20230322

 もう一つ、CCTVを梃子に、自分を忽悠して富豪になった男の話をしよう。それは民間企業家の出世物語である。二十年ほど前のことだろう。当時の中国はまだインターネット時代ではなかったが、広告はすでに氾濫していた。テレビや新聞の広告は花盛りで、いろいろな方面、階層に及び、多機能と多極化の傾向が見られた。輸入の広告もあれば国産の広告もあった。上品なもの、低俗なもの、暴力的なもの、セクシーなものなど、何でもありだった。都会の夜のネオン灯や高速道路の両脇の看板には、正規の企業広告が見られた。同時に、非合法の地下企業は小さな紙片の広告を電柱や歩道橋の階段に貼った。広告が天地を覆っている感じで、その景観は文革時代の壁新聞も遠く及ばない。
 当時、コマーシャル料金が一番高い時間帯は、CCTVの毎晩七時の『新聞聯播』の間の五秒間だった。CCTVは競売方式で、この五秒間を売り出したが、初めての試みだから手探り状態で、競売に参加した企業に対して何の調査もしなかった。たとえ乞食でも背広を着て来れば、入場して億万長者のような笑顔を浮かべ、手を上げて値をつけることができた。ある企業が最高価格で入札すれば、すぐに全国の大小のメディアから「入札の王者」として扱われる。「入札の王者」という宣伝効果は、『新聞聯播』の前の五秒間をはるかに上回った。
 ここで述べる民間企業家は数十万元ほどしか資産がなかった。こぢんまりと商売を続けても、疲れて死ぬだけだ。せいぜい百万長者にしかなれない。彼はふと閃いて、CCTVの五秒間の「入札の王者」が千載一遇のチャンスだと思った。ほかの草の根の企業家と同様の大胆さを発揮し、ある製品を頭に思い浮かべただけで、単身北京へ乗り込んだ。
 彼は低姿勢でCCTVの競売会場に入り、億万の資産を持つ民間企業家と横柄な国有企業家の間に身を置き、謙虚に最後列にすわった。競売が始まると、彼はうなだれて目を細め、居眠りしているかのようだった。入札に加わっている企業がまだいるのを耳で確かめながら、彼は右手を上げ続け、より高い値段をつけた。金額がどんどん上昇し、ほかの企業は次第に撤退したが、彼は平然と右手を上げることをやめなかった。そして最後に、八千万元という高値でCCTVの「入札の王者」の権利を手に入れた。
 この資産が数十万元しかない小金持ちは、八千万元の「入札の王者」の権利を携えて、故郷の小都市に戻った。彼は慌てず騒がず、市の党委員会書記と市長のもとを訪ね、謙虚な微笑を浮かべてこう述べた。
「私はCCTVの『入札の王者』の称号を八千万元で持ち帰りました。しかし、資産は数十万元しかありません。どうしましょう? ご支援いただけるなら、この町から全国的に有名な企業家が生まれます。ご支援いただけないなら、この町から全国最大のペテン師が生まれます」
 彼は帰りぎわに、ひと言付け加えた。「すべては、あなた方しだいですよ」
 当時、中国の地方官僚はひたすらGDPの成長を追求していた。自分の管轄する地区から全国的に有名な企業家が出れば、昇進のための功績となる。全国最大のペテン師が出れば、将来に直接的な影響が及ぶ。そこで、市党委員会書記と市長は緊急会議を招集し、真剣な討論を重ねた結果、地元の商業銀行を通じて「入札の王者」の権利を得た資産家に二億元を貸与することを決定した。これは中国独特の資金貸与である。当時、中国の商業銀行の地方支店は、しばしば地方政府の言いなりだった。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)



 昼過ぎ起床。歯磨きしながらスマホでニュースをチェックするとWBCで日本がアメリカを下して優勝したという報道。9回裏2アウトで投手大谷&打者マイク・トラウトという漫画みたいなシチュエーションが出現したらしい。三振でゲームセット。できすぎやな。
 食堂に出向くのが面倒だったのでトースト二枚で食事をすませる。洗濯機をまわし、コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書く。書いている最中、どういうきっかけでそういう考えに及んだのか忘れてしまったが、たとえばいま「実弾(仮)」でスマホおよびSNSが全面化する直前の時代を舞台とする小説を書いているように、AIが全面化する以前の時代の空気をなんらかのかたちで書き残しておく必要もあるかもしれんなと思った。いや、そういう時代の空気はそれこそSNSにある程度保存されているか。だから、書き残しておく必要があるとすれば、それはむしろスマホ登場以前の、マッチングアプリではなく出会い系、グーグルでもヤフーでもなくiモードフェイスブックでもミクシーでもなくブログ(あるいはブログですらなくテキストサイト)が組み込まれていた生活のありようのほうなのかもしれんが。しかし、こういう発想が出てくる程度にはじぶんも年をとった。
 きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回する。2022年3月22日づけの記事を読み返す。「大学に戻った。南門から新校区に入ったのだが、入り口で守衛から学生証の提示をもとめられた。『北斗の拳』の「おまえのようなババアがいるか!」のパロディとして「おれのような学生がいるか!」と言いたい」という記述でちょっと笑った。それから2013年3月22日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。

 けれどもこの栄光と光明との発作から、マルシアルは自分がかつて栄光を持った、栄光を所有しているのだという揺るがし難い確信を保ち続けた。人々が彼を認めるか、認めないか、それはほとんど問題にならない。彼はこのことに関してベルクソン氏の「精神的エネルギー」についての本の一節を好んで引用する。「ひとが讃辞や名誉に執着するのは自分が成功したという確信が持てない、まさにその度合に応じてのことである。虚栄心の根底には謙遜があるのだ。自分を安心させるためにこそ、賛意を求めるのだし、自己の作品のたぶん不十分かも知れぬ生命力を支えるためにこそ人々の熱烈な崇拝でそれを取り巻いてやりたいのだ、ちょうど早生児を綿でくるむようにして。だが生きる力を持った永続しうる作品を生み出したことを確信する、絶対的に確信する人、その人はもはや讃辞などどうでもよく、栄光を超越していると感ずるのだ、なぜなら自分が栄光を持っていると知っているからだし、彼が感じている歓喜は神にも似た歓喜だからである。」マルシアルはたしかに他にも本を書いているが、しかしそれは最初の作品より優れたものを作るためではない、絶対というものにおいて進歩はないのだし、彼は一挙に栄光の絶対を手にしたからだ。それら新しい著作の数々はせいぜい、無知で遅れている大衆が最初の本を読んでその光輝を見てとる助けになるだけだろう。
ミシェル・フーコー豊崎光一・訳『レーモン・ルーセル』よりピエール・ジャネ「恍惚の心理的諸特徴」)

 今日づけの記事もここまで書く。それから一時間ほどかけて、明日と明後日の授業にそなえて資料を再チェックし、学習委員に印刷をお願いする。30分ほど時間があまったので書見し、17時をまわったところで第五食堂へおもむく。打包。寮にもどる。(…)がこちらに気づいて駆け寄り、門を内側からわざわざ開けてくれたので、ありがとうという。電動スクーターからおりたばかりの(…)もいたので、(…)はthe best gate keeperだねと冗談をいう。(…)はいま授業を終えたばかりだと中国語で言った。こちらの手にさげているメシを見て、ボナペティ! といってみせるので、それってフランス語だっけ? イタリア語だっけ? とたずねると、フランス語だという返事。ボナペティ。なつかしい。タイ・カンボジア旅行中、ジャングルトレッキングでいっしょになったオランダ人の(…)が教えてくれた言葉。
 食す。食事中は坂口恭平と千葉雅也の対談動画の続き。ベッドに移動して仮眠。シャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを淹れて、「実弾(仮)」第四稿の続き。何時からはじめたのだったか記録しそびれているのでわからんが、23時半過ぎに中断。シーン20は無事完成。シーン21はかなり長いパートなのだが、もしかしたら分割するかもしれん。地続きのシーンは原則分割しない方針でやっているのだが、ここでいったん割ったほうがいいかもというポイントがひとつあるのだ。それに地続きのシーンを分割しないのが原則なのであれば、その原則の破れ目を作中に一箇所くらい設けておきたいというあまのじゃくなアレもある。
 作業の途中、(…)大学で院生をしている(…)さんから微信。院生三年生の先輩が修論30000字程度を書きあげたのだが、いま大学には日本人教師がいないのでチェックをお願いすることができない、そこで謝礼を払うので(…)先生に見てほしいといっている、と。金もらえるったって普通にめんどいし、そもそもこの時期で修論のチェックをお願いしますってなかなかデッドラインぎりぎりなんじゃないの? という感じであるので、一ヶ月ほど猶予があるのであればかまわないけど一週間以内にどうのこうのしてくれという話であれば、悪いけれどこちらも仕事があるし引き受けることはできないと応じる。案の定、期限ぎりぎりらしい。悪いけれどその子の力にはなれないと断る。じぶんが修論を書くときはぜひチェックをお願いしますと(…)さんは言った。できればそのときまでに(…)大学にあたらしい外教が赴任してほしい。レベルの高い大学であるし、ふつうに行きたがるひとはけっこういると思うんだが。
 あと、二年生の(…)さんと(…)さんのふたりから、ルームメイトの名前の日本語読みを教えてほしいという微信も届いたのだった。たぶん英語学科の学生だろう。ついでなので(…)さんに骨折した足の具合についてたずねると、治るまでまだ一ヶ月ほどかかるという返事。骨折の原因はシェア電動自転車で転んだからとのこと。

 腹筋を酷使する。プロテインを飲み、トースト二枚を食し、ジャンプ+の更新をチェックする。『本気で学ぶ中国語』を一時間ほどやったのち、歯磨きをしてベッドに移動。Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きを読む。“Judgement Day”を読み終わる。これもまあまあいい。田舎からNew Yorkにある娘のマンションにひきとられた父親(現在)が、田舎のshackにniggerといっしょに暮らしていた日々を回想し(過去)、その回想に片足を置いたままさらにniggerと出会った最初の一日を回想する(大過去)という序盤——paperknifeとbarkで作ったspectacles(!)をniggerに渡すというこの出会いのエピソードがまた異様な迫力をともなっているのだ——の構造と、Judgement Dayのあとの復活という後半に登場するモチーフをからめていろいろおもしろく論じることもできそう。過去と現在、老人の生前と死後、現実と老人の妄想を、自由自在に行き来して語る語りによって事後的に生成される語り手を、最後の審判を経て復活した人物の視点に重ねあわせてみるという力技的なアレをフックに、いろいろごちゃごちゃ練ってみれば相応の論にはなるんではないか。
 Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)はこれで読み終わったわけだが、眠気がなかなかおとずれないようだったので、Stonerの冒頭をまたちょっと読み返してみたり、FlanneryではないFrankのほうのO’Connorの未読短編にちょっと目を通してみたりした。