20230111

 思考とは、外から捉えれば、環境とのギャップに際した一つないし集合的な知覚行為体が、潜在的な諸可能性を背景としつつ、特定の形を選択的に実現していく過程である。たとえば何も描かれていない画布は、描く人の前に広がる未規定のギャップ(=問い)であり、他でもありえた潜在的な諸可能性から、特定の布置が実現していく過程自体が思考である。
 この定義は以下のことを含意している。
 第一に、思考は非意識的・非言語的でありうる。たとえば山を登るとき。どこに足を置き、どこを手でつかむか、複数の可能性を背景としながら特定の動きを実現することで環境とのギャップを越えていく身体の姿勢は、それ自体が、登山という問題を局所的に解き続ける思考である。そこに意識的な思考は必ずしも必要ない。
 第二に、思考は集合的でありうる。複数人が集まって考えるときだけではない。思考する個人はしばしば、外的事物とともに集合的な思考体を構成する(例:複雑な計算をするときの紙と鉛筆)。思考する人はまた、内的にも集合的だ。たとえば物をつかむとき、手の腱の複雑なネットワークは、意識的思考とは独立に適切な形態を生成し続ける。それはサブパーソナルな(個人というスケール以下で働く)思考体だ。
 第三に、思考体は非人間(人間以外のもの)でありうる。変動する環境に応じて生長する植物は、他でもありえた可能性を背景としつつ特定の形を実現していく点で、本書の観点からは思考していると言われうる。
 第四に、思考の背景をなす諸可能性は、必ずしも現前しない。食堂のメニューから一つを選ぶとき、選択の可能性は目の前に一覧されるが、絵画をどのように描きうるかの可能性は事前に見通すことができない。
 最後に、思考は問いを必ずしも解かない。問い、すなわち環境とのギャップに直面して混乱し、もつれ、ともかく実験的に一つの形をとり続ける過程は、思考である。
 「思考の集合性」という、第二の含意をさらに掘り下げよう。紙の上に鉛筆で計算をおこなうとき、計算の記号過程は、紙の繊維とグラファイトの粒子の間で生じる物的過程からいわば「隔離」されている。つまり線のかすれは計算過程に影響しない。対してカンヴァスに絵具で描くとき、絵具と画布の繊維の間で起こる物的過程は、絵画の思考の内的な一部をなしている。だが絵具と繊維の間で生じる出来事の細部を、画家が全的に意識できるわけではない。絵画の思考は部分的に非意識的であり、画家の生物学的身体の外で起こる物質的過程に開かれている。
 アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは『科学と近代世界』(一九二五)において、一七世紀に哲学者フランシス・ベイコンが物的対象の「知覚(perception)」を論じていたことに注目している。ホワイトヘッドが引くのは、ベイコンの『森の森、または自然誌』(一六二六)第九センチュリー冒頭である。

あらゆる物体は、よし覚識(sense)を持たないにしても、知覚(perception)を持っている、ということは確かである。なぜなら、一つの物体が他の物体に出会うとき、好ましいものを抱き、好ましからぬものを排除または排斥する一種の選択が行われる。[……]たとえば、晴雨計は、われわれが発見しないのに、寒暑の極めて微細な相違を発見する。またこの表象は接触した場合だけでなく、時には距離をおいて得られることがある。たとえば、磁石が鉄を引きつけたり、あるいは焔がバビロンの揮発油を相当離れたところから引きつける場合などである。

 意識を欠く物体もまた「知覚」する。ベイコンの言うこのような知覚(=影響受容)を、ホワイトヘッドは「抱握(prehension)」という概念で呼び換えている。物体は互いを知覚=抱握する。絵画で言えば、画家は、画布上の事物たちの知覚=抱握過程と協働しながら、思考している。非生命的な物体どうしの作用もまた、集合的な思考過程の一部をなすのだ。
 集合的思考は、内から捉えれば、物的・心的な抱握関係による記号の連鎖からできていると考えることができる。ここで「記号」とは、何らかの仕方で他の形を部分的に変換して伝える形のことだ。抱握する形は抱握される形の記号となる。絵具のにじみ(抱握する形)は、画布の繊維構造(抱握される形)を部分的にうつす記号である。生物の知覚(抱握する形)は、外的環境(抱握される形)を部分的に抽出して変換する記号である。現在の私の思考(抱握する形)は、過去の私や他の者たちの思考(抱握される形)を変換して継続する記号である。生物の関わらない事物連鎖——風に吹かれて舞う砂、水流に削られる岩など——もまた、ある事物のパターンが他の事物のパターンに抱握され部分的に変換されている点で、物的な記号過程として考えることができる。生物の心的記号過程はそれら物的記号過程と連続し、分かちがたく絡まりあっている。
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「序章 布置を解く」 p.5-7)



 10時半にアラームで起きる。11時までぐだぐだ寝床にとどまる。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックし、トースト二枚の食事をとる。それからコーヒー二杯をたてつづけに飲みながら、きのうづけの記事の続きを長々と書き記す。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年1月11日づけの記事を読み返す。(…)くんから結婚報告のあった日。(…)くん、めちゃくちゃ高級なてんぷらやで大将をするという話だったが、実際いまそういう立場なのだろうか? 将来的には独立もしたいと最後に会ったときに言っていたし、40歳までにそういう勝負に出る予定だったりするのかな。
 あと、去年のいまごろもやはり空がガスっていたらしい。以下のような記述があった。

買い物をすませたところで帰路へ。空はガスりまくっていた。温泉地みたいな感じ。しかしスマホの天気予報でみるかぎり汚染指数は低い。ということは、これはPM2.5ではないのだろうか? ただの霧かなにかだったりするのだろうか? 二年前の冬場はなかなかすさまじかったというか、汚染指数が限界値近くに達しているような日などもけっこう頻繁にあったものだが(そしてそのことを子持ちの(…)はモーメンツ上で嘆いていた)。

 それから2021年1月11日づけの記事より孫引き。『妄想はなぜ必要か ラカン派の精神病臨床』(コンタルドカリガリス/小出浩之+西尾彰秦訳)と『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 (國分功一郎/熊谷晋一郎)を踏まえた内容っぽい。

神経症者の自律妄想」という言葉が出てきたが、この考え方がとても面白い。まず神経症的主体の説明として「父の隠喩によって、神経症者は特権的な参照点を獲得し、この点を中心にしてさまざまな意味作用が配分されると同時にひとつの意味作用が神経症者に約束されます。神経症の主体が、父への依拠から手に入れたこの意味作用は、父の系譜から獲得されたものです」(23)とある。それに対して精神病的主体はそのような父を持たず、しかるがゆえにパラノイア的な妄想という手段によって父の機能を組織する必要があるとされる。ここまではラカン派の基礎的な理解だが、精神病的主体のそのような妄想(父なるものの構築)について、「神経症者の自律妄想にもこれと似たものが認められます」とカリガリスはいう。では、その自律妄想とは何かといえば、以下のように説明されている。「この妄想では、無意識の知の側で父の機能が禁圧されるために、主体は意味作用を系譜不在の中で作り上げなくてはならないのです。ですから、神経症者は自分が自分の父であるという隠喩の上に自らを基礎づけることになるのです。」「自律妄想は系譜不在妄想です。「私がすることは私自身の自由選択である。私は自由に選択することができる。私は自由にどんな選択をすることもできる」ということです。」(25)。これはまさしくアーレント的な意志にほかならない。「系譜不在」であることがそのまま「自由に選択することができる」という妄想につながる。そしてこのような自律妄想を、神経症的主体は免れえない。「あらゆる神経症者に共通な運命である自律妄想の中で、神経症者は自分が自分の父の位置にあるという隠喩の上に自らを基礎づけています。そこでは、まるで彼が自分自身の父であるかのようです」(25)。これを自由意志の不在を主張するものとして読むのはおそらくあやまりだろう。それよりも無限性を否定し有限性を主張するものとして、つまり、神経症的主体はあくまでも去勢のほどこされた主体であるという当然の事実を確認するものとして読むべきだろう。「意志」とは、「自律妄想」に過ぎない。

 それから今日づけの記事もここまで書くと時刻は15時半だった。

 (…)先生から微信が届く。来学期の時間割。火曜日の14時半から二年生の日語基礎写作(二)、16時半から日語会話(三)。金曜日の14時半から一年生の日語会話(二)。(…)一年生の日語会話(二)については、まだ決まっていない模様。火曜日の午後、四コマ連続——授業ひとつにつき二コマとこちらでは計算する——で同じクラスの授業をすることになるわけで、正直これはちょっと嫌だな。だれるに決まっているので。まあ文句はいうまい。
 一年前の今日、(…)くんから結婚報告があったと書き記したときに、ふと、そういえばメールボックスを長らくチェックしていないぞと気づき、それでひさしぶりにhotmailにログインして中身に目を通してみたところ、今月の2日に(…)さんからメールが届いていた。何年か前にも参加しているときいていたが、詩人の藤原安紀子のワークショップにいまも参加しており、その一環として参加者が発表を行なっているのだが、そこで(…)さんも「樫村晴香の漫画論及び『わたしは真悟』論を批判した物」を発表したらしい。で、その発表の資料と動画があるので、ひまなときにでも観て読んでしてみてくださいとのこと。「岡崎乾二郎の批評ゼミでも少し似たようなことをやったのですがそれを僕なりにブラッシュアップした物です」とのことなので、なるほどけっこうガチガチのやつなのかなと思ってまず資料をダウンロードしてみたところ、「樫村晴香のどこが間違っているか?」というタイトルがどかーんと表示されて、わ! いきなり本歌取りか! となった。「ドゥルーズのどこが間違っているか」に関しては、たぶんもう15年くらい前、保坂和志経由で樫村晴香という存在を認知した折に、保坂和志の公式ウェブサイトで公開されているものに目を通そうとしたところ、いやこれ無理だわ、全然太刀打ちできんとなって、で、あれ以来結局再挑戦していない。同ページで公開されている『わたしは真悟』論についてもたぶんざっと斜め読みしたことがあるかないかで、そもそも樫村晴香の論考を読もうとするのであれば、精神分析の基礎知識がほぼ不可欠であるし、こちらが精神分析に興味をもったのはせいぜいここ三年か四年ほどのことなので、当時しっかり読もうと思ってもたぶんちんぷんかんぷんだったと思う。ちなみに、資料のほうには『ゴダール的方法』(平倉圭)や『恥のきずな』(カルロ・ギンズブルグ)などが引かれているのだが(前者は発売当初に買って読んだが、後者はそもそも名前すら知らない書き手だ)、それとともに、シンボルスカの「子どもの誕生に対して世界はいつも不用意である」という一節もエピグラフとして引かれており、シンボルスカ! 円町時代に図書館で詩集を借りて読んだぞ! すっかり忘れていた! となつかしく思った。
 で、動画のほうもダウンロードしてみたのだが、これが二時間もあるものだったので、あ、こりゃ片手間じゃあかんわ、となった。かなり本格的な内容のようであるし、だったらいっそ『わたしは真悟』を再読し、さらに「Quid ? ソレハ何カ 私ハ何カ」も読んだうえで、視聴したほうがよさそうであるなと判断。今日から来学期の授業準備も開始する予定であるし、ちょっと先になってしまうかもしれないが、なるべく冬休み中に消化しておきたい。新学期がはじまってしまうと、なかなかまとまった時間もとれないだろうし——と考えて、ひとまず「Quid ? ソレハ何カ 私ハ何カ」だけでも印刷しておくかと思ったのだが、該当ページが文字化けしていっさい読めなくなっていた。Chromeに対応していないのだろうか? だったらSafariでと思ったが、いま使っているVPNはそもそもChromeに搭載しているやつなので、SafariではGFWにはばまれて壁の外にアクセスすることができない。クソが! と、ここまで書いたところで、iPadであればVPNを噛ませたうえでSafariを使用できると気づき、それでくだんのページをおとずれてみたのだが、やっぱり文字化けしており全然読むことができなかった。キエー! GAME OVER.
 あと、(…)さんからはコハクの写真も送られてきたのだが、成長して毛の色がちょっと変わったのか、あるいは写真映りの関係でそうみえるだけかもしれないが、全然琥珀模様じゃなくなっていたので笑った。やっぱりアシュラと命名しておくべきだったか……。
 キッチンに立つ。米を炊き、豚肉とトマトとよくわからん葉物とニンニクをカットしてタジン鍋にぶっこむ。食す。食後はベッドに移動し、A Good Man Is Hard To Find(Flannery O’Connor)の続きを読む。(…)から微信が届く。明日の午前10時に彼女のofficeで待ち合わせし、警察署にビザの手続きにいきましょう、と。了承。が、すぐにまた連絡があり、明日は会議に出席する必要がある、やはり明後日にしてほしいとのこと。問題なし。予定なんてひとつもない人生だ。それにしても中国社会、本当に会議が多い。無駄な会議といえば日本の代名詞みたいなもんだと思っていたのだが(といいながらもこちらは会社勤めをしたことがないし正社員になったこともないのでよく知らないのだが)、中国の会議の数はマジでえげつない。たぶん無駄な会議とカテゴライズされているもののうち、半分以上が共産党関係の形式主义にすぎないアレっぽいのだが。
 20分ほど仮眠をとる。上の部屋でババアがまたクソでかい声を張りあげて騒いでいる。それに応じて足音もガンガンたつ。こちらも負けじと吠える。はやく感染して寝込めバカ!
 浴室でシャワーを浴びる。あがってストレッチ。(…)先生から微信。論文の要旨をチェックしてほしいという(とお願いするメッセージは例によってすべて中国語!)。なんの論文かは知らない。風のうわさで博士号を取得しようと奮闘しているという話を聞いたことがあるし、去年研究対象としてどの作家がいいだろうかというあまりに他人任せな質問をこちらに寄越したこともあったが(じぶんの担当するスピーチコンテスト参加者の原稿をろくにチェックせず、すべて部外者であるこちらに任せたうえで、さらに自分自身に関する勝手な依頼をよこしてみせるその傲岸不遜さにこちらはあたまにきてしまい、そのメッセージはシカトしてやったのだが!)、まさかもう博士論文を書きあげたのだろうか? いや、さすがにそれはないと思うのだが、というかそもそも博士号を取得するための仕組みや制度のことをこちらはまったく知らないので、大学教員として教壇に立ちながら同時に博士号を取得するための研究および論文執筆が可能であるのかどうかそれすらよくわからんというか、いやそれはできるか、可能か、しかしそうだとしても研究対象の選択にあたって質問をよこしたのが去年の秋口だったはずで、そこからものの数ヶ月で博士論文? いや、今回のものが博士論文ときまったわけではない、そうではない別の論文なのかもしれないが——と思ったのだが、とりあえず了承し、受けとった論文のタイトルを見たところ、毕业论文の文字があり、は? 卒業論文? よくわからん。彼女の論文ではなくうちの学生か、あるいは彼女の知り合いのほかの学生の論文ということだろうか? 中身は宮澤賢治について。要旨の日本語文はそれほど長くないので、やろうと思えばたぶん10分くらいで片付けることもできるのだろうが、ちゃちゃっとやって返却すると絶対に調子こいてあれもこれもとうっとうしい依頼をガンガン寄越してくるタイプの人間であるので、しばらく時間をおくことにする。
 コーヒーを淹れる。モーメンツをのぞくと、一年生の(…)さんがカメラに向けてモデルばりにいろいろな表情をこしらえている動画を投稿していたのだが、(…)の(…)さんそっくりだった。(…)さん、先学期の最初の授業で自己紹介したとき、あの子ちょっと(…)さんに似ているなと思ったのだったし、だからこそ名前と顔が比較的はやい段階で一致したのだが、大学に入学して半年が経過したいま、化粧をおぼえ、さらに髪の毛を短くしたこともあって、マジでびっくりするほど(…)さんそっくりになっているというか、(…)さんの二十代ってきっとこんな感じだったんだろうなと頻繁に投稿される自撮りをみるたびに思う。ちなみに(…)さんは自撮り大好き系女子としてはめずらしく授業はしっかり受けているし、期末テストの結果もちょっとびっくりするくらい優秀で、こちらはほぼ100点に近い評価をつけている。
 「実弾(仮)」第四稿執筆。19時45分から22時45分まで。プラス13枚で計106/977枚。ここはそれほどむずかしくない。漢字をチェックしつつ、ラブホの間取りや景人の持っている携帯電話の描写などを加筆する。あと一回だけ目を通せば、たぶんそれで問題ないはず。
 腹筋を酷使する。プロテインを飲み、餃子を茹でて食し、ジャンプ+の更新をチェックする。上の馬鹿が椅子を床にひきずる音がたびたびたつ。その都度大声で叫んで抗議する。死ねアホ。
 23時半から授業準備にとりかかる。まずは日語基礎写作(二)から。写作の授業についてはこれまでけっこういろいろな教案をこしらえてきているので、その中からウケのよかったものをピックアップしていけばそれだけで三分の二はカバーできる。ただ通年で担当するのは現二年生が初であり、となるとやっぱり既存の教案だけでは足りない部分もでてくるので、そこをどう埋めるかについてちょっと思案する。これまで文学系の授業でやるようにしていた「(…)」や「(…)」を使いまわす可能性についても考えたのだが、これらは来年の日語閲読(三)にできればとっておきたい(文学系の授業と同様、閲読の授業も今後は中国人教諭が担当するというのが確定しているのであれば、遠慮なく写作に使いまわすのだが)。で、(…)さんや(…)さんも授業でとりあつかっていたし、比較的学生のウケもよかったと聞いている川柳の授業をこちらもやってみることにした。サラリーマン川柳とかシルバー川柳とか、あのあたりの代表作の中から比較的わかりやすいものをピックアップし、例題をいくつか解説したのち、残りは穴埋め式で考えさせるというもの。要するに「(…)」の授業と同じ。そういうわけでひとまずネットでサラリーマン川柳を収集しまくった。
 1時半になったところで作業を中断。1時をまわってなお上の馬鹿がなんの遠慮もなく椅子をひきずるので(それも「おまえバレたらやばい死体でも隠蔽しようとしとんけ?」というくらいずるずるずるずるひきずりまわす!)、椅子を頭上にもちあげて天井を30回連続で叩きつけた。本当にはやく感染して死んでほしい。ひさしぶりに猛烈な下痢に見舞われ、夜中に三度ほど便所に駆け込んだが、この際だからこれも上の馬鹿のせいにしておく。もしじぶんが感染することがあったら、上の部屋の玄関前にたって、きっと一時間ほど咳きこんでやる——と書いて思ったのだが、日本でコロナが流行しだした当初、居酒屋とかコンビニとかそういう場所で「おれはコロナだ!」と意気揚々と自慢してパクられていたおっさんが複数いたが、あれはたしかほとんどが名古屋もしくは愛知の人間だったはず。やっぱり東海地方のしょうもないカッペはそういう発想にかたむくんやな。わかるで。