20230326

たいていの場合、ひとが助言を求めるのは、ただそれに従わないためである。あるいはもし助言に従うのだとすれば、それは助言をくれたそのひとを責めるためだ。
——アレクサンドル・デュマ『三銃士』
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』)



 11時半起床。歯磨きをすませて洗濯機をまわす。第五食堂へ。ひさしぶりの晴れ間! しかし明日にはまた雨が降る模様。年中梅雨だなマジで。プリペイドカードにチャージしようと思ったが、日曜日なので窓口が閉まっている。海老のハンバーガーを二個打包する。ハンバーガー屋のカウンターに入っているおっさん、仕事をしながらめちゃくちゃでかい声で歌い続けていた。
 部屋にもどる。食す。コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年3月26日づけの記事の読み返し。当時二年生の(…)さんと(…)さんとはじめて本格的に散歩——というのはつまり、なにかのついでなどではなく、最初からそれを目的としているという意味でどこまでも無目的な散歩——をしている。この時期を境に、彼女らとの交流が頻繁になっていくわけか。
 それから以下。引用内引用は2021年3月26日づけの記事より。

 以下はかなり図式化した理解になっているが、さしあたっての見取り図としては有効なはず。「物語」は「現実」よりも解像度の低いものであるし、「ポップス(音楽)」も「音」より解像度の低いものである。そこに「物」=「現実」=「音」の断片である対象a=充溢した対象=不気味なものがあらわれ、不安をひきおこす。しかしその不安は、享楽の二面性をもっている。

もちろん、このような「子供と母の原初的関係」は一種の神話のようなものだ。重要なのはこの神話から取り出された図式の応用、つまり、象徴界にとりこぼされた残余である対象aこそが不安をもたらすという見立てだ。ここでいう対象aは小説でいえば、物語の範疇におさまらない歪なエピソードのようなものであるだろうし、もっとわかりやすい比喩でいえば、西洋音階中心主義的なポップスにおける不協和音やブルーノートみたいなものといってもいいだろう。そういうものはたしかに既存の象徴秩序(「物語」や「ポップス」)に慣れ親しんだ読み手や聞き手に一種の不安、違和感、居心地の悪さをもたらす。それはひとがそのなかに安寧している秩序を揺るがすという意味で、象徴的な言葉遣いになるが、一種の死であるということすらできるかもしれない。それがあることによって秩序が撹乱されてしまう不気味な異物、しかし同時に、それがあることによって作品そのものがきわだち魅力的にもなりうるような——というようなこの二面性はもちろん、快と不快の二元論を越境した享楽を含意している。

 さらに《ラカン派のこの見立てに熊谷晋一郎の知見を無理やりジャンクションしてキメラ化させた暴論》が以下のように続くのだが、ここで語られるファンタスムの定義については保留が必要かもしれない。「予測できないものの到来(あるいは予測不可能性そのもの)をひとがどう処理するかの方法」というよりも、そのような未知をどのように物語化する/言語化する/象徴化するかといったほうがいいかも。

(…)つまり、主体とは個人の予測の体系(個人的経験)+社会的かつ歴史的に受け継がれてきた予測の体系(伝承される「知」)の組み合わせであり、それを象徴秩序と呼ぶとする。そしてその象徴秩序がくみとれないもの、つまり、予測を逸脱するものを「対象aの顕現(現実界の接近)」=「〈物〉の侵入」と重ねてみる。するとファンタスムとは、そのような予測できないものの到来(あるいは予測不可能性そのもの)をひとがどう処理するかの方法ということになる。さらに俗っぽくいえば、パニックや(クトゥルフ神話的な、その姿を目にするだけでSAN値が減少し場合によっては発狂にいたってしまう醜悪な神々がもたらすものとしての)狂気といかにして対峙するか、そのようなものからいかに自己を防衛するかというアレになってくるんではないかと思うが、これについては保留。

 2013年3月26日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。『その男ゾルバ』からひかれている文章、すべてすばらしいな。

何千年もの間、春になると若い男女が、ポプラ、もみ、かし、すずかけの木、細いしゅろなどの新緑の木々の下で踊りに興じてきたのだ。彼らはこれからさき、何千年もその顔を欲望でたぎらせながら、踊り続けるであろう。踊り手の顔は変化し、くずれて、やがては土に帰る。他の踊り手がそれに変わって現われるのだ。いや踊り手はただ一人なのだ。彼は何千という仮面をもっている。彼はいつも二十の若さだ。彼は不死なのだ。
ニコス・カザンザキス/秋山健・訳「その男ゾルバ」)

「わしゃ夢をみてました。奇妙な夢ですぜ。わしゃ近々旅に出掛けるか、何かするんじゃねえかと思いまさあ。まあ聞いて下せえ。おまえさん、きっと笑いだすだろうが。この港になあ、町ぐれえ大きな船がとまってましてな。そいつが汽笛をならしてるんでさあ。まさに出航の準備をしてるところでしょうな。そこへわしが、そいつに乗り込むってんで、村から走って行くんでさあ。わしゃ手におうむをもってましてな。船に着くと乗船しました。そこへ船長が走ってきて、『切符をみせろ!』と怒鳴りました。『一体いくらだ?』と、わしゃポケットから札束をひっぱり出しながら聞きますとな、船長は『千ドラクマだ』といいましたあ。わしゃ、『おいおい、まあ落ち着いてくれ! 八百ドラクマじゃどうだ?』といいますと、船長は『だめだ、千ドラクマだ』といいはりまさあ。そこでわしゃ、『わしゃ、たった八百ドラクマしかもってねえ。こいつ全部とってくれ!』というと、船長の奴『千ドラクマだ。それ以下じゃいけねえ! もし、おまえがそれだけもってなきゃ、船をすぐ下りるんだな!』わしゃ困ってしまってな、こういったんでさあ。『まあ、聞けよ、船長。わしゃおめえさんのことを思っていうんだが、わしの差し出す八百ドラクマは取った方がいいぜ。もし取らねえとすりゃ、わしゃ目をさますぜ。そうすりゃ、おまえ、そいつを失うことになるんだぞ!』とな」
ニコス・カザンザキス/秋山健・訳「その男ゾルバ」)

 あと、この日の記事に記されている夢のなかに「写真家の(…)さん」という登場人物が記されているのだが、この(…)さんがだれのことであるのか、マジで全然思い浮かばない。こちらの記憶にあるかぎり、写真をやっていた知り合いといえば(…)と(…)くらいのもので、(…)さん? だれだそれ? という感じ。もしかしたら(…)の師匠のことかもしれないが、あのひとの名前はもはやおぼえていない。あるいは(…)で知り合ったなかにそういう人物がもしかしたらいたかもしれないが、いや、マジで全然思い出せんな。当時はブログを一般公開していたので、自分の名前以外はすべてイニシャルで記されているのだが、(…)? は? ひ? へ? ほ? マージでッ! 全然ッ! わからんッ!
 あと、この日は(…)とSkypeしている。そのやりとりが例によって胸糞悪い翻訳調で記録されているのだが、そのなかに以下のようなくだりがあり、またびっくりした。うそやん! という感じ。じぶんの未来はすべてほかでもないじぶんじしんの手によって記された過去(日記)のなかに伏線としてはりめぐらされているのかという奇妙なおどろき。

メーホーソーンで出会った女性のことを覚えてるかい?彼女はきみにタイで英語教師になるように薦めていただろう。ええ、覚えてるわ。おれには日本語教師になれといった。ふふふ、そうね、たしかにいった。きみは英語が操れるんだしアジアのどこかで英語教師になればいい。そうしてあなたは日本語教師になるの?おれは教師っていうガラじゃないよ、わかるだろう?たしかにね。おれはfunnyだから。でも教師だからこそfunnyであるべきよ。おれもときどき外国に移住することを考えるよ、PC一台あれば世界中どこでだって小説なんて書けるんだから。本当にそうね、それがいいと思うわ。

 あと、以下のくだり。この感覚、いまでもまあわかる。

今日の(…)との対話からというよりはむしろ昨夜弟のことを考えていたときにふと思ったことなのだけれど、だいじなひとにみじめな気持ちになってほしくないという願望がじぶんにはあるらしいことに気がついた。みじめさというのは不思議な感情(?)で、じぶんがそれに晒されたり見舞われたりしている分にはまだどうにか耐えられるのだけれど、親しくしているひとがそれに晒されたり見舞われたりしているのを見るとそれだけでもう耐えがたく、いてもたってもいられないような、見ちゃいられないような、そんなしんどさ、狂ったような痛ましさに苛まれてしまい、滅多に出ない涙さえあふれそうになるものだ。じぶんはたぶんだれにもみじめな気持ちになどなってほしくないのだと思う。本当に。心の底から。幸福の定義というか条件のひとつみたいなものとして、みじめさとの訣別というやつがあるのかもしれないと思った。

 今日づけの記事もここまで書いた。時刻は15時。明後日にひかえている日語会話(三)の準備を詰める。配布資料を完成させたところで、学習委員の(…)さんに送る。それから日語基礎写作(二)の課題も添削。
 終えると17時過ぎ。第五食堂で打包。食して仮眠。(…)からLINEが届く。Polyvinyl Recordsというレーベルがとてもいい、と。特にMVがいい、トクマルシューゴもここから出しているというので、公式ウェブサイトをおとずれてみたところ、AlvvaysやHazel EnglishやKero Kero BonitoやYumi Zoumaなど見知った名前がいくつかあった。Wikiによれば、Asobi SeksuやDeerhoofやFrictionなどもここからリリースしているらしい。せっかくだし、いろいろきいてみよう。
 日曜日なのでスタバに向かう。美式咖啡の中杯をオーダーしてソファ席に着席。『ラカン入門』(向井雅明)の続きを読み進める。中国の、というか(…)のスタバではあまり見かけることのない姿であるが、Macをもちこんでなにやら作業をしている女子がひとりいた。見た目の雰囲気がどことなく四年生の(…)さんによく似ていたので、彼女とおなじアニメオタクかな、イラストでも描いてんのかなと思った。
 店には二時間ほどいた。途中で集中力が切れてしまい、切れたものをふたたび結びなおすのもちょっとむずかしそうな感じがしたので、泥仕合を演じてもしかたなしと割り切って帰宅。シャワーを浴び、ストレッチをし、その後、22時半から『本気で学ぶ中国語』。途中で腹筋を酷使したり、プロテインを飲んだり、トースト二枚食したり、ジャンプ+の更新をチェックしたりする。
 きのうおとといあたりからMacBook Airが充電できないことがよくあり、というのはつまり充電ケーブルを差し込んでも充電中のランプが点灯せず本体にも充電されないということなのだが、ケーブル自体はわりと最近、たぶん半年ほど前だと思うが、日本で買って持ちこんでいた新品に取り替えたばかりだった、だから問題があるとすれば本体だろうと思って、というのもこの本体もすでに10年近く使い続けており、調子はまったく悪くないのだがさすがに年が年であるしいつ逝ってしまわれてもおかしくはない、そういうわけで夏休み日本に一時帰国することになったらそのときは保険の意味も兼ねてあたらしいのを一台買おうかなと考えていたりもするのだが、と、書いていて思い出したが、正確にはまだ10年経っていないのだった、なぜなら先週の授業準備をしている最中、沖縄の写真を用意する必要があったので(…)といっしょに旅行に出かけた際に撮ったものをチェックしていたところ、その(…)がこちらのMacBookを操作している写真が見つかった、そしてそのMacBookというのが旧型だったのだ。(…)がわが廃屋にやってきたのはまさに10年前、すなわち、2013年の夏だ。
 それはいいとして、本体を再起動してみたりポートを清掃してみたりしたのだが、いっこうによくならず、これちょっとやべえかもしれんなと思いつつ、いちおう念のために充電ケーブルを以前使っていたものに取り替えてみたところ、あっさり充電可能となった。それでげんなりした。新品でわざわざ購入したケーブル、あれはたしか純正だったはずなのに——と書いたところでいちおう確認したが、全然純正ではなかった、汎用ケーブルみたいなやつだった! しかしだからといって、こんなにすぐ断線するか? やっぱしょうもないもん買うもんちゃうな! ちなみに純正ケーブルのほうはボロボロで、いたるところゴムがはげまくって中の線がむきだしになっており、こんなもん使いつづけていたらいつか火事になるかもしれんとびびって新品にとりかえたのがたしか半年ほど前だったと思うのだが、ええい、やむをえん! 一時帰国まではまたこいつの世話になるしかない!
 歯磨きの最中、(…)くんのブログをのぞいたら、家族と交わした墓の話題に続けて、「いずれにしても死後墓にはいりたいというきもちはまるでないし、どうなりたいというきもちもない。樹木葬とかはけっこういいなとおもうので、この席でもそう口にしたが。おおいなる自然のみなもとへと還帰してみんなで葉叢を鳴らす風になろうぜ! という感じだが、死後にまで死者を家というくくりにしばりつけてちいさな墓石に宿らせておくのではなく、ひとつの木のもとにみなねむっているという垣根を越えたゆるい共同性のほうがぜんぜんいいじゃんと。墓参りもその木をながめに行くとか、そこでちょっと花見でもすればいいわけだし」とあり、樹木葬なんてものがあるんだと驚いたし、それ以上に、墓参りと花見を兼ねるというアイディアはいいな、これだったら辛気臭い雰囲気にもならんですむなとちょっと思った(ただし、よそのうちにとって墓参りが辛気臭いものであるかどうかはわからん、うちは貧乏だったのでかなり長いあいだ墓場に墓石をたてることができず野ざらしになっていたところに直接花や線香をたむけていた、それをおなじ墓地をおとずれたひとたちからじろじろ見られたり足蹴にされたりしており、そうした状況にたいしていろいろ激しく思うところのあった母の感情がびんびん伝わってきたこともあり、墓参りとはなるべく参加したくない行事のひとつだった)。
 ちなみにこちらは、仮にはやく死ぬことがあったら、そのときは火葬場で弱火で焼いてもらって髑髏をきれいなかたちのまま残してもらい、それを業者にたのんでさかずきに改造してもらったうえで、姪っ子の二十歳の誕生日にワインといっしょにプレゼントしてもらおうかなという計画があるのだが(金子光晴でいうところのどくろ杯だ)、以前それを姪っ子当人だったか母親だったかに伝えたところ、なに考えとん気色悪ッ! と一蹴された。身内から受け取り拒否されるとなると、自然、(…)か(…)くんにやるしかないわけだが、(…)はけっこう迷信深いし幽霊とかふつうにビビるタイプなのでたぶんダメだと思う、こちらのことを悪霊扱いしてお寺で除霊とか封印とかお願いしそう。だから(…)くんしかいないわけだが、(…)くんは酒もコーヒーも飲まない、そうなるとこちらの頭蓋骨にそそがれるものはほぼ白湯になるわけで、うーん、それはちょっとなァ、白湯かァ……という感じは正直ある。だったらいっそのこと、土でもいれてもらって朝顔でも植えてもらうか? ほんで「髑髏朝顔観察日記」とでも名付けて毎日観察日記をつけてもらい、朝顔と心霊現象を同時に観察する史上初の試みとしてゆくゆくは出版、表紙はジャポニカ学習帳のパロディで黒土の満たされたこちらのしゃれこうべの鼻の穴の部分や眼窩から朝顔のつるがのびている写真をど真ん中にドーンと置きつつ、書名と作者名だけはドラゴンボール神龍が話すときに使われるあのおどろおどろしいフォントにしてみればどうだろうか? 完璧やな。ベストセラー確定や!
 歯磨きをすませたのち、また語学を少々。2時に中断してベッドに移動。My Oedipus Complex and Other Stories(Frank O’Connor)の続きをほんのちょっと読み進めて就寝。