20230131

 私が日ごろ宿題をする子どもたちを見ていてヤバいなと思うのは、彼らが宿題を「やらされる」ことを通して「適当にごまかす」術を覚えることです。あれがほんとうによくない。
 あなたは問題集の答えを丸写ししているとき、自分が全く実りのない作業の時間を費やしていることに気づいていますよね。それを自分に許しているのがヤバいんです。そういうことに免疫をつけると、人生で面白くないことがあってもとりあえず表面的に「こなす」人間になってしまう。面白くないことに抗うことをしなくなるんです。そして、気づいたときには自分自身が面白くない無難な大人になってしまいます。
(鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』)



 12時半ごろ起床。阳台で歯磨きしながらニュースをチェック。洗濯。洗濯機の中にそそがれる水のいきおいがほぼゼロになっていたので、機械を停止し栓をいったん閉め、それからホースと洗濯機の接続部を確認してみたところ、例によって謎のふえふえわかめちゃんがフィルターにたっぷり詰まっていた。藻とか苔とかそういうレベルではない、いやこれ絶対わかめやろというものがしょっちゅうフィルターに詰まるのだが、これってつまり、水道管の中か、あるいは貯水槽——があるのかどうか知らんが——の中に、こういう水生植物がわんさか繁茂しているということなわけで、といってもいまにはじまったことではなくコロナ以前からずっとそうであるのだけれども、やっぱりこれ、いちおう国際交流処に報告しておいたほうがいいのだろうか? いまさらだけど。というか浴室にある洗面台の蛇口から出る水のいきおいが弱すぎて、こちらは常時シャワーで代用しているのだが、もしかしてそれも原因は謎のふえふえわかめちゃんだったりするのだろうか? 蛇口に詰まりまくっているのだろうか?
 トースト二枚を食し、コーヒーを淹れる。時刻は13時半。遅れまくっていた授業準備がようやくスケジュールに追いついたので、ひさしぶりとなる「実弾(仮)」第四稿執筆。16時まで。前回完成させたシーン11をざっと確認したのち、シーン12にとりかかる。ここはほかのシーンに比べてかなり長い。それにくわえて改善点も山ほどあるので、かなりの加筆修正が要請されることになるはず。しかし書いていて気づいたのだが、このシーンってちょっと岡田利規の「三月の5日間」みたいだ。社会を揺るがすデカい出来事があった直後にラブホテルの一室で過ごす若者二人組という、いわばガワだけの話であるのだけれども、それにしてもいまのいままでその共通点に気づくことのなかったじぶんのとんまっぷりがおそろしい。そういうわけでひさしぶりに「三月の5日間」を再読したくなったので、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』をポチろうと思ったのだが、Kindleでリリースされていない。実家からわざわざ紙の本を送ってもらうのもアレであるし、となると夏休みの一時帰国までおあずけかと考えたところ、オリジナルの戯曲版のほうはKindleに対応していることが判明し、こっちのほうは小説版と違ってまだ一度も再読していないんではないかというアレもあったので、これも縁だというわけでさっそくポチることにした。というか出版社はいいかげん岡田利規の短編を一冊の本にまとめてリリースするべきだと思う。雑誌に掲載されたものだけでもけっこうな数あるはずなのに。
 后街の快递にネルフィルターを回収しにいく必要があったので街着に着替える。今日の最高気温はまさかの22度。そういうわけで柄物セーターと白黒ストライプのイージーパンツというお気に入りのセットで外に出る。せっかくであるし徒歩で向かってもよかったのだが、そうすると往復で小一時間かかってしまうことになるし、今日はまだきのうづけの日記の続きを書くという仕事も残っているので、自転車で向かうことにする。后街周辺はかなりにぎわっていた。若者の姿もけっこうあって、一瞬、学生がもう大学にもどってきたのではと錯覚しそうにもなった。快递で荷物をひきとったのち、ピドナ旧市街の入り口にある売店でスポンジだけ買っていくつもりだったのだが、こちらはまだシャッターを下ろしたまま。春節が終わるまでは営業再開しないのかもしれない。

 帰宅。門前で若い女性とその母親らしい女性とすれちがう。はじめて見る顔。向こうもこちらの姿を見てややおどろいた表情を浮かべていた。こんな時期に大学にひとがいるの? みたいな。それも派手な服を着た外国人? とでもいうような。キッチンに立つ。SOPHIAの“ビューティフル”や“進化論”をききながら、米を炊き、豚肉と長ネギとブロッコリーとニンニクをカットし、タジン鍋にドーン! して、レンジでチーン! する。
 食しながら(…)さんの発表動画をまた15分ほど視聴する。ベッドに移動したところで、三年生の(…)さんから微信が届く。ガンプラの写真。最近買ったものらしい。ひとつは『水星の魔女』のやつで、もうひとつは『ガンダムSEED』のやつ。原価は一箱につき65元から70元であるが、98元の割高価格で買ったとのこと。「横浜には巨大なガンダムがある」というので、あれ? でかいガンダムがあるのってお台場かどこかじゃなかったっけ? と思ったが、あれとは別なのか、あるいはあれを移転させたものなのか、ちょっとそのあたりよくわからんが、とにかくいま、横浜にはでかいガンダムがあるらしい。しかもちょっと動くみたいで、そのようすをとらえた動画がbilibili動画にアップロードされており、そのリンクまで送られてきたのだが、それにしても(…)さん、ルームメイトたちから実家が金持ちだとからかわれているのを何度か見聞きしたことがあるが、モーメンツに以前Switch本体の画像をあげていたこともあるし、実家のリビングにあるものとおぼしき巨大な液晶テレビの画像をあげていたこともあるし、実際、けっこう裕福なほうなのだろうなと思う。少なくとも(…)省の農村で暮らしている学生とは生活水準が全然違う。最近は省外の学生や都市部から進学してくる学生も増えてきたので、彼女らが長期休暇中にモーメンツに投稿する大量の写真を通して、この社会におけるえげつない格差みたいなものをありありと目にする機会も多い。同じクラスの学生でも、いっぽうは都市部にあるバーやライブハウス的な空間で飲み食いしている写真をあげているのに対し、もういっぽうは放し飼いにされているにわとりの写真やなにもない屋外で小さな子のおもりをしている写真をあげていたりする。
 岡田利規「三月の5日間」を少し読む。少し読んだだけで、あ、これはすごいわ、十年以上前に読んだときは全然このすごさがわかっていなかったわ、とうなった。男優1がまず観客に向けて「それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようって思うんですけど」と告げて第四の壁を壊すところからはじまり、男優2といっしょに、ラブホテルに連泊した男女のその男のほうがそもそもその女と出会うきっかけとなったライブに男同士でおとずれたという事情を事後的に説明する語り口で語るなかで、そのときの男女の出会いを男優1と男優2で部分的に再現してみせるその再現がそのまま「事後的な説明」というレイヤーを置き去りにして進行していく。だからといってそのまま男優1(男)と男優2(女)による再現が続くというわけでもなく、ところどころで「事後的な説明」のレイヤーにもどってくることもあるし、その「事後的な説明」のレイヤーも男優が観客に向けて語りかけているメタなレイヤーだけではなく、ラブホテルを出たあとの男が友人の男とファミレスで再会してことの次第を報告しているレイヤーも途中から登場し、それら二種類のレイヤーが分離したり重ね合わせられたりする。さらにその後、女優1と女優2も加わり、別の男優も加わり、ラブホテルに宿泊した男女とその男といっしょにライブにおとずれた友人の男以外の登場人物も増えていく。そしてそれらの役柄を舞台にいる役者らがレイヤーの切り替わるタイミングごとに巧みに交換しあう。ポイントはただの入れ子構造ではないということ。つまり、レイヤーの上位と下位がはっきりしていて、舞台で演じられている出来事がいま何層目のレイヤーであるのか、はじまりのレイヤーにもどるためにあと何層のレイヤーを閉じなければならないのかというようなヒエラルキカルな辻褄あわせはここにはない。だから印象としては、クロード・シモンの小説をさらにラディカルにした感じ。シモンもダッシュや括弧を多用しながらもわざとそれを閉じずに永久脱線させてしまうという技法を用いるわけであるけれども、それをさらにポップかつリズミカルにガシガシやっている。で、ふつう、こういう技法を使うとなると、第四の壁を壊す、つまり、メタフィクション的なレイヤーを導入するのに抵抗があると思う。というのも、メタフィクション的なレイヤーはどうしてもそれがヒエラルキーの最上位にあるものとして受け取られてしまいがちであるし、もっといえば作者自身もその特権的な引力に逆らえずひきずりこまれてしまいがちであるから、そうしたレイヤーの導入には慎重になるものだと思うのだが(事実、こちらがこれまで読んだことのあるクロード・シモンの長編には、「いまこの小説を書いているわたし」というレイヤーは導入されていなかったと思う)、『三月の5日間』はそのメタフィクショナルなレイヤー、第四の壁を突破しているレイヤーの使い方がすごく効果的で、というのは、レイヤーの横滑りによって複雑化を遂げた構造を、役者が突然観客のほうを向いて「〜ということがあって」とか「〜という場面をやろうとして」みたいなかたちでいったん仕切り直す、キャンセルする、接続しまくってしまったものをいったんそこで切断する、そういう役割が果たされているからで、これがあるのとないのとでは全然違うよなと思う。横滑りしつづけるだけであれば、ある意味とてもわかりやすい、すごく雑な言い方をすればポストモダン的な作品になっていたと思うのだけれども、その横滑りをいったんキャンセルする、接続の連鎖を切断する、そういう役目がこのメタフィクショナルなレイヤーには課されている。だからといってそのレイヤーがヒエラルキーの最上位にあるものとして感じられないのは、ヒエラルキーそのものの辻褄が合うようにこの戯曲が構成されていないからで、これはすさまじい発明であるなとつくづく思う。
 とはいえ、ここまでは十年以上前に読んだときにもすごいすごいと感動していたポイントであるのだけれど、今回あらためてこれはやばくないかと思ったのは、語りなおし——というよりこの場合は演じなおしというべきか、そういう部分もいくつかある点で、つまり、そのエピソードはさっきAとBが演じたよねというところをほんのちょっとだけ巻きもどしてもう一度、たとえばCとDが演じなおすみたいなポイントがいくつかあったんだが、レイヤーの切り替えに応じて役者と役柄がその都度シームレスにとっかえひっかえされる、そしてそのような流れをいったんキャンセルするものとしてメタフィクショナルなレイヤーがリズミカルに挿入される、それだけでもう十分な発明だと思うのだが、それにくわえて部分的に重複するエピソードの語りなおし(演じなおし)が加わることで、「役者と役柄がその都度シームレスにとっかえひっかえされる」そのとっかえひっかえの組み合わせにも無数のバリエーションが存在することが強調される(ここでこの役者がこの役柄を演じることの必然性および特権性——ヒエラルキー——を順列組み合わせがキャンセルする)。だから、冒頭でいきなり第四の壁をぶちこわしてみせたところもふくめて、実は、「三月の5日間」というこの戯曲はベケットをめちゃくちゃしっかり継承していることになる。そのことに以前は気づかなかった。
 ちなみに、クロード・シモンがあの作風を発明するにいたったのは、たしかベケットの助言があったからではなかったか? そういうエピソードをどこかで見聞きしたおぼえがある。複数の時空間に対応した複数のカラーペンだか色鉛筆だかを使って小説を書けばいいとベケットがシモンに助言したみたいな話だったと思うが。
 20分の仮眠をとる。起きたところでコーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回する。2022年1月31日づけの記事を読み返す。「冷食の餃子を茹でて食ったが、全然味がしなかった。鼻詰まりのためだとはわかっているのだが、この時期に味覚障害って! とひとり笑ってしまった」とある。ここから二週間くらい味覚・嗅覚障害が続いたはず。
 作業中、爆弾魔のカスがしょっちゅう椅子をひきずりまくるので、その都度吠えまくった。マジでこいつなんなんや。前世からの因縁を感じる。時代が時代やったらマジで決闘になっとる。
 22時になったところでシャワーを浴びる。あがってストレッチ。なんとなくミニプログラム経由でbottle waterの注文をしてみたところ、今回はなぜか支払いが問題なくできた。は? なんでや? いちおうチャットサービスに先日メッセージを送っておいたのだが、返信はないしそもそも既読にすらなっていない。実はちゃんとチェックしていてなんらかの対策をとってくれたということなのだろうか? あるいは単純に、以前(…)らが言っていたように、春節休みがずっと続いていた、それがようやく終わって晴れて注文受け取りを再開したということだったりするのだろうか? いずれにせよ、懸念がひとつ解消されたので、これは本当にうれしい。
 懸垂する。合間に今日づけの記事も書く。プロテインを飲み、授業準備にとりかかる。日語会話(三)の第22課。大まかな流れの目星だけひとまずつけた。「を着ています」「を履いています」みたいな文型が紹介されている課であるので、そこに特化するかたちでファッションにかかわる語彙を大量導入し、こちらが事前に用意しておいた画像の人物の服装やクラスメイトの服装を口頭で即興描写させるというゲームができそう。
 1時半になったところで餃子を茹でて食し、ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませる。寝床に移動し、『三月の5日間』の表題作だけ最後まで読み進める。はじめて読んだときも思ったことだが、この作品のテクニックをパクった小説を書いてみたい。いや、それだったら小説版の「三月の5日間」や傑作「わたしの場所の複数」があるということなのかもしれないが、そういう応用の仕方ではない別の応用の仕方を、戯曲版「三月の5日間」で使われているテクニックを小説に代入すればどうなるかという発想から導き出すことができるのではないかとアレを、十数年前よりも力をつけたいまだからこそより明確な予感としておぼえる。もともとずっと以前から、任意の日付の日記をひとつ選んで、それに注釈をつけていく——そしてその過程でおおいに脱線していく——という小説を書いてみたいと思っていたのだが、その素案にもしかしたらしっくりくるかもしれない。(1)いまこの小説を書いているというレイヤー(2)過去に書いた日記のレイヤー(3)日記に対する注釈のレイヤー(4)②を素材としてリアリズム小説の筆致でできごとを書きなおすレイヤーの四つのレイヤーをベースとしつつ、④のレイヤーで「私」の外に出たり、③のレイヤーでほかの日付の日記に飛んだり、場合によっては①のレイヤーよりもさらに未来を召喚したりする、そういう感じのもの。素材とする日記の候補としては、熟コンの日か、ヤクザだらけのバーベキューの日か、上海での隔離を終えた日か、そのあたりが面白くなりそうだなという感じ。