20230317

 最後に、一つの実話を手短に語って、この文章を終わりにしよう。それは中国南方の都市で発生した事件だった。近代的なビルとショッピングセンターが林立し、人通りが絶えない、経済発展のただ中で、小学六年生が誘拐された。
 生活に困っていた二人の犯人は無一文で、誘拐の経験もなかった。彼らは仕事探しに失敗したあげく、イチかバチかの無謀な行為に出た。周到な計画も十分な準備もなしに、白日のもとで、帰宅途中の小学生を誘拐したのだ。彼らは小学生の口をふさぎ、抵抗する小学生を取り壊し中の工場に連れ込んだ。彼らはこの閉鎖された工場をアジトにして、小学生から母親の携帯電話の番号を聞き出し、近くの道端の公衆電話から連絡を入れて、金を用意するように告げた。彼らはもっと遠くまで行って脅迫電話をかけるべきだった。警察は母親の携帯に残された電話番号から、犯人の居場所を特定した。彼らはすぐに捕まってしまった。
 身代金を要求した二人の犯人は、金がなくて弁当を買えなかった。一人が借金をして弁当を二つ買い、一つを小学生に与え、一つを誘拐犯が分け合って食べた。救出された小学生はその後、警察にこう言った。
「あの人たち、とても貧乏だから、許してやってよ」
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)

 これ、『青の稲妻』(ジャ・ジャンクー)みたいな話だ。ジャ・ジャンクー自身、なにかのインタビューで、あの作品は新聞の三面記事かなにかが元ネタになっていると語っていたはず。無謀すぎる銀行強盗をこころみて逮捕された若いふたりが、実家に「任逍遥」の歌詞の一部を記した書き置きを残していたみたいな話だったと思う。



 10時半起床。今日も寒い。朝昼兼用のメシを第五食堂で打包。コーヒー飲みながらきのうづけの記事の続き。二年生の(…)さんと(…)さんのふたりに作文が未提出である件について確認。書きあげてはいたものの、授業後に提出するのを忘れていたとの由。
 きのうづけの記事を書いた流れで、『A』がどんなふうであったかちょっと気になったので、冒頭をいくらか読み返してみたのだが(リリースしたものは基本的にまったく読み返さないので、およそ十年ぶりということになる)、やばいな、才気走っているな、と思った。文章に確信がある。これでいいのだという強い信仰がある。だから説明くさくならない。これに比べると『S』の文章はずっと戸惑っていると思う。語りも文体も構成も長さもテーマもモチーフもアイディアもなにからなにまで全然ことなる作品であるが、「実弾(仮)」もやっぱりこのくらいのクオリティで書かなきゃいけない、これくらいの確信をともなうべきだ。十年前のじぶんに対抗意識を燃やすというのも情けなくみっともない話だが。

 14時半から(…)一年生の日語会話(二)。(…)くんと(…)くんがそれぞれモーメンツで恋人ができたらしいことを報告していたので授業前にさっそく追及。(…)くんは以前ねらっていると語っていた学生会経由で知り合った英語学科の先輩と晴れて付き合うことになったとのこと。(…)くんについてはクラスメイトと付き合っていると周囲の学生がはやしたてるので、え? 嘘? マジ? だれだれ? となっていたところ、ちょうど教室に入ってきた(…)さんをみんなして指さしてみせるものだから、えー! とびっくりした。ふたりが言葉を交わしているところなんて一度も見たことがない。
 授業は第12課。例によってアクティビティをする時間が足りない。五問用意していたのに一問しかできない始末。おれは! マジで! いらんことを! しゃべりすぎッ! たとえば卒業生の(…)さんが18歳の彼氏と同棲しているという例の話を、今週すべての授業の冒頭で紹介してそのたびごとに学生らとぎゃーぎゃー騒ぎまくっていたわけだが、その時間でッ! 用意した教材をッ! 着実にこなせバカッ! いや、まあ、こういう馬鹿話の最中に使用した日本語ほど学生らはよくおぼえるわけであるし、そういう時間も無駄ではまったくないのだが(しかし学生らが最初におぼえる教科書に載っていない日本語が、こちらの雑談の傾向に応じて、「変態」とか「うんこ」とか「クソコロナ」とかになってしまいがちなのはちょっとアレだが!)。授業自体はいろいろ盛りあがりまくったので良し。いま一番授業をしていて楽しいクラスかもしれない。
 休憩時間中、(…)さんから先週の授業の休憩時間中に流していた音楽はなにかと問われたので、cero(セロ)と板書して布教しておいた。今日の休憩時間中も(…)くんが例によって音楽をききたいといい、今回は彼がじぶんで選曲するというのだが、「日本の民謡をききましょう」というので、なんだろ、朝崎郁恵でも流すのかなと思っていたところ、ハンバートハンバートのなんとかいう曲を流した。音楽アプリ経由で知ったとのこと。今学期の途中から(…)さんが最前列に座るようになり、相棒の(…)さんとそろってやる気まんまんになっているのだが、逆に、学習委員の(…)さんはどんどんモチベーションが低下しているようで、先学期は最前列だったのが今日にいたってはほぼ最高尾を陣取るようになっており、おなじ既習組でもだんだんと差が出てきたなという印象。
 (…)くんと(…)くんにそろって彼女ができたため、授業後のメシおよび散歩の誘いはなし。ありがたい! これで今後金曜日はフリーになることがほぼ確定した!
 寮にもどる。三年生の(…)さんから微信インターンシップでの赴任先が決まった、と。大分の旅館だという。「人が少ない、小さな旅館」「日本人とコミュニケーションのある機会が多い」とのことで、同行するクラスメイトはいないらしい。「あの面接官は私が向上心があると思っている」というので、どうやら彼女の会話能力を高く買った面接官が、この子だったらひとりでもやれるだろうと判断、ほかに研修生のいない職場で働かせることに決めたのだろうとおしはかったが、そうだとすれば(…)さんの二の舞になってしまうんでないかとやはり心配になる。(…)さんと(…)さんのふたりは鹿児島にあるおおきなホテルで働くことになったようで、おおきなホテルであれば従業員も外国からの研修生の扱いに慣れているだろうし、彼女らふたり以外にもきっと研修生がいるだろうから、いろいろ安心できるところもあるわけだが、(…)さんの職場が(…)さんのかつての職場のように、中国からの研修生はじぶんひとりきりみたいな環境であったら、そして同僚の日本人がレイシストのクソババアばかりだったらと考えると、やはりめちゃくちゃ心配になるし、怒りもめらめらたぎってくる。(…)さんの赴任先はまだ決まっていないとのこと。せめて彼女の職場と近所だったらいいのにと(…)さんは考えている模様。
 第五食堂で打包。食後、ベッドでEverything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続き。20分の仮眠をとったのち、今朝『A』の冒頭数ページをちょっとだけ読み返してみたわけであるし、せっかくだから『S』のほうものぞいてみようと考え、BCCKSepubをダウンロードしてMacのブックにつっこんでみたのだが、なぜか本文が表示されない。いろいろ試してみたが、どうしようもないふうだったので、なんでじぶんの本をじぶんの金で買わなあかんねんと思いながらKindleストアで購入。それで冒頭をちょっとだけ読み返してみたのだが、第一段落を読んだだけで「うっ!」となってしまった。やむをえず中断。まだ十分な距離ができていない。推敲地獄の日々を思い出して一気にあたまがはたらかなくなってしまう、画面に表示されるテキストを画として認識した瞬間にもう麻痺がはじまってしまう。他者のテキストとして、というよりテキスト=他者としてまだ接することができない、疎隔が足りない。この感じやとあと五年は無理やな。
 『Technodrome』(濱瀬元彦)を流しながら、きのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年3月17日づけの記事の読み返し。

國分 立木さんは「抑圧=メタファー」(二一二頁)と書かれていますね。抑圧はメタファーであり、メタファーが衰退しているということは抑圧が衰退しているということだと。
千葉 メタファーとは、目の前に現れているものが見えていない何かを表すということですから、見えていない次元の存在を前提にしている。ところが、すべてがエビデントに表に現れるならば、隠された次元が蒸発してしまうわけです。
 立木さんの本の後半では、エビデンス批判がされていますね。
國分 あの本で重要だと思ったのは「心の闇」が必要だという指摘です。例として取り上げられていたのは、一九九七年の神戸連続児童殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇事件」です。評論家たちは犯人の少年の「心の闇」について語った。でも、むしろ「少年は、残念ながら、心の闇をつくり損なった」のであって、自らの「苛烈な欲望」をその闇にしっかりと繋ぎ止めておかねばならなかったというのが立木さんの指摘でした(二七頁)。
 きちんと「心の闇」を作ることが大事なのに、それがいままさしく「蒸発」してしまっている。
千葉 あるいは、至るところにダダ漏れになっている。かつてだったら2ちゃんねるみたいな空間に「心の闇」が一応は隔離されていたのが、いまや2ちゃんねる的言説がSNSの至るところに撒き散らされている。これは松本卓也さんが言っていたことなのですが、本来だったら無意識に書き込まれるべきことがネットに書き込まれている。
國分 なるほど。「心の闇」による隔離が弱まった結果、これまでだったら人目に触れるはずのなかったような欲望がネットに書き込まれるようになり、ネットはまるで無意識が書き込まれる場所のようになっている、と。
 こうやって「心の闇」の機能を論じていると思い出すのがアレントのことです。彼女は『革命について』(ちくま学芸文庫、一九九五年)の中で、「心の特性は暗闇を必要とし、公衆の光から保護されることを必要とし、さらに、それが本来あるべきもの、すなわち公的に表示してはならない奥深い動機にとどまっていることを必要とする」と述べ、まさしく「心の闇」の機能を肯定的に論じています(一四二頁)。
 どうしてアメリカ革命とフランス革命を論じた本でアレントがそんな話をしているのかというと、これはロベスピエールに対する批判として出てくる話題なんです。ロベスピエールは社会から偽善や欺瞞を廃絶しようとした。だから人間の心に徹底的に光を当てようとするんだけれども、アレントに言わせれば、動機というものは明るみに出された途端、その背後に別の動機を潜ませているように思わせてしまう。「動機は、その本質からいって、姿を現すことによって破壊される」とアレントは言っています(同前)。つまり追求すればするほど、さらに奥に別の動機が潜んでいるのではないかと思われてしまって、結局その人間は疑惑の対象になる。「おまえは偽善者だ。反革命だ」ということになって、ギロチンにかけられることになるわけです。何でもかんでも理性の光の下に晒そうとすると全員偽善者になるので恐怖政治が起こる。これがアレントによるロベスピエール批判なんですね。
國分功一郎+千葉雅也『言語が消滅する前に』)

 一年前の今日は(…)さんと新疆料理の店でメシを食った日らしかった。なまりがきつすぎてなにを言っているのかほとんどまったく聞き取れない英語での会話はかなりきつかったが、それ以前に日本語と中国語のちゃんぽんで交わした「シャーマン」の話はけっこうおもしろかった。

 しばらくして(…)さんが姿をみせた。南門に向けて歩き出した。会話は日本語。相手はたしか美術教師だったと思うのだが((…)さんからそう聞いていた)、たずねてみると、なんだかはっきりしない返事があった。老校区のほうにいるとのことだったが、大学教員ではどうやらないらしい(実際、南門から外に出るときも「工作証」を提示しなかった)。日本語能力もけっこう微妙なので、あまり複雑な話ができない。とはいえ、彼は数年前もやはりそうだったわけだが、複雑な政治について話したがる。習近平のことがあまり好きではないといった。アメリカとの関係が悪化している、いま中国は世界中から嫌われているがそれも現政府のせいだと続けるので、アメリカはアメリカでトランプみたいなやつもいましたしねとこちらはひとまずバランスの良い返事をした。コロナウイルスについて中国はアメリカが持ち込んだと主張しているが、実際、武漢の市場には野生動物が大量に集められていた、あそこから感染が広がったのは間違いないみたいなことも(…)さんはいった。いまは韓国語も勉強している、韓国の友人もいる、韓国はいまコロナウイルスが爆発的に流行しているがみんな風邪とそんなに変わらないといっている、日本の友人もそうだ、中国とは全然違うといった。それからコロナがおさまったら天津に引っ越すつもりだという話もあった。そこで小学生相手に英語でも教えるつもりだ、と。故郷はどこなのかとたずねると、ものすごく意外なことに青島だという返事があった。山東省。中国でもっとも平均身長の高い省であるが、(…)さんはこちらよりも背が低い、たぶん165センチあるかないかだと思う。それにくわえて肌も浅黒く、どこからどう見ても典型的な内陸部の農民といった感じの風貌だ。(…)さんはあいかわらず香港のことが好きでないようだった。日本人や韓国人は好きだが、香港人や東南アジア人は好きではない、日本人や韓国人はモンゴロイドという顔立ちだが、香港人や東南アジア人は全然そうでないと、むしろ東南アジア人っぽい風貌の彼がいうので、どう反応すればいいのかわからなかった。現中国政府には批判的、同時に香港や台湾にも批判的、アメリカに対しては愛憎ともにあり、日本と韓国とそれからロシアには親しみがあるという複雑怪奇なポジション(少なくともこちらの手元にある国際政治方面のわずかな見識に照らし合わせたかぎりでは、いかなる物語にも即していないようにみえる)。ロシアとウクライナの戦争にたいしてはどう考えているのかよくわからなかったが、ただこの戦争に際しても中国が国際社会の常識に逆行するような選択肢をとっていることに対して苦々しく思っているところがあるらしく、中国の官僚は馬鹿ばかりだみたいなことを口にした。

(…)さんは親族に「シャーマン」がいるといった。写真を見せてもらったのだが、長い白髭をたくわえた道教のお師匠さんみたいな、いかにもな風采の老人。ほとんど毎日のように相談の電話があり、たいそう忙しくしている。稼ぎもなかなからしく、ベンツに乗っているみたいな話があって、いかにも生臭ではないかという感じなのだが、(…)さんによれば本物の実力者で、ビデオ通話するだけで相手の家族構成を当ててみせるのだという。(…)の警察から頼まれて事件解決を手伝ったこともある。あるいは(…)市政府から依頼を受けるかたちで、どこに道路を通せばいいかどこにマンションを建築すればいいか、たぶん透視的な意味だろうが、チェックしたこともあるとのこと。本当かどうか知れたもんではないが、政府の偉いさんも彼の姿を見ると一礼するほどの人物だという。中国共産党的にはあやしい宗教だの超自然現象だのは全部アウトなはずであるが、やはり内陸部だからだろうか、これだけの科学技術大国でありながらいまだにそういうオカルトめいたものの影響力が政府の内部にまでおよんでいるという話は、なかなかちょっとサイバーパンク的でおもしろかった。政府や警察と付き合いがあるといっても、それがどの程度のレベルの話なのか、社区単位なのか市単位なのか省単位なのかは不明だが。(…)さんは一時期シャーマンに弟子入りしようとしたが、断られたとのこと。シャーマンは現在ひとりも弟子をとっていない。
 そのシャーマンが二年後に中国とアメリカの間で戦争が起きるといっているという。台湾がきっかけになるらしい。アメリカ軍が上海から広州にかけて爆撃、戦争の影響で食費は高騰し、茶碗一杯の米を大人が三人か四人で分け合うような暮らしをするはめになる。しかるがゆえにいまのうちに農村のほうに越しておいたほうがいいといわれている、と。同じ未来を透視しているシャーマンはほかに複数いるらしい。そのうちのいったい何人がこのコロナ禍を透視していたか知りたい。

 2013年3月17日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。(…)さん宅で、こちらと(…)さんと(…)さんの四人で(…)を吸いまくった日。(…)さんは基本的に(…)をたしなまないのだが、このときたしか人生ではじめて吸ったのではなかったか? 「そのつもりのなかった(…)さんまでぶっ壊れたのにはおおいに笑った。おれのテレビえらいでかないか!?まだ22時半!まだ22時半!と叫んでいたのが面白かった。(…)さんは客人をすべて放ったらかしにしておいてひとりはやばやと階上にある寝室に立ち去っていった」とあるが、これ、最後はたぶんバッドに入ったんだろうなと思う。(…)さんもやはりこのときはじめて(…)を吸ったわけだが、「(…)さんはぜんぜん平気なふうだったが、途中からガツンときたらしく、最終的にはトイレにひとりこもって吐き通していた」とあり、これはよくおぼえている、吐いている最中にのどを詰まらせて死んでいるんではないかと途中で心配になった(…)さんが何度か便所に様子を見に行ったのだ。
 今日づけの記事も少しだけ書いてから浴室でシャワー。そうして22時から1時まで「実弾(仮)」第四稿執筆。シーン18、無事片付く。まるごとボツにする必要はない、うまく書き直すことができたと思う。316/996枚。作業の合間にトーストを二枚食し、コーヒー用のネルを煮沸した。
 懸垂しながら合間にジャンプ+の更新をチェック。ジョジョの新作であるらしい『The JOJOLands』の一話目が公開されていたが、マジでお手本のような導入、ほとんど完璧な第一話やなと思った。なにからなにまでうますぎる。あと(…)くんのブログの3月8日づけの記事冒頭に引かれていた岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』の一節、「パリサイ人の祈り」のエピソードがまんまオコナーで、というか“Revelation”で、あ、このエピソードを下敷きにしていたんだなと思った。

 この点について、イエスの考えを示すもう一つの有名な話に「パリサイ人の祈り」がある。
 「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスはつぎのたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ人で、もう一人は徴税人だった。パリサイ人は立って心の中でこう祈った。[神よ、私はほかの人々のように、貪欲な者、不正な者、姦淫する者ではなく、また、この徴税人のような人間でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の一〇分の一をささげています]。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら言った。[神よ、罪人の私を憐れんでください]。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのパリサイ人ではない」」(『ルカ』一八の九~一四)
 このパリサイ人は非の打ちどころのない道徳的人間であったにちがいない。律法をきちん(end116)と守るだけではなく、ふつうの人間ならば誰でもやっているような悪事をまったく働いていないらしい。だが、それではだめなのだ。なぜなら、彼は他人を軽蔑し、自己満足にふけっているからである。他者への愛がないからである。
 パウロが言うように、愛がなければ、どれほどの道徳的高潔さもなんの意味もない。それだから、イエスはパリサイ人を「白く塗られた墓」だと言う。「白い」とは、外面は清潔だということだ。「墓だ」とは、中は死んでいるということである。
 (岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、116~117)

 オコナーの小説に出てくる(もたざるものではなく)富めるものたち、世俗化したキリスト教道徳に安住してみずから善人であると信じて疑わないひとたち、それは要するにパリサイ人のヴァリエーションなのだ。しかしこうしてみると、イエスの言葉の射程はやっぱりひろい。現代でいえば、いわゆるallyを称するひとびとのうちにも突き刺さる部分が少なからずあるはず。オコナーの手法を借りて現代と相対する小説を仮に書くことがあるとすれば、それはポリコレやアライを含むあらゆるアイデンティティポリティクス的な連帯が、それがそうであるかぎりどうしたって不可避的に含むことにならざるをえない欺瞞をするどく突くものになるだろうとこれまで何度か日記に書いたことがあるが、なまなかな覚悟ではそんなもの書けないよなと思う。反動的だ、ネトウヨだ、みたいなクソ雑な批判もきっと寄せられるだろう。それでいえば、オコナーは生前、カトリックからどのように評価されていたのだろう? やはり無神論者だとか悪魔崇拝者だとかそういうとっぴな批判が寄せられることもあったのだろうか? 『フラナリー・オコナージョージア』とか『フラナリー・オコナーとの和やかな日々』あたりを読めば、もしかしたらそのあたりのことについても触れられているのかもしれんが、どちらも翻訳は電子書籍でリリースされていない。原文で読むか。あと、野口肇というアメリカ文学者が、オコナーに関連する著作をたくさん出しているようなのだが、これはどうなんだろう? 夏休みに一時帰国した際、図書館でちょっとペラ見してみようかな。