20230324

(…)それから、とって置きの酒を温め、丁生員の手をとって榻(ねだい)に上がり、『周礼』によって飲みあいをしようと言うのです。これはまず何冊何帖何行目と言っておいて『周礼』をめくり、もし食偏三水篇酉偏があたれば、罰として盃を受けさせるというもの(…)
(森敦『私家版 聊齋志異』)



 10時半起床。びっくりするくらい腹が減っていない、それどころかいまだに満腹感がある。きのう確かにいつもより多めに麻辣香锅を食べはしたものの、それでも気持ち悪くなるほどドカ食いしたわけでもない、にもかかわらずこうして翌日までひきずることになるとは、これも年齢のためなんだろうか? そういうわけで食堂には出向かず、白湯を飲み、コーヒーを飲み、きのうづけの記事の続きをひたすらカタカタやる。今日は午後の授業後、学生らと映画館にいく約束になっているので、さすがになにも食べずに授業に行くのはアレだろうし、体もきっと冷えるだろうから、13時をまわったところでトースト二枚だけ食した。
 今日もまたクソ寒い。映画の約束があるのでひさしぶりに徒歩で外国語学院へ。地下道を歩いている最中、(…)くんと(…)くんに声をかけられる。(…)くん、恋人の(…)さんが身内の不幸で帰省しているため、今日の授業を欠席するという。了解。教室に入り、14時30分から一年生の日語会話(一)。今日は第13課。完璧な手応え。授業前半で基礎練習をすませ、後半でたっぷりアクティビティ。もう一度言う、完璧だった。こんなシンプルな構成でいいんだなとしみじみ思った。前半で学習する文型は、後半のアクティビティで使用する文型に限定するだけでいいのだ、あれこれやる必要なんてないのだ。あともうひとつ気づいたのだが、想定していたよりも毎回ずっと時間が押してしまう理由、それは「単語」のページだ。授業の序盤、軽く世間話をして一発笑いを稼ぎ、その後出席をとったのち、手始めに教科書の「単語」を復唱させるというのがこちらの流れであるのだが、その「単語」復唱時に、教科書に掲載されている単語から連想される由無し事をフックにしてフリートークに脱線するという傾向がこちらにはある。で、これ自体は悪くない、序盤に冗談まじりのフリートークをすることで空気をあたためることができるし、その過程で類語の使い分けやニュアンスの差異などネイティヴだからこそ扱うことのできる知識を授けることもできる。だからこの「単語」の時間を切り詰めるのではなく、むしろここを充実させて、逆に、アクティビティに使用しない文型はバッサリ切り捨てる——これくらいの心持ちでちょうどいいのだ。それがよくわかった。
 先週の授業から後列に移動してしまった(…)さんと(…)さんのふたりであるが、その代わりに(…)さんが先週の授業後半から前のめりになりつつあり、今日にいたっては前から二列目に位置してかなり積極的に発言するなどして非常に好印象をもった。彼女のまわりには(…)さんや(…)さんなどクラスでも最底辺に位置する学生が取り巻きとしているのだが、しかしそのふたりはいじってもいいタイプの劣等生であり(ふたりとも勉強嫌いであることをオープンにしており、じぶんが全然日本語が理解できないことを一種持ちネタのようにしてひらきなおっている)、(…)さんなんかもやはりそうであるのだが、こういう学生はこういう学生でけっこう固有のありがたみがある、FF10のリュックいうところの「ニギヤカ担当」みたいな感じの役割を授業中に負ってくれるのだ。(…)さんらが前に出てきた分、優等生である(…)さんと(…)さんのふたりが視線の届きにくい廊下側にまわってしまったのはもったいないが、後ろに下がったわけではないのでよろしい。
 授業が終わったところで学生らとそろって外に出る。映画にいっしょに行くのは(…)くん、(…)くん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん。老校区の外に出て、二台のタクシーに分乗して映画館に向かう。(…)さん、すっかりクラスメイトになじんでいるのかと思いきや、同行女子らとのあいだにまだちょっと距離があるようだったので、だいじょうぶかなァとすこし心配になった。こちらとおなじタクシーに乗ったのは(…)くんと(…)くんと(…)さん。(…)くんは昼飯を食わずにずっとパソコンでゲームをしていたらしく、そのせいで腹がたいそう減っており、タクシーに乗る前、こちらがときどきミネラルウォーターを買う売店でパンとコーラを買っていた。
 映画館まではタクシーで10分ほどだったろうか。助手席に乗った(…)くんがスマホのナビを起動して運転手をガイドしたのだが、ナビの音声が日本語になっており、運転手が軽く動揺していた。おとずれた映画館には見覚えがあった。もしかしたら数年前に『天気の子』を観たのとおなじ映画館だったかもしれない。受付でコーヒーはあるかとたずねてみたところ、美式咖啡はないとの返事。あまったるいものでもかまわないので、とりあえず購入。後続タクシー組も到着したところで座席に移動。ど真ん中。最高の配置。客はわれわれ8人のほか、10人いるかいないかくらいだったと思う。初日にしてはさみしい客入りと感じるかもしれないが、学生らに誘われて映画館をおとずれると、だいたいいつもこんな感じ。田舎だからだろう。北京や上海だったら満員御礼という感じなんではないか。
 それで『すずめの戸締まり』(新海誠)。イーストウッドの映画を筋で語ってもまったく無意味であるように、この作品の物語をそれ自体で語っても意味はない(世界と愛するひとを天秤にかけるお決まりの構造について、たとえば『天気の子』はかなり批評的なひねりが組み込まれていたと思うが、この作品では単なる様式美として採用されたものにみえる)。だから演出にばかり目がいくわけだが、うーん、うまいなァとやっぱり思った。このあいだ『The JOJOLands』の第一話を読んだときも思ったけれども、やっぱり超一級の娯楽作品から学ぶべきポイントというのはめちゃくちゃある。提示すべき情報の提示の仕方(あるいは隠し方)、ひとつひとつのエピソードの処理の仕方、緩急のつけかた、笑いどころの配置。阿部和重伊坂幸太郎を評価するにあたって、純文学は構成力というものをジャンル小説から学んだほうがいいみたいなことをどこかで語っていたのをずっと以前目にした記憶があるのだが、映画を下敷きにして「実弾(仮)」という小説を書いているいま、その言葉の意味がすごくよくわかる。カットの割り方、省略の仕方、引き算の美学。だらだらと冗長に、無駄に無駄に重ねまくることで無駄が無駄でなくなるその一線を突破する、そういうものこそが純文学であるという美学があるのはわかるし、それに対する共感もおぼえはするのだが、それが第一線で共有されている前提であるからこそ、そこをちゃんとはみだす必要もあるよな、と。
 一点、すごく気になる箇所があった。鈴芽が芹澤の運転する車で故郷にもどる最中、いちど車をおりて草まみれになった廃墟を見渡すシーンで、芹澤がその景色をきれいだと口にする、それにたいして鈴芽が(彼女にとってはいわば外傷的なものでしかない)その景色をきれいだと評するその言葉になにかしらアンビバレントな動揺をみせるくだりがあるのだが、ここだけすごく異質なものを感じた。ものすごくおおざっぱな言い方をすれば、それまでエンタメのトーンで描かれていた物語がこのシーンのみ純文学になったというか、おおざっぱついでにちょっと軽はずみな断言をしてしまいたいのだが、これ、このシーン、このくだり、ここだけはっきりしたソースがあるんではないか? つまり、この作品を制作するにあたって、新海誠はまちがいなく震災関連の本をいろいろに読んでいるだろうし、場合によっては被災者に直接インタビューしたりもしているんではないかと思うのだが、そういう過程で得た当事者の言葉が、ここでは引用されているんではないか? 少なくともそう感じるくらいには、このくだりだけ、この鈴芽の反応だけは、ほかのシーンと比べて異常になまなましく、リアリティのある機微のように思われた(このシーン、このセリフだけ、作品の流れのなかで垂直に屹立している)。
 あと、これも毎回書いていることだと思うが、中国の映画館では上映中基本的にみんなよくしゃべるしよく笑う。だから笑いどころみたいなシーンでは、それがたとえちょっとしたものだったとしても、日本であればくすりと笑うという表現がまさに反応としてふさわしいような場面であったとしても、けっこうみんなゲラゲラ笑うのだが、芹澤が鈴芽と環というちょっとふつうの事情ではないものを抱えているらしいふたりを前にして二度か三度くりかえして口にする「闇が深い」というあきらかにユーモラスなセリフに対しては、ほぼ全員が無反応だった。で、その原因はたぶん、一種ミームじみたものとして流通しているフレーズといっても差し支えのないこのフレーズの訳語が「神秘」となっていたからではないか? いや、こちらは中国語にまったく明るくないので、もしかしたら中国語の「神秘」にはそういうニュアンスも含まれているのかもしれないが、しかしゲラといってもさしつかえのないほどよく笑う観客らがあのセリフを耳にしてもくすりともしていなかった、そこから考えるにやっぱりここだけ意訳がうまくいっていなかったんではないかと思う。
 映画のおわったところで外に出る。(…)くん、感動して泣いたという。(…)くんも(…)くんもこれまで新海誠の作品をすべて観ているという。こちらはいまだに『君の名は。』すら観たことがない。おもてはクソ寒い。メシを食いにいくことにするが、周囲の地理に明るい人間はだれもいない。(…)さんだけパーティーから離脱する。ぶらぶら歩いていると、(…)だったか、(…)だったか、去年院試を終えた(…)くんといっしょに夜中までだべったカフェがあったので、あ、あのあたりなんだと思う。(…)くんは焼肉を食べたいようだったが、学生らもそれほどお金があるわけでもないだろうし、それにいつまで経ってもよそさそうな店が見つからなかったので、もうあそこの店でいいんじゃない? と近くにあった麺の店にいくことを提案した。それで問題なし。チェーン店だろうか? 1960年代から経営しているという看板がかかっていたが、ほんとうかどうかは知らん。店はぼちぼち混雑しているが、ちょうど長机をふたつくっつけた中央の席があいたので、そこを一同で陣取ることに。こちらは三鲜面をオーダー。12元。安い。便所で小便をすませたのち、運ばれてきたものをさっそく食す。うまい。おれは結局麺食ってりゃ幸せな人間なんだなと思う。男子三人の分だけ先に運ばれてきたのだが、三人とも食うのがはやく、店にいる時間の大半は女子の食事が終わるのを待つ格好になった。学生らの反応はぼちぼち。うまくもなければまずくもないといったところなのだろう。男子ふたり以外は日本語がまだそれほどできないし、たぶん緊張しているということもあって、それほど会話が弾むわけでもない。みんな(…)省の出身かと思ったがそうではなかった、(…)さんは黒竜江省で、(…)さんは浙江省だった。(…)さん、こちらがどんな質問をしてもすべて中国語で返事をするという典型的な劣等生のアレで、東北出身の学生はみんな勉強ができない(しない)という法則をまた裏打ちするサンプルをゲット! という感じ。
 食後、女子らはタクシーに乗って大学にもどるという。(…)くんが散歩がてら歩いて大学まで帰りたいというので、かまわないよと受けたのだが、地図アプリで大学までの道のりが4キロあることを知った途端、やっぱりタクシーに乗りましょうといった。軟弱なやっちゃ! ただただおしゃべりしながら歩くという行為の豊かさをまだ知らないのだな。(…)くんとカフェでだべったあの夜は、すでにかなり遅い時間であったにもかかわらず、われわれは一時間かけて大学まで歩き、そのあいだひたすらしゃべり通したものだった。日本でも中国でもおなじだ、カフェだの食事だの映画だのは単なる方便にすぎない、おまけでしかない、本当にゆたかな時間というのはただしゃべること、だべること、歩きながら語ること、それだけなのだ。こちらがこれまである程度親しい関係を築くことのできた人物は、みんなここのところを理解していたし、このよろこびを共有することができていた。
 タクシーに乗って大学の南門に向かう。(…)くんがコーヒーを飲みたいという。別にコーヒーが好きなわけではない、たぶんコーヒー好きであるこちらの手前、背伸びして飲みたがっているだけだと思う。瑞幸咖啡に行きましょうという。了承する。しかし(…)くんがやや疲れているふうであったし、こちらもわりとそんな感じであったので、店内でだらだらする流れにならないように打包しましょうと釘をさしておく。麺いっぱいではまったく腹がふくれていないという事情もあったので、第五食堂をのぞいてみたが、特に食べたいものはない。瑞幸咖啡にはパンがあるというので、(…)くんが甘ったるいラテを購入するのについていくついでに、チーズパンみたいなやつを買ってみることにしたが、これがついさっきまで冷蔵庫に入っていたんかというくらいひやっこいパンで、正直ぜんぜんうまくなかった。
 寮の前でふたりと別れて帰宅。ベッドに移動。(…)さんから今日は楽しかったですねというメッセージが届いていたので返信。それからベッドで30分ほど寝る。

 モーメンツをのぞく。卒業生を含めてかなりの数の学生が『すずめの戸締まり』を観ている。シャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを淹れる。ウェブ各所を巡回し、2022年3月24日づけの記事を読み返す。2013年3月24日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。

 私には分からなかった。破壊されるものが何であるか、私にはよく分かっていた。しかしそのあとに何が建設されるか分かってはいなかった。誰一人として確信をもってそのことを分かっているものはいないのではなかろうか。古い世界は、現実のものであり、堅固である。私たちがその中に住み、この瞬間常にそれと戦っている――この世界は現に実在しているのである。未来の世界はまだ生まれていない、夜を織り出す光から出来ている、捕えどころがなく、流動しているものである。強い風にもてあそばれる雲である――愛、憎しみ、空想、運命、神……。この世の最も偉大な予言者でさえ、人びとにスローガンしか示してくれない。そしてそのスローガンが漠然としていればそれだけ予言者も偉大なわけだ。
ニコス・カザンザキス/秋山健・訳「その男ゾルバ」)

 私は自分が幸福であることがよく分かった。幸福を体験している間は、それを意識することは難かしいものである。幸福が過ぎ去ってしまってから、それを振りかえってみて、はじめて、しばしば驚きの気持で、自分たちが幸福であったことに気づくものである。しかし、このクレタの海岸で、私は幸福を体験し、同時に自分の幸福を意識していた。
ニコス・カザンザキス/秋山健・訳「その男ゾルバ」)

 以下、アホすぎて笑えた。こちらの当時の月給は8万前後(そして借金は400万円以上)。500円玉は大金だ。

8時から12時間の奴隷労働。税金滞納で銀行口座を凍結されていた(…)さんがそれにもかかわらず昨夜(…)さんと祇園で豪遊してしまったらしく手元に一円もない状態になってしまって、それ自体は毎月のことといえばそのとおりなのだけれどしかし奥の手であるカードさえもが限度額に近いとかなんとか、そこにくわえて完全なる二日酔いで朝から夕方までずっと調子悪そうにしていたものだから見ておれず、これでポカリでも買って休んでくださいと五百円玉を恵んであげた。

 そのまま今日づけの記事も途中まで書く。作業中は『Horizon, Vol. 1』(菅谷昌弘)と『Whistleblower (2022 Remaster)』(Vladislav Delay)をくりかえし流す。1時になったところで中断。いちごとラーメン食す。おれの今日の食の偏差値26くらいしかないんちゃうか? 歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックしたのち、My Oedipus Complex and Other Stories(Frank O’Connor)の続きを読み進めて就寝。