20230109

古井 漱石の小説には、円満に解決した小説はほとんどないんです。岩場に根を下ろした松が曲がりくねった枝を伸ばした途中で、風か雪でぽっきり折れる、という終わり方をしている。だから、いわゆる古典、クラシックではないんですよ。終わり方が、後世への申し送りなんですね、そういうふうに読んだほうがすんなりと入ってくるんじゃないかと思ってます。
大江健三郎古井由吉『文学の淵を渡る』)



 10時半にアラームで起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。トースト二枚を食し、コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書く。作業中は『健全な社会』(yonige)と『Good News』(蓮沼執太&U-zhaan)を流す。後者収録の「Go Around」、良い曲だ。昼過ぎだったと思うが、上からまた泣き女みたいなババアの泣き声が聞こえてきて、げんなりした。マジで気が狂う。
 きのうづけの記事の投稿だけすませたところで街着に着替える。徒歩で(…)楼の快递へ。今日もコートいらずの晴天。日差しがぽかぽかして気持ちいい。街路樹の枯れ葉が、ただでさえ大きいのにときどき小枝と一緒になって落ちるので、無人のキャンパス内でしょっちゅうだれかの足音みたいな音をたてる。清掃人がいないので、道路はまるで台風のあとのような、あるいは大水のひいたあとのような、そういう散らかりかたをしている。
 快递に入る。小包の積まれた棚のある倉庫のなかではおっさんがふたりストーブを囲んで各々のスマホで動画をみている。小包を棚から取り、機械でバーコードを読み取らせようとしたところ、モニターに不具合を告げるウインドウが表示されている。おっさんを呼ぶ。おっさんが手持ちの機械でバーコードを読み取り、(…)? と中国語でこちらの名を呼ぶ。对と受ける。水垢用のスポンジが入った小包をショルダーバッグの中にしまって快递をあとにする。そのまま南門経由で大学の外に出て、いつものように(…)へ。食パンとティラミスを購入する。
 帰宅。鶏肉を解凍しそこねていたので冷凍庫の外に出す。明日は朝から病院でmedical checkを受けることになっているわけだが、となるとおそらく夜食をとることもできないと思うので、鶏肉の都合もあるし夕飯の時間を遅らせることにする。
 そういうわけで、はじめからそのつもりで買ってきたティラミスを食い、コーヒーを淹れる。そうして2022年1月9日づけの記事の読み返し。当時のゼロコロナ政策に関連するあれこれを読みながら、このひとたちはいまどういう気持ちで現状と折り合いをつけているのだろうと思う。

それとは別にteachers and family membersのほうにも通知があった。深圳や天津など現在中国で感染拡大している地域からの来客がある場合はかならず事前に知らせるようにというもの。感染状況が現在もっともひどいのは西安だと思っていたのだが、ほかの地域もけっこう大変らしい。重症化リスクは低いが感染力は高いというオミクロン株は、ゼロコロナ政策を堅持する中国政府にとっては、なかなかあたまの痛い問題だろう。西安ではロックダウンがおこなわれているわけだが、それでいえば、数日前、出産間近の妊婦が陰性証明書をもっていなかったという理由だけで病院に受け入れてもらえず死産するという出来事があり、それがネット上で大炎上して政府の偉いさんが異例の謝罪をすることになったというのが、たしか昨日か一昨日だったはず。西安ではほかにもロックダウン中の市民に食糧がまともに配給されないという問題も起きていた(それに対して、デマを流すな、わたしたちはちゃんと食料を受けとっているという声をあげた西安市民もいるのだが、そういう人間らの住所がのきなみ西安政府で働く人間の集う一画であることが判明し、それがまた火に油をそそぐ結果になったみたいな話もあったのではなかったか)。

 以下は2021年1月9日づけの記事からの孫引き。

 散歩中と復路の車内で、清水高志の件をまた思い出した。のちほど入浴中にも続けていろいろ考えたのだが、じぶんは哲学者という人種を過大評価しているのかなと思った。陰謀論にハマるとかフェイクにだまされるとか、そういうやらかしをするのは文学者を含む芸術家たちのほうで、哲学者にかぎってはそんなことないだろうと無意識に前提していたその前提が揺らいだ感じだ。哲学者は「学者」であるし、その主たる戦場は論文である。しかるがゆえに蛮勇による飛躍が可能な芸術家らとは違って、地に足がついており、どこまでも論理的で、思考を練るにあたっても棋士のようにあらゆる可能性を検討し情報の取捨選択も抜群であるだろうという思い込みがこちらのなかにはおそらくあった。でも、これはやっぱり買いかぶりすぎなのだろう。
 批評家となると、話はちょっとずれてくる。批評家は芸術家らと同じ蛮勇による飛躍が可能な人種だというのがこちらの判断だ。たとえば東浩紀は『一般意志2.0』を学者には絶対に書けない(書くことが許されない)本だとどこかで語っていた。日本語圏でいうところの批評家の立ち位置というのはかなり特異的なものだという話もどこかで見聞きしたことがある。批評家の書いた文章のほうが、そんじょそこらの小説家や詩人の書いたものよりもずっと面白く飛躍しているということはよくある。批評家もまた「作品」をつくっている。作品をつくるということは、突破することであり、飛躍することであり、あらがうことであり、疑うことであり、傷つけることであり、多かれ少なかれ「信」に軸足を置くいとなみである。しかるがゆえに陰謀論とはやはり相性が良いことになる(と、書いたところで、まったく同じようなことがそれこそ「偽日記」で書かれていたのではないかと思い出した)。
 きのうづけの記事でも引いたけれど、清水高志がアカウントに鍵をかける前にしていたツイートが、「バッファローマン有名なアンティファじゃん。調べればいくらでもアンティファの暴動で画像が出てくる。みんなちょっとは自分で情報あさろうよ。射殺された女性も名前をアルファベットで入れて動画検索すればすぐに出てくる。」なのだが、ここで「情報あさ」るのに「アルファベット」が強調されているのが気になった。ちょっと行き過ぎた読み方かもしれないが、ここには日本語ではなく外国語(このツイートの文脈でいえば英語)で情報を仕入れるべきだという含意があるのかもしれない。しかし当然のことながら、日本語圏とくらべれば英語圏のほうが圧倒的にフェイクニュースは多い(英語を日常的に使用する人間の母数は日本語を日常的に使用する人間の母数と比較にならないほど多いので、PV数=収入になるフェイクニュース製造者らは当然英語でガシガシフェイクニュースを量産し続ける)。K DUB SHINEなんかもそうだが、(どのメディアや書き手が信用できるか、どのような文体がうさんくさくまたどのような文体が信用に足るかを理解できるほど達者ではないが、ある程度)英語ができて、かつ、適切な情報の取捨選択ができない(物語に対する免疫を有していない)人間こそが、ある意味ではいちばん危険なのかもしれない。
 そう書いたところでK DUB SHINETwitterをひさしぶりにながめてみたところ、ヘッダーにトランプの画像をのっけていて、ああ、もう引き返せないところまでいってしまったな、Q DUB SHINEというクソおもしろいあだ名そのままじゃんと思った。と同時に、もし彼がここまでエクストリームになってしまう前に、つまり、トランプを消極的に支持しているような時点(そのような時点があったのかどうか知らないが)で、反トランプ陣営から「(喧嘩腰の)抗議」ではなく「説得」を受けていたら、どうなっていたんだろうとも思う。
 たとえば去年、ユーミンが辞意表明した安倍晋三にたいする同情的なコメントをラジオでした際(「テレビでちょうど見ていて泣いちゃった。切なくて」)、白井聡Facebook上で「荒井由実のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。ご本人の名誉のために」と書いて大炎上したことがあったが、これについて、そんな大騒ぎするほどのことではないと感じるひとというのは、人文科学の、というか文学・批評・現代思想界隈の所作・作法に慣れ親しんでいるひとであり、界隈の罵倒芸・毒舌・罵詈雑言に慣れていないひとにとってこのコメントはきわめて過激に見えるということをすっかり失念してしまっている。文学でいえば金井美恵子なんて死ぬほど毒舌であるし、蓮實重彦がまったくもって周知でない事柄を「周知のように」と嫌みったらしく書くのも似たようなものであるのだが、その手のレトリックは、界隈に慣れ親しんでいる人間は文字通り受け止める必要はないものと知っているのだが、そうではないひとたちはやっぱり文字通り受け止めてしまうのだ。ブコウスキーの小説にはスラングがほとんど登場しない、なぜならスラングというのは共同体の言語であり、そしてブコウスキーは常に共同体に所属していなかったからだと柴田元幸が語っていたが、文学・批評・現代思想界隈のこのような言葉遣いもあくまでも文学・批評・現代思想界隈という共同体に属するものでしかない。
 もちろん、だからといって大多数に理解のできる所作・作法のみを身につけよと主張するわけではないのだが、少なくとも「説得」をこころみるときは、ある程度そのような気配りは必要なんではないかと思う、そうでないと言葉が届かない。悪い意味でのオタク、つまり同族の人間にしか通じない身ぶりを「他者」の空間で遠慮なくふるまう、そのようなありかたにひらきなおるような態度では「説得」は不可能だ。
 清水高志を滅多打ちにしたくなる気持ちはおおいにわかる。けれどももしこの社会を本当に変えたいと思うのであれば、彼がじぶんのあやまりを認めることのできるそのようなムードを根こそぎ奪うような叩き方をするのは「説得」の論理に反している。叩けば叩くほど「説得」は困難になる、というかすなおに謝ることはできなくなる。それが人間だ、そういう状況でも間違っていたのはじぶんだからとすなおにあたまを下げることのできる人間はそうそういない。

 以下も2021年1月9日づけの記事からの孫引き。

 いまはむかしよりずいぶんマシになったとはいえ、じぶんのなかにある地元にたいする憎悪に近い感情は、『責任の生成』を読んだ現在、よく理解できる。地元を捨てるというのは過去を捨てるということであり、つまり「意志」であるわけだ。二十代のころのじぶんはこの「意志」に圧倒的に依存していた(いまもやはり依存しているのかもしれないが)。つまり、じぶんは地元にいたころのじぶんとはすでに別人なのだ、完全に生まれ変わったのだという自負が、そのままアイデンティティになっているようなところがあった。人間は生まれ変わる、やりなおせる、たえまなく変化しつづける、首尾一貫する必要などないという、いまにいたるまでじぶんの基本的な構えとなっている思考も(そしてその構えとやはり地続きになっている「A」という小説も)、結局、先のような意味での「意志」を擁護するために要請されたものであり、だからこそ、現代思想によくみられる構築主義的な傾向や、ドゥルーズ=ガタリの(「ある」ではない)「なる」哲学にもすんなりなじむことができたのだろう。
 いまでも地元にいたころを前世のように感じるとたびたび書いてしまうし、実際そう感じもするのだが、これも結局、十代のころの圧倒的な無気力、地獄のような退屈さが外傷となっており、それがよみがえるのをおそれているのかもしれない、おそれているからこそことあるごとに「前世」という言葉で遠ざけようとしているだけなのかもしれない。本と出会ってから退屈や暇を感じることがなくなったというようなこともじぶんはよく口にするが、この言明だってやはりその裏にあるのはそのような退屈や暇に対する潜在的な恐怖ではないか。そして環境が変わるたびに、元の環境でつちかいはぐくんできた人間関係をバッサリとリセットしてしまう傾向は、十代の外傷を「意志」により克服した(と誤認している)成功体験を、強迫的に反復しているだけでしかないと理解することもできる。
 親族関係を厭うのも、地元を厭うのと同じで、それがじぶんの過去や来歴にかかわるからだろうか。血縁と地縁を否定したはてにはいま・ここしか残らない。そのいま・ここからあらたに行為をはじめることを「意志」というのであれば、「意志」とは自分自身に対する征服欲、コントロール欲でしかなく、もっといえばそれは、自己の有限性を認めるという意味での去勢を拒んで万能であろうとする傾向でしかない。
 そのような幼児性に憑かれていたじぶんが、ここ一二年、まさしくいま・ここから過去(来歴)に遡行し、その極点にみずからをみずからたらしめる特異性を見出しそれに寄り添い生きていこうとする精神分析に、なぜかひかれているというのはなんとも示唆的ではないか。ドゥルーズ=ガタリの、(その「有限性」の側面を排除したうえで誤読すれば)無限の可能性というチープなスローガンに短絡されかねない生成変化の哲学にではなく、むしろその「有限性」(原抑圧? 去勢?)こそが最大の問題であるとするラカン派に、仮定法過去と仮定法現在が釣り合う35歳前後に魅入られてしまうとは、ほとんど必然的な成り行きであったような気すらする。

 記事の読み返しがすんだところで書見することに。阳台の日当たりのよい位置に椅子を置き、そこに腰かけ、真正面にある洗濯機の上に足をどかりとのせる。そうしてA Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続き。“Good Country People”を最後まで読む。やはりこれは掛け値なしの、世紀の大傑作であるなと思った。
 まず他の短編との共通点がいくつか目につく。“A Circle in the Fire”のMrs.Copeにあたる、世俗化された浅はかなキリスト教道徳をそのまんまインストールした女主人であるのがMrs. Hopewellで、そうした彼女のお花畑な思考に不吉な茶々をいれる使用人Mrs.PritchardにあたるのがMrs. Freemanということになる。Mrs. FreemanはMrs.Pritchardとは異なり、じきに現実化する不吉な予言めいた言葉をくりだすことはないのだが、しかし、クライマックスであきらかになる聖書売りの男の真の興味や目的を先取りするように、彼女がJoy=Hulgaのartificial legに興味を持っているという描写(“Something about her seemed to fascinate Mrs. Freeman and then one day Hulga realized that it was the artificial leg. Mrs. Freeman had a special fondness for the details of secret infections, hidden deformities, assaults upon children.”)が序盤に置かれていることは見逃せない。
 “A Circle in the Fire”において、Mrs. Copeは自身の私有地を、闖入者にして災厄たるPowellとほかふたりの悪童によって蹂躙されることになる(このときPowellらは、持たざるもののではなく持つものにとってどこまでも都合よく解釈されている、単なるうわべだけのきれいごとになりさがった、世俗化されたキリスト教道徳によって抑圧されたもの——その回帰という位置を与えられているといえる)。“Good Country People”も、同様の構図に即して、Mrs. Hopewellが自身のひとり娘であるJoy=Hulgaを聖書売りの男によって蹂躙されるという筋で読むことができるのだが、しかし、“A Circle in the Fire”で受難に陥るのがMrs.Copeであるのに対して、“Good Country People”で受難に陥るのは、Mrs. HopewellではなくむしろJoy=Hulgaのほうだろう。
 世俗化されたキリスト教道徳をもって悪童を啓蒙しようとした結果、(多くの場合、その啓蒙の手段を換骨奪胎する相手の反撃により)痛い目に遭うというオコナーのいくつかの作品に見られる典型的な構図が、“Good Country People”では、無神論者であり哲学の博士号持ちでありnothingを信奉する女性であるJoy=Hulgaが、good country peopleの典型としてあらわれた聖書売りにその蒙昧を晴らすように働きかけるという逆転を遂げている。たとえば、聖書売りの男にピクニックに誘われたJoy=Hulgaはその夜、彼を誘惑することを以下のように考える。

During the night she had imagined that she seduced him. She imagined that the two of them walked on the place until they came to the storage barn beyond the two back fields and there, she imagined, that things came to such a pass that she very easily seduced him and that then, of course, she had to reckon with his remorse. True genius can get an idea across even to an inferior mind. She imagined that she took his remorse in hand and changed it into a deeper understanding of life. She took all his shame away and turned it into something useful.

 これは当然のことながら母(Mrs. Hopewell)に象徴されるキリスト教道徳への無神論者からの挑戦である。で、翌日、実際にふたりはピクニックに出かけ、無人の納屋でことにおよぼうとするのだが、そのとき、聖書売りの男はJoy=Hulgaに義足を取り外してみせてくれるようにお願いする。その言葉を受けたJoy=Hulgaは以下のように拒絶する。

The girl uttered a sharp little cry and her face instantly drained of color. The obscenity of the suggestion was not what shocked her. As a child she had sometimes been subject to feelings of shame but education had removed the last traces of that as a good surgeon scrapes for cancer; she would no more have felt it over what he was asking than she would have believed in his Bible. But she was as sensitive about the artificial leg as a peacock about his tail. No one ever touched it but her. She took care of it as someone else would his soul, in private and almost with her own eyes turned away. “No,” she said.

 しかしその拒絶は以下のような認識の経緯とともに解除される。

 “Oh no no!” she cried. “It joins on at the knee. Only at the knee. Why do you want to see it?”
 The boy gave her a long penetrating look. “Because,” he said, “it’s what makes you different. You ain’t like anybody else.”
 She sat staring at him. There was nothing about her face or her round freezing- blue eyes to indicate that this had moved her; but she felt as if her heart had stopped and left her mind to pump her blood. She decided that for the first time in her life she was face to face with real innocence. This boy, with an instinct that came from beyond wisdom, had touched the truth about her. When after a minute, she said in a hoarse high voice, “All right,” it was like surrendering to him completely. It was like losing her own life and finding it again, miraculously, in his.

 ちなみに、ここでJoy=Hulgaの武装を解除するにいたった“You ain’t like anybody else”という、Joy=Hulgaにとってあまりにinnocenceに感じられた言葉は、この小説の序盤にて、Mrs. HopewellとMrs. Freemanの交わすやりとりを踏まえているようにみえる。

“Well, it takes all kinds of people to make the world go ’round,” Mrs. Hopewell said. “It’s very good we aren’t all alike.”
“Some people are more alike than others,” Mrs. Freeman said.

 さらに先取りしていうと、このふたりのやりとりは、最後の最後でかたちを変えて反復される。

 Mrs. Hopewell said, squinting. “He must have been selling them to the Negroes back in there. He was so simple,” she said, “but I guess the world would be better off if we were all that simple.”
 Mrs. Freeman’s gaze drove forward and just touched him before he disappeared under the hill. Then she returned her attention to the evil-smelling onion shoot she was lifting from the ground. “Some can’t be that simple,” she said. “I know I never could.”

 Joy=Hulgaによる誘惑と啓蒙の試みは、good country peopleだと思われていた聖書売りが土壇場になってその正体をあらわしたことにより、失敗に終わる。“A Circle in the Fire”のPowellと同様、valiseを持っている聖書売りの男であるが、そのなかに売り物の聖書は入っておらず、代わりにウイスキーとエロい柄のトランプとコンドームらしきものが入っている。ここではじめてJoy=Hulgaは相手がgood country peopleではないことに気づく。あなたはgood country peopleではなかったのか、Christianじゃなかったのかと訴えるJoy=Hulgaに対して、聖書売りの男は、“you ain’t so smart. I been believing in nothing ever since I was born!”と言い残し、Joy=Hulgaの義足を奪ったまま、彼女を納屋に置き去りしてひとり逃げ去る(その姿を、事情を知らず遠目にながめていたのが、上に引いたMrs. HopewellとMrs. Freemanのふたりだ)。
 先に「世俗化されたキリスト教道徳をもって悪童を啓蒙しようとした結果、(多くの場合、その啓蒙の手段を換骨奪胎する相手の反撃により)痛い目に遭うというオコナーのいくつかの作品に見られる典型的な構図が、“Good Country People”では、無神論者であり哲学の博士号持ちでありnothingを信奉する女性であるJoy=Hulgaが、good country peopleの典型としてあらわれた聖書売りにその蒙昧を晴らすように働きかけるという逆転した構図に対応している」と書いたが、この構図は、最後の瞬間にかくしてふたたび反転することになる。無神論者であり、nothingについての哲学を読む哲学徒であるJoy=Hulgaは、聖書売りの男の言動のなかに、“She decided that for the first time in her life she was face to face with real innocence. This boy, with an instinct that came from beyond wisdom, had touched the truth about her.”と、ある種の聖性に近いものを見出すことになる。しかし実際それは的外れで、彼のほうがはるかにnothingを生きる人間であったことがその言動からあきらかになる。つまり、最後の最後で、キリスト教道徳側にいるJoy=Hulga(聖書売りの男を信じ、それまでだれにも触れさせることのなかった義足を取り外して渡し、偽っていた年齢や学歴も訂正する)と、PowellやMisfitのようにevilな存在である聖書売りの男(本名すら明かさず、最後の最後までJoy=Hulgaを騙しつづけ、彼女の義足とめがねを奪って逃走する)という、オコナーの作品になじみの構図ができあがる。そしてこのとき、「啓蒙の手段を換骨奪胎する相手の反撃」とは、無神論者として相手を啓蒙しようとしたJoy=Hulgaのnothingの哲学——それは本で読んだものでしかない——に対する、“I been believing in nothing ever since I was born!”という聖書売りの男の台詞——彼はそのnothingを生きている——と行動ということになるだろう。
 さらに興味深いのがめがねだ。めがねといえば、他作品においてMisfitやPowellなどのevilな登場人物が装着しているものであるが、“Good Country People”ではJoy=Hulgaが装着している。Joy=Hulgaは無神論者として登場するし、先述したとおり、この作品はオコナーの作品に特有の構図を転倒させた状態でスタートするものなので、序盤でJoy=Hulgaがめがねをかけているのは筋が通っているといえる。そしてそのめがねを、Joy=Hulgaは納屋で取り外す——というか、キスの邪魔になるので、聖書売りの男によって取り外されるのであり(ちなみに彼はそれより前に、じぶんはめがねをかけている女が好きだと発言する)、さらにそのめがねを聖書売りの男はじぶんのポケットにしまいこむ。つまり、この瞬間を境に、めがねの所有権はJoy=Hulgaから聖書売りの男に移るのだが、そうした流れに即するかのように、この後、裸眼となったJoy=Hulgaは啓示に近い経験を得るし、めがねを手に入れた男は先述したようにみずからのevilな正体を明かすことになる。つまり、めがねとはオコナーの作品において、やはりMisfitやPowellの同族、キリスト教道徳によって抑圧されたものたちの側、evilな側の象徴として機能しているといえる。
 ちなみに、めがねを取り外した直後の描写について、以下のように興味深い記述もある。ここに軸足をおけば、このglassesが担いうる別の機能や比喩の結節点を見出すこともできるかもしれない。

She looked away from him off into the hollow sky and men down at a black ridge and then down farmer into what appeared to be two green swelling lakes. She didn’t realize he had taken her glasses but this landscape could not seem exceptional to her for she seldom paid any close attention to her surroundings.

 ほかにもいろいろ気になったところはあったのだが、精読するつもりも分析するつもりもないので(そんな時間はない!)、あとはざっとメモしておくことにとどめる。まず、聖書売りの男が、“A Circle in the Fire”のPowellや“A Good Man Is Hard To Find”のMisfitとは異なり、三人組ではなく単独で行動している点がちょっと気になった。彼が最後の最後に口にする“I been believing in nothing ever since I was born!”を補強する材料として読むだけではちょっとつまらないと思う。聖書売りの男は、本名をあかさず名前をころころ変えるし、訪問先でJoy=Hulgaの義足と同様、ひとびとの大切なものを奪って逃走しているのだが、それが義眼であったりめがねであったりする点も含めて、ここには精神分析的の知見に即した読解の余地がおおいにあると思う。あと、彼がJoy=Hulgaと同じくheart conditionがよろしくなく、長生きできないことをMrs. Hopewellに語るくだりもあるのだが、これはごくごく普通に読めば、相手の同情をひくための単なる嘘であるということになるのだろうが、しかし作中でそのように明言されているわけではない。だからこの点だけは真実であるとして読む筋もあることはあるのであり、その場合、Joy=Hulgaと聖書売りの男を一種のペアとして読む読み方は——みずからの嘘をすべて告白するJoy=Hulgaと最後まで相手を騙す聖書売りの男という先述した構図になんらかの刺激を与えるものとしても——かなり豊かになるんではないかと思う。あとはやはり、Joyがみずからの本名をHulgaに変更したというエピソードを重視するのであれば、そもそもHopewellとFreemanという名前にもなんらかの意図を見出したくなるよなというのはある。よろこび(享楽)、希望、自由。
 あと、これは本当にクソどうでもいいんだが、I wasn’t born yesterdayという台詞が出てきた。それからkimonoという単語も。英語圏の小説、ちょくちょくkimonoという単語を見る。これってたしか前開きの、ロングカーディガンみたいな羽織りもののことを指す言葉だったはず。

 今日づけの記事を途中まで書く。18時になったところで中断し、(…)に明日のscheduleを教えてほしいと連絡する。9時半にmedical centerで待ち合わせしようという返事がある。送られてきた地図を確認してみたが、それほど遠くない、大学から(…)までの距離×2という感じなので、たぶん30分もかからないんではないか。これだったら帰り道、(…)に立ち寄って買い物することもできるし、なかなか好都合だ。翌朝は飲み食い禁止とのこと。
 キッチンに立つ。米を炊く。鶏肉とトマトとたまねぎとニンニクをカットしてタジン鍋にぶちこんで食う。明日は早起きする必要があるので、今日は食後の仮眠はとらないことにし、とっとと浴室でシャワーを浴びる。ついでに、今日快递で回収した、鏡にこびりついた水垢に特化した日本製のスポンジを使って、積年の水垢で覆われている洗面所の鏡をゴシゴシやってみたのだが、かなりきれいになった(が、まだまだ汚れは残っているので、これからしばらくシャワーを浴びるたびにゴシゴシやることにする)。
 あがる。ストレッチをし、今日づけの記事の続きを少し書きくわえる。シャワーを浴びているあいだ、排水溝のつまりが気になったので、ずいぶん前に買ったパイプクリーナー的な粒剤をわんさかをぶっこんで上から熱湯をかける。
 時々通信の「中国河南省、89%が感染 新型コロナ、地方に広がる―地元政府発表」という記事を読む。「中国河南省政府は9日、同省の新型コロナウイルス感染率が6日時点で推計89%に達したと発表した。中国政府が示す感染情報は実態と懸け離れていると指摘されるが、一部の地方政府は推計値の公表に踏み切っている。北京や上海など大都市圏だけでなく、感染の地方への広がりが明らかになっている。」とのこと。89%というのは体感通りかなという感じ。この状況でいまだ感染していないこちらはちょっとすごすぎるんではないか? 手持ちの運をすべて使い果たしているのでは? 凡蔵稀男がマナをすべて使用してもこんな状況は達成できないと思う。
 軽めの夜食としてトースト二枚を食す。ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませ、ベッドに移動。A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読み進めて就寝。