20230206

 大人たちは良かれと思ってあなたにさまざまなアドバイスをしてくれます。でもその多くがむしろあなたを「正しさ」でがんじがらめにしてしまう言葉ばかりなんです。あなたに必要なのはみんなとは違う自分独特の生き方を見つけることなのに、大人があなたに耳打ちするのは、どうすれば「普通」になれるか、みんなとうまく合わせられるかということばかりなんです。
 こんなことを言うと、でも私には独創性がない。個性が足りないから普通でいい。そういうふうに言う人がいます。私はいまの状態のままで安心していたい。そうやって、自分の人生が動くこと、他の人たちとの間に距離ができることを嫌う人が多いのです。
 でも、この世界には初めから特別な個性や独創性が存在しているわけではありません。なぜならそれは自ずと現れるのですから。食器ひとつ洗うにしても、歯を磨くにしても、そのひとつひとつにあなたの生きる道が現れます。視界が悪い時には抜け道を探さなくてはならないし、人との関係の中で不整合があれば何とか辻褄を合わせなければいけません。それらの個別的な営みがすでに抵抗なんです。「正しさ」の論理では決して追いつけない個別への生きた対応こそが独創であり、それを地道に続けていくことだけが「正しさ」らしさへの抵抗になりえるのです。もしあなたがいまより豊かな人生を望んでいるのであれば、それはその抵抗のずっと先に現れる独特な穏やかさのことを言うのでしょう。
(鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』)



 14時前起床。なにしとんねん! あと二週間ちょっとで新学期はじまんのやぞ! 歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。(…)楼の快递が15時までしか営業していないので、メシも食わずすぐに身支度を整え、自転車で出発。おもてはあるかなしかの小雨。途中、(…)四年生の(…)くんそっくりの後ろ姿を見かけた。もしかしたら本人だったりするのかもしれない、なにか事情があってはやめに大学にもどってきているのかもしれないと思ったが、彼はそもそもカタカナが読めるかどうかすらあやういという日本語レベルなので、仮に本人だったとしても立ち話は不可能、確認せずにさらっと追い越した。
 もしかしたらまだ営業再開していないかもしれないと思ったが、そんなことなかった、店は開いていた。半地下の入り口を通り抜けて奥にある倉庫に入る。男性がひとり椅子に腰かけてスマホをいじくっていたので、注文した折りたたみデスクの表示されている淘宝の商品ページを見せると、そこにあるよと壁際を指差してみせる。ダンボール、なかなかでかい。厚みはないのだが、小脇に抱えるということは不可能な面積。バーコードの読み取り機にのせることもできないので、男性が手持ちの機械で回収手続きをおこなってくれる。店を出るまぎわ、卒業生の(…)さんに雰囲気の似た女性と入れ違いになる。正確にいえば、(…)さんが三十代半ばになったら、おそらくこんなふうになるだろうなという顔立ちの女性。(…)さんは恋多き女子であるし、卒業してもう三年か四年になるし、都市部に住んでいるわけでもおそらくないだろうから、ぼちぼち結婚するかもしれない。
 自転車に乗る。クソデカいダンボールをどう運べばいいかわからない。どうにかして脇に抱えることはできないだろうかと四苦八苦するが、どうにかなる問題ではない。そうこうするうちに(…)さんに似た先の女性が小型の電動バイクに乗って去っていく。荷物の入ったダンボールをひざのうえに載せているその姿を見て、このサイズでおなじことができるだろうかとためしてみるも、やっぱりできない。しかたがないのでダンボールの一辺を鷲掴みにする。そうして握力のもつかぎり、その状態で先に進もうと決めるが、一分ほどで右手がパンパンになる。自転車をわきに止める。止めたそのかたわらを自動車学校の車が通り過ぎていく。このときは余裕がなく思いいたらなかったが、往路で目にした後ろ姿が仮に(…)くんであった場合、もしかしたら車の免許をとるためにはやめに大学にもどってきているのかもしれない(キャンパス内には自動車の運転を練習するためのコースがある)。
 ダンボールを自転車のハンドルの上にのせることにする。左のハンドルの端っこだけ余るようにし、それより右側のフレームを全部支えとするかたちでその上にダンボールをのせるのだ。で、のせたものが落ちないように右手で上から押さえつつ、左手で余ったハンドルの端っこを握って操作するという方法。これでどうにかうまくいった。交通量はほぼゼロで、なにより舗装のしっかりしているキャンパス内であるから、とりあえず問題なかったわけだが、仮にこの運送方法で后街の快递から寮まで荷物を運ばなければならなかったのだとしたら、けっこう終わっていたと思う。
 寮に戻る。(…)さんに似た先の女性がのった電動スクーターが敷地の奥のほうで停止するのがみえる。あ、ここの住人だったんだ、と思う。部屋にもどる。折りたたみデスクの確認はあとにまわし、まずはトースト二枚の食事をとり、白湯を飲み、红枣のヨーグルトを食す。それから食後のコーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年2月6日づけの記事を読み返す。2021年2月6日づけの記事から引かれている郡司ペギオ幸夫『やってくる』の一節がおもしろかった。

 脳科学におけるミスマッチという説明は、次のようなものです。
 意識的な論理的判断の情報処理は正常で、無意識的な感覚に関する情報処理のほうが損傷を受けている。つまり、顔は正しく認識できるが、親しみの感覚などが失われる——これが、脳科学によるカプグラ症候群の説明です。逆にフレゴリー錯覚は、意識的な論理的判断のほうの情報処理が損傷を受けており、感覚に関する情報処理のみ正常に機能する、と説明されます。
 このように脳科学では、カプグラ症候群とフレゴリー錯覚は対称的に考えられていますが、両者ともに「認識と感覚のミスマッチ」として理解されていることがわかります。
 しかし前述のように、ミスマッチは、正常と思われる日常生活でもつねに起こっている。それは無視され、隠蔽されるだけで、つねにあるのです。私は、カプグラ症候群やフレゴリー錯覚をミスマッチで理解しようとする説明は、大事な問題を取り逃がしていると思います。その大事な問題とは現実感=リアリティです。
 正常と思われる判断では〈認識する〉と〈感じる〉がマッチし、ここにミスマッチが起こったときだけ異常な認知現象が起こる——こう考えるとき、一つひとつの判断は「認識する=感じる」であり、ここにはいかなる剰余、いかなる遊びもありません。人工知能における判断と同じで、その判断以上のものが付与される余地など一切ないのです。
 しかし私はこう考えます。〈認識する〉と〈感じる〉の間に、ミスマッチがあるからこそ、そのミスマッチを伴う判断固有の現実感がもたらされるのだと。現実感は、〈認識する〉と〈感じる〉のずれ=スキマ=ギャップにやってくる外部を想定しない限り、理解できないものなのだと。
(…)
 〈認識する〉と〈感じる〉のミスマッチという理解は、マッチすることが正常であることを前提として両者のずれを理解するだけです。ずれがあって一致しない場合も、両者の重なった全体を考えるだけで、それ以上のものは考えていない。
 そうではなく、〈認識する〉と〈感じる〉の間に、想定もしていなかった外部が介入してきて、両者をなんとかつなごうとしている。かといって、つながりが完成することは決してない。そこに生じるダイナミックな関係こそが、実は私たちがリアリティと呼んでいるものを作り出しています。
 外部とは、認識や感覚を通常司る脳の領域以外の部分や、身体外部のものでさえある「さまざまな何か」を意味するでしょう。それらがそのつど動員され、リアリティをもたらしているのです。
(郡司ペギオ幸夫『やってくる』 p.71-74)

 それから2013年2月6日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」のほうに転載する。この日は自室の写真を投稿しているようだったが、めんどうくさいのでそれはもう転載しない。記事冒頭には引かれている『物質的恍惚』の一節がなかなかよいのでここにも引いておく。ル・クレジオの小説といえば、(…)先生の置き土産である『調書』が手元にあるわけだし、これもなにかのしるしかもしれん、いま読み差しの本をすべて片づけたら読んでみようかな。

 無償ということは、不条理という意味ではない。水は無償である。風は無償である。天地創造は無償である。大地、太陽、銀河は無償である。狆とか、たつのおとしごとか、鰐とかは、いったい何かの役に立つのか? またうまのあしがたには、菊には、何か目的があるのか? 何か或るもの、或る行為、思考あるいは自然の連鎖の何かの形で、無償でないものがあったら見せてほしい。それらは役に立っている、それはもちろんだ。それらの仕組みの内部においてそれらは有用である。参与している。諸関係を創り出している。だがそれらの本性の中には、それらがあるところのものであるという以外にはいかなる企図もありはしない。
 そしてまさしく、この無償性はすばらしいのだ。それは出発点であると同時に到達点であり、展開されかつ自己充足している上昇であって、理由があって生まれたのではなく、港に着く必要はなく、自分自身の息吹きによってのみ、もっぱらそれによって、動かされているのだ、エンジンによって昇り、エンジンであるのだ。
ル・クレジオ豊崎光一・訳『物質的恍惚』)

 以下のくだりはたぶん「S&T」に収録したはず。

今日はそれほど温暖というわけでなかったが、ジョギング中、西の空にはっきりと夕焼けを認めることができたのでよかった。夕焼けを見るのはずいぶんとひさしぶりな気がする。なんだったら帰国後はじめてなんではないかと思わないでもない。先日の恍惚感がまたいくらかぶりかえした。風景を見てなんらかの感動をもよおすたびに、じぶんは愛にあふれた人間だと思う。ただ、それがなかなか特定の人間にむかないというだけで、絶対量としては平均値をかなり上回っているような気がする(それが量的に計算できるものであると仮定しての話だが)。風景としての人間はすごく好きだ。スーパーまでの行き帰りにすれちがうひとびと、北大路のマクドナルドの二階席から見下ろす交差点のひとびと、そういうひとびとを風景として愛でているじぶんがいる。

 以下は、ありふれた他者の他者性みたいな話にすぎないのだが、ただ(…)で働きはじめて以降出会ったひとびとのことを念頭に置いているのだと思う。抽象的であたまでっかちな理解しかかなわなかったはずの理論が、圧倒的な現実に揉まれて「使える」ようになっていく、それが(…)で過ごした日々のいわば成果だったと思う(それは同時に、抑圧したはずの過去があらためて価値の俎上にのせられて、やはり「使える」ものとしてこちらに認識される、その過程でもあった)。

風呂に入りながら、理解するのでもなく共感するのでもなくただそのようなものとして目の前の他者を認めること、とちかごろ馬鹿のひとつ覚えのようにくりかえしていることをまた頭の中でくりかえしていた。それをひとまずの前提とする。それをひとまずの前提として受け入れる。その先になにがあるのか、そこからどう思考が発展するのかはまるでわからないが、まず前提とする。ベルグソンが彼のいうところの直観をまず哲学の前提とせよと訴えているのをはじめて読んだとき、いいたいことはわかるし納得もできるとはいえ、しかしその前提を起点とする思考など存在しないのではないか、その前提は前提であると同時にすでに帰結であるそんな思考なのではないかと思いもしたのだが、現実には彼のいうところの直観の種子から数々の鋭利な思考が花開くにいたった。その事実を励みにしているじぶんがいる。他者を、マイノリティを、理解も共感も納得も遠い存在を、しかしひとまず認める。決してじぶんの論理や価値観にひきつけるようなふるまいには出ず、ただそのようなものとしてまるっと認める。肯定する。

 あと、『牛乳屋テヴィエ』(ショレム・アレイヘム)を読み終えたあと、『その男ゾルバ』(ニコス・カザンザキス)を読みはじめている。『その男ゾルバ』のゾルバは(…)さんとなんとなくキャラのかぶる感じがあり、それだからこちらはかつて「その男(…)」という小説をいつか書こうかなと思ったりもしていたわけだが、そうか、(…)さんに出会うよりはやく『その男ゾルバ』をこちらは読んでいたのか。ずっと逆だと思っていた!
 記事の読み返しがすんだところで「実弾(仮)」第四稿執筆。16時過ぎから18時半までカタカタやりまくる。シーン12、とりあえずこれくらいでいいかなと思う。物足りない気がずっとしていたわけだが、あらためてあたまから読んでみたところ、これはこれでけっこう充実しているのではという印象をもった。

 キッチンに立つ。米を炊き、豚肉とたまねぎとトマトとキャベツとニンニクをカットし、タジン鍋にドーンしてレンジでチーンする。生活リズムをたてなおす必要があるので、食後の仮眠はとらず、そのまま活動を継続する。折りたたみデスクの入った箱を開封し、組み立てるべきものを組み立てる。サイズはちょうどいい。普段使っているデスクより高さがないのでその点どうなのかなとちょっと思ったが、ためしに椅子に腰かけて向かってみたところ、むしろこっちのほうが適正な高さかもしれないと思った。阳台ではパソコンを使った作業をすることはないと以前書いたものの、使い勝手も良さそうであるしこれから暖かくなってくるにつれて日光が恋しくなることも増えてくるだろうし、やっぱりそっちでも仕事できるような環境をこしらえたほうがいいかもしれん。延長コードはある。風呂まわりやトイレまわりのブツはいま壁際に並べて置いているだけなのだが、それらをまとめておくことのできるちょっとした収納でも買うか。
 浴室でシャワーを浴びる。あがってストレッチをする。三年生の(…)さんからまたガンプラの写真が送られてくる。北京の(…)くんからも微信。例の修士論文について、こちらの協力がまた必要なのだという。前回まとめた日本語学習者の誤用について、あらためて詳しく分類したうえで、その分類が正当であるかどうか母語話者に判断してもらう必要がある、と(指導教官からそう言われたらしい)。手伝うには手伝うが、これはまた難儀な仕事になりそうであるなと内心げんなりする。金を払うというので、金はいらない、そもそも内容次第ではぼくの手に余るものかもしれない、まずは具体的になにをすればいいのか資料をまとめて送ってほしいと応じると、「資料を整理した後で、すぐ送ります」というメッセージとともに1000元送られてきたが(受け取りは拒否した)、結局この夜のあいだにその資料が送られてくることはなかった。
 授業準備にとりかかる。日語会話(三)の第25課。いまひとつはかどらない。今日中に片付けるつもりだったのだが、なんだかやる気が出ずあたまも働かず、うーんいまいちという感じ。こういうときはねばってもしかたないので、はやめに切りあげる。スクワットし、ラーメンを食い、ジャンプ+の更新をチェックする。歯磨きをすませてベッドに移動後、「労苦の終わり」(岡田利規)の続きを最後まで読み進めて就寝。