20230126

人生というのは、人の勝手と勝手がぶつかり合ってその摩擦を味わっていくものであり、それは、親子の間でも他人どうしでも本質的には変わりません。
(鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』)



 すごい夢を見た。見たはずなのだが、細部を失念してしまっている。もったいない。時間が巻き戻されていた。タイムリープというか強くてニューゲームというか、そういう具合に、いま現在の記憶を持ち合わせたまま(…)時代にもどっていた。しかもこちらだけではなく、(…)さんも(…)さんもそうらしかった(タイムリープもので、特権的な人物ひとりだけがやりなおしをしているのではなく、複数の人物が同時にやりなおすという展開のものはあるだろうか?)。これからやりなおすことになる人生が、かつて歩んだ人生とまったく同じものになるのか、それとも別様になりうるのかをこちらはけっこう気にしていた。(…)さんはむしろこのアドバンテージをいかにいかしてやろうかとのんきに構えている様子。(…)さんは姪っ子だか甥っ子だかの状況を気にしていた。三人そろって、あれは旅館なんだろうか、よくわからん建物にシャトルバスで向かうことになったのだが、その建物のなかには匿名的な駆け出し芸人らが複数いて、その中の一人は(巻き戻されたその時代では駆け出しであるが)とても有名な人物らしかった。で、こちらか(…)さんがわざとその芸人の名前を呼んだのだったか、あるいは持ちギャグを本人の前でするかしたところ、なんで知っているんだ? というぎょっとした反応があった。場面転換。リサイクルショップのような店内にひとりでいる。店のすみっこのほうにいくと、大学時代に同じゼミだった(…)が、当時の姿のままひとりで突っ立っている。さらに(…)時代の(…)さんやほか匿名的な人物が数人おり、うわ! なつかしい! と内心ひそかに感動する。場面転換。荒れた海沿いを走る電車なのかバスなのか、あるいは関西空港にあるウイングシャトルのような乗り物だったかもしれないが、その車内にいる。じきに海のほうから津波が押し寄せてくるか、あるいは単純に乗り物が事故を起こすか、そういう未来をこちらはすでに知っており、本当にそのとおりになるのかどうかを確かめてやろうという気持ちでいる。場面転換。こちらはいつものようにじぶんの身にふりかかった出来事をそのままブログに投稿する。つまり、強くてニューゲームな状況もふくめてすべて書き記して投稿したわけだったが、仮にこの記事をたまたま読んだ人間がいたとしてもあたまのおかしいやつの妄想として看過するだろうという見通しに反して、投稿直後の記事がみるみるうちにバズってしまう。それでふたたびブログを閉じる。また七年間ひっそり非公開でやろうと決める。
 起床は正午。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。トースト二枚の食事をとり、洗濯し、コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。作業中は『電子DISCO密林』(ぷにぷに電機)と『Time to Love』(lulu & Mikeneko Homeless)をダウンロードして流す。あと、不意に思い出す機会があったので、くるりによる岡村靖幸「どぉなっちゃってんだよ」のカバーも数年ぶりにきいたが、ブリブリのガンギマリという感じでやっぱりすばらしい。

 今日づけの記事も上まで書いたのち、授業準備にとりかかる。予定よりもだいぶ遅れているので、月末までちょっと本腰を入れてがんばって、日語会話(一)の教案だけはすべて完成させるつもり。まずは第13課の続き。応用ゲーム問題を完成させる。これはひとまず問題ないかな。
 その後、キッチンに立って夕飯の支度。米を炊き、豚肉とオクラとトマトと長ネギとニンニクをカットしてタジン鍋にドーンしてレンジでチーン! 調理中は『LOVETHEISM』(春ねむり)をきく。『春と修羅』と『春火燎原』のあいだにあるアルバム。完全に見過ごしとった。アルバムを通してきいて思ったのだが、やっぱりこの声でriot girlであるというのが新しいよなァ。こちらの見立てでは、相対性理論が出てきたあたりを境に、かわいい声+とんがった音楽という組み合わせのアーティストが続々と出てきたというアレがある(おそらくそれまでにもボーカロイド界隈やアニソン界隈や地下アイドル界隈ではそういう伏流があったのだと思うけど、こちらはそれらの界隈を一ミリも知らないのであまり勝手なことはいえない)。かっこいい声+とんがった音楽という組み合わせはそれまでにも存在していたし市民権も得ていたが、とんがった音楽と相反するもの、むしろもっともとんがっていないもの——サブカルの一番なまぬるいところの産物——という認識すらあった(アイドルや声優を思わせる)「かわいい声」が、その対極にあるとんがった音楽と組み合わさることでむしろとんがったボーカルになる、そういう倒錯がもたらす驚き。当人らもその驚きを同様にもちあわせていたのだろう、もともとの「かわいい」声質にとどまるのみならず、いまやあらたな武器として発見されたその声質のポテンシャルを最大限に発揮するかのような歌唱法を用いているケースも多く、たとえばその始祖ともいえるやくしまるえつこのボーカルをはじめてきいたとき、あの声質であのようにぶっきらぼうかつフラットに歌うボーカル——それは歌詞の意味のなさ(非垂直性)と並走している——は実際かなり衝撃的だった(あの声+歌唱法の組み合わせを綾波レイ的なものとしてキャラ消費した層も多そうだが)。春ねむりは、ある意味それとは正反対で、声は「かわいい」のだけれども歌唱は無機質ではなく、むしろめちゃくちゃエモーショナルであるし、歌詞も意味に満ち満ちている(部分的には、歌詞を歌っているというよりは、メッセージを語っているというほうが近い)。それでちょっと思い出すのが、大学生のころに当時の恋人がとっていたジェンダー論の授業のレジュメの内容だ。たしか小宮悦子のエピソードとして紹介されていたものだったと思うが、ニュースキャスターとして原稿を読むために、もともとは高かった声を低くするためのトレーニングをしたという話が記されていて、それはつまり、男性によってその大部分を占められている世界に女性が参入するにあたって、参入者たる女性が望まぬ男性化を強いられるといういまだによくある構図のひとつであると思うのだが、それを踏まえて考えてみたとき、ある種の闘士である春ねむりが、闘士でありながらもその声のかわいさを闘士然としたマッチョなものに変形させることなく、(比喩的にいえば)「地声」のまま闘っている、ゴリッゴリのサウンドの上にあの「地声」をそのままのせている、それがやっぱりすごくあたらしいという印象をもたらすのだと思う(デスボイスみたいなシャウトを用いるパートもあるのだが、それもやっぱり「かわいい」地声からの跳躍として効果的に使われている印象)。凡庸な言い方だが、闘争内容と闘争形式が一致している。その一致がもたらす説得力というものがある。
 あと、“Pink Unicorn”という楽曲のなかに「もはや平和ではない/ロックスターが叫んでいる」という一節があったのだけど、これって「もはや平和ではない」(うみのて)からの引用なのかな。
 メシ食う。ベッドに移動してEverything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きをちょっと読む。それから30分の仮眠。
 起きたところでコーヒーを淹れ、ふたたび授業準備。19時半から21時まで。第14課はちょっと扱いにくいなという印象。「動詞て形+ください」という文型はいろいろ応用問題を用意することもできるしゲームの素案もひらめくのだけれど、ほかの文型はうーんちょっとなァという感じ。かといって「動詞て形+ください」だけではボリューム不足確実であるし、さてどうしたもんかなとあたまをひねった結果、第14課と第15課の2課にまたがっている「動詞て形+いる」の用法三種類をここでまとめてやっておくことにした。こうなると逆に、今度はボリューム過多になってまうかもしれんが、まあええわ。あとは現場の空気見て調整や。
 そういう全体像の見えたところでいったん浴室へ。シャワーを浴び、ストレッチをし、餃子を茹でて山ほどのパクチーと一緒に食す。それでまた授業準備。第14+第15課が無事片づく。
 時刻は0時。スクワットをし、プロテインを飲み、歯磨きをする。(…)さんにいただいた樫村晴香の論考PDF、文字間にところどころ半角スペースがまぎれこんでいたりするので、印刷前にまずをそいつを修正する。修正するついでに、ざっと通して斜め読みしてみたのだが、あいかわらずやばい密度で、でも十年ほど前にチラ見したときよりは全然読めるようになっているなという印象(当時はほとんど暗号のようにしか思えなかった)。今後じっくり読む。
 寝床に移動後はEverything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続き。夜中に二度、下痢ラ豪雨に見舞われて便所に駆け込んだ。プロテインがやっぱりダメなんかなァ。