20230308

 私が北京から戻ったあと、小さな海塩(ハイイエン)の町は大騒ぎになった。私は中華人民共和国史上初の北京で原稿修正をした海塩人なのだ。県の指導者は私の才能を認め、歯を抜くことはやめて、文化センターで働くべきだと考えた。その後、複雑な異動手続きが進み、書類に七、八個の公印が押されると、夢にまで見た文化センターへの転職がついに実現した。出勤の初日、文化センターの人は一日じゅう街をぶらついているのだろうと思って、私はわざと二時間遅刻して行った。ところが、それでも私がいちばん乗りだった。私は大喜びで、自分に言った。
「いいところへ来たぞ」
 これは社会主義が与えてくれた最も美しい記憶だった。
 数年前、西洋の記者に聞かれたことがある。「なぜあなたは裕福な歯科医の生活を捨てて、貧しい作家になったのですか?」
 この西洋の記者は知らない。当時の中国は改革開放政策が始まったばかりで、まだ社会主義悪平等が残っていた。都市部の労働者はどんな仕事であれ、毎月の賃金が同額だった。文化センターの仕事も、歯医者の仕事も、貧乏人に変わりはない。違うのは、歯医者が仕事のきつい貧乏人なのに対して、文化センターの職員は幸福で自由な貧乏人だという点だった。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)



 11時前起床。今日も最高気温25度の夏日。歯磨きしながらスマホでニュースをチェック。街着に着替えてから第五食堂へ。寮の門近くで電動スクーターに乗った(…)と(…)とばったり遭遇する。(…)、ドラえもんグッズのプレゼントがよほどうれしかったのか、こちらの姿を目にするなり、(…)! と駆けよってきて、まるで守衛のように門を開けてくれる。かわいいやっちゃ。世の中には優しい日本鬼子もおることを知っといておくれ。
 打包して帰宅。食す。阳台にスピーカーとパソコンを持ち出し、コーヒーを淹れて、きのうづけの記事の続きを書きはじめる。ヒートテック一枚きり、それも腕まくりしながらの作業。夏が近い。食堂のそばでは半袖一枚きりの男子学生の姿も見かけた(ものすごい太っちょだったけど)。いま、「太っちょ」という言葉を書きつけて思い出したのだが、じぶんが生まれてはじめて笑いのツボにハマりすぎて言葉が発せなくなる、苦しくて息ができなくなるという体験をしたのは保育園のたしか年中のころで——と思ったが、いや、年中のころはまだろくに言葉が話せなかったはずなので(こちらは言葉の遅れが著しい子どもだった、親や医者が心配するレベルだった)、年長のころか? その瞬間のことはいまでも(動画とはいわないが)写真のように鮮明な記憶として残っている。園庭に面した窓際にいた。窓際にはレースのカーテンがかかっており、そばには同じ保育園に通っていた同級生が数人いた(全員男だった)。みんな座っていた。そのときにふと「太っちょパパ」というフレーズがあたまをよぎったのだ。よぎった瞬間、体を起こしていることができなくなるくらいツボにハマってしまい、ゲラゲラゲラゲラ笑いの発作が止まらなくなった。それで周囲もどうしたどうしたとなるわけだが、こちらはただものすごくおもしろい言葉をひらめいてしまったと伝えるのが精一杯で、それが実際にどんな言葉であるのかを説明することがどうしたってできない、「太っちょパパ」の「ふ」を口にしただけで吹き出し、そのままゲラゲラゲラゲラ抱腹絶倒してしまう始末だった、その状態がずいぶん長いあいだ続いて、本当に息ができず失神しかけたのだ。その後の人生であんなに笑ったこと、あるだろうか? (…)で(…)になっている最中、(…)がコンビニで買ったとろろそばをずるずるっと音をたててすすったのを原付バイクのエンジン音と聞きまちがえたあの瞬間くらいではないか?
 きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年3月8日づけの記事を読み返す。

授業は「(…)」第1回目。(…)に比べると活気に欠けるが、それでも笑いの絶えない授業にはなったと思う。教師ってマジで天職かもしれないなと思った瞬間もちょっとあった。向井豊昭やマーク・フィッシャーのように(エスタブリッシュでもハイブロウでもない)辺境の教育者として生活しながら文筆活動にはげむじぶんを意識する瞬間もあった。

 「教師ってマジで天職かもしれないなと思った瞬間もちょっとあった」という記述に、幸せなやっちゃなと思った。一年後のこちらは、前日の日語会話(三)が失敗したことを一夜明けてなおひきずっているというのに! しかしま、それでいえば、同僚はみんなポジティヴだよなと思う。(…)先生なんてクソみたいな授業をしてクソみたいな態度で学生に接してクソみたいに学生から嫌われているにもかかわらずなぜか自信満々であるし、それでいえば(…)さんだってあれほど頻繁に学生と対立しており、かつ、授業の評判も最悪であったにもかかわらず、なぜか自身の仕事ぶりを改善しようとは一切しなかった。そう考えるとじぶんはやっぱりまじめだよなァと思う。繊細や!
 2013年3月8日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。

 〈権力〉(Pouvoir)とは何だろうか。フーコーの定義は実に簡潔にみえる。権力は力のある関係なのだ。あるいはむしろ、どんな力の関係も、一つの「権力関係」なのだ。まず、権力は一つの形態ではない、例えば国家という形態などではないということ、そして権力関係は、知のように、二つの形態のあいだに成立するものではない、ということを理解しよう。第二に、力は決して単数で存在するのではなく、他の様々な力と関係しているということが、その本質である。したがってどんな力もすでに関係であり、すなわち権力なのだ。つまり力は、力とは別の対象や主体をもつことはない。私たちはそこに、自然法への回帰をみてとったりしないようにしよう。なぜなら、法とは一つの表現の形態であり、〈自然〉とは可視性の形態なのだから。そして、暴力とは力に付随するもの、力から結果するものであって、力を構成するものではない。フーコーは、ニーチェにもっと近い(そしてマルクスにも)。ニーチェにとって、力の関係は、奇妙にも暴力を超えてしまうもので、暴力によって定義されることはないのだ。つまり、暴力は、身体、対象、あるいは限定された存在に関わり、それらの形態を破壊したり、変更したりするが、力の方は、他の力以外のものを対象とすることはなく、関係そのものを存在とするのだ。「それは、行動に対する行動、可能的あるいは現実的行動に対する行動、未来または現在の行動に対する行動である。」それは「可能な行動にむけられる様々な行動の一集合」である。私たちは、それゆえ、行動にむけられる行動を構成する力の関係や権力関係を示す様々な変数のリストを設けることができる。当然ながらこのリストは開かれたものである。煽動する、誘導する、迂回させる、容易または困難にする、拡大または限定する、より可能により不可能にする……。権力のカテゴリーとはこのようなものである。
ジル・ドゥルーズ宇野邦一・訳『フーコー』)

(…)アラン・レネ二十四時間の情事』。大傑作。打ちのめされた。がつんとやられた。しかしこの邦題はぜんっぜん良くないな。『ヒロシマ、わが愛』あるいは『ヒロシマ・モナムール』のほうがずっと良い。マルグリット・デュラスの小説は『愛人』と『北の愛人』しか読んだことがなくてどちらもたいして印象に残っていないのだけれど、この作品の脚本はやばい。すごい。それでもってアラン・レネもまたやばい。すごい。やばいとすごいがそれぞれ二乗されてえげつないことになっている。ヒロシマという表象不可能な出来事の表象不可能性を表象するみたいなありがちといえばありがちなパターンなのかなと、男女の会話に重ねて広島の町の風景や記録映像や広島を題材にした映画がつなぎあわされていく冒頭の展開を、そのすばらしさ・的確さ・洗練っぷりに感動しながらもわりとさめた目で眺めていたのだけれど(といいつつも冒頭のこのやりかただけで90分もたせてみたらそれはそれできっとまた別の傑作になったであろうことは疑いないとも思う)、主演の片割れである日本人男性が当事者でないものには決して理解できず想像力も行き届かないあらゆる部外者の接触を拒んでやまぬものとしてのヒロシマという大きな物語(歴史)の表象不可能性をヒロシマについて語ろうとするもうひとりの主演であるフランス人女性の言葉にノンを突きつけ続けることによって屹立せしめる(くわえてフランス人女性のほうでもまた冒頭日本人男性にむけて「あなたはヒロシマなの?」と呼びかけることで男の存在をヒロシマに重ね合わせたうえで、「認識」と「恋」の類似を説き「そしてこの恋は一夜限り」と語る――あるいはまた、ふたりの関係を「行きずり」であるとする――ことによってヒロシマを記憶し続けることの困難をにおわせたりするなど、いわゆる「アウシュビッツ以後の表象不可能性」が序盤においてはっきりと提示されている)のに対置させるようなかたちで、ヌヴェールという田舎町でかつてドイツ人将校と恋に落ちたことのあるフランス人女性がその恋人を亡くすにいたりさらには戦後非国民扱いされて村八分の憂き目にあいついには狂気を宿すにいたって長い年月を地下室の座敷牢に幽閉されて過ごすことになったという自らの経歴(大文字の歴史にたいする「個」の記憶)を披露するに及ぶ中盤以降の構図の変動がそのまま雪崩式に勢いを増していき、ついには「ぼくの名前はヒロシマ」「きみの名前はヌヴェール」と男の口から語られるラストシーンにおいて極まる(すなわち、ヒロシマという「大文字の歴史」とヌヴェールという「個の記憶」がその悲劇の強度において等しく釣り合うにいたる)この構成のすばらしさにはほんと拍手したくなるというかお見事ですとしかいいようがない。見事なのはもちろん構成だけではなくたとえば一般的なタイミングよりもワンテンポ早く開始されるすばやい溶暗、あるいは必要最低限の距離をクイックにパンするカメラの切れ味、また丸刈りにされて地下室に幽閉されたフランス人女性の姿がカール・ドライヤー裁かるるジャンヌ』でジャンヌ・ダルクを演じるファルコネッティに瓜二つであるという事実にひそむ映画史的な目配せ、ヌヴェールでの事件(記憶)を長々と独白する女の昂りを鎮めるために男が女の頬を平手で二度ぶった途端に町のざわめきが一瞬にしてよみがえる手法、そして何より広島の町の風景をおさめた無人称的な映像の数々の有無をいわせぬすばらしさなど、はっとするような場面がいたるところにある。すばらしい仕事だ。あと、死んだドイツ人将校の姿を日本人男性に重ねあわせるフランス人女性が当の日本人男性にむけて「あなた、ドイツ人のあなた」と呼びかけるところなどは(彼女にとって男は過去の回帰である)、執筆中の「邪道」においていまや大きな主題のひとつとなりつつある「代名詞の存在論」みたいな領域とも大いに通低するところがあったし、「あらゆる物語は忘却される、忘却された物語はただ忘却されるのではなく、忘却の恐怖を語る物語として語りなおされることになる」というようなセリフ(これはじぶんの都合の良いようにずいぶん改変したものであるが)も印象に残った。

 上のくだりを読んで、『二十四時間の情事』をまた観たいなと思った。原作小説のほうは読んでいない。読んでいないくせに、(…)くんに誕生日プレゼントとして贈った。
 それから興味深かったのが以下のくだり。

ネット通販で購入した黒色のマスクが届く。白いのはちょっとださすぎるから装着するのに気がひけるところがあったのだけれど黒は黒でまたださくてこれは要するにじぶんがださいというだけのことなのかもしれない。

それともうひとつ、ジョギング中は花粉の飛散量が少ない夜中だろうとなんだろうとやはりマスクを装着したほうがいい。今日は走り終えて部屋に戻ってきてからしばらくくしゃみが止まらなかった。というかマスクを装着するのだったら別にわざわざ夜遅い時間帯を狙うようなことはせずにすむというか以前のように執筆を終えてから夕食の支度にとりかかるまでの時間帯に走ることができるしそのほうがじぶんの時間割的にも好都合なのでぜひともそうしようと思うのだけれどしかしアレだな、マスクを装着してまでジョギングしてる奴ってのも傍からみればすこぶる滑稽だろうな。なんならただの馬鹿だ。

 そう、10年前は黒色のマスクをつけている人間は、マジで! まったく! これっぽっちも! いなかったのだ! 店でも当然売っていなかった。こちらは白いマスクをつけるのが当時すごく嫌だった(服装に全然合わないと思った)。それでたしか、地元で美容師をしている(…)から、市場に出回っているマスクがどれもこれもあまりにださすぎるので勤めている美容室が特注で黒色のマスクを作った、仕事中はそれを装着しているという話を聞いたのをきっかけに、ネットで検索してみたのではなかったか? Amazonでは見つからず、たしか楽天のホスト風のファッションばかりとりあつかっているような店で唯一この黒マスクがあったのだ(だから当時のじぶんはそんな黒マスクのこともやはりダサいと評している)、それでためしにそれをポチって、しばらく装着していたのだった。とはいえ、すれちがうひとからはけっこうジロジロ見られるし、職場でも同僚らから黒いマスクなんてあるの? と驚かれるしで、そう、当時はマジで黒いマスクなんて全然一般的ではなかった! 「マスクを装着してまでジョギングしてる奴ってのも傍からみればすこぶる滑稽だろうな。なんならただの馬鹿だ」という一節も同様に隔世の感がある。コロナ以後、こうした姿は別にめずらしくもなんともない。

 今日中の記事もここまで書いた。すると時刻は15時半だった。翌日の授業準備にとりかかる。(…)二年生の日語会話(二)。第5課から一気に飛ばして第9課をすることに。高校生時から日本語を学習している学生が相当数いるし、先週第5課をやってみた感触から察するに、(…)の進行状況と歩みを合わせるかたちにしても問題ないと判断されたので(そのほうが準備をするこちらも楽であるし)。そういうわけでほんの一部修正した第9課の資料を学習委員の(…)くんに送信。さらに明後日の(…)の授業にそなえて、第10課の資料もざっとチェックして一部修正し、学習委員の(…)さんに送信。
 準備の片付いたところで、そのまま阳台にて書見。『ラカン入門』(向井雅明)を一時間ほど読み進める。

 第五食堂で打包。帰宅して食す。(…)さんから微信。三年生のインターンシップ参加希望者8人のうち、すでに4人は配属先が鹿児島に決まったという報告(とはいえ、本番の面接はまだらしく、あくまでも合格すればの話とのこと)。(…)さんを含む残る4人の配属先は現時点では不明。(…)さん、少々怒っていた。「機構」の人間にインターンシップについて色々質問したところ、これは旅行ではない、仕事なのだとやんわり諌められたらしい。これについてはふたりのやりとりを直接目の当たりにしたわけではないので簡単にジャッジすることはできない、日本のほうが中国よりもいわゆる「公私混同」に対する嫌悪感がはるかに強いからなァと思いつつ、(きのうこちらに質問してみせたように)鹿児島から東京までどうやって移動すればいいかとか屋久島に旅行することはできるかとかそういうことを相手に質問したのかとたずねると、していないという返事。ただ方言を聞き取ることができるだろうかとか給料はどれくらいだろうかとか寮の環境はどんなふうなのだろうかと質問しただけとのこと。細かいことをいろいろ質問するじぶんのことをたぶん鬱陶しく思ったのだろうと続けたのち、もう二度とあのひととは話したくない! と鼻息荒くしていうので、幸先がいきなり悪いなァと心配になった。その「機構」の人間というのは、きのう話題に出た「(…)先生」とは別人らしい。で、実際にそのひとと微信で交わしたやりとりのスクショが送られてきたのだが、全文中国語だった。あれ? その相手って中国人なの? とたずねると、肯定の返事があり、てっきり日本人だと思いこんでいたこちらはこれを知ってちょっとだけ安心したわけだが、とはいえ、相手が関係者であることには変わりない。やりとりしていてちょっとでも嫌な予感がするようであれば、インターンシップに参加しないというのも選択肢のひとつだよと伝えた。日本に行くだけなら将来旅行で行くこともできるのであるから、と。「正直に言うと、私はこのインターンシップを逃したくない、インターンシップをして実習生の証明書を取得したいお金を稼ぎたい日本に行きたい」と(…)さんは言った。あ、もうそこまでかたまっているのか! と意外に思った。ちなみに「機構」の人間とやりとりしてイライラしているのは(…)さんだけで、ほかの参加希望者らはいまのところ特に不満を漏らしているようすはないとのこと。でもじぶんの直感を信用したほうがいい、ふだん全然怒りっぽくないきみがイライラするくらいなのだから、やはりそのひとはあまり良い人間じゃないかもしれないのだし、そんなひとが勤めている会社は信用できないかもしれないからというと、「先生、私が短気でないと思わないでください、私の気性が激しいので、まだ療養が必要なのです」という返信があり、療養うんぬんはレトリックか翻訳ミスだと思うのだが、(…)さん、短気なのか? これまで全然そんな印象を受けたことないんだが! あと、「機構」の人間とのやりとりのスクショの中に、長崎県には行きたくない、なぜなら原爆の落ちたところであるからみたいな文章があったので、なるほどな、たぶん一般的な中国人のなかではいまだに長崎や広島には放射能が残存しておりうんぬんかんぬんみたいなことになっているんだろうな、抖音や微博でその手の言説が大手をふって出まわっていたりするんだろうなと察した。やりとりの最後に(…)さんは「ありがとう、树洞先生」と言った。ちょっと驚いた。かつて(…)さんが先生はまるで树洞のようですとこちらに向けて言った——その話をいつだったか(…)さんにしたのだったっけ? ちょっとよくおぼえていない。
 ベッドに移動した。仮眠をとるつもりだったが、なぜかふとFF9のことを思い出してしまい、YouTubeにあがっているエンディングをスマホで視聴してしまった。それから浴室に移動してシャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを淹れて「実弾(仮)」第四稿執筆。21時から0時過ぎまで。シーン16をまず確認。続いてシーン5もさかのぼって確認。それがすんだところでシーン17にとりかかったが、ここは作中もっとも長いシーンであるので当然終わらない。しかし苦手意識があったわりには、今回読み返してみたかぎり、なかなかけっこうよく書けているんじゃないのという印象。第三稿でがんばったのかな? プラス26枚で計270/996枚。
 作業の途中、北京の(…)くんから微信。「先生、こんばんは!指導教官から内容は大々オッケーと言われました」とのことで、これにはひと安心! いやー、マジでよかった! いまは文章の細部をチェックしたり書式の確認をしたりしているらしいのだが、「この2週間、朝から夜までずっと調整しています」「合わせて10何回も修正しました」というので、「わかる、わかる! ぼくも小説の最後の仕上げはそんな感じだよ! マジで地獄だよね!」と応じる。いちおうあとは「匿名審査」がひかえているらしいのだが、これは先輩たち曰く、さほど厳しくないとのこと。実質、卒業決定といったところだろう。(…)くん、作業のお供に缶ビール(それもわざわざキリンの一番搾り! 青島ビールにしとけよ!)を飲んでいた。はやくも祝杯け?
 腹筋を酷使し、プロテインとトースト二枚の夜食を食し、ジャンプ+の更新をチェック。寝床に移動後、Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きをちょっとだけ読み進めて就寝。