20230316

 社会生活の不均衡は、理想の不均衡をもたらす。十年ほど前、CCTVは六月一日の「児童節」に各地の子供を取材し、この日にもらいたい贈り物は何かという質問をした。北京の男の子は、本物のボーイングジェットが欲しいと答えた。西北地区の女の子はおずおずと、白い運動靴が欲しいと答えた。
 同じ年齢の中国の子供でも、抱いている理想にはこんなに大きな格差がある。西北地区の女の子にとって、ありふれた白い運動靴は、北京の男の子が欲しがったボーイングジェットと同じくらい遠い存在なのかもしれない。
 これが今日の中国だ。我々は現実と歴史の大きな格差だけでなく、理想の格差の中で暮らしている。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)



 11時前起床。歯磨きをすませて第五食堂で打包。食事中、(…)一年生の(…)さんから微信。大学の外でアパートを借りて住んでいる先輩が飼っている猫を教室に連れて行ってもいいか、と。こちらに見せたいらしい。授業に差し支えが出るかもしれないと先生が思うのであればやめておくというのだが、せっかくの好意を無下に断るのもアレである。かといって教室に猫がいるとなれば、みんなそっちに興味津々になって授業どころではなくなるおそれも大いにある。あいだをとって、授業後にその先輩のところでちょっとだけ会わせてくださいと応じる。
 きのうづけの記事の続きをいくらか書く。時間になったところで、自転車に乗ってバス停へ。ほんの数日前に最高気温28度を記録したばかりであるのに、今日はふたたびコートなしでは外に出ることのできない最高気温11度の冬日。予報によれば、これから五日間ほどは寒い雨降りが続く模様。
 バスに乗る。移動中はEverything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続き。いつも同じバスに乗ることになる大学教員らしいおっさんふたりのうち、今日はどういうわけかハゲのおっさんひとりしか乗車しなかった。ハゲのおっさんは乗車前からスマホで動画を視聴していたのだが、例によってイヤホンなどは使わずけっこうでかいボリュームで音を出しっぱなしにしており、その音というのが中国版演歌みたいな耳障りなタイプの音楽だったので、乗車後はすぐにイヤホンで耳をふさいで空間現代をおおきな音で流した。ききたくない音楽をきかされるのは拷問だ。おばちゃんらが車内で交わすクソやかましい声でのやりとりも、別にまったく気にならない日もあるのだが、今日はちょっと受けつけられんなみたいなときもある。今日は無理なほうの日だった。先取りして書いてしまうが、一年前の日記にも似たようなことが書き記してある。

 バス移動中は夏目漱石草枕』の続き。前の座席に座った茶髪のショートヘアのおばちゃんが信じられないくらいでかい声で電話しており、たまらず何度か舌打ちが漏れた。マジで勘弁してほしい。でかい声を耳にするのはそれだけでけっこう疲れるのだ、と、書いていて思い出したが、不安障害で自律神経が完全に狂っていた頃、耳の遠い(…)さん相手に会話するのが本当にしんどかったのだった。大きな声を耳にするのもしんどかったし、大きな声を出すのもしんどかった。

 (…)に到着後、売店でミネラルウォーターを購入。教室へ。荷物だけ教壇に置いて、地獄の便所で小便をすませる。そうして14時半から日語会話(二)の第10課。先週(…)でやった授業を改稿したもの。おおむね問題なし。しかし(…)に比べると、学生のレベルはやはり一段落ちる。
 授業後、(…)さんが猫をもって教壇にやってきたので、びっくりする。どこにいたのとたずねると、猫を運ぶためのリュックサックの中にいたという返事。授業中はずっとそのなかで居眠りしていたらしい。リュックサックは一部が透明な小窓になっており、そこから中の猫がどうなっているかのぞくことができるというタイプのもので、卒業生の(…)さんもかつて飼い猫をこういうタイプのリュックにいれてあちこち移動していたのをおぼえている。猫は白の長毛種。生後五ヶ月だというが、骨格はもうしっかりできあがっている感じ。名前は(…)。先輩の家には兄弟猫がもう一匹いるらしく、そちらは(…)という名前(夜、二匹の写真や動画があらためて送られてきた)。(…)はずいぶんおとなしく、こちらに抱かれることをまったく嫌がろうとしなかった、それどころか抱かれてすぐにうとうとしはじめる始末だった。えらくひとなつっこいやつだ。
 教室を出る。(…)さんと別れてバス停へ。移動中はまたEverything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続き。“Revelation”を読み終わる。これ、前回原文で読んだときも、前々回邦訳で読んだときも、たぶん毎回おなじ感想を抱いていると思うのだが、病院の待合室からうちに帰宅して以降の展開、とりわけ豚小屋をおとずれて以降の展開が、(オコナーのほかの諸作がそうであるように)もっと簡潔にドライに削ぎ落とすことができるだろうに、変に長く、間延びすることをおそれず記述を重ねている気配があり、といってそれが瑕疵とならない、中途半端に間延びさせてしまえば瑕疵となるのだろうが、瑕疵とみなされるその範囲を突破するほどにまで間延びしてしている、結果、それが一種ぶきみな遅延の感覚を作品にもたらすことに成功しているように感じられる。というか、病院の待合室で若い女から豚呼ばわりされるというできごとが、あきらかにクライマックスの文法——じわじわとためこまれ、はりめぐらされ、積み重ねられていく予感じみたものが、その極点において現実と化す——に即して書き記されているにもかかわらず、そのクライマックス以降の展開がやたらと長い。いちおうもうひとつのクライマックスというべき啓示の経験、ほとんど幻視じみた描写が末尾に置かれているわけで、だからこの作品にはクライマックスがふたつあるということもできなくはないのだろうが、それをクライマックスとしてしるしづける語り方が採用されているのは待合室でのできごとのほうのみである。それ以降のできごとは、むしろ、啓示を待ち構えるS親和者の緊張感ではなく、すでにその啓示を経たあとのほとんど呆然とした感覚、中井久夫ではなく木村敏にならっていえば、「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」ではなく「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」のトーンをともなう筆致によって書かれている。世俗的な事件が啓示として解釈されなおしそこから幻視がはじまるという二度目のクライマックスは、意味論的にも作品の構成的にもあきらかにこちらこそがクライマックスであるという位置を占めているのだが、しかしクライマックスの文法はそこでは採用されておらず、「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」の緊張感が欠けている——そこにこの作品の微妙な味わいがある。

 終点でおりる。(…)で食パン三袋購入。(…)楼の快递でオーバーサイズのTシャツ回収。自転車を寮に置いて第五食堂で打包。食後は仮眠をとらず、コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書き記す。途中、眠気覚ましにシャワーを浴びる。
 さらにコーヒーを用意して、きのうづけの記事を完成させる。作業中はYouTubeにあがっているのを偶然見つけた『クロノ・クロス』のコンサート動画をずっと流していた。このゲームとムージルの「三人の女」がなければ、『A』という作品もまた存在することがなかった。
 それでいえば、数日前、『A』の続編を書く計画についてひさしぶりにちょっと考えた時間があったのだった。いちおうあれは三部作になりうるポテンシャルがあるのだが、『A』を第一作目とする三部作には二パターンあり、ひとつは『A』→『魔女』→『天使』の三部作で、これはいわゆる世界観や舞台や登場人物を共有するサーガ的なもので、残る二作の大枠みたいなものは『A』を書きあげた時点でいちおうぼんやり見えている。それとは別に、『A』→『S』→『?』の三部作があり、これはそれぞれの作品に変身→分身→身体(妊娠/出産/女(性))をテーマないしモチーフとして見るという角度からのトリロジーで、しかるがゆえに三作目を仮に書くのであれば、その前にまずフェミニズム系の文献に当たりまくる必要があるはず。いま書いている「実弾(仮)」も、無関心シリーズとして、テーマ的にも方法論的にもまだまだ発展させることのできる余地がたくさんありそうなのだが、なんせ「実弾(仮)」だけで1000枚超の長編になってしまったわけであるし、今後おなじ方法でもう一丁! という感じにはたぶんならない。
 記事を投稿し、ウェブ各所を巡回する。2022年3月16日づけの記事の読み返し。

國分(…)孤独とは何かというと、私が私自身と一緒にいられることだ。孤独の中で、私は私自身と対話するのだとアレントはいう。それに対して寂しさは、私自身と一緒にいることに耐えられないために、他の人を探しに行ってしまう状態として定義されます。「誰か私と一緒にいてください」という状態が寂しさなんですね。だから、人は孤独になったからといって必ずしも寂しくなるわけじゃない。
千葉 それはいい区別ですね。
國分 ところがいまの世の中を見ると、孤独がなくなっている。孤独な経験がないから、人はすぐに寂しさを感じてしまう。そして、孤独はズレているときに起こるんです。世の中からズレているとき、なぜ自分が考えていることと感じていることを周りの人はわからないんだろう、と思う。それはまさしく自分自身と対話するということです。
 つまり、勉強することがズレることだとすれば、それは最終的に、孤独をきちんと享受できるようになることだと思うんです。
千葉 そう。独学というのも、まさに孤独に生きることをいかに肯定するかを学ぶことなんですね。
國分功一郎+千葉雅也『言語が消滅する前に』)

 以下は2021年3月16日づけの記事からの孫引き。この方法論も試してみたいのだった。

入浴後、クトゥルフ系のTRPGを元にした漫画を読んだ。「鼻蔵CoC」(http://xn--xz1ax64c.com/manga/manga_index.html)というやつで、最初はラブクラフトの原作小説を漫画化したものなのかなと思ったのだがそうではなかった、クトゥルフ系のTRPGを実際にプレイしたあとそのプレイ内容を漫画化したものだった。なので、主要キャラだと思われていたのがあっさり死んでしまったり、伏線らしきものが張られていたにもかかわらずそれが回収されないままだったりするなど、登場の物語の文法にあてはまらない展開がけっこうあったりして、こういうローグライク系のゲームにも通じる「使い捨て」の感覚というのは、現代の物語作法に慣れ親しんだわれわれにはやはりすごく新鮮に感じられる。というか伏線という一語をフックにして考えると、いまや国民的漫画になったといってもいい『ONE PIECE』が伏線とその回収という点で評価されているというのもなかなか象徴的な話ではないか(『ONE PIECE』のコピーのひとつは「全伏線、回収開始。」だ)。伏線とその回収というのは要するに世界の余剰を許さないということであり、それはすなわち、出来事の完璧な物語化であり、意味化であり、イデオロギーでいえば当然全体主義的なわけであるが、TRPGの(シナリオそのものではなく)プレイログには、そのような全体主義をおおいにかく乱する綻びのようなものがいたるところで顔を出す。そしてそのようなプレイログをそのまま漫画化するなり小説化するなりすれば、それだけでポストモダン文学の、現代文学の生成にいたるということもできるわけだ。プレイログを一種の外圧として、それに従わざるをえない法の水準に位置付けた上で、作品を作りあげていくという方式は、ケージのチャンス・オペレーションにも通ずるだろう。じぶんがかつて書こうとしていたケージ的な小説というのは、じつをいうと、TRPGのプレイログというかたちですでに達成されていたのかもしれない。

TRPGのプレイログをそのまま残したり、脚本・漫画・小説形式で残したりすることを「リプレイ」というらしい。「TRPG+リプレイ」でググってみると、けっこうわんさかヒットする。またTRPGのリプレイこそがほかでもないラノベの先祖であったという見立てもあるようだ。おもしろい。そのラインで考えてみると、前々からこちらが考えていた「ローグライクハクスラゲームの構造をとりいれた小説」というのを、やはり以前からぼんやりしたイメージとしてあった「ラブクラフト的なコズミックホラー」と組み合わせた上で、「エンタメに全振りしたラノベ」という形式に詰め込んでしまえばいいのではないだろうか?

 あと、一年前は(…)さんと(…)さんのふたりとはじめて授業外で交流した日のようだ。それ以前にも何度かうちで餃子を作ったり、いっしょにメシに食いに行ったりしているわけだが、そのときはほかの学生らもいっしょで、いまやおなじみとなった彼女らふたり+こちらの三人組で行動した最初の日はこのときらしい。二、三週間ほど前だったか、それこそ彼女らふたりから、先生おぼえていますか、わたしたちが最初に散歩したとき、わたしたちは先生にいちごをプレゼントしましたよ、と言われたのだった。

 途中、(…)さんから微信が届いた。イチゴは好きですかという。大量に買ったので分けてくれるらしい。寮まで持ってきてくれるとのこと。ほどなくしてそろそろ到着しますとあったので、おもてに出ると、(…)さんも一緒にいた。そして以前(…)先生がイチゴをくれたときの赤いプラスチックのバスケットによく似たやつに盛られたイチゴをくれた(中国ではたぶんイチゴといえばこのバスケットなのだろう)。中にはお菓子もいくつか入っていた。めちゃくちゃ辛いという鶏の手首、酸っぱいという練りもちみたいなもの、あとは甘いお菓子。こちらはお礼として京都のチョコレートをルームメイトらの分も含めて渡した。イチゴはどこで買ったのかとたずねると、裏町という返事があった。封校じゃないのとたずねると、柵に無理やり体をねじこんで外に出たと、ジェスチャー付きで説明してみせるので、クソ笑った。というかそういう話をいちおうは教師であるこちらに対して嬉々として語ってみせるのがもう面白い。

 それから2013年3月16日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲した。そのまま今日づけの記事も途中まで書く。0時前に中断し、トースト二枚を食し、ジャンプ+の更新をチェック。歯磨きをすませたのち、1時半まで日語基礎写作(二)の課題添削。(…)さんと(…)さんのふたりが未提出であることに気づく。寝床に移動し、Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きを読み進めて就寝。