20230222

中国の諺にあるように、森が大きくなれば、そこに棲む鳥の種類も増える。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)



 11時にアラームで起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックしたのち、街着に着替えて寮を出る。第五食堂へ。よりによって授業終わりのタイミングで外に出てしまったため、食堂も食堂までの道のりも大混雑。参った。気温も低い。明日も寒いし、しかも雨らしい。午後から(…)で授業があるというのに。
 打包して帰宅。食す。コーヒーを淹れてから、(…)さんの面接用原稿をがっつり添削して送る。ついでに録音も。面接の日程はまだあきらかになっていないが、去年は3月25日だったとのこと。去年の(…)さんとほとんど変わらない点数だったし合格できるでしょうというと、専門の成績——というのはたぶん心理学のことだろう——はあまり高くなかったのでがんばらなくてはいけないという。

 明日の初回授業に備えてビンゴ用紙をダウンロードして印刷したり、クイズの問題用紙をPDFにしたり回答を印刷したりする。途中で玄関の扉がノックされる。業者だなと思って出たが、そうではなかった、管理人の(…)だった。浴室をチェックしたいというので、水道と排水溝の双方ともに修繕されたことを伝える。(…)は(…)がうんぬんと口にした。たぶん(…)に頼まれて、工事がすべてつつがなく完了しているかどうかチェックするように言われたのではないか。repairmanが今日やってくるという話もあったが、たぶん(…)のチェックが入ったいま、それもキャンセルになったんではないかと予想。実際そのとおりになった。その後、(…)がうちにやってくることはなかった。
 きのうづけの記事の続きにとりかかる。長くなる。途中で中断し、第五食堂で打包。食し、仮眠はとらずコーヒーを淹れ、ふたたび続きを書く、書く、書く、書く!

 作業中、She her her hersの“SPIRAL”をふと流し、「花と雨」のことを思い出した。2019年12月2日に書いたもの。これを書いた月末、武漢新型コロナウイルスが流行し、翌年からこちらは日本で足止めを喰らい続けることになる。そうしたタイミングでこの詩を書いたのは、だから、ある意味すごく象徴的だった。

   花と雨



きみと同じ病気になりたい
恥も外聞も忘れることのできる
花々しいその躁ぎに取り憑かれたなら
形容詞で着膨れた本音も
教科書通りに品詞分解して
ためらいなく口にすることができるのに



読点の打ち方ひとつにあらわれる
きみの性格
転移を疑いながら添削する本心に
句点を打つことができないまま
終助詞の数だけある感情を
すべてきみに結びつけてしまう教壇からの眺め
フルネームで読みあげる
出席簿



共依存の予鈴を聞かないふりして
自動詞なのか他動詞なのかわからない愛の言葉を
不正確な発音で口にする
解釈をおたがいの語彙にゆだねたまま
目配せはふりがなのようにおぼつかなく
ほのめかしは新出単語のようにおびただしい
四百字以内にまとめることのできないこれまでが
持ち時間の不確かな白紙をわずかにはみだすとき
異なる母語に隔てられた距離の縮め方を
ふたりはまだ知らない
だから



きみと同じ病気になりたい
絶望のどん底で思い浮かべる顔が
きみであることを確かめるために
変えることのできるものと変えることのできないもの
そのあいだに引くべき線を
あやまって静脈の上に走らせたあとの慈悲深い喪失感のなかで
化粧をしないきみの顔が白い
措置入院を命じるひとびとの文体はいつも同じだから
処方箋に印刷された簡体字を並び替えて
透明な詩をつくる



四声のように浮き沈みの激しい気分
ひっきりなしの改行が差しはさまれる新学期
躁転のしるしに標準語で寄り添いながら
ふとしたときに漏れる訛りは
寛解の光のようにまぶしい
ふたりきりのときだけ使う一人称を何にするか
いまだ決めかねている夜道で
きみと同じ病気になれないならせめて
おたがいの母語を持ち寄ってできたあたらしい言語で
きみの病気にもっと
きれいな名前をつけてあげたい

 浴室でシャワーを浴びる。ストレッチし、懸垂し、プロテインを飲み、トーストを二枚食べた。ジャンプ+の更新をチェックしたのち、きのうづけの記事を最終チェックして投稿。ウェブ各所を巡回し、2023年2月22日づけの記事を読み返す。現二年生とはじめて対面した日。(…)さんや(…)くんなど、いまではすっかり顔なじみになった面々が、固有名としてではなく形容詞を重ねた姿形でういういしく描写されており、ちょっとびっくりした。これが人生なのだ。
 そのまま2013年2月22日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に転載する。

差異を解放するには、非=カテゴリー的な思考の創出が必要なのだ。創出とは、しかし単なる口さきの言葉ではない。哲学の歴史の上ですくなくとも二度、存在の一義性の根源的な編成がなされているからである。すなわち、ドゥンス・スコトゥススピノザによってである。だが、ドゥンス・スコトゥスの考えでは、存在は中性的なものだったし、スピノザの考えでは実体であった。この二人のどちらにとっても、カテゴリーの放逐、つまりあらゆるものをめぐって存在が同じ仕方で言及されるという断定は、ことの判別にあたって水準をどこまで高めてみたところで、たぶん存在の統一性を堅持せんとする以外の目的を持つことはなかった。だが逆に、あらゆる差異をめぐって存在が同じ仕方で言及として、その言及が差異のみに限られているといった存在論を想像してみよう。すると、事物はドゥンス・スコトゥスにおけるがごとく存在の大がかりな単彩象徴画ですっかり蔽われはしまいし、スピノザ的様態も、実体的統一性の周辺を旋回することもあるまい。存在はあらゆるものをめぐって唯一のあり方で言及され、その先導者となり配分者ともなる統一性ではいささかもなく、差異としてのその反復になっているのだから、差異はみずからの力で旋回することになるだろう。ドゥルーズにあっては、カテゴリー的ならざる存在の一義性は、多様的なるものを無媒介的に統一性と結びつけはしない。(存在の普遍的な中性性または実体の表現力)。差異をめぐって反復的に言及されるものとして存在を戯れしむるのだ。存在とは、差異の回帰であり、存在をめぐってなされる言及のうちに差異は存在しないのである。
蓮實重彦・訳『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』よりミシェル・フーコー「劇場としての哲学」)

 以下のくだりにはちょっと笑った。あ、食うんや、と。

11時半起床。8時ごろにいちど大家さんが戸をがんがん叩きまくりながら「(…)さん!(…)さん!」と叫ぶのが聞こえたので何事かと思って出ると、焼き芋を焼いたから食えというアレだった。後で温めなおして食べればいいのに、焼きたてで食べたほうがうまいに決まっているという思いに駆られて、ねぼけた頭で食った。そして食い終わって10秒も経たないうちに二度寝した。

 それからまた“SPIRAL”を流した。イヤホンを装着し、ボリュームをガンガンあげた状態で、部屋の照明を落とし、(…)で酩酊しているときのあの感覚を呼び起こそうとするかのように、目を閉じて関節の動きに意識を集中した。10年前の記事の読み返しをはじめてからというもの、身体のなかに(これまでとどこおっていた)もうひとつの時間が流れはじめた気がする。物書き病によってたえまなく生産され続ける文の語り口が、2023年のじぶんではなく2013年のじぶんであることに、はっとして気づくこともときどきある。2013年の記事はまだまだ生活の描写がうすい。2014年には当時のブログを閉じてほかの場所でまたゼロからやりはじめる——そのあたりを境に、本や映画の感想よりも生活の記述が目に見えて増加するはず。読み返しもそのあたりにさしかかるころには、場合によっては、身体のなかに流れるもうひとつの時間のほうが主流となり、ほかでもないいまここの時間がむしろ細く弱々しい傍流と化す——そうした一日がおとずれることもあるかもしれない。この分裂はまだまだ過激になる。
 歯磨きをする。白湯を飲みながら今日づけの記事もちょっとだけ書く。2時半になったところで寝床に移動。就寝。