20230118

 言うまでもなく、およそ絵画を見るとは過去の殺到を見ることだ。私たちは一枚の絵画を見るとき、カンヴァスの上にさまざまな時点で重ねられた過去の手数が、一挙同時に表面の現在へともたらされるさまを眺めている。完成した《ルーマニアのブラウス》(図20)の右腕(観者から見て左)を見ると、途中ですっぱりと塗り消されたブラウスの模様と、後から描かれた腕の輪郭線との間に形態的なずれを感じることができる。それは描画プロセスの別の段階に属する異なる身体が同じ画面の中に残されたことによって生じたずれであり、現前する諸形態のずれが、描かれた時間のずれをそのままコード化しながら、それを形態の膨張力に変換している。
 《ルーマニアのブラウス》の展示がおこなうのは、そのような膨張を一つの身体に提供するために廃棄されたものたちに、再び異なる全身を与えて並べることだ。並べられているのは、諸々の身体というより、諸々の身体の差異である。だがいったいどの身体がどの身体に先立ち、どの身体が後続したのかは明らかではない。この順序の不明性において、各画面は来るべき不可視の身体を胚胎する先触れと化し、《ルーマニアのブラウス》の展示壁面全体を、画家が制作を通じて潜り抜けたはずの盲目的な予感の時間と似たものに変えることを可能にしている。
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「第3章 マティスの布置」 p.93)



 10時半起床。歯磨きしながらニュースをチェック。洗濯。トースト二枚を食し、コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを長々と書き記す。投稿すると、時刻は16時前。今日もたいそう良い天気だったし、阳台で書見するのもいいかなと考えていたのだが、きのうづけの記事におもいのほか多く時間を奪われてしまった。
 (…)さんから「ご飯を100回食べる」経由で微信。暗い屋内で火を焚いている写真。囲炉裏みたいなものだろう。詳細をたずねてみると、近所にある無人の家らしい。春節前ということで親戚らと焚火でもしているのか。(…)から聞いたのだが、今年の春節20日らしい。つまり、明後日だ。となると、明日は日本でいうところの大晦日にあたるわけで、スーパーもたいそう混雑するだろうから、まだ食材は多少あるけれども、今日のうちに食料の買い出しに行っておいたほうがいい。

 そういうわけで、身支度を整えて外に出る。自転車に乗って北門へ。(…)一家に教えられたとおり、門を出てすぐ左に進む。道路をはさんだ対岸に目を凝らしながらゆっくりと自転車をこぐ。前から歩いてくるおっさんが大量の食材が入っている買い物袋をさげているのを見て、店が近いなと思う。実際、近かった。最初の交差点の角にあったのだ。なるほど、ここらへんを開発するという話はたしかにあった。去年の冬休み中など、快递に荷物の回収に向かう途中たびたびこの付近を通りがかったのだが、開発計画をイラストにした看板などもしょっちゅう見かけたし、いまは閑散としているこのあたりもいずれは(…)の周辺のように店がたちならぶようになるのかもしれないとその都度思ったものだ。とはいえ、コロナのせいで経済状況が大いに悪化し、特に地方政府の財政など相当やばいという話を内外で見聞きするものだから、実現するにしても当分先のことだろうとひそかに思っていたわけだが、いやはや、とりあえずスーパーはできたのだ。すばらしい。開発の結果、周囲にレストランだのブティックだのが続々開店することがあったとしても、正直こちらの生活にはほぼ一ミリも関係ないわけだが、スーパーやコンビニあるいはカフェであれば、話は別だ。特にスーパーの存在は大きい。店の名前は(…)。英語名があるのかどうかは知らないが、(…)は(…)とか(…)とか呼んでいたはず。店の正面入り口に巨大な液晶が設置されており、宣伝の動画だのなんだのが流れているのだが、この液晶自体は店がオープンするずっと前からあったと記憶している。それこそこの画面に開発計画のイメージCGみたいなものも流されていたのではなかったか? あとはマクドナルドの広告が表示されているのを以前見た記憶もあるのだが(だからこの周辺にいずれマクドが開店するのかなと思っていたのだが)、(…)の一階にテナントとして入っているのはケンタッキーだった。(…)らの言っていたとおり、店は二階建てで、となりにはホテルもあるようす(こんなとこだれが泊まんねん)。開店したのは今月12日らしい。
 「ご飯を100回食べる」に店の外観の写真を送る。大学の近くに大きなスーパーが開店したよ、と。それから店に入る。一階にはスーパーのほか、ケンタッキーをはじめとするテナントがいくつか入っている模様。精査していないので詳細は不明。スーパーの規模はなかなか。(…)とさほど変わらないか、あるいはもうちょっと大きいくらいかもしれない。スーパーのフロアに入ろうとすると、赤いベストを着用したアルバイトらしい若い女の子に止められる。別の入り口を使えということらしい。彼女がうながしたほうに向けて歩く。別の入り口は見つからない。通路の先には駐車場にいたる出入り口があるのみ。スーパーのレジもあるが、そのレジを逆行して店内に入ることは当然できない。おかしいなと思って通路を引き返す。先の女子がこちらのほうを見ながら、通路と店内を仕切るようにしてたちならんでいる(こちらから見て)左手のロッカーをジェスチャーで指してみせる。それでわかった、彼女はこちらのリュックサックをロッカーにあずけるようにと指示したのだった。笑いながら彼女のほうに近づいていく。あれこれ説明しようとする相手に対して、外国人なんだ、中国語はわからない、と中国語で伝える。笑いながら肩をがっくり落とすジェスチャーをしてみせる相手に対して、ちょっとだけならわかるからと伝えて、ロッカーの操作の仕方を教えてもらう。ロッカーにはタッチパネルがある。荷物を取り出すボタンと荷物をあずけるバタンが表示されている(中国語表記だが、漢字なので意味をとることはできる)。あずけるほうのボタンをタッチする。荷物の大きさを選ぶボタンがまた表示される。タッチする。すると顔認証用のカメラが起動する。帽子をかぶってめがねをかけてマスクを二重に装着しているわけだが、問題はないらしい。認証がすむと、ロッカーのとびらがひとつ勝手に開く。そこにリュックサックを放り込めばオッケー。
 店に入る。買い物籠を手にとる。どいつもこいつもキャスター付きの大きなやつばかりだ。もうすこし小さなやつはないのかなと思って探していると、こちらが買い物籠の使い方すらわからない愚かな外国人だと思ったのか、先のバイト女子がまたやってきて使い方を教えてくれようとする。もうすこし小さいやつはないのかとたずねる。ないという。しかたないのでキャスター付きのやつを転がしながら店内を散策する。ふつうの買い物籠は持ち手が二本あるわけだが、中国でときどき見かけるキャスター付きの買い物籠には、その二本とは別にそれらよりひとまわりかふたまわりおおぶりの持ち手が一本ついており、それを後ろ手に持つことで、空港でスーツケースを斜め引きして歩くひとびとみたいなスタイルで移動できるのだが、若く力にあふれた快活な青年(37)であるこちらにとっては邪魔臭いだけだ。ふつうの買い物籠のように持つ。
 まずは一階をざっと検分。肉も魚も野菜もない。エスカレーター——ではないな、斜めに動く歩道だな、と、書いたところで気になってググってみたところ、オートスロープという言葉がちゃんと存在するらしい、そのオートスロープで二階に移動。いや、動く歩道でもいいのだが、動く歩道というとこちらは水平移動のみで斜め移動なしという印象をどうしても抱いてしまう。あと、「動く歩道」ってなんかドラクエ3の「うごくせきぞう」みたいだし。
 二階。オートスロープをおりてすぐ日曜雑貨のコーナーがある。(…)も上階が日曜雑貨コーナーで下階が食品コーナーであったし、となるとやっぱり肉だの魚だの野菜だのは一階にあるのかなと一瞬思ったが、奥にちゃんと食品コーナーがあった。日曜雑貨のコーナーはのぞかなかったが、そこそこの規模であったし、洗剤や歯ブラシのみならず水切りネットやフロスもふくめて、こちらの生活に必要なものがひととおりそろっていそう。
 近くに調味料コーナーがある。これはのぞく。(…)には取り扱いのない鸡精が大量に売っているのを確認。わざわざ淘宝で取り寄せる必要もないわけだ。さらに驚いたことに、日本製のポン酢、醤油、塩胡椒なども売っている。それだけではない、照り焼きのもと、焼肉のたれ、さしみ醤油まである。だれが買うねんこんなもん! 人口600万人中日本人はおれ1人やぞ! おそらくだが、これは一種の飾りつけみたいなものだろう。新規開店に際して、うちは外国産の商品もこれだけたくさん取り扱っていますよと顧客にアピールしているわけだ(日本人は国産が好きですけど中国人は外国産が好きです、と語っていた(…)さんの言葉を思い出す)。それにしても、海のない地域なのに、日本人がまったくいない地域なのに、さしみ醤油の瓶がずらりと並んでいるのは、なかなかシュールではないか? 味付け塩コショウはちょっとほしかったが、価格が日本で買うときの二倍ほどするので、やっぱりうーんとなってしまう。あと、以前淘宝で買った出前一丁も売っていたし、日本産のカレーのルーも売っていた。カレーのルーに関しては、以前は(…)でも取り扱いがあったし、こちらもときどき買って作って学生にふるまったりしていたのだが、いつからか取り扱いがなくなってしまい——と、書いていて思い出したのだが、そもそも(…)の閉店騒動があったのが去年の、あれは何月だったっけ? たしか夏休み前だったように思うが、(…)先生からそういう話を聞かされて、いやいやあの店なくなったら休暇中自炊できひんやんとあたまを抱えていたところ、同じように考えていた人民らが数多くいたのだろう、結局市政府が助成金かなにかを出して延命するにいたったという経緯があったわけだが、しかしこうして(…)とさほど離れていない一画にあらたなスーパーがオープンしたとなると、(…)はふたたび閉店危機に見舞われることになるのではないか?
 野菜コーナーへ。カリフラワー、トマト、パクチー、長ネギを買う。鮮魚コーナーもいちおうのぞく。あいかわらずよくわからん淡水魚がぎょうさん水槽で泳いどる。(…)より種類は豊富。オープンしてまもない状況にくわえて、春節が近いからという事情もあるのかもしれない。精肉コーナーでは豚肉250gを四パック購入(おばちゃんふたりがあれこれおすすめを説明しようとするので、カタコトの中国語で「オデ、豚肉、欲シイ……高イ豚肉、イラナイ……安イ豚肉、欲シイ……安イ豚肉、ドコ……?」と訴えた)。冷食コーナーもざっとのぞく。これまで一度も見たことのない餃子を見つけたので(しかも海老入りのやつ)、買い物籠へ。
 もっとじっくりあれこれ見たかったが、感染リスクもあるし、買い物籠もなかなか重くなっていたしで、一階にもどる。レジ付近のお菓子コーナーを最後にのぞく。以前第四食堂近くの売店で買ったチーズ味のウエハースみたいなのがあったので(これも外国のお菓子っぽい)、それも手にとる。同じお菓子のチョコレート味もあったので、ついでにそいつも買ってみることにしたが、結論だけ先にいうと、これは全然うまくなかった。クソや。バレンタインデーにこんなもんもろたら絶交のしるしとして受け取ってまうな。あと、红枣のヨーグルトもあったので買った。
 レジはセルフではない。微信で支払いをすませる際、スマホでパスワードを打ち込む必要があったが、これもほかのスーパーでは要求されたことがない(いつも支払い画面のバーコードを店員に読み取ってもらうだけで済むので)。先のロッカーにもどる。タッチパネルをのぞきこみ、荷物を回収するほうのボタンをタッチする。顔認証用のカメラが起動する。問題なし。すぐに扉がひらく。荷物の一部をリュックサックに移す。そのようすをやや離れたところからバイト女子が見守っている。視線を感じるのだ。
 買い物終了。バイト女子に軽く手をふって店を出る(恥ずかしそうにふりかえしてくれる)。しかしこれはテンションがあがる。寮から自転車でわずか五分程度のところに、つまり、徒歩でもまったく苦にならない距離に、まさかこれほど立派なスーパーが開店するとは思ってもみなかった。うれしい。本当にありがたい。この土地を去る理由がまたひとつ消えた。あとは、近平の旦那がトチ狂って「明日から民主化しまーす!」とでも言ってくれれば、こころおきなく定年までこの片田舎でひっそりとだれにも邪魔されず読み書きしながら暮らし続けるのだが。
 それにしてもスーパーというのはいい。京都に住んでいたころ、見慣れないスーパーがあれば必ず立ち寄ったし、バイト帰りや外食帰りにとりあえずコンビニに立ち寄るというのもほとんど習慣と化していたわけだが、ときどき思う、天国があるとすればそれはあちこちにスーパーやセブンイレブンファミリーマートがあるそのような空間のことをいうのではないか? ちなみに、地獄にはどこまで歩いていってもSHOP99と100円ローソンしかない。
 帰宅。テンションが死ぬほどあがった状態でキッチンに立つ。どれほどテンションがあがっていたかというと、調理中にアニメ『幽遊白書』のエンディングテーマである「アンバランスなKissをして」をわざわざApple Musicで検索して流すほど。むかし、(…)や(…)や(…)とカラオケでオールしたとき、後半だんだんダレてきてどいつもこいつもよく知らん歌やむかしのアニメの歌を歌いはじめたその流れでこちらがこの曲を入れたのだが、曲がはじまる直前、モニターに表示されるアニメのなかに桑原——あるいはコエンマだったかもしれん——が出てきたらその場で歌唱終了するぜ! みたいなことをなんとなく宣言したところ、イントロの時点でまんまと登場したのだったか、あるいはサビの手前で登場したのだったか、とにかく死ぬほどおもしろい完璧というほかないタイミングで登場し、あえなく歌唱強制終了になったことがあった。しかし当時、われわれのあいだでは、だれかがなにかものすごく面白いことを口にしたり、あるいはなにかものすごくおもしろい事態が発生したりした場合、それがおもしろければおもしろいほど絶対に反応しないという妙なゲームが流行しており、このときも、こちらが歌い出そうとした瞬間——あるいはサビで気持ちよくなる瞬間——にまんまと桑原ないしはコエンマが画面に登場、かたわらにいた(…)がそれにすぐさま反応して真顔かつ無言のままリモコンで強制終了し、それを受けたこちらもなにくわぬ顔ですっと着席して次の人間にマイクを渡すという一連のふるまいを笑いもツッコミもいっさい不在のまま演じきったのだったが、あれからもう15年ほどになるのか、神々がわれわれを試そうとしていたとしかおもえないほどなにもかもが爆笑の渦のために整えられていたあの出来事は、いまだにだれの笑いも引き起こさないまま宙吊りになっているのだ。まるで幻覚のなかでいまでも妖狐蔵馬とたたかいつづけている戸愚呂兄のように……なんやこの比喩! 死ね!
 豚肉を五日分に切り分ける。明日の分は今日のうちに下味をつけて冷蔵庫に寝かせておく。米を炊き、豚肉とトマトとよくわからん葉物とニンニクをカットし、タジン鍋にドーン! して、レンジでチーン! する。食す。豚肉はうまい。奇跡だ。あいつらなんでこんなにおいしく生まれたんや?
 ベッドに移動する。Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きをちょっと読んで20分の仮眠をとる。
 起きたところでコーヒーを淹れる。そういえば、コーヒー豆が残り少なくなっていたので、昼間、淘宝で注文しておいたのだった。あと、以前注文した安物の中国産ネルはやっぱり全然で、ていうかこれ本当にネルドリップ用の生地け? ガーゼかなんかちゃうか? みたいなしょっぱい代物だったので、割高になるのだがやはりちゃんとした日本産のものをついでに購入することにした。しかしこれに関しては、輸入品という扱いになるからだろうか、春節前後は関係各社がお休みになるその影響だと思うのだが、配送されるのが二月以降になるかもしれないという注意書きがあった。それまではひさしぶりにペーパードリップで飲むか。
 そのコーヒーを飲みながら2022年1月18日づけの記事の読み返し。以下、2021年1月18日づけの記事からの孫引き。

 シェンムーの芭月武館のあるあたりに風景が少し似ている山道だった。そういう印象を抱いた途端、ここで暮らしたらどんな人生が待っているんだろうという例の感慨をおぼえた。それで思ったのだが、知らない町を歩いているときにありえたかもしれないもうひとりの自分もうひとつの生活にいちいち想像がおよぶようになったきっかけは、それこそシェンムーなのかもしれない。いまではそういうゲームもめずらしくはないが、こちらが中学生当時、実際に存在する街(をモデルとした架空の街)を丸ごと作って全住民をキャラクター化しボイスをあててそこで生活しているかのように行動させたゲームなんてマジでなかったし、だからこそゲームクリエイターからシェンムーはいまでも伝説的な作品として見なされているわけだが、実際あのゲームにハマった当時、こちらは将来ゲームの舞台となった横須賀に引っ越して生活すると公言してはばからなかったし、絶対せえへんやろ! とおちょくる(…)にたいして引越ししなかったら一万円支払うという誓約書まで書いたのだった(その誓約書は高校二年か三年のとき、(…)の部屋をおとずれた際に本人の了解なく隠れて処分した)。
 ありえたかもしれないもうひとつの生活を幻視するとき、こちらはだいたい「ここで生まれ育っていたら」ではなく「いまここで生活をはじめたら」というかたちの想像にとりつかれるものと思っていたのだが(そういう意味でいえば、正確には「ありえたかもしれない生活」ではなく「ありうるかもしれない生活」だ)、でもよくよく考えてみると、幻視されるのはその土地をながめるじぶんのまさにかたわらでその土地の暮らしを送っている自分自身の姿であり、ということはこれは純粋な未来の可能性を感じているわけではなく、どちらかといえばむしろ過去に近いのかもしれない。いや、過去といってしまうとやはり遠くなる、こちらがいいたいのはいままさしくそこに過ごしているじぶんの気配で——と書いたところでわかったのだが、並行世界だ。じぶんが幻視し、かつ、ある種の感傷をおぼえる対象は並行世界なのだ、いままさにじぶんのかたわらで、つまり、2021年1月18日の午後5時前後にこの地を住み慣れた領域として歩いているじぶんとすれちがったかのような、袖が触れ合ったような、そういう気配をなまなましく感じるその瞬間に感傷がふっとおとずれるのだ。これもまた一種の去勢なのだろうか? 想定される無限の並行世界のなかでほかでもないこの流れを生きざるをえない人間の、有限性を突きつけられたその切なさ、悲しみ、そして感傷。

 20時半から授業準備にとりかかる。第12課。一時間ほどかけてざっと見通しをつける。授業後半でおこなう予定のゲームをどうするか、いまひとつ良さげなアイディアが浮かばないので、こういうときは風呂だなとなって浴室でシャワーを浴びる。浴びているあいだにひらめく。いつもそうだったなと思う。小説で詰まってしまったとき、妙案というのはだいたいいつもシャワーを浴びているときか、皿洗いをしているときにおとずれるものだった。授業準備も同様だ。
 あがる。ストレッチをするも、すぐに授業準備再開する気にならない。Vampire Survivorsをまたインストールする。1度だけプレイして満足し、授業準備を再開する。0時過ぎにひとまず終える。ちょっとボリューム過多かもしれん。形容詞の過去形なんて基礎日本語の授業でしっかり習得済みであるだろうし、ぜんぶ端折ってしまってもいいかもしれん、比較と最上級に特化してやったほうがいいかもしれん。要検討。
 餃子茹でる。いつも適当にカットして薬味としてのせるだけのパクチーであるが、今日は餃子を茹でるついでにさっとゆがいてみることに。これはこれで悪くない。ヨーグルトも食う。チョコレート味のまずいウエハースも食う。
 ジャンプ+の更新をチェックする。『ピューと吹く!ジャガー』があおすじ吾郎の回だった(https://shonenjumpplus.com/episode/13932016480028734406)。今週は前編であるが、これの後編をリアルタイムで読んだとき、たしか中学生のころだったと思うが、大オチがおもしろすぎて、弟と一緒に狂ったように笑い続けた記憶がある。
 歯磨きする。なんでわからんが、突然、2Pacの“Soon As I Get Home”があたまのなかで流れ出したので、ひさしぶりにきく。この曲、大好きなんであるが、そういえばサンプリング元を知らんなと思い、それでググってみたところ、Timex Social ClubというR&Bグループの“Rumors”という楽曲が元ネタとのこと。YouTubeにあった(https://www.youtube.com/watch?v=ADwVvT7-5_0)。途中でメロディが、マイケル・ジャクソンの“Smooth Criminal”みたいになるところがあるなというアレから、そのまま“Smooth Criminal”をききはじめたのだが、やっぱりこれ、めちゃくちゃかっこいい曲。ボーカルがリズム楽器を兼ねているんだよな。下手なラップよりもずっとそう。びびるわ。MVもアホみたいにかっこいいし。
 ちなみに、“Smooth Criminal”といえば、『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』というアクションゲームのBGMにもなっている(メガドライブのゲームらしい)。YouTubeでそのBGMをきくことができるが(https://www.youtube.com/watch?v=43f7TekkTVo)、こうしてみると、はやすぎるチップチューン、はやすぎる8bit Remixという感じ。