20230211

 不安定な作家生活のほうを選ぶことは、安定を何よりも重視する親の世代と訣別することだった。モデルネが勃興したときの雰囲気を、のちにムージルはこう表現する。「いかなる物も、いかなる自我も、いかなる形も、いかなる根本法則も安定しておらず、目には見えなくともすべてが変化しつづけている。固まっているものよりも固まっていないもののほうに未来は多く宿る。現在とは、まだ乗り越えられていない仮説にすぎない」(…)。
(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』)



 ドリルの音で目が覚めた。耳栓などまったく意味なし。どこで工事をしているのかはわからないが、スマホで時刻を確認すると10時で、さすがにこの時間に朝はやくからなにしとんねん! と抗議するわけにはいかない。あきらめて起きるかと思ったが、ドリルの音は思っていたよりもずっとはやくおさまった。それで二度寝した。
 次に目が覚めると12時半だった。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。フローリングのほこりや食べかすがまた目立ちはじめていたので、掃除機をかけることにしたのだが、その最中、椅子をどけるために中腰になって持ちあげた拍子に、腰がピキッ! となった。やっちまったと悔やんだ。それほどひどくはない、動けないことは全然ない、軽度のぎっくり腰である。軽度の場合は安静にする必要はなく、むしろできるのであればストレッチなどガンガンしたほうがいいみたいな話があったよなと思い、とはいえ間違った記憶であればおそろしいのでいちおうググって確認してみたところ、安静にしていたほうがむしろ治りが悪い、再発率も高いというデータがしっかり出ており、しかるがゆえに西欧社会ではぎっくり腰になった場合も安静にしろとは言わず、動けるのであればいつもどおり家事などするべきであるとすすめているとのこと。そういうわけで軽くストレッチをし、掃除の続きも進めたのだが、筋トレはさすがに今日はお休みにしたほうがいいかもしれん。あと、魔窟の快递に荷物の引き取りにいく必要もあるのだが、阳台に設置するための簡易ラックなどけっこうかさばるものであるし、それを抱えたまま自転車で移動するというのもアレだから、今日は控えておいたほうがいいかも。雨も降っているようだし。
 その後、トースト二枚の食事をとり、食後のコーヒーを淹れて、きのうづけの記事の続きを書く。記事の中でジム・オルークに言及したその流れで、朝日美穂のことをふと思い出し、ジム・オルークが絶賛した『THRILL MARCH』をひさしぶりに流したのだが、なんとなく思った、ジム・オルークStina Nordenstam的なものをこのアルバムのなかに見たのでは?
 きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回。その後、2022年2月11日づけの記事を読み返す。

右の引用に先立つ箇所で「問題の価値〔大学が知に与える価値〕は資本主義における時価を下回る」と述べられていることからもわかるとおり、所定の単位を取得して学位認定を受け、みずからが労働力商品となって市場に出てゆく学生たちは、この構造のなかで、知の市場価値と大学が知に与える価値とのギャップを埋め合わせることを余儀なくされる。ここに知の商品化がもたらす搾取の根が見いだされる。
(工藤顕太『精神分析の再発明 フロイトの神話、ラカンの闘争』p.301)

食後のコーヒーを用意して部屋にもどり、メールをチェックしてからきのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回したのち、2020年2月11日づけの記事の読み返し。金沢二日目。単独行動で古書店をめぐったり、カフェやホテルのラウンジで日記を書いたり、知らないラーメン屋でラーメンを食べたり知らないとんかつ屋でとんかつを食べたりしている。記事を読み返しながら、ああ、またこんなふうに知らない町に数日間目的なしに滞在したいなと自然と思った。思ったじぶんにはっとして、あれ? もしかしておれって旅行が好きなんじゃないか? と気づいた。知らなかった、思ってもみなかった、しかしいちどそう言語化してみるとたしかにそうかもしれない。いや、この場合の旅行というのは一般的に想像されるようなそれとはたぶんずいぶん異なる、別に観光地をめぐりたいわけでもないし現地の美術館をたずねたいわけでもない、むしろそういうものよりもスーパーとかホテルとかコンビニをおとずれたい、というのはつまり現地でいわば擬似的な日常を過ごしたいということなのかもしれないが、そうだとすれば知らない町並み知らない風景に出くわすたびにおぼえるあの所感、すなわち、「この街で育ったら、どんな私になっていただろう」(青春18きっぷ)というある種のとりかえしのつかなさに由来する欲望を部分的に満たすものとしてじぶんは旅というより滞在を置いているのかもしれない。

 それから2016年5月24日づけの記事からの引用もある。当時Twitterに投稿していたつぶやき。

動画を描写するのはある程度たやすい。そのなかにあって動いているものから先に書けばいいから(ひとの目線は動くものをなかば反射的に追う)。困難は静止画の描写にある。そこにあって動くのはむしろ語り手の目線である。その目線の動き、とらえる対象の優先順位が、欲望の在処と傾向を暴露する。

そういう意味で、風景描写ほど人間の「内面」にせまるものはないという逆説も成り立つ。近代文学的な「内面」の投影とは無縁の、それ自体に徹してあるはずの風景描写が、それでいてたとえば「無意識」と呼ばれうるような、より過激な何事かをあらわにする。描写は赤裸であることをまぬがれえない。

感情は喜怒哀楽の四種類では当然ない。命名と分節は単なる便宜にすぎない。名づけられたものから名づけようのなさを取りもどすこと。すでにあたえられている「名称」を「文」へと解体することで? 名詞にたいする挑戦。世界の仕切りなおし。

「舞台」や「状況」を説明する文章を冒頭に配置すると途端につまらなくなる。読むもののなかでことばを組みたてていくよろこびが失われる。名詞的になってはいけない。名詞は了解を強いる。一転、形容詞的な世界について語っていた荒川修作のことばとたくらみがよみがえる。

ひとつの光景を具体的に描くにあたって抽象的なことばづかいをし、ひとつの光景を抽象的に描くにあたって具体的なことばづかいをすること。

 あと、「とにかく腰が痛い、このままだとぎっくり腰になるかもしれないという危惧から、ネットで腰痛マッサージや体操についていろいろチェックし試してみたのだが、大腿筋を伸ばすやつにしても骨盤を前に迫り出すやつにしても、どれもこれもマジでピンポイントで効きまくっている感じがした。冬休みになってからというもの、それ以前もやはりそうだったかもしれないが、一日の大半をデスクに向かって過ごしているわけで、それで体中の筋肉という筋肉が相当硬直してしまっているようだ」という記述があり、まさにその一年後、おなじように腰の痛みに悩まされているじぶんがこうしているわけで、というか懸念のぎっくり腰を発症しているわけで、このクソどうでもいいシンクロには苦笑するほかない。一年前は気胸で運動が禁止されていたこともあり、身体中の筋肉がかなり硬直していたのだと思う。
 それから2013年2月11日づけの記事を読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に転載。マルカム・ラウリーの『火山の下』の一節が引かれているのだが、すごくかっこいい。

ラリュエルは時計を見て――ビヒルはまだ三十分は来ないだろう――それからまた手のなかでくしゃくしゃに丸まった紙に目をやった。雨で洗われた新鮮な冷気が日よけ扉から酒場に流れ込み、屋根から雨が滴り落ちる音、街路の溝を走る水音が聞こえた。そして彼方の祭りの喧噪がふたたび彼の耳に届いた。彼はくしゃくしゃになった手紙を本のなかに戻そうとしたが、そのとき半ば無意識に、しかし突然の強い衝動によって、それを蝋燭の火のなかに差し入れた。立ち昇った炎がぱっと酒場の内部を照らし、その明るさでカウンターのところにいる客たちの姿が、ほんの一瞬、凍りついた壁画のように浮かび上がった。よく見ると、小さな子供たち、ゆったりとした白い服を着てつばの広い帽子をかぶったマルメロかサボテンの農夫のほかに、墓地から帰ってきた喪服姿の女たち、それから黒っぽいスーツの襟元を開いてネクタイを緩めた浅黒い顔の男たちが何人かいた。彼らはみな話をやめ、怪訝そうにラリュエルのほうを見つめていた。バーテンだけはやめさせようとする構えを見せたが、ラリュエルがそののたうつ紙の塊を灰皿に入れると、そのままそしらぬ顔をした。灰皿に載った紙片は、美しい均質の灰に姿を変えながら自らを畳み込み、炎上する城となって崩れ落ちたかと思うと、やがて身を沈めてかすかな音を立てる蜂の巣と化し、そこから小さな赤い虫のような火の粉が這い出ては飛んでいった。その上では、細かくちぎれた灰がいくつか薄い煙のなかを漂い、そこにあるのは、もはやパチパチと音を立てる燃えかすのみ……
マルカム・ラウリー斎藤兆史・監訳/渡辺暁・山崎暁子・共訳『火山の下』)

 同日づけの記事には、出先でこちらにそっくりの男が職質を受けているのを見たという(…)さんの目撃談を受けた直後、実家の弟から電話があり、いま地元に戻ってきているのか、そっくりの人物を見かけたのだがと問われたというエピソードが記録されており(一日に二度もこちらのドッペルゲンガーがあらわれた——と書いていて思ったのだが、複数人のドッペルゲンガーとバイロケーションを組み合わせたらけっこうおもしろいホラーになるのでは?)、ああなんかそんなこともあったな! と思い出した。あと、夜は(…)で踊るためのプレイリストをわざわざ作成しているのだが、そのラインナップの趣味というか傾向というかそういうのがなんかやっぱりいまとあんまり変わらんかもという感じだった。

01. Nagoya Marimbas / Steve Reich
02. Eg-Ged-Osis (Todd Terje Extended Edit) / Lindstrom
03. %% / (Tの自作曲)
04. Concret PH(1958) / Iannis Xenakis
05. I.(CIty Life) / Steve Reich
06. Go Go Round This World! / Fishmans
07. ヴァンドーム・ラ・シック・カイセキ / SPANK HAPPY
08. 波よせて / クラムボン
09. 「草の葉」 第32節 / 犬式
10. Life is Beautifull / 犬式
11. Eulogia / 大西順子
12. 精神病質 / 鬼
13. サイの角のようにただ独り歩め / THA BLUE HERB
14. さみーね / KAKATO
15. Salon De Musique / Su Tissue
16. ゼノン / ウリチパン郡
17. パヤパヤ / ウリチパン郡
18. Flood / Phew
19. 長い夢 / YUKI
20. Eight Miles High / The Byrds
21. Um Canto De Afoxe Para O Bloco Do Ile / Caetano Veloso
22. Mentira / Marcos Valle
23. You'd Be So Nice To Come Home To / Jim Hall
24. Soon It Will Be Fire / Richard Youngs
25. うぐいすの谷 / 麓健一

 今日は出かけないつもりだったが、ぎっくり腰になったとしてもなるべく普段通りに過ごしたほうがいいとのことだったし、豚肉は今日で切れるし食パンは明日で切れるし、となると明日(…)と(…)の両方をおとずれる必要があるわけだが、前者は北門側、後者は南門側で、正反対に位置しているためについでにめぐるというわけにもいかない。だから今日のうちに(…)で食パンだけ買うことにして、で、余裕がありそうであればそのまま魔窟の快递まで足をのばして荷物を回収してこようと思い、身支度を整えて外に出たのだが、棟の階段をおりている時点で、あ、こりゃあかんわ、無理やわ、と悟った。思っていた以上に腰の痛みが悪化しつつあったのだ。それに雨も思っていたよりもずっとしっかり降っているようだったので、しかたなくゴミ出しだけすませて、すごすごと部屋にひきさがった。階段をあがっている最中、何度か腰がピキッ! となりかけた。
 部屋にもどり、ネットであらためてぎっくり腰について調べた。その過程でコルセットというワードに出くわし、あ! そうだ! コルセットのことをすっかり忘れていた! となった。(…)時代、同僚たちの多くは腰痛持ちで(浴槽の掃除をするときに中腰になるせいでいためるのだ)、仕事に差し障りのあるときはみんな白いコルセットを巻くのが通例だったのだが、そのことをすっかり忘れていた、「実弾(仮)」にはコルセットの描写をまだひとつも書きこんでいない! あぶねー、あぶねー。今日ぎっくり腰になったのも、ミューズからのメッセージだったのかもしれん。
 ベッドに寝転がりながら腰をいたわっていると、ひさしぶりにぎゃーぎゃー騒ぎながら階段をあがるババアの声が聞こえてきた。こちらが爆弾魔の恋人であると勝手に思い込んでいる人物であるが(姿を見たことは一度もない)、今日も上の部屋に入るなり、アホみたいに床を踏み鳴らしながらクソデカい声で騒ぎはじめて、口論としか思えないやかましさであるのだがそうではないのだろうか、普通の会話なのだろうか、よくわからんのだがとにかくやかましく、それで腰に響くのをおそれつつも「うるせえ!」と何度か吠えることになったのだが、スマホで曜日を確認してみたところ土曜日で、ババアはやはり週末にやってくる。最近ぜんぜん声をきかなかったのはやはり春節関係のアレだろうか? 今週からまた平常運転で週末ごとにやってくるのかもしれん。鬱陶しい。北京でも上海でもええからどっか行け。

 キッチンに立つ。『Dos City』(Dos Monos)をききながら、米を炊き、豚肉とトマトと青梗菜とニンニクをカットし、タジン鍋にドーンしてレンジでチーンする。調理中、何度か腰がピキッとなる。
 食す。ひととき休憩したのち、コーヒーを淹れ、19時から授業準備にとりかかる。椅子に腰かけているあいだ、腰はけっこう楽であるし痛みに悩まされることもないのだが、腰まわりの筋肉が硬直するのはよくないだろうし、集中力のためではなく腰のために、ポモドーロ・テクニックを使ってみることにした。25分仕事して5分のストレッチ。
 作業は21時に中断する。腰痛、どんどんやばくなっている気がする。浴室でシャワーを浴びるあいだもちょっとこわい。熱々のシャワーで腰を温めたいのだが、水のいきおいがクソみたいに弱いので、そういうわけにもいかない。あがったところであらためてストレッチをする。そのままひとときベッドに寝転がって腰をいたわる。それからふたたびデスクに向かって授業準備を再開するが、なかなかしんどいので、これはもうはやめに切りあげた。いちおう完成直前のところまでもっていったので問題ない。
 しかし鬱陶しい。明日目が覚めたら一気に楽になっているパターンを願っているのだが、そういうふうにはいかないかもしれない、むしろ明日のほうがまずくなっている可能性すらある。やれやれ。時刻は23時半。餃子を茹でて食し、ジャンプ+の更新をチェックする。タンパク質が必要だろうと判断し、プロテインを飲む。
 歯磨きをすませ、今日づけの記事を途中まで書く。ベッドに移動し、Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きを読む。合間にYouTubeでストレッチ動画をみたりもする。YouTubeにあがっている「カイロプラクティックによって人生を取り戻した少年の話」(https://www.youtube.com/watch?v=L38Nd2M4gzY)という動画、ひさしぶりにみた。これ、めちゃくちゃ痛そうなんだが、その痛みも含めて、というよりその痛みをこそ受けてみたいなとみるたびに思う。とんでもない痛みが全身に走ったあと、全身に熱をともなうしびれがじわじわとひろがっていく、その身体感覚のようなものが、みているだけでじぶんの身体に響くような気がする。マッサージや整体の動画でも、あるいはもしかしたら耳垢除去の動画でもおなじかもしれないが、それをみているだけで、じぶんの身体にある種なまなましい共鳴が生じることがけっこうある。