20230107

古井 大きく文学の流れを見ていくと、コロキアル(口語)の方向に時が流れたとき、しゃべるように書くのが流行ったときにはかえって多様性が失われるようです。
大江 ええ。一箇の人間がしゃべるようにそのまま書くことで多様性が生まれるものではないですね。ただそれが文学の原初の形態ではあって、どの作家でも一人称かその置きかえによって成果をあげることが一作だけは可能です。例えば二葉亭四迷にも『平凡』がある。しかしそれは当人にもそのまま繰り返しうるものではない。他の人間のやれることではない。
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る』)

 「しゃべるように書くのが流行ったときにはかえって多様性が失われる」という箇所を読んで思ったのだが、こちらの観測するかぎり、若い世代のうちけっこうなボリュームが、いま、書き言葉としては2ちゃんねる的な文体をデフォルトとしているというか、その文体なくしては文を書くことができない——書き方がわからない——状態にある。2ちゃんねる的な文体というのも、それが出てきた当初は、それはそれで一種オルタナティヴな文体だったのかもしれないが、いまはもう全然そうではないようにみえる。「あえてそう書く」の「あえて」が欠落してしまった、アイロニカルな批評精神が漂白されてしまい、ただただ貧しい、LINEのスタンプにひとしいお決まりのフレーズや言い回しだけで成立する、まるで動物の鳴き声を思わせるほど大雑把で情緒だけが前面化した、そうしたやりとりのための道具。
 と、書いていて、ブコウスキーは自作でスラングを全然使わないというエピソードが語られていた柴田元幸高橋源一郎の対談を思い出したので、該当箇所を引いておく。2019年2月6日づけの記事より。

柴田(…)ブコウスキーを訳していて、「ああいう汚い世界を書いてるから、スラングをいっぱい使ってるんでしょう」と訊かれることがあるんですけど、考えてみると、ブコウスキーにはほとんどスラングが出てこないんですね。
高橋 たしかにないですね。すごくわかりやすい。
柴田 わかりやすいですね。スラングというのは仲間内の通り言葉で、特定の小さい閉じた共同体のなかでしか使わないものですよね。ブコウスキーはどこの共同体にも属さないからスラングが使わない。友だちいないとスラングって要らないんですよね(笑)。
 そういう意味で言うと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はスラングがいっぱい出てきて対照的です。ホールデンは孤独な少年という感じだけれども、見えない友だちはちゃんといるんですね。ああいう喋り方をする子たちがいて、言語を共有してる。ブコウスキーには、そういう言葉の共同体がない。
柴田元幸高橋源一郎『小説の読み方、書き方、訳し方』)



 11時半のアラームで目を覚ましたがすぐに二度寝した。活動を開始したのは12時半ごろだったろうか? きのうはわりとはやい時間帯に眠気がおとずれたのだったが、もう少しだけ書見を続けたいというアレからいったん寝床を抜けて白湯を飲み便所に行きとしているうちに冴え、かつ、これはもう一年くらい習慣になっているのだが、右足の裏の皮をむくのに熱中しはじめてしまい、気づけば5時近くになってしまったのだった。足は別に水虫とか皮膚病とかそういうわけではない。土踏まずの反対側にあたる部分が、たぶん生まれつきO脚だからだと思うのだが体重がかかりやすく、そのせいで少しだけ厚くなっている、それをいつからか手でむくのにハマってしまったのだ。特にこの一年ほどは熱中しており、一週間に一度はむきむきしていると思う。YouTubeには(…)さんのものよりひどいうおのめ治療をする動画、クソきたねえ耳クソを掻き出す動画、パンパンになった粉瘤を除去する動画などが大量にあがっているが、ああいうのもこちらはときどき観てしまう。ジジェク対象aとは鼻くそみたいなものだとどこかで語っていた。
 歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。洗濯機をまわす。トースト二枚の食事をとり、コーヒーを二杯たてつづけに飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年1月7日づけの記事を読みかえす。まずは『サイレンス』(ジョン・ケージ)の抜き書き。

神が善であるのに、なぜ世のなかには悪があるのかと尋ねられたとき、スリ・ラーマクリシュナは言った——「話を面白くするため」と。
ジョン・ケージ柿沼敏江・訳『サイレンス』より「現代音楽を予見する」 p.113)

 あと、ちょっと凡庸かもしれんけど、以下のくだりも。初出は2020年1月7日づけの記事。

道中、「スタンプ」(松本卓也)――「ある主体に固有の、幾度となく反復され、複写される傾向にある人間関係の構図」と自分の興味関心にひきつけて再定義しておく――についてあらためて考えた。「スタンプ」、それは一種の呪いである。では、その呪いを解除する方法はあるだろうか? 「自覚」がひとまず挙げられる。もちろん、たかだか自覚するだけで一挙に解除されるほどやわなものを、われわれは決して呪いとは呼ばない。とはいえ、自覚が完全に無意味であるとする立場にたつつもりもない。自覚、それは言語化=対象化にほかならない。言語化=対象化することで、われわれは各々の「スタンプ」について、ごくごくささやかなものでしかないかもしれないがしかし決定的な、ある「距離」をうみだすことができる。「距離」とはなにか? 「スタンプ」の余白、その可変性である。われわれはわれわれに固有の「スタンプ」を言語化=対象化することによって、そのスタンプの可変性を確保することができる。注意しなければならないのは、主体にとって可能なのはあくまでも「可変性の確保」にすぎないのであり、それをみずからの手で直接「変更」することは決してできないという点である。では、そのような「変更」はいったいどのようにしてもたらされるのか? 「偶然」によってというほかないだろう。「スタンプ」によって強いられるのはあくまでも構図に過ぎない。構図は同じでも役者は、時と場所は、文脈は、環境は、その都度異なる。そして、コントロール不可能なその「異なりよう」こそが「偶然」にほかならない(その意味で、この「偶然」は「他者」といいかえることもできる)。構図ではないいわば出来事として、その関係性の特異性=単独性をぬきがたく見定めるとき、われわれはそこにたしかに差異のざわめきを認めることができるだろう。あるものを等号で結びつけるためには、そもそもの前提として等号をはさんだ両隣に配置されるあるもの同士が違っているという認識が先立たなければならない、そういう意味での差異――「同じ」という言明を可能にする先立つ「差異」――は、ときに「スタンプ」(=構図)をおびやかすほどの過剰な細部をあらわにすることがあるだろう。そのような変化の芽を、可視化された可変性そのものとしての「過剰さ」を、主体と「スタンプ」にあいだにもうけた「距離」をおいて丁寧に認識すること。そのような認識は当然、主体にフィードバックされ、さらなる「距離」を主体と「スタンプ」のあいだにきりひらくだろう。そして「スタンプ」(=構図)をおびやかすさらなる「過剰さ」を呼び招くことにもなるだろう。そしてそのいとなみがたえまなく実践されることによって、転覆はならずともいつのまにかその変形をこうむっている「スタンプ」に、主体はあるとき気づくことになるだろう。そしてその「気づき」がまたあらたな「距離」を設けることによって、いとなみはいとなみとして永続し続けるだろう。そして臨床の場における精神分析とは、このようないとなみを他者の力を借りて、より徹底的に――あるいは、加速的に?――実践するものといってもいいのではないか。

 一年前の今日は(…)くんが(…)まで遊びに来た日だった。いっしょにカフェでコーヒーを飲んだり火鍋を食ったりしながらさまざまな会話を交わしている。「(…)くんは来年(2023年)の6月にひとまず修士課程を終える」という記述を見て、あ、そっか、(…)くん今年もう卒業なのか、と思った。以下、おもしろかったくだりをいろいろ引いておく。

ちなみに(…)くんがコーヒーを飲むようになったのは北海道でのインターンシップがきっかけだったという。同僚らが仕事を終えた帰路、いつもコンビニに立ち寄ってコーヒーを買っているのが気になり、それで真似して飲みはじめたところ、じぶんでもだんだんと好きになっていったとのこと。あとはスタバでコーヒーを飲んでいる写真をSNSにアップロードするのがかっこいいと思っていた時期があり、それも結果としてはコーヒーの世界への入り口として機能したようだ。日本でも十年ほど前か、スタバでMacのノートパソコンを出して仕事をしているやつの自意識はダサいみたいな、それ自体がクソダサいとしかいいようのない批判的言説がネットで出回っていたことがあるが、中国でも同様の批判はけっこうあるらしい。(…)くん自身、スタバよりもやはり個人経営のカフェでコーヒーを飲むほうが絶対に良い、スタバはあまり好きではないと現在は考えているようだったが、甘いな、こちらは十年以上前にすでにスタバを大いに下回るマクドの100円コーヒー(おかわり無料)を飲みながらの作業という、ステータス「かっこよさ」が底値を下回った結果バグって最大値に達するという古き良きRPGのバグ技みたいな二十代前半を送っていた。それで思い出したのだが、いまはなき円町のマクドの二階席でコーヒーをのみながら読み書きしていた折、近くの席にいた男子高校生が仲間にマクドのコーヒーはおかわりし放題であるという事実を告げる際、「知らねーの? これ、無限の飲み物だぜ!」とクソでかい声で口にしていたことがあり、おもわず吹き出しそうになったのだった(この出来事は当時日記に書いた)。

ゲイの話もたくさんした。いま(…)くんと同じ専攻に所属している男子学生は彼を含めて四人きりであるのだが、全員がゲイであるという。先生のことを何も知らずに見たらたぶんほとんどのひとがゲイだと思いますよと(…)くんはいった。実際、彼は店に到着してほどなくこちらとのツーショット写真を撮り(いつものように変顔をしたら、まじめな顔をしてくださいと真剣に言われた)、それをモーメンツに投稿したわけだが、すぐに仲間たちから「新しい彼氏か?」というコメントがついたらしい。服装がやっぱり原因かな? とたずねると、それもありますが、全体的な雰囲気ですね、芸術家っぽい感じがすごくします、そして芸術家はゲイが多いです、という狂った三段論法みたいな説明があった。日本にいたころよりも中国に来てからのほうがはるかにゲイであると勘違いされる機会が多い、ということはやはりそう思われる要因のいくらかはファッションにあると思うのだが、その点指摘すると、中国ではまず男性のほとんどがファッションに無頓着ですという返事があった。そう言われてみればたしかにその通りで、こちらが知るかぎり、ファッションにこだわりがある男子学生はこれまで(…)くんと(…)くんと(…)くんと(…)くんくらいで、前の三人はみんなゲイである((…)くんに関しては彼女を取っ替え引っ替えしていたわけだが、それでもこちらはなんとなくバイなんではないかという気がしている)。ファッションを楽しむという考え方自体が女性っぽいとする価値観があるらしく、それでいえばアメリカもたしかそんな感じだったはずだ、夏場であればシンプルにTシャツとジーンズ、あとは筋肉がひたすら重要みたいなマッチョな価値観(アメリカと中国に共通するマッチョな価値観については、はじめて中国にやってきたときからずっと気になっているテーマだ)。実際、これは(…)も言っていたことであるが、日本のメンズファッションはアメリカではすべてゲイファッション扱いらしい(一度トートバッグを持ってロスを歩いていたとき、すれちがいざまに身知らぬ人間からnice bagと皮肉を言われたことがあるという話があったはず、アメリカ人男性はカバンといえばリュックサック以外持たないのだ)。そういう中国であるので、ZARAに行く男はみんなゲイであるという考え方があるらしい(ZARAの単独狙い撃ちには正直クソ笑った)。(…)くんはファッションを楽しむことのできない中国のヘテロ男性たちをディスりまくった。これに関しては同意。あるいはこの感覚の延長に、自撮りする男子とか、メンズ化粧品を使う男子とかが位置付けられるのだとすれば、これまでは縁がないと思っていたそういうあれこれとじぶんもさほど遠くはないのかもしれない(そしてそういう視線に立脚するとき、撮影時にかならずといっていいほど変顔をするこちらのふるまいは、一種の防衛としても理解されうるかもしれない)。

(…)くんは会話中こちらのことをしきりに芸術家のようだと口にした。じぶんでじぶんのことは芸術家だと当然思っているし、それ自体別になんら異論はないのだが、ただ学生たちと話すときはそういう話題をさほどするわけでもないし、むしろ相手にとってとっつきやすい人間と思わせるためにサービス精神たっぷりの俗気をガンガン出しまくっているはずなのだが、いったいどこからそういうニュアンスが汲み取られるのかが不思議でならない。いや、(…)くん相手であれば多少は文学や哲学の話もするのだが、今学期、対面してまもないころの(…)くんにもそう指摘されたし、先日の食事会の席でも(…)先生の旦那さんである(…)先生に対面直後そう指摘されたのだった。で、そのたびに、「ああ、このヒゲのせいでね」とか「服装がちょっと個性的すぎますかね」とか応じるわけだが、するとすぐに、そうではなくて雰囲気が、と続いて、その雰囲気がわからない。日本ではあまりそういう指摘を受けたことがない(ミュージシャンでしょう? という指摘はさんざん受けてきたが)。「ゲイ」にしても「芸術家」にしてもそうなのだが、服装やヒゲなどの外見ではない「雰囲気」としてそう感じられるのだと彼らの言う、その「雰囲気」をもうちょっと丁寧に言語化してほしい。

到着した車に乗りこんだ。大学院のプラグラムの一環なのか、あるいはアルバイト先の塾の研修であるのかわからないが、(トヨタのおじさんらとは別に)北京在住の日本人に中国語を教える実習に参加したことがあると(…)くんはいった。日本人俳優にも中国語を教えましたよというので、マジ? 俳優さんに? と驚くと、日本鬼子を演じる俳優さんですと爆笑しながらこちらの腿をそっと触れるように叩くので(このスキンシップ、ある程度親しくなったゲイの男性はよくするやつだ)、クソ笑った。抗日ドラマに出演する日本人俳優というわけだ。

 (…)さんにもらった誕生日プレゼントのクッション、熊の頭部を模したやつであるが、椅子の座面に座布団みたいに敷くかたちでたいへん重宝している。重宝しているのだが、今日見たら、いつのまにか目がなくなっていた。黒いボタンか何かが二つついていたはずなのだが、両方とも見当たらない、代わりに中身の綿が白目みたいにしてのぞいている。

 16時過ぎになったところでパン屋に出かけることにした。おもては暖かい。最高気温も20度に達するほどのようなので、散歩がてら歩いていくかと思う。コートもいらない。先日淘宝で購入したストライプのイージーパンツにセーターを合わせる。セーターはやっぱりもうひとつ上のサイズでもよかったと思うが、しかしなかなかかっこいい組み合わせなので、この格好で外をぶらぶらできると考えるだけでけっこうテンションがあがる。
 あたらしい服でおもてを歩くときの無敵感といったらない。キャンパス内は今日も野鳥の王国。こちらの歩みにしたがって、道路脇の街路樹にいる野鳥が警戒して枝から枝へと飛び移るのだが、そのたびに十円玉みたいな色に染まった葉が枝から落ちる。その葉というのがおもいのほかおおぶりなので、道路に落ちたときに大きな音をたてて、ときどき、後ろをだれか歩いているのかなと勘違いしそうになる。
 右手からの日差しがぽかぽか暖かい。グラウンド脇のフェンスには色とりどりの布団が干されている。キャンパス内で寝起きしている人間、こうして見るとやはりまだまだけっこういるのかもしれない。(…)楼の前を通る。半地下にある快递は閉まっている。午後は15時までしか営業していないので。先日淘宝で注文した水垢用のスポンジが届いているはずなのだが、明日か明後日か、別に急ぎのアレでもないし、時間のあるときにまた来る。
 南門のそばには、それほど背の高くない木々が芝生の一角にけっこうな密度で植わっているのだが、どいつもこいつも根元からこちらの腰の高さまで真っ白に塗られている。はじめてこれを見たとき、なんで木の幹にペンキが塗りつけられているんだ? 林業かなにかを学んでいる学部生によるアレか? と思ったものだったが、(…)さんだったか(…)さんだったかが、本当かどうかは知らないけれども、あれは害虫対策だよと教えてくれたのだった。キャンパス内にある街路樹はだいたいみんなおなじよそおいなのだが、見栄えがあまりよろしくないので、同じ対策でも無色のやつを使えばいいのにと思う(しかし無色のものを使うと、どの木が対策済みでどの木が未対策であるか、区別がつかなくなってしまうという事情があるのだろう)。
 南門が近づいてきたところで、マスクを二重にする。キャンパス内ではすれちがうひともほとんどいないし、顎マスクにして気持ちよく歩いていたのだが、キャンパスを一歩でも外に出れば、ドラクエ的にいえばフィールドが切り替わりそこからは出現するモンスターも一変するので、しっかり対策する。すれちがうひとびともやはりみんなマスクをしているし、N95をつけている姿もけっこうある。N95をつけているこれらのひとたちが仮にこちらの予想するとおりいまだに感染していないひとだとしても、これから春运のあおりを受けてその大部分がやはり感染することになるのだろう。未感染者をワールドカップのトーナメントにたとえる流行の冗談、たしか年末年始の時点で感染していなければベスト8、春節の時点で感染していなければベスト4みたいな扱いだったはず——と書いたところで確認してみたのだが、そうではなかった、元旦まで未感染の時点でベスト4進出、春節まで未感染であれば決勝戦進出らしい。優勝するかもしれんな!
 (…)へ。いつもの食パンを三袋買う。店員のおばちゃん、こちらの知るかぎり三人いて日替わりで入っているのだが、いまのところみんな無事っぽいので(もしかしたらすでに感染して回復したあとなのかもしれないが、そうだとしても少なくとも後遺症に苦しんで働けなくなっているというようなアレではない)、それはちょっと安心。三人ともそれほど若くはないはずなので。上の部屋の馬鹿にはとっとと感染してくたばってほしいが、(…)のおばちゃんたちはマジでずっと健康でいてほしい。
 ふたたび南門を抜けてキャンパスにもどる。やる気のない例の守衛がいたので、ヘーイ! 你好! とちょっと間遠に声をかけると、いつも自転車なのに今日は徒歩だったしおろしたての服装だったためか、一瞬こちらであるとわからなかったのだろう、え? だれ? だれ? みたいなリアクションをしてみせるので、笑いながら近づいていくと、あー! あんたか! みたいな感じのことを中国語で口にしたのち、Sorry! Sorry! と続けてみせた。
 帰路は第四食堂の前を遠ってみた。やはり閉まっている。グラウンドでは父親と幼い子どもふたりがバドミントンをしていた。バスケコートではひとりでシュート練習をしている若い男の子がいた。卓球台では若い夫婦がこれからゲームをはじめるところだった。
 帰宅。(…)から微信が届いている。大学は今日から正式に冬休みということになるらしい。新学期は来月20日から。9日は会議に出席する必要があるので、何度も延期して申し訳ないが、medical checkは10日でもかまわないだろうかというので、いつでも問題ないと返信。(…)さんの荷物についてもたずねられたので、まだ寮の一室に置いたままになっている、ただあれから催促があったわけではないしわれわれの置かれている状況も彼は理解してくれていると思うので、特に急ぐことはないと思うと返信。新学期にそなえて授業準備もしなければならないし、10日の健康診断をひとつの目処として、以降は毎日の時間割に授業準備を組み込むか。
 メシ作る。米を炊き、鶏肉とトマトと青梗菜とにんにくをカットしてタジン鍋にぶちこむ。味つけは塩と鸡精とごま油。昨日とまったく同じ。食後、便所に立ったとき、浴室の小窓から入ってくる外気が、春の夜特有の、あの若い緑のまじったにおいだったので、うわ! と思った。冬場にこのにおいを嗅ぐと、毎回、春を通り越してその先にある夏を予感してしまい、けっこうぐっときてしまう。そしてこの夏の予感は、こちらにとってはなぜか性的な期待感に重ねて知覚されるものでもある。
 ベッドに移動して書見。A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続き。20分ほど仮眠をとったところで、浴室に移動してシャワーを浴びる。あがってストレッチしていると(…)くんから微信。手伝ってほしいことがあるという。おおかた修士論文に関するアレだろうと思って応じると、やはりそうであるらしい。日本語学習者の呼称語の習得状況を考察するためにDCT調査をおこない、その誤用をデータとして集積した上であれこれ考察するという内容であるのだが、そもそも母語話者ではないじぶんの誤用かそうでないかの判断に問題があるのではないかという指導教官による厳しいツッコミがあった、だからその判断を先生にしていただきたいみたいな、だいたいにしてそういうアレだったのだが、いやこれ相当数のアンケートをとっていると思うのだがそれ全部に目を通してくれという話なのだろうか? さすがにそれはちょっとというのがあったので、具体的にどれくらいの分量の仕事があるのかとたずねると、ちょっと電話してもいいですかという。了承。それで通話をはじめたのだが、アンケートは全部で18題(このアンケートについては質問文に不自然なところがないかどうかのチェックを以前こちらが担当している)、82人に答えてもらったという。それにすべて目を通すのはちょっとアレなので、とりあえず(…)くんが誤用と判断したケースだけぼくがあらためてチェックするというのではどうだろうかというと、彼のほうでも元々そうお願いするつもりだったという。お金を払うのでというので、そんなのは別にいらない、元学生から金を取る気にはなれないと受ける。指導教官からはけっこうボロクソ言われたらしい。これまで何度か(…)先生経由で、(…)くんは指導教官と折り合いが悪く苦労しているみたいな話を聞いたことがあったが、彼の口から直接弱音をきいたのはこれがはじめてかもしれない。いつまでにやらなければいけないのとたずねると、明日交流会があるので——といって黙りこんでしまうので、え? そんな緊急の案件なの? とびっくりすると、もうほんとに死にたいですと涙声でいうものだから、あー! あかんあかん! となり、よっしゃ! 今すぐやりましょ! すぐにデータを送って! 絶対間に合わせるから! と応じた。
 それであたまを切り替えた。風呂あがりの瞬間からそうなっていた執筆モードを仕事モードにチェンジしつつコーヒーを淹れ、(…)くんから送られてくる誤用例集をひとつずつチェックし、問題のある箇所には赤字でコメントを付していった。(…)くんはもともとエクセルにまとめてあるデータをこちらのために手作業でwordに書き換えているようだった。設問は全部で18題あるわけだが、そのうち3題分ずつ誤用例集をまとめて送ってくるので、その都度バババッとチェックして返信。で、次の誤用例集が送られてくるまでのあいだに「実弾(仮)」第四稿のほうも進めるというかたちで作業を並行していたのだが、当然のことながらこれはあまりはかどらない。
 0時半になったところで終了。質問があったら夜中でもかまわないのでいつでも連絡しなさいと告げる。(…)くんはこれから徹夜でデータをまとめる予定。(…)の高铁が開通したのでいまは(…)まで一時間で行けるようになりましたよというので、あ、あれってもう開通したんだ、と思った。(…)まで一時間というのはたしかにめちゃくちゃ便利だ。(…)にはアップルストアがある。MacBook AiriPadになにかあったらそこまで片道二時間かけて持っていかなきゃいけないんだよなと以前は戦々恐々としていたわけだが、いまは片道一時間であるしフルオープンしたから市外に出るのに制限もないし(たぶんコロナ以前と同じく外国人の宿泊先も一部のホテルに限定されるということはなくなったと思うのだが、どうなんだろう?)、最悪そういうことになっても日帰り旅行気分で行けるわけだ。電車代だけ出すし通訳兼ガイドとしてついて来てくれと学生にも頼みやすい。
 しかし今日、日記に(…)くんの名前を出したからほかでもない彼からこうして頼みごとがあったわけで、こういう偶然の一致は面白い。昨日は(…)さんの夢を見たら、彼女からやはり微信が届いたのだった。
 餃子を茹でてパクチーをちぎって食す。ジャンプ+の更新をチェックしたのち、今日づけの記事の続きを書きはじめるも、一段落書いただけでもうどうでもええわこんなもんという気持ちになったので中断。歯磨きをさっさとすませてからベッドに移動し、A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読み進めて就寝。