20230117

 一九〇八年一二月、アンリ・マティスは「画家のノート」という文章を発表して自らの制作方法を表明した。そのなかに、「布置(disposition, disposer)」という語が二度現れる。

私にとって、表現とは顔に溢れる情熱とか、激しい動きによって現される情熱などのなかにあるのではない。それは私のタブローの布置(disposition)の仕方全体のうちにある——人体が占めている場所、それらを取りまく余白の空間、釣合いなど、そこでは一切が役割をもっている。構図(composition)は画家が自分の感情を表現するために布置する(dispose)さまざまな要素を装飾的な仕方で整えるわざである。

 「布置(disposition, disposer)」という語が「画家のノート」のなかで使われるのはこの二か所のみだ。それは頻度において、「構図(composition)」や「表現(expression)」といった語のはるか後方に位置するマイナーな用語でしかない。しかしマティスにとって、この「布置」という操作は原理的な意味を持っている。

白いカンヴァスの上に青、緑、赤などの感覚をまき散らすと、一筆加えるごとに前に置かれた(posées)タッチはその重要さを失ってしまう。室内を描くとする——私の前には戸棚があり、実にいきいきした赤の感覚を私に与えている。そして私は満足のいくような赤を置く(pose)。この赤とカンヴァスの白との間にある関係が生まれる。そのそばに緑を置き(pose)、黄色で寄せ木の床を表現しようとする。[……]だが、これらのさまざまな色調はお互いを弱めてしまう。私が使ういろいろな記号はお互いを殺さないように釣り合いがとれていなければならない。

 マティスは、白いカンヴァスの上に、赤、緑、黄の「感覚」をまき散らす——ばらばらに置いていく(poser)。ばらばらに置かれた諸感覚を、後から装飾的な仕方で整えていく枝が、「構図(com-position)」である。だが、筆が加えられるたびに全体の構図は一つのまとまりに向かう一方、まき散らされた個々の感覚は「その重要さを失ってしまう」。いったい一つの画面として完成しており、同時に、そこにまき散らされた感覚のそれぞれもまた生彩を失わないような絵画はいかにして描きうるのか? すなわち一つであると同時にばらばらであるような絵画はいかにして描きうるのか?
 たんに一つにまとまっているだけの絵画なら、どんな凡庸な画家でも描きうる。問題は、一つであると同時にばらばらであること、画面に置かれた諸感覚の離散的な自立性を、絵画の最終状態にまで持ち込むことだ。「布置」、すなわち「離れて-置く(dis-poser)」という語が指しているのは、この離散化の操作である。マティスのあらゆる「構図」すなわち「共に-置く(com-poser)」ことの基底には、「離れて-置く」ことのアナーキーな運動がうごめいている。
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「第3章 マティスの布置」 p.81-82)



 11時過ぎ起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。トースト二枚を食し、コーヒーを飲みながら、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所巡回。2022年1月17日づけの記事を読み返す。ジョン・ケージ柿沼敏江・訳『サイレンス』の一節「質問がなければ、答えもない。だから、質問があれば、もちろん、答えがある。しかし最終的な答えが出ると質問がばかばかしく思えるのに、そうなるまでは、質問のほうが答えより知的に思える。」、いいなと思う。
 以下、大切なこと。初出は2021年1月17日づけの記事。

 それでまた陰謀論について思うわけだが、じぶんがこの手の言説にハマらないのは十代と二十代の断絶のおかげなのかもしれない。田舎のローカルルールや価値観がまったく通じない都市部の大学に入学すると同時に本を読むようになり、じぶんのそれまでの人生すべてを否定されるような衝撃を受けたことによる去勢が、思考や価値観と呼ばれているものすべてに対する根深い懐疑になっているのではないか。いまでもおぼえているのだが、ゼミで知り合った(…)という同級生がいて、彼はたしか生まれは台湾で育ちは関東、父親はパイロットというエスタブリッシュな出の男で(そういう経歴の持ち主が(…)学部にはたくさんいた)、そのプロフィールを知った時点で当時まだ左耳にピアスを五つくらいつけて眉毛をちょんちょんにしていた18歳のこちらは「なんやそれ! 少女漫画の住人かよ!」と若干気遅れするわけだが、たしか大学に登校した初日か二日目だったと思う、その彼がひとでごったがえした校内の廊下を歩いている最中、向こうから歩いてくる男子学生と肩をぶつけた瞬間に、「あ、ごめんなさい」とものすごく自然に謝ったのだ。これは死ぬほど衝撃だった。つまり、こちらの常識でいえば、すれちがいざまに肩をぶつけるということはすなわちケンカの合図であり鞘当てであるのであって、そこからガンつけ→巻き舌→殴り合いの三段式に事態は進行すべきであるし、そう進行しなかった場合はそのプロセスを拒んだほうがその後永遠にビビリのレッテルとともに過ごさなければならないものであったのだが、(…)はそのプロセスを拒んだというよりはまるでそんなプロセスなど存在しないかのようにふるまったのだった。いや、実際彼の世界にはそんなプロセスなど存在しなかったわけなのだが、とにかく、このときの衝撃はいまでも忘れられない。どれくらい衝撃的だったかというと、当時まだ(…)にいた(…)に帰宅後わざわざ電話をかけて京都と(…)は全然違う、高校と大学は全然違うぞと報告したくらいだった。じぶんから他人に用事もないのに電話をすることはまずないこちらがわざわざ夜アパートの自室から電話をかけた、そのことの重みを理解してほしい。
 (…)だけではなかった、(…)にしても(…)にしてもそうであるが、ヤンキーオーラを出しているこちらにたいしてごくごく普通に話しかけてくるその構えのなさにも心底おどろいた。田舎の不良社会というのはいわばマウントの取り合いがそのままコミュニケーションであり、いかに相手をびびらせるかという勝負がごくごく普通のやりとりのあいだも底流のようにしてあるのだが、標準語をあやつり屈託なく初対面のこちらのことをほとんど無防備にファーストネームで呼んでみせるそのふるまいに当時のこちらはやはり度肝を抜かれた、こいつらそんなふうには見えないがよっぽど腕に覚えがあるのか? 黒帯か? と疑心暗鬼になったのだった。ひとことでいえば、みんな上品だった。あるいは、18歳のこちらが下品だった。
 (…)に誘われて新京極をはじめて歩いたときも驚いた。派手な格好をしている男たちがうじゃうじゃいるのに、だれひとりとしてケンカを売ってこない(この違和感は後年、京都にやってきた(…)も表明していた)。髪を染めているもの同士ピアスをつけているもの同士が路上ですれちがったら、まずはガンつけするのが普通であるしそれをしないということはじぶんはビビリですと認めるようなものであるはずなのに、みんな平気でこちらから目をそらす、それも勘弁してくださいの逸らし方ではなくほんとうに文字通り「眼中にない」という感じの、目が合ったはずの一瞬もあったのにそこにはなんの意味もないという感じの逸らし方で、不気味に思えて仕方なかった、ぜんぜん落ち着かなかった、だから最初のうちは四条河原町のほうに出るのが嫌だった。
 ただ、じぶんはかぶれやすい人間なのでそういう非地元的なふるまいにもろにかぶれた。主に大学の同級生らをモデルに、彼らのふるまいや物腰を全力でインストールした。その過程はすごく楽しかったと思う。しかし、かぶれすぎたせいで、地元に対する感情がその後長期間にわたって「憎悪」や「軽蔑」で塗り固められていくという弊害も生じた。この感情には当然、問題だらけの家庭から離れてひとり暮らしすることになったあの解放感もかかわってくるわけだが(京都のアパートで寝泊まりすることになった最初の夜、めちゃくちゃ嬉しくなってひとり部屋でガッツポーズをとりまくったのをおぼえている)。
 話が大脱線した。ここで言いたいのはつまり陰謀論にハマらないためには去勢の経験が大切なんではないかということだ。千葉雅也は中学生か高校生のころ、いまほどまだ一般的ではなかったインターネットに毎晩接続して匿名のチャットをしていたらしいのだが、齧った程度の現代思想の知識をそのチャット上でひけらかしていたところ、チャット相手であった専門の大学教授に鼻っ柱をバキバキに折られたとずっと以前Twitterでつぶやいていたことがあったが、そういう去勢の経験、もっとカジュアルにいえば面子を潰されたという経験が、(情報そのものではなく)情報に触れる自分自身の知性を常に疑うという構えを一種の症候として作り出すのではないかと思ったのだ。つまり、陰謀論にハマらないためには(ワクチンとしての)黒歴史が必要だということだ。黒歴史の持ち主はじぶんがまたやらかしてしまうのではないかという不安に常につきまとわれている。それは別の言い方をすれば、自分自身の感じ方、考え方、認知に対する不信感のようなものだ。そういう不信感を適度に持ち合わせている主体は、よくもわるくも慎重になるし、その慎重さが「答え」に飛びつく安易さを牽制してくれる。
 それでいうと清水高志が炎上していた際、本当かどうか知らないけれども彼とかかわったことのある大学関係者だったと思うが、清水高志はじぶんの親族は全員が東大に入学しているので東大に入学することが当然みたいなことを語っていたといっていて、その文脈が知れないので勝手なことはいえないのだが、もしそれが批判者のいうように、一種のマウンティングとしてドヤ顔でなされた発言であったとすれば(さすがにそれはないと思いたいが!)、去勢なしでその年まで生きてしまったひとというふうにも理解できてしまう、知にかんしてじぶんがあやまることはまずないという前提が、こんなにも容易な陰謀論やフェイクに手を出してしまうというおよそ哲学者らしからぬふるまいを可能にしてしまったのかなと推測できる。めちゃくちゃ乱暴なアレだが。
 じぶんが18年間ずっと間違い続けてきたことを知る衝撃というのは、そしてそれを認める抵抗というのは尋常ではない。いまおもえば京都に出てほどないころ、当時はそんな言葉を知らなかったがじぶんは完全にSADっぽい症状を発症していたし(いちばん記憶に残っているのは、マクドナルド金閣寺店でひとりでハンバーガーを食べようとしたところ、周囲の視線が気になって全然食べることができなくなったことだ)、あれは一種の適応障害だったのではないかと思う。そしてその障害をこちらは、地元的なものを全否定することで一時的に誤魔化し(これはたとえていえば、極右から極左に転向するようなものでしかなく、主体に本質的な変化をもたらしてはいない)、その後十年以上かけてじっくり分析と解釈をくりかえしていったといえる。それまでの常識が「間違い」であることを知り、そしてその「間違い」とみなしたものが実際はただの「違い」であることをまた知る、その上でしかし「違い」のままですませてはいけない「間違い」もまたあることを、そしてその一線を見分けるものが知識であり、その一線をみずからの手でひきなおしていくことがプロセスとしての学習であることを理解するという長い旅路。
 常識、固定観念、身体や環境によって作りあげられてきた諸々のパターンを、これは間違いであると一度でも認識したことがあるかどうか、あるいはそれが間違いとなってしまう別の域に越境してみたことがあるかどうか、それがあるかないかだけで人間の深みのようなものにおそらくおおきな差が生まれる。去勢とは越境であるといってみてもいいかもしれない。

 時刻は15時。夕飯までの時間、授業準備をするか執筆するかというところであるのだが、今日はひさしぶりの晴天で、阳台のほうにかなり暖かそうな日差しがさしこんでいるので、ひなたぼっこを兼ねてそちらで書見することにする。

 坂本龍一の新譜『12』やYMOの『LONDONYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN LONDON 15/6 08-』や『GIJÓNYMO -YELLOW MAGIC ORCHESTRA LIVE IN GIJÓN 19/6 08-』を流しながら、『わたしは真悟』(楳図かずお)の続きを読む。坂本龍一の新譜、いい感じ。ずっと流していても疲れない。坂本龍一については近作の『out of noise』と『async』がいちばん好きなのだが、『12』もけっこういいかもしれん。三作まとめてお気に入りになるかも。ちなみにゴダールも『フォーエヴァー・モーツアルト』と『アワーミュージック』という比較的後期——という表現を使うことができてしまう現状を思う——の作品が好き(というか『ゴダール・ソシアリスム』以降の三本は観ていない)。
 『わたしは真悟』は第5巻と第6巻を読んだ。このあたりからいよいよ物語が加速しはじめる。というか、美紀の登場をきっかけとして、完全に物語の枠組みがぶっ壊れるという印象を受ける。この美紀というキャラクター、ごくごく普通に考えると、真悟とペアになる存在であり、鏡像であり、真悟を裏返しにしたような存在として設定されているはず。だから、機械でありながらかぎりなく人間に近い真悟に対して、人間でありながらかぎりなく機械に近い——あるいはかぎりなく非人間的な——存在として見るべきなのだろうが(「わたしは動くことも食べることもうまくできません。」「見ることも聞くこともしゃべることも……」という本人の台詞や、彼女の姿を見たしずかの「ぐにゃぐにゃした、なんだかわけのわかんないもの」「手も足も顔も……なんにもないのよ」という台詞から、多くのひとは怪物的な畸形を想像するだろう)、その後、美紀の両親によって、本物の美紀はとっくに死んでおり、ふたりがただベッドにまだ彼女がいるという体裁で生活——美紀がいる「かのような」暮らし——を続けていたにすぎないことがあきらかになる。
 このくだりは、独立したエピソードとして見てもかなりおもしろいし、いろいろ論じたくなるような意味の余白をそなえているようにみえる。しかし、美紀の存在があくまでもベッドに隠されたままであれば(天蓋によりその姿が読者にも隠されたままであれば)、真悟のペアというその位置づけにもまったく問題ないのだが、ベッドのなかには実はだれもいなかったという不在が露骨に指摘されてしまうとなると、そのようなペアは容易には成立しがたくなる。仮に、美紀を両親にとってのイマジナリーフレンドのような存在(妄想)とするか、あるいは幽霊のような存在であるとするかして、そのような存在が、意識をもった機械(=真悟)のカウンターパートたりうるかというと、けっこう無理があるのではないか。
 このあたりはほぼ書き手としての直観としかいいようがないのだが、楳図かずおはここで失敗したのだと思う。ここにいたるまで『わたしは真悟』という作品は、ひとつの破綻もなく、(それこそ機械のように)完璧に機能していた。「333ノテッペンカラトビウツ」ることでさとるとまりんのあいだに子ども(真悟)ができるという展開も、きのうづけの記事にも書いたが、風が吹けば桶屋が儲かる式の結果であると読む筋は十分確保されている(さらにいえば、電気や電波が重要なファクターとして登場するこの作品において、日本最大の電波塔である東京タワーが奇跡の舞台としてピックアップされるのも、物語として理に適っている)。美紀との遭遇までで話が終わっていれば、『わたしは真悟』という作品はおそらく、ほどほどに美しい佳作ということになっていただろう。
 しかしここで美紀の両親がベッドの中身が空っぽであることをバラした瞬間、そのような美しさ(整合性)が破綻しはじめる。さとるとまりんは東京タワーのてっぺんからヘリコプターに飛び移り、そして無事に着地するにいたったわけだが、物語が本当に飛躍をはじめたのはほかでもないここからであるのではないか。そしてその飛躍が着地を見ないまま、落下とも滞空ともいえる、足場(根拠)のない状態のなかで、物語はどんどん先に進んでいく(加速する)。実際、ここではじめて「神」という言葉が登場するし(美紀の母親が真悟のことをそう呼ぶ)、以降の展開で重要になる謎の虹や東京コンピューター研究所という組織も登場する。ここで一気にゲームが変わったという印象を受ける。傑作がはじまる。
 ちなみに美紀についてはもうひとつ気になるところがある。美紀の部屋でボヤがあったあと、彼女のベッドに駆けつけた両親に対する彼女の最初の言葉が「わたしを殺さないで!!」であるという点(18ページ)。これに対して美紀の両親は「美紀がっ!!」「しゃべった!!」と反応する。つまり、美紀の最初の言葉は「わたしを殺さないで!!」であるというわけで、ここもあまり目立たないかもしれないが、けっこうでかいフックだよなと思う。

 145ページで、真悟がさとるとまりんと自分自身の自画像を地面に描く。さとるとまりんが横並びになり、そのふたりから斜めにのびる線の下方に自己を位置づけるのだが、それに対して子どもたちのひとり(さんちゃん)が、さとるとまりんを結ぶ横線を追加で引く。ここもちょっと気になる。第三者である子どもの手で三角形が結ばれる。意味深やね。
 それから「まりん/ぼくはいまも/きみを/あいしています」というさとるの言葉が、しずかによって「ゆいごん」とされている箇所(さらに彼女は「まりんのお墓」という言葉も口にする)。さとるとまりんを死者というステータスに位置付けて読む筋もあるかもしれない。あるいは、大人になるということを(子どもである自分の)死として読む筋。
 子どものひとり(まさ)が、彼を探しに倉庫にやってきた母親(窓越しのそのシルエットは不気味に表象されている)の返事に答えそうになるのを別の子どもに妨げられる(倉庫には大人たちに見つかってはいけない真悟がいるので)。しかし別の子どもが、真悟が地面に描いた先の三人の絵を見て、「パパとママのいるところを聞いているのだよね?」と口にした次の瞬間、パパとママを探す真悟(子)の構図にみずからも従うかのように、まさは「おかあさん!」と叫びながら母親のもとに駆けていく。が、階段で足を滑らせて落下し、頭から血を流しながら倉庫のほうに戻り、その中にいる仲間たちに「逃げろーっ!!」と言いながら力尽きる。この一連の展開、特にまさのアンビバレンツな、ほとんど矛盾したふるまいをフックとすることで担保することのできる読み筋もありそう。
 子どもたちはさんちゃんの運転するトラックで逃走する。トラックはさんちゃんの父親のものだ(さんちゃんは子どものまま父としてふるまう?)。さんちゃんはその後事故で死ぬのだが、助手席のしずかたちはさんちゃんが死んでいることに気づかず、彼に話しかけ続ける。まるで死を理解していないかのようなふるまいであるのだが、これを、やはり死を理解していない真悟がのちほど演じるふるまいと重ねてみることもできるだろう(子どもとは、子どもの作り方を知らない存在であると同時に、死を理解していない存在であるという定式——いや、ほかの場面で子どもたちが死を理解しているようすはあったかもしれないが)。
 あと、ちょっと気になったのは、「まりん/ぼくはいまも/きみを/あいしています」と記された紙をしずかにみせられた真悟が、そのあとをついていくという箇所。ここは、物語の流れ的に、違和感なくさらっと流すこともできるのだが、死んでしまったたっちゃんに対して死を理解できない真悟が「ナゼ」と疑問を抱いてフリーズしてしまう、そのフリーズ(疑問)をひとまず解除することのできる言葉として、(しずかいうところの)さとるの「ゆいごん」が機能していると読めば、ちょっと解釈の余地がひらけるかもしれない。
 第6巻。東京コンピューター研究所の面々が、真悟をかばって命がけの逃走をする子どもたちに対して、「それにしても…こどもをこんなに夢中にさせる理由は、いったいなんなんだろう!?」と口にする(17)。ところで、真悟からの救援メッセージをパソコン上で受けとったタケシが「これ、ゲームだっ!!」「新しい脱出ゲームだっ!!」と反応したうえで、しばらく真悟とやりとりをかさねたあと、「始めに言葉ありき、」「シンゴは、さとるとまりんに言葉を教えられて意識を持ったんだっ!!」「わかった、これは、シンゴがさとるとまりんという親を尋ねるというゲームなんだ!!」とひらめくにいたる(59)くだりがあるが、この「ゲーム」を「こどもをこんなに夢中にさせる理由」として当てはめてみる読み筋もあるかもしれない。
 あと、ここを書いているいま、ふと思ったのだが、美紀がその両親によってのみ認知されている存在(両親の妄想あるいは両親による「かのような」ふるまいによってのみ担保されている存在)とした場合(ここではしずかが美紀を目撃した際の反応は無視する)、両親(さとるとまりん)によってのみその存在を認知されていない真悟(しずかたちもタケシも——タケシはちょっと微妙であるが、全員子どもである——さとるとまりんが真悟の親であることを理解している)はいちおう美紀ときれいにペアをなすのだな。
 あとは、「なぜ」という言葉を真悟が習得したと語るくだり(そのきっかけのひとつが子どもの死である)、タケシに対してシンゴが語る「ワタシガ初メテ意識ヲ持ッテ見タモノハ、」「壊ストイウコトバダッタ。」や「なぜ、わたしには意識よりも先に、コトバがあったのか……」という台詞(39-40)の精神分析的読解の余地、あるいはタケシによる「シンゴ、オマエハ誰ダッ!?」「答エヨ!!」という質問に対して、モニターに、五十音→さとるの顔→まりんの顔が浮かびあがったのち、それまで真悟の体験したできごとが走馬灯のように展開されていく(そしてそのなかに窓辺から射し込む光や人間の口元——たぶんこれは「壊す」と口にしている場面だろう——が混じっている)のもちょっとひっかかる。
 68ページで真悟は「ワタシハシンゴ」「ニンゲンデス」と名乗る。この名乗りには美紀による承認ないしはティーチングが大きく関与している。ふたりが対面した際、「わたしも人間だから、」「あなたも……」「……人間よ」という美紀に対して、真悟は「あなたも人間ですね……」「そうすると……」「わたしも人間なのですね!!」と受けるし、真悟がみずからを「真悟」と名乗り、マリリン・モンローの図像——モンローという呼び名——をみずからの身体からはぎとったのも、やはり美紀とのやりとりの最中であった。だからやはり美紀は真悟にとっても、『私は真悟』という作品にとっても、きわめて特権的な存在なのだ、と、こうして書いていて気づいたのだが、作中で名前が漢字で表記されているのも真悟と美紀だけではないか?
 さらにもうひとつ需要なことに気づいた。真悟の「ワタシガ初メテ意識ヲ持ッテ見タモノハ、」「壊ストイウコトバダッタ。」と、美紀がはじめて口にした言葉である「わたしを殺さないで!!」はやはりペアをなす!
 夜中に廃ビルを解体するシーンに続く。そもそも夜中にビル解体すんのはおかしいやろ、どんだけ非常識な業者やねんという話だが、それはまあいいか。解体のすでにはじまりつつあるビルの中で(すぐそばの天井が崩れたにもかかわらず)「変ワッタコトハ」「ナイ」と答える真悟や、廃ビルに真悟を助けにいったタケシがその真悟の姿を涙を流す奇怪で巨大な化け物として幻視する場面も、ちょっとだけ気になる。タケシはその後真悟に対して「お前なんか、人間じゃないっ!!」「この世から消えろ!!」「化物!!」と攻撃する(ここで真悟を人間とみなす美紀と化物とみなすタケシというペアが成立しうる可能性も浮上する)。で、真悟がそのタケシの脳から流れる感情(殺意? 憎悪? 恐怖?)なのかエネルギーなのかわからんもんを吸収し、「そのとき、わたしの中に黒い何かが芽生えた…!!」というモノローグとともに、相手に放射状のなにかを浴びせると、タケシの頭上に虹が発生、タケシは「天使にでもなったような表情」(133)を浮かべてパッパラパーになってしまう(第5巻に登場する同じ虹を発生させる謎の道具は、その周辺にいるひとびとをガンガン殺しまくっていたのに、タケシはここで死ぬわけではない)。
 真悟が、浮浪者か人夫かわからんがとにかく酔っ払ったおっさん三人に襲われる場面では、おっさんらが真悟のカメラのことをカメラとは呼ばず、終始「目」と呼ぶ(まるで真悟が生き物であるかのように!)。真悟自身も目と呼ぶそのカメラが壊されたあと、真悟は男たちに反撃するのだが、「計算では、二人の男は軽い脳震とうで倒れているはずだ」というその攻撃は、ふたりの男のまさに目を潰す攻撃になっている。そのことについて真悟は「計算ははずれた……」と語るのだが、カメラ(目)を破壊された真悟がほかでもない破壊者のその目を攻撃し返すこの展開を、彼の総括するような計算違いではなく、一種の無意識であると読む筋もあるなと思った。ここで真悟はすでに計算(理性)の外、すなわち、無意識を獲得しているのではないかと(あるいはそれこそがタケシから吸収したものの正体かもしれない)。
 その後、真悟は豊工業にたどりつき、その出入り口に残されているさとるの足跡に接触することでさとるの感情を読み取り、「さとるはまりんを今も愛している!!」「このことを、わたしはまりんに伝えなければならない!!」「これが、わたしの生まれてきた目的だったのだ!!」とモノローグで語るのだが(「まりん/ぼくはいまも/きみを/あいしています」というさとるの「ゆいごん」を、記憶を失った——一種の死を経てしまった——まりんに伝えるというミッション)、当然のことながら、人間には「生まれてきた目的」など存在しない。幻想としてのそのような意味づけ(物語)は、生きる上では必須かもしれないが、根源的にはそのようなものは存在しないわけで、それを仮構してそれに即して生きるということは、いってみれば、一種のゲームに過ぎない。だから、タケシの誤解(「シンゴがさとるとまりんという親を尋ねるというゲーム」)と、真悟の理解(「これが、わたしの生まれてきた目的だったのだ!!」)は、実は、まったくひとしいともいえる。
 その後、場面が変わり、イギリスにいるまりんのエピソードが再開される。聖母マリアの像の額から血が流れる不吉な導入に続き(血涙ではない)、ジャパンバッシングの時代を背景としているからなのだろう、日本製品の店やその店で買い物をした客らを攻撃しまくるならずどもらのふるまいが描写されるのだが、それが完全に『北斗の拳』なので、クソ笑ってしまった(しかし『わたしは真悟』にはたしか核兵器や核戦争のモチーフも後半登場した記憶があるので、核戦争後の世界が舞台となっている『北斗の拳』が意識的なパロディとしてここで取り入れられている可能性ももしかしたらなくはないのか? いや、さすがにそれはないか——と思っていちおう調べてみたが、『北斗の拳』は83年に連載開始、『わたしは真悟』は82年に連載開始とのこと)。で、世紀末覇者の世界と化したイギリスの町には例の虹がかかっている。
 まりんは記憶を失ったまま。テレビからきこえてくるノイズを「キカイ語」だといい、それを思い出せないという。また、退院祝いのパーティーで、サプライズのために目をつぶるようにいわれるのだが、目をつぶっている最中にきこえるカタカタいう音をまりんはやはりキカイ語だといい、「でも、なんて言っているのかわからない!!」「わたし、忘れてしまったの!!」「思い出せないのよ!!」と続ける。まりんが目をつぶるといえば、東京タワーをのぼっている最中もやはり目をつぶっていたわけであるし、あそこの反復かなと思ったのだが、その筋で読んだ場合、キカイ語うんぬんがよくわからんし、そのキカイ語とされるカタカタいう音が、しゃれこうべの震えとして表象されているのも筋道つけがたい。しかしその後、母親が東京タワーの一件について言及するので、やはりこの目を閉じるまりんの反復は意図的なものであるのだろう。また、まりんは自身の記憶喪失について、「でも、なんでそんな重大なことを忘れてしまったのかしら?」「わたし、自分で忘れようと思ったからかしら…?」「だって、そうでなければ肝心のところだけ忘れたりするはずないもの!!」と自問自答するが、これはごくごく一般的に読めば、さとるとの別れ際、おたがいのことを忘れようと約束しあったくだりを踏まえての台詞だろう。
 16時半前になったところでキッチンに移動。米を炊き、豚肉とトマトとよくわからん葉物とニンニクをカットしてタジン鍋にドーンしてチンする。食う。何度でもいう、豚肉はうまい。豚肉を最初食ったやつは天才。死んだら天国でかならずお礼を言おう。
 ベッドに移動。Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)をちょっと読む。それから20分ほど仮眠。
 起きる。コーヒーを淹れて、「実弾(仮)」第四稿に着手したのが19時半。21時前に(…)から電話。あたらしいVPNアプリをダウンロードしたのだが、登録作業に必要なverification codeを受け取るべくメールボックスにアクセスする必要があるのでというので、じゃあいまからlaptopを持っていくよと受ける。やれやれ。
 ちゃちゃっと街着に着替えて(…)宅へ。(…)は今日もこちらの顔を見るなり吠えまくる。ジャーキーをちぎってやってもほぼ効果なし。こんなに犬に嫌われる経験は人生で初めてかもしれない。いや、(…)のところの(…)にもわりとガンガン吠えられるか。(…)が今回ダウンロードしたのはNordVPN。名前を聞いたことはある。はじめて中国をおとずれる前、VPNについて調査していた際に候補にあがったひとつと記憶しているが、たしか中国国内での接続はあまり安定していなかったのではないか。verification自体は問題なくすんだのだが、やはり接続は安定しない——というかほとんどまったくつながらない。TwitterでNordVPNについて日本語と英語双方で検索してみたのだが、やはり中国ではつながらないとツイートしているアカウントがちらほら。逆に、ExpressVPNは安定しているとツイートしているアカウントもちらほらあり、いやいやいやと思いながら(…)に見せる。中国といっても広いことであるしareaによって異なるのだろうというと、universityの回線であるからほかよりも規制が強いのかもしれないという。ありえない話ではないか。あとは時期か。春節前であるしregulationが厳しくなっているのだろう、実際こちらが使っているVPNも最近YouTubeなどで動画をみるのはちょっと厳しくなっているからというと、ExpressVPNのサポートセンターに連絡するといつも同様の言い訳があった、春節前後だから、新年前後だから、共産党大会前後だから、江沢民が死去したから、Covidに関するニュースが出たから——そういう時期による難しさがかれこれ半年以上続いていると嘆いてみせて、まあそうだよなァと思う。
 (…)はFirefoxをextensionするタイプのNordVPNを使っていた。しかし彼の普段使いのブラウザはFirefoxではない。Windows用のアプリをそっちでダウンロードしてくれないかというので、公式ウェブサイトでダウンロードし、USBメモリ経由で渡す。で、(…)のラップトップで起動する。うまく作動する。しかし回線だけはいっこうにconnectしない。サーバーをいろいろに変更しても変わらず。(…)が散歩に行きたがっているというし、すでにかなり遅い時間だったので、今日はそこでいったんおしまいということになったのだが、それでもこれまでと違ってアプリを使用できる段階まで進むことができたし、あとはサーバー側の問題というところまで進んだので、状況はちょっとよくなったはずだと(…)はいった。しかし(…)、trackingを気にして匿名性の強いブラウザを使用したりしている割には、どうもネットまわりについてあまり詳しくない感じがする。VPNの設定なんて、英語表記であるにもかかわらず、かたわらにいるこちらがジリジリするほどまどろっこしいし。まあこのあたりは年齢の差か、と、書いてみたものの、彼はいったい何歳なのだろう? なんとなく五十代だと思っていたのだが、(…)が9歳であるし、まだ四十代かもしれない。西洋人も中国人も日本人にくらべるとぐっと老けてみえるので、年齢の推測がめちゃくちゃむずかしい。(…)は(…)でもしかしたらこちらのことをまだ二十代だと思っている可能性がある。
 設定の合間に多少雑談した。モーメンツでtraffic accidentの写真を見たのだがというと、(…)は(…)とそろって当時のようすを早口の英語でバババッと興奮気味に説明しだしたが、正直半分もわかりませんという感じ。前にいた車がサイドブレーキをひきわすれていてそれでぶつかってきたみたいな状況っぽい。だからcrushという感じでもないのだろうし、実際夫妻はそろって無事だったわけだが((…)は首を少し痛めたらしいが)、写真でみるかぎり、それでも車はけっこうボロボロになっていた(その車についても、新しいものだったか古いものだったか、なんかそういう説明があったが、やっぱり全然聞きとれんかった)。ぶつかってきた瞬間、(…)は買い物したばかりの荷物を車のトランクにいれようとしていたところらしい。ものすごくびっくりして、しばらく心臓がバクバクなっていたとのこと。
 あと、その(…)からはじぶんで植えて育てたという菊の花やその他の花を見せてもらった。中国人の女性、けっこう花をめでるひとが多くて、そういうのはすごくいいなと思う。(…)さんなんてなんでもない外出時によく部屋に飾るための花を買っていたし、それでいえば中国人ではないけれども(…)もそうだったな、タイでもカンボジアでも日本でも、本当にさらっとカジュアルに、まるでコンビニでちょっとジュースでも買うみたいな感じで花を買う、ああいうのはすばらしいなと思う。
 去り際にはまたみかんを持っていくかといわれたが、さすがにまだまだ残っているのでこれは断る。麺は最近毎日食べている、とてもおいしい、ありがとうと礼をいう。(…)と(…)とそろって外に出る。さすがに時間が遅いので、今夜の散歩は(…)と(…)のふたりだけらしい。今日は朝の6時半から一時間ほど散歩したし、昼間は昼間で散歩中に外国語学院の(…)学院長とばったり出くわして小一時間ほど立ち話したしで、(…)は屋外で過ごす時間がたいそう多く、今日はlucky boyであるとのこと。あと、早朝、一日置きにグラウンドでジョギングしている男性を見るという話もあった。年齢はちょうどわれわれの間ぐらいだという。
 帰宅すると22時。「実弾(仮)」第四稿の執筆再開。23時半まで。プラス12枚で計141/977枚。シーン11を半分ほど加筆修正。手癖で書いている箇所がかなり目立つので、もうちょっとゴリゴリ手を加えたい。これ、最低でも第七稿くらいまでブラッシュアップし続ける必要があるかもしれない。となると年内の発表は無理か。
 大気汚染をチェック。unhealthyの文字が表示されたのでジョギングはあきらめて代わりにスクワットを100回する。ひさしぶりにしたので、腿が攣りそうになった。浴室でシャワーを浴び、麺を茹でて食し、ついでにパイナップル味のメロンパンも食し、ジャンプ+の更新をチェック。その後、今日づけの記事の続き。1時半になったところで中断し、歯磨きをすませてからベッドに移動。Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きを読み進めて就寝。