガンガンガンガンやりだしたので、すぐに椅子をもちあげてベッドにあがり、天井をガンガンガンガンやりながら「うるせえ!」と巻き舌で怒鳴って対抗したのだが、やりすぎて天井に大量の窪みができてしまった。しゃあない。不可抗力や。
 コーヒーを淹れる。カール・リヒターの指揮する『マタイ受難曲』をスピーカーから流しはじめる。年末恒例行事だ。モーメンツをのぞくと、学生らが打ち上げ花火の動画や写真をあげたり、今年撮った写真をまとめた短い動画をあげたりしている。ところで、(…)外国語学院長もとうとう感染したらしい。信じられん、なぜじぶんだけ無事なのか? 感染でいえば、淘宝で注文したコーヒー豆が快递に到着したという通知が今日の午後あったのだが、その快递というのが老校区のさらに南にある、あのlocal感のすさまじい一画にある店舗だったので、いや、いまあっこ行ったら絶対感染するやろ! 咳しまくり痰吐きまくりのジジババと至近距離でのエンカウント免れやんやろ! という感じで全然行きたくない。しかしコーヒーはおそらく明日か明後日で切れる。覚悟を決めなければ!
 新年一発目のモーメンツに投稿するために「2022年に読んで感銘を受けた本10冊」と「2022年に聴いて感銘を受けた音楽アルバム10枚」をまとめる。これで三年目か? こういうのって普通Twitterとかnoteとかでやるもんだと思うのだが、こちらは中国での知り合いしか見ることのない場でこれを発表しているわけで、音楽ならまだしも本なんて意味ないといえばないのだが、ま、それこそ手垢のついた比喩を借りれば、投げ瓶通信に賭け、誤配に賭けるのであって——というとちょっと嘘くさいな、そういう大義なんてそもそもないか、それまでやってみたことがなかったことをある年やってみたところ、それがなんとなく恒例行事になってしまったみたいなショボい理由が実際のところなのかもしれない。しかし、ま、この恒例行事のおかげで12月に入るとその年にはじめてきいた音源をざっと聴きなおす習慣が身についたわけで、それはなかなか悪くないと思う。
 本は『梶井基次郎全集』/『中上健次電子全集1』/『漾虚集』(夏目漱石)/『アフターダーク』(村上春樹)/『ブロッコリー・レボリューション』(岡田利規)/『かたちは思考する 芸術制作の分析』(平倉圭)/『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』(赤坂和哉)/『ほんとうの中国の話をしよう』(余華/飯塚容・訳)/『「エクリ」を読む 文字に添って』(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳)/Seize the Day - Saul Bellowを選んだ。うち、再読は『梶井基次郎全集』と『アフターダーク』の二冊か。『アフターダーク』にはびっくりした。村上春樹、こんないい小説を書いていたんだ、と。『海辺のカフカ』なんかよりずっといいと思う。
 音楽は『Palm』(空間現代)/『Notes With Attachments』(Pino Palladino & Blake Mills)/『Love Is a Stream』(Jefre Cantu-Ledesma)/『Afterglow』(She Her Her Hers)/『春と修羅』(春ねむり)/『Spiritflesh』(Nocturnal Emissions)/『Sons of (Original Edition)』(Sam Prekop and John McEntire)/『Hapmoniym 1972-1975 (Remastered)』(マジカル・パワー・マコ)/『Atak026 Berlin』(渋谷慶一郎)/『Rideau (2022 Remaster)』(Tape)。
 22時半になったところで書見。A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続き。表題作を読み終えたのだが、いや、やっぱりオコナーやばすぎるわという感じ。何度読んでも唸る。巧いし、凄い。この凄味はなんなんだろう。前回読んだのはいつだったろうかと思って過去ログを検索してみたところ、2016年7月10日に読了記録がある。あ、そんな前だっけ、とちょっとびっくり。じゃあ翻訳で読んだのはいつだろうと思ってこちらも検索してみたところ、2016年7月15日に『フラナリー・オコナー全短篇』の上巻、その5日後である20日に下巻を読んだという記録がある。だから原文で先に読み、そのあと間髪おかずに翻訳で追ったということか。ムージルと並び敬愛する作家であるというのに、まさか六年半ものあいだご無沙汰だったとは! と思ったがアレだ、Mystery and Mannersを読んでいるのだった。これは記録によれば、2019年8月5日に読了している。翻訳は未読。The Habit of Beingは原文でも翻訳でも未読であるし、短編集二冊の再読をすませたその流れで読むことにしようかな。

 “A Good Man Is Hard To Find”の序盤から中盤にかけて読んでいる最中気づいたのだが、ここでgrandmotherのやることはことごとく裏目に出ているのだな。そもそも旅路の途中に寄り道を強引に提案したのも彼女であるし(しかも乗り気でない息子を説得するのに孫を利用するし、さらに提案した寄り道先が実は全然別の地方であったことをのちほど思い出す)、事故を起こしたあと脱獄犯Misfitらに手をふって助けを求めるのも彼女であるし(The grandmother stood up and waved both arms dramatically to attract their attention)、そのMisfit相手に新聞に載っていた脱獄犯Misfitはあなたねと口走ってしまうのも彼女だ(“You’re The Misfit!” she said. “I recognized you at once!”)。
 Misfitの造形はちょっと『妄想はなぜ必要か ラカン派の精神病臨床』(コンタルドカリガリス/小出浩之+西尾彰秦訳)で紹介されていた「彷徨(エレー) errer」の例を思い起こさせるところがある。

"I was a gospel singer for a while," The Misfit said. "I been most everything. Been in the arm service, both land and sea, at home and abroad, been twict married, been an undertaker, been with the railroads, plowed Mother Earth, been in a tornado, seen a man burnt alive oncet," and he looked up at the children's mother and the little girl who were sitting close together, their faces white and their eyes glassy; "I even seen a woman flogged," he said.

 非病相期の精神病構造とはどんなものかをお考えいただくために、例を挙げましょう。
 ある男性患者のことですが、その分析は一年ほど続きました。この患者は、典型的な精神病的現象が何もないのに、私が精神病と診断できた最初の例です。診断できたと言っても、もちろん先輩の助けを借りてですが。
 この患者はアメリカ出身でした。英語は、私の話せる言葉のひとつでしたが、当時のパリでは英語を話す患者の精神分析ができる人はほんのわずかでした。この男は多少とも強制されて私のところへ来ました。物理的に強制されてというのではなくて、分析に足繁く通っていた妻に促され、分析を受けることを勧められたのです。そこで彼は私のところへ電話をし、やって来るようになり、彼の分析は一年ほど続きました。
 彼はまだ若く、三十代の美男子で、ちょっとジェームズ・ディーンに似ていました。見かけだけが似ていたのではありません。彼の生活史はなかなか驚くべきものでした。
 彼はヴェトナムに派兵されていましたが、脱走することもなく任期を終えました。そして大変興味深い仕方でアメリカへ戻ることを決めました。もっとも、「興味深い」という言葉は彼の語彙にはありませんが。彼が私のところへ分析に訪れたのは、アメリカへ戻る途中のことでした。彼はアメリカに帰る途中で、ビルマとインドを経由し、そこに長く留まって薬物に染まり、最後にヨーロッパにたどり着き、ある女性と出会い、結婚したのです。この女性はフランスの重要な会社の後継者でした。彼は彼女のもとに留まり、この会社の管理部門に携わっていました。
 妻が彼に分析を勧めたのは、結婚したのに子供ができず、その上、彼が妻の母の愛人となったからです。これは妻にとっては明らかに問題でしたし、おそらく彼女の母にとっても問題だったでしょう。しかし、彼にとっては問題ではなかったのです。にもかかわらず、彼は一年間私のもとへ分析に通いました。問題は、分析に通う理由について彼が何の考えも持っていないことでした。彼は定期的に通院し、教養ある患者が普通分析で語るようなことを、つまり幼児期のこと、生活史、患者が通常語ることすべてを話しました。
 彼の分析はここで終わってしまいました。どうしてか分かりませんが、彼は来なくなり、その後しばらくのことは全く分かりませんでした。ある日、私は次のようなことを聞き知りました。彼はあるバーへ行きました。そのバーではギャングたちが銀行襲撃を企てており、どうしてか分かりませんが、彼を役に立つと思い、彼に仲間に加わるよう勧め、彼はそれを受け入れた、ということです。襲撃は失敗し、一人のギャングが殺され、彼は逮捕されました。このとき、彼の妻が私に電話でそのことを知らせてきました。
 裁判になる前にすべては片づきました。というのは、私は法律に則って彼についての意見書を書かされたからです。事態はあまり悪くなく収まりました。離婚が成立し、少しの間拘束された後、彼は国外追放となりました。
 この男の凄いところは——その点について話すことは難しいのですが——彼が何にでもなれてしまうという点です。操りやすいという意味で従順なわけではなく、どんな道も、どんな方向も彼にとっては可能だという意味です。
 このことは、分析に来なくなってからのことにもよく現れていますし、そもそもフランスでのアヴァンチュールの最初からよく分かります。ヴェトナムでの地上戦闘員という重い経歴、次にはインドでのヒッピー、パリでのフランスの上流ブルジョワ界への潜り込み、こういうことすべてを彼は完璧に成し遂げています。しかし、彼がこれらの地位相互の間の価値や意味作用の差をわきまえていたとは、私は思いません。
 こういう点から見ると、この話の結末は示唆的です。彼は銀行襲撃に加わることを受け入れます。犯罪的行為に一度も加わったことのない彼が、いったいどうして受け入れたのでしょう。彼が受け入れたのは、本当のところ「行けない理由がない」からです。

 この見立てに即していえば、Misfitは精神病的主体であるということになる。そして興味深いことに、Misfitは父殺しの罪で服役していたことが明らかになるのだが、彼はその罪を覚えていないのだ。父殺しを願望するというのであればMisfitは神経症的主体ということになるのだが、彼はその事実をまったくおぼえていないし罪悪感も抱いていない。つまり、彼にはそもそも〈父〉が存在していない、ゆえに精神病的主体である。
 というふうにしてラカンの理論を強化する読み方を続けてもつまらない。すばらしい小説が常にそうであるように、この作品は理論を突破してもっとずっと遠くまで届いている。たとえば、以下のくだりにおけるpaperとsignatureに〈法〉(=〈父〉)との共鳴を認めるとき、そこまではまだラカンの理論に即したものとして容易に読めるだろうが、ここにキリストとの対比が加わると、話がずいぶん複雑になる。

"Yes'm," The Misfit said as if he agreed. "Jesus shown everything off balance. It was the same case with Him as with me except He hadn't committed any crime and they could prove I had committed one because they had the papers on me. Of course," he said, "they never shown me my papers. That's why I sign myself now. I said long ago, you get you a signature and sign everything you do and keep a copy of it. Then you'll know what you done and you can hold up the crime to the punishment and see do they match and in the end you'll have something to prove you ain't been treated right. I call myself The Misfit," he said, "because I can't make what all I done wrong fit what all I gone through in punishment.”

 Jesus shown everything off balanceというセリフについては、以下のようにあらためて語られる。

"Jesus was the only One that ever raised the dead," The Misfit continued, "and He shouldn't have done it. He shown everything off balance. If He did what He said, then it's nothing for you to do but thow away everything and follow Him, and if He didn't, then it's nothing for you to do but enjoy the few minutes you got left the best way you can-by killing somebody or burning down his house or doing some other meanness to him. No pleasure but meanness," he said and his voice had become almost a snarl.

 で、ここからがすごい。まずgrandmotherがキリストの奇跡を否定するのだが(林の中から聞こえてくる銃声を鶏の声とみなせば、ここでgrandmotherはペドロの否認を反復していることになる)、Misfitのほうはむしろその奇跡の現場に居合わせなかったので否定することはできないという論理を口にする。

"Maybe He didn't raise the dead," the old lady mumbled, not knowing what she was saying and feeling so dizzy that she sank down in the ditch with her legs twisted under her.
"I wasn't there so I can't say He didn't," The Misfit said. "I wisht I had of been there," he said, hitting the ground with his fist. "It ain't right I wasn't there because if I had of been there I would of known. Listen lady," he said in a high voice, "if I had of been there I would of known and I wouldn't be like I am now." His voice seemed about to crack and the grandmother's head cleared for an instant.

 オコナーはたしかMystery and Mannersのなかで暴力的なシーンを重ねていくと最後の最後の瞬間に恩寵があらわれるみたいなことを書いていた記憶があるのだが、それがまさにここだろう。ここでMisfitははじめてI wouldn't be like I am nowと後悔をみせる。罪の意識をのぞかせる。つまり、ここだけ見ると、Misfitは精神病的主体のようにみえない。そこにはたしかに〈父〉(=神)がインストールされている。そのあらわれをオコナーは恩寵として描き、grandmotherもそう感受した。だからgrandmotherは家族が全員射殺されたにもかかわらず、Misfitに対する一種の慈愛をその一瞬たしかにおぼえるのだ。

She saw the man's face twisted close to her own as if he were going to cry and she murmured, "Why you're one of my babies. You're one of my own children!" She reached out and touched him on the shoulder. The Misfit sprang back as if a snake had bitten him and shot her three times through the chest. Then he put his gun down on the ground and took off his glasses and began to clean them.

 ここでのgrandmotherのふるまいに蛇の比喩が用いられていること、その祖母を射殺したMisfitがめがねを外してその汚れをcleanにすることに、屈折した神学的隠喩——知恵の実により目を見開かれたもの!——を見ることももちろんできるだろう。
 日付の変わる前に書見を切りあげる。卒業生の(…)さんからあけましておめでとうございますの微信が届く。15分はやいよと送ると、ではあとでもう一度やりなおしましょうとの返信。年越しそば代わりに出前一丁でも食うかなと思ったが、コーヒーを二杯飲んだあとであるし、こいうときにラーメンみたいな汁物を食うとだいたい下痢になると経験的に知っているので、じゃあいつものように餃子? いや、それもつまらんな! ということで、以前第四食堂近くの売店で買ったチーズ味のウエハースを食うことにした。これはもともと感染してろくに料理もできなくなったときのための、いわば備蓄用の非常食として買ったものであるのだが、そういうものを食欲に負けてついつい食ってしまう、こういう馬鹿と冬場の富士山に軽装で挑んで途中でレスキューされる馬鹿はだいたい同一の人種である。
 ウエハース、しかしクソ美味い。(…)さんから0時ぴったりにあらためてあけおメールが届く。去年大学院試験に失敗したという話は聞いていたが、その後の消息を知らなかったのでたずねてみると、(…)で高校教師をしているとのこと。確認していないが、まずまちがいなく日本語教師だろう。仕事に慣れるまでは授業準備に追われて大変だと思うけどがんばってねというと、「(…)先生の授業は本当に面白い。三年間いろいろ勉強しました。三年間の勉強は養分で、今の経験になりました」とのことで、ありがたやありがたや。それから撮りそこねている卒業記念の写真をいつか一緒に撮りましょうという提案。了承。
 (…)さんからも年明けとほぼ同時にあけおメール。勉強と恋愛、どっちもがんばれよと返信する。(…)さんからも連絡。うまくいけば春休み中に(…)をおとずれるかもしれないというので、またこっちで火鍋でも食いましょうと受ける。日本の大学の春休みって何月だっけ? 三月とか? だとすればさすがに渡航はまだはやいかもしれないが、しかし遅くとも夏には自由に行き来できるようになっているはず。あとは(…)さんからもLINEが届いたのだった。ずいぶんひさしぶり。コロナにはすでに二度罹患したとのこと。あれだけしょっちゅうヤクザらとBBQしていたらそうなるわな。ほか、(…)くん、(…)さんからもあけおメール。(…)さん、12月にまた(…)にもどってくるらしいので、そのとき一緒にご飯を食べましょうという。了承。たぶん卒業手続きのために大学をおとずれる必要があるのだろう。
 いちばん長々とやりとりしたのは(…)さん。彼女も年明けとほぼ同時に連絡をくれた格好。コロナはだいぶよくなっているらしいのだが、咳がなかなか止まらないので今日の午後点滴を受けたという。「もし帰国した方が安全なら、先生は日本に帰る予定がありますか」というので、いまのところはそのつもりはないと応じたものの、中国政府マジでウイルスの変異があるかどうかだけちゃんとゲノム調査してくれねーかなとは思う。そういうことを壁の内側で生きている人民に言ったところで仕方ないわけだが。(…)さん、「次の夏休みにも日本へ遊びに行きたいです!」という。そういえば、彼女は先学期うちにメシを作りに来てくれたときもまったく同じことを言っていたわけだが、もしかしてけっこうマジなのだろうか? しかし長期休暇中に海外旅行をする学生なんてうちのような田舎ではまったく聞いたことがないというか、卒業生の(…)くんくらいではないか? 彼はたしか実家がかなり太く、かつ、日本にネットで知り合ったオタクの友人がいるというアレから、長期休暇を利用して二度ほど日本をおとずれたという話を聞いたことがあるが、それ以外はとてもとてもという経済レベルで生きている子たちだから——と思ったが、(…)さんは(…)省ではなくたしか江西省の出身だったはずだし、実家がもしかするとかなり裕福だったりするのかもしれない、だからマジで行こうと思えば日本に行くこともできたりするのかもしれない。本人曰く「自分でアルバイトをしてお金を稼ぐつもりです!ぜひ行きたい!」とのことだが、その後に続けて「先生の故郷は(…)県ですが」「先生の犬を見に行きたいです」というので、いやいや実家連れてったらえらいことなるわ! (…)を母の実家に連れていったときなんて、酔っぱらった近所の年寄りがわらわらやってきて、(…)さんとこの孫、ロシア人と結婚するみたいやど! という間違いに間違いをかさねた噂がひろまり、その噂は当時一族と絶縁して失踪していた東京在住の叔母のところにまで届いたのだった。(…)さんは「辺牧」が大好きらしい。「かつて私はお金を払って辺牧の赤ちゃんを買ったが、その店の主人は私をだまして、私が欲しい犬を私にくれなかった。それから私はもうペットショップを信じません。」とのこと。だからうちの(…)に会いたがっているわけだ。また、(…)さんは「私は毎日2時間日本語を読み続けています。夏休みまでに普通のコミュニケーションができるようになりたいです」といったが、これがマジだとすれば、なかなかすごい。うちの学生で長期休暇中にそれほど熱心に勉強する子なんてほぼ存在しない。
 というようなやりとりを交わしながら、歯磨きしたり、ジャンプ+の更新をチェックしたり、モーメンツに新年のあいさつと「2022年に読んで感銘を受けた本10冊」と「2022年に聴いて感銘を受けた音楽アルバム10枚」を投稿したりした。その後ベッドに移動し、A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読み進めて就寝。