20230213

 ムージルが『合一』でもくろんだのは、「子守女の仕事という軛から、物語り行為を」ついに「解放する」(…)こと、これであった。その方策として、筋と意味との割合を、ありふれた文学作品のそれとは逆にした。その結果、筋は最小になり、言葉のもつ意味は最大になった。「つまり、混合比を単純に逆さまにしたわけです。これは技術的な操作ですから、その出来はエンジニアの眼で評価する必要があるでしょう」(…)。
(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』)

 ただし、その『合一』については、「作者ですら、この短編二作を読み返すとき、「たくさん読もうとしても辛抱が続かない。そこで、いつも一頁か二頁、選んで読むことにしている」(…)」とのこと。



 12時半起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。きのう(…)で買ったクソ薄切りの食パンをトーストして食し、白湯を飲み、コーヒーを淹れる。またドリルの音がしはじめる。どうやら階下らしい。きのう掃除をしているふうだった四階の部屋かもしれないと推測する。外国人教師らが戻ってくる前に、水回りなど問題のある箇所をまとめて修理しているのかもしれない。
 そういうことを考えながらきのうづけの記事をカタカタやっていたところ、玄関の扉をノックする音がした。男の声もする。だれだろうと思って出ると、管理人の(…)と人夫らしい男性だった。トイレを見せてほしいみたいなことをいうので、もしかして浴室の床が水漏れしているのかなと思った。それでふたりを招き入れた。ふたりは浴室のなかを確認し、すぐに玄関にもどった。没问题吗? とたずねると、(…)がなにやら言った。どうもトイレが使えなくなるとか、そのあいだは向かいにある部屋のトイレを使えとか、そういうことをいっているふうだったが、いまひとつよくわからない。(…)はその場で(…)に電話した。(…)が電話に出たところで、中国語で事情を伝えた。そしてその事情を(…)が英語でこちらに伝えたところによると、こちらの下に位置する部屋で水漏れが発生している、その対策のためにこちらの浴室で工事をする必要がある、工事はseveral daysかかる、そのあいだ浴室はひどく汚れるので使うことができない、しかるがゆえに工事の期間中は別室にmoveしてそこで過ごすか、浴室&トイレだけ向かいにある空き室のものを使ってくれとの由。工事では当然ドリルを使うのでかなりうるさくなるとのことだったが、人夫だけ部屋に残すのはやはりちょっと嫌であるというか、以前長期休暇中に工事に入った人夫に水回りのブツをまとめて捨てられたりパクられたりしたことがあるし((…)さんにいたっては毛布にタバコの焦げ跡を残された)、話がちょっと違ってくるが、(…)さんが大連に越したときも引越し業者に荷物を抜かれたということがあったし、つまり、この手の業者は基本的にそれほど信用できない(と中国人の(…)さんも言っていた)、金目のものをパクられるみたいなことは普通にありうるので、目を離さない意味でも部屋を留守にしたくない。あと、空き室に移動して数日過ごすとなると、結局その空き室を掃除したりなんなりしたりする必要が出てきて、それが単純にめんどうくさいという事情もあるし、それに浴室のとなりに位置する寝室でつねに外国人であるこちらが仕事をしていたら、人夫らもたいがい気まずく、さっさと仕事をすませてここを出ようと前のめりで仕事をすませてくれるんではないかという期待もある。しかし、a few daysではなくseveral daysというのがちょっと気になるな。長丁場になったらちょっとうっとうしい。
 業者は明日の午後部屋にやってくることになった。(…)から向かいの部屋の鍵を受け取り、浴室がどこにあるのか案内してもらったが、ここは以前セルビア人の(…)が住んでいた部屋であり、何度か呼ばれたこともあるので、間取りについては理解している。
 ふたりが去ったところで部屋にもどった。(…)が(…)と電話しているあいだ、人夫がこちらにタバコを一本差し出す一幕があった。断ると、人夫は(…)にそいつを渡し、自身その場で吸いはじめたのだが、中国のタバコは基本的にタールの量が多いと(…)さんから聞いたことがある。だからなのかもしれないが、においがけっこうきつく、部屋にもどったあともこちらの部屋着のダウンジャケット——(…)の宿泊客が忘れていったパタゴニアの灰色のやつ——にしばらくにおいがついたままだった。
 しかしめんどうくさいことになった。朝から夕方まで工事をするわけではないのでまだマシだが、それでも今後数日、一日の前半はほとんど使い物にならなくなる可能性が高い。やれやれだ。やれやれと思いながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回した。すると時刻は17時半だった。魔窟の快递に荷物が届いたという通知を二日ほど前から受けているのだが、その荷物というのが阳台で使う収納棚と浴室で使うルームフレグランスで、ほかでもないその阳台と浴室で明日以降工事がはじまるのだからマジでクソタイミング悪いし、だったらもうしばらく回収しにいかなくてもいいかなと思いもするわけだが、しかし(…)で食パンをゲットする必要がもとよりあるわけであるし、腰痛をなるべくはやく治すためにもなるべく普段通り動いたほうがいいはずなので、ぎりぎり雨も降っていないようであるし、やはり回収に出かけることにした。

 街着に着替えておもてに出る。自転車に乗る。空腹のせいもあるのかもしれないが、めちゃくちゃ寒い。雨はぎりぎり降っていない。予報によれば、明後日ようやく天気が回復するらしくて、晴れたらおよそ十日ぶりということになる。荷物の回収と買い物をすませてからメシを作るのはめんどうくさいなと思った。感染の波もほぼ完全に引いたことであるし、ひさしぶりに外で食うのもいいのではないか?
 南門から外に出る。(…)に入るも、レジに阿姨の姿はない。食パンを三袋もってレジに置いてから、奥のスタッフルームに你好! と呼びかけると、来了来了! と返事がある。便所にでも入っているのかなと思ってショートケーキやプリンなどながめていると、びしょびしょになった手をふきながら阿姨がもどってきた。
 支払いをすませて店を出る。后街をまっすぐ横断する。学生の姿こそないものの、なかなかの人出。店もほぼ営業再開しているし、屋台も路上の物売りもたいそう多い。パジャマみたいなもこもこの防寒着を着たおばちゃんらの姿も目立つ。魔窟の快递で段ボールを二箱回収。ルームフレグランスの入ったほうはリュックサックにしまいこみ、簡易ラックの入ったやつは脇に抱える。おなじ快递で荷物を回収したばかりらしいおっさんが、片手にみかんの入ったビニール袋をさげながら自転車に乗り、こちらの少し前を走りはじめたのだが、その後ろを、防寒具を着た黒のトイプードルがてけてけてけてけとついていって、たぶん飼い犬なんだろうが微妙に足が遅く、そのためにおっさんの後ろにいるこちらと並走するようなかたちにしばらくなり、これ傍目からみたらこちらの飼い犬みたいに見えんのかなァと思った。
 后街にもどる。(…)に立ち寄る。先客は三人。長テーブルのソファ席に荷物を置き、レジで鱼头面を注文。何ヶ月ぶりだろうと思って過去ログに検索をかけてみたところ、最後に食ったのは去年の8月27日であることが判明し、えー! そんな前になる? とびっくりしたのだが、ところで、該当記述は「それから(…)で鱼头面を食う。来るべきときが来た。食事中、前歯が欠けたのだ。」となっていて、そうか、前歯が欠けたあの日が最後なのか、と思った。あれもコロナの流行する前のタイミングだったからすぐに歯医者に行って修復することができたわけだったが、時期が時期だったらしばらくのあいだ前歯が欠けたまま過ごさなければならなかった。
 鱼头面はクソ美味かった。クソ美味いことは正直わかりきっているのだが、それでもやっぱりこれだけ間があいたからだろう、それに冬休み中ほぼ毎日おなじメシを食っていたからというのもあるんだろうが、スープを一口飲んだ瞬間、ふつうに日本語で「うまっ!」と漏らしてしまうレベルだった。ほんとにメシが美味いときってほんとに「うまっ」と口にしてしまうものだ。うまいというその知覚が強烈すぎて度し難くなるのをどうにか象徴秩序におさめようとするかのように言葉が口を突いて出る——なんやこのクソみてーな理屈は! (…)はマジでいますぐ日本に出店してほしい。ほんでバイトさせてくれ。
 食うものを食ったところで満足して帰宅。2022年2月13日づけの記事を読み返す。以下、「三四郎」(夏目漱石)について。

 今日読んですこぶる面白いと思ったのは、三四郎が野々宮君から風景を鑑賞する方法を教わるくだり。田舎出の三四郎には建物の姿形とそれがおりなす風景の妙味を味わうすべを知らない。そこへすでに東京暮らしの長い年長の研究者である野々宮君から、大学の建物がおりなす風景の趣向を教えられる。教えられたときはほとんどなにも反応できず、ただ適当な相槌を打つだけだったのだが、しばらくしてふたたび同じ景色にひとりで向き合ったとき、三四郎は以下のように感じ考える。

 銀杏の並木がこちら側で尽きる右手には法文科大学がある。左手には少しさがって博物の教室がある。建築は双方ともに同じで、細長い窓の上に、三角にとがった屋根が突き出している。その三角の縁に当る赤煉瓦と黒い屋根のつぎめの所が細い石の直線でできている。そうしてその石の色が少し青味を帯びて、すぐ下にくるはでな赤煉瓦に一種の趣を添えている。そうしてこの長い窓と、高い三角が横にいくつも続いている。三四郎はこのあいだ野々宮君の説を聞いてから以来、急にこの建物をありがたく思っていたが、けさは、この意見が野々宮君の意見でなくって、初手から自分の持説であるような気がしだした。ことに博物室が法文科と一直線に並んでいないで、少し奥へ引っ込んでいるところが不規則で妙だと思った。こんど野々宮君に会ったら自分の発明としてこの説を持ち出そうと考えた。

 これが教育だよなと思う。転移、感化、感染——相手の言葉をそっくりそのまま私物化してしまうことが決定的な一歩目となる。その一歩目をきっかけに、それまでなかった(建築物あるいは風景に対する)鑑賞能力が開花する。以後、その鑑賞能力はより多彩かつ多岐にわたる転移、感化、感染を通じて、次第に独特なものと化していき、ついには一種特異的なものとなるのだろうが、この最初の転移、最初の感化、最初の感染、これこそがやはりもっとも大切なものなのだ。0であったものを1にするこの一歩、この一歩を与えることが教育の絶対的な役目だとすら思う。啓蒙、覚醒、開闢。

 さらに2013年2月13日づけの記事を読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に転載する。

ニコス・カザンザキスその男ゾルバ』の残りを片付ける。なかなか面白かった。ゾルバのキャラが立ちまくっていて良い。強烈に独創的なひとりの人物の構想する一大事業に語り手が巻き込まれてしまう(そしてその事業はごくごく一般的な意味においては失敗に終わる)という流れがどことなく大江健三郎を思わせる。ところでこの翻訳の中でゾルバはいかにも粗野で田舎者めいた訛りのある口調で話すのだけれど、この手の架空の方言というのはいったいどこから生まれたものなんだろうか。ずっと以前に読んだものだからはっきりしないけれど、スタインベック怒りの葡萄』の会話文なんかもどこのものともいえない、ただその話者が田舎の無教養なひとびとであることだけを証す架空の方言を話していた記憶があるし、たとえばドラクエなんかでも小さな村におとずれるとそこの村人たちは「おらは〜〜だべ」みたいな、実際に存在するあちらこちらの方言を部分的に用いてコラージュした「田舎者弁」みたいなものを話す。こうした架空の方言(「田舎弁」)というのはひょっとすると翻訳文化の副産物だったりするんだろうか。たとえばアメリカ南部の訛りを翻訳するに際してひとりの翻訳家の手によって生み出された、みたいな起源があるとか? ちょっと気になる。

 あと、「作業途中の深夜スウェットのまま部屋を抜け出して近所のコンビニに出かけるときほど一人暮らしのすばらしさを感じることはない。熱をもった頭が外気で洗われていくのを感じながら交通量の少ない道路の奥また奥へと連続する信号の色をまっすぐに見通す一瞬の恍惚。この充実した孤独、この完璧なひとりきりを十全に味わうためにこそ、毎月18000円支払っているといっても過言ではない。」という記述があったのだが、(…)の下宿費用、最初は18000円だったのだっけ? その後なにかのきっかけで15000円くらいに値下がりした記憶がなくもないのだが、気のせいか? 大家さんが入院して風呂が使えなくなって以降は、銭湯代がかかるからというアレでたしか12000円くらいになったはず。ま、こちらはその後も内緒で母屋の風呂に入ったり、(…)の客室で寝泊まりさせてもらったり、あるいはおもてにある水場からのびるホースで直接水をかぶったりしていたわけだが、しかしあの時期の(…)は、ほかの下宿者らがひとりもいないせいで周囲にまったくひとけがない、空き部屋に野良猫が出入りしはじめる、コンクリートを割って生えてくる雑草がアホみたいにすさまじいいきおいで育ちはじめる、そういった状況がほとんど加速度的に進行し、あ、マコンドの最期みたいだなと思ったものだったし、野生動物の王国と化したチェルノブイリの映像を写真をちょっと思い出したりもしたものだった。
 20時になったところで授業準備にとりかかる。日語会話(二)の第31課。教科書をぱらぱらとめくった感じ、第28課から第30課にかけては教案が作りにくそうだったのでおもいきって飛ばしてしまうことにしたのだが、ただ第31課は第31課で、授業後半をまるごと費やせるほどボリュームのあるアクティビティをこしらえるのはなかなかちょっと難しそう。第28課から第30課にかけて習得する文型のうち、使い勝手の良さそうなやつを第31課の付録としてインポートしてやるのもありかもしれない。
 21時半になったところで作業を中断。うーんどうしたもんかなァと授業のことで悩みつつ、快递で回収したルームフレグランスを取り出す。開封してすぐに気づく、これ(…)の部屋のにおいとおんなじやんけ! 浴室に置くつもりで買ったわけだが、そうするとこいつを継続的に使用するうちに、浴室(トイレ)=(…)の部屋という知覚的等式が成立してしまい、結果、今後やつの部屋をおとずれるたびにうんこがしたくなるというパブロフのケルベロスみたいな禍々しい事態になってしまうのではないか? いやしかし、(…)と結婚して購入した新居はこの手のルームフレグランスを使ってはいなかったような。
 浴室は明日から工事がはじまるわけであるし、ルームフレグランスはひとまずベッド脇のナイトテーブル上に置く。それからシャワーを浴び、ストレッチをし、キッチンに立ってメシを作る。米を炊き、鶏肉と广东菜心とパクチーとニンニクをカットし、タジン鍋にドーンしてレンジでチーンする。食す。鶏胸肉、マジでパサパサで全然うまくないわけだが、腰痛がおさまるまではこいつに賭けるしかない。
 ジャンプ+の更新をチェックしたのち、授業準備を再開する。途中、「実弾(仮)」の資料になりそうな書籍をKindleストアで物色する。『ヤンキーと地元』(打越正行)はやはりKindleになっていない。日本にいるころは洋書以外Kindleで買うことはなかったわけだが、海外で暮らしはじめるとマジで電子書籍のありがたさをつくづく痛感するし、読みたい本が電子書籍としてリリースされていないのを知るたびに心底がっかりする。電子書籍としてリリースされていれば、専門書の絶版におびえる必要もないわけであるし、海外にいる日本人も、海外在住の日本語学習者も、けっこうみんなよろこぶと思うのだが、電子書籍化できないなんらかの事情みたいなもんがやっぱりあるんだろうか? 現代詩文庫とか電子書籍化してくれれば、こちらはたぶん全冊大人買いするんだけどな。
 ところで、『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』(知念渉)というのがKindleでリリースされているのを見つけたので、とりあえずポチった。Flannery O’Connorの再読はいったん休止して、今後はこちらを優先して読む。
 第31課のアクティビティがいつまで経っても固まらないので、これはもう明日のじぶんに期待やねと作業中断。歯磨きをすませる。2時になったところでベッドに移動し、『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』をさっそく読みはじめる。読んでいる最中、マジでいったいどういう経路でそんな連想が働いたのか一ミリもわからんのだが、吉行ケイスケの小説を思い出した。古本屋で買った作品集をもう15年くらい前に読んだきりなのだが、「スポールティフな娼婦」という作品が変に印象に残っていて——と書いたところで過去日記を検索してみたところ、2010年1月20日づけの記事に、「『吉行ケイスケ作品集』におさめられている掌編「スポールティフな娼婦」を読んだのだが、いくらか引っかかるところがある。なんだろうこれは。奇妙だ。ボリス・ヴィアン中原昌也を足して割ったような感じ? この、評価しがたくじれったいもやもやとした感じというのは、時間を置くと案外「傑作」という最大級の賞賛へと姿を変えたりするものだ。近いうちに必ず読み直すことになるだろうが、いずれにせよ新作へのヒントを与えてくれたという一点のみでも、この作品に出会えたことを感謝せねばなるまい。」という記述がある。で、青空文庫に収録されている「スポールティフな娼婦」を昨夜、寝床のなかでなんとなく読み返してみたのだが、やっぱりかなりおかしな小説で、ぜんぜんうまくないし、描写は奇をてらいすぎてすべりまくっているし、こんなもん好き好んで読む人間まずおらんやろという感じであるのだが、ただ、等身大なのかデフォルメなのか、リアリズムなのか幻想小説なのか、そういう分類を全部無効にしてしまうようなわけのわからなさがあり、そういう意味ではやはり異様にみずみずしく、過去のじぶんがこのわけのわからなさに影響を受けた小説を書いた(すぐボツにしたが)のもちょっと納得された。
 吉行ケイスケは文学史的には新感覚派新感覚派の作家は、ウィキペディアによれば、「横光利一川端康成中河与一片岡鉄兵今東光岸田國士佐佐木茂索、十一谷義三郎、池谷信三郎、稲垣足穂藤沢桓夫吉行エイスケ、久野豊彦らを指すことが多い」とのことだが、横光利一川端康成岸田國士稲垣足穂吉行エイスケ以外はまったく読んだことがない、それどころか名前すらきいたことがないというアレで、このあたりのマイナーどころもディグってみたら案外おもしろいかもしれん。きょうびだれも読んどらんやろし。漱石ラソンしとる場合ちゃうかも。