20230327

(…)分析家の発言は、分析主体が分析家に転嫁する人物によって発せられたものとして聞き取られる。たとえそれが、分析家自身は自分にそんなところがあると思っていないとしても、また分析のなかでそのような位置を占めようとしていなくても、そうである。分析主体が分析家に転嫁する人物、それは自我としての分析家ではなく、〈他者〉である(両親や文化の理想・価値観の代表人物、たとえば権威的な人物や裁判官のようなもの)。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』)



 11時半起床。第三食堂でプリペイドカードにチャージ。第四食堂でひさしぶりに西红柿炒鸡蛋面を打包するつもりだったのだが、食堂の前の駐輪スペースがなぜかロープで囲われて立ち入り禁止みたいになっていたので、なんやこれどういうことやねんとなり、結局いつものように第五食堂で打包。
 帰宅して食す。コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書く。投稿はせず、14時前から「実弾(仮)」第四稿にとりかかる。17時前まで。プラス12枚で計370/996枚。シーン21、いちおうあたまからケツまで通してみたが、思っていたよりもずっとすんなりパスできるかも。鬼門やと思っとったわけやが、やっぱ第三稿で相当気張っとるな、ほかのシーン同様わりとよく書けとるやんという印象。
 ケッタで(…)へ。食パン三袋購入。帰路、馬鹿のひとつ覚えのように第五食堂で打包。食して仮眠。シャワーを浴び、ストレッチをし、きのうづけの記事を投稿。2022年3月27日づけの記事を読み返す。

千葉(…)おそらくそこで重要になってくるのが、僕らが繰り返し議論している「権威主義なき権威」をどう作っていくかということです。それは歴史性を尊重することだという点は確認してきました。ただ、歴史性を尊重する、大事にするといっても、放っておけばそうなるわけでもありません。なんらかの意味で尊重させる、大事にさせるという強制性が伴うことになる。
 でも対談の冒頭に言ったような知の民主化がそこに立ちはだかっている。つまり、インテリの教養主義などふざけんなという反エスタブリッシュメントの動きが強まっている。それはそれなりに倫理的な重要性がある抵抗ですから、無視できないと思っているんです。
國分 それを無視できないというのは僕も共感します。では、そのうえでどうすればいいか。千葉君はどう考えますか。
千葉 まず大事なのは、自分が他のものに依存していることを認めることだと思うんですよね。いまの平等化は、みんなが自己権威化している状態になっている。個々人が小さな権威になってぶつかっているわけですよ。
 でも、人間が思考するときには、必ずその素材なり何なりをどこかよそから持ってきている。常に他者依存的に動いている。これはラカンを持ち出すまでもなく、何らかの他者のイメージとか他者の言語を参照しないことには、主体化はできないわけですよね。にもかかわらず、まるで自分が自分一人で存在しているような勘違いをしている人たちが多数いるのが現在の状況です。
 われわれが「権威主義なき権威」と言うことで何を呼び起こそうとしているかというと、われわれは常に何か、他なるものを参照してきているんだということ。根本はこれだと思います。
 そのうえで、われわれ人文学者は、そのことを「歴史性」という言葉で言っている。常に何かのテクストを参照して考える。それを絶対視するわけではないけれど、さしあたり、あるテクストに依拠して語るということをやっているわけですよ。
 僕が『勉強の哲学』で広めようとしたのも、自分は他者によっかかっているということです。それはある種の謙虚さを導入するということですね。
國分 なるほど。それも「使用」とつながってきますね。自己権威化とは自分が他者を通じて主体化したことの忘却であり無視である。人は必ず何かを使用することで主体化していってるはずですね。そのことが認められれば、自分が主体化するときに「使用」した他者や物に対する敬意やそれを慈しむ心も出てくる。
 これは何度でも強調したいところだけど、言語というのは社会や親から押しつけられて使用しているわけですね。言語は自分のものではなくて、他なるものである。
千葉 レイシズムの問題もそこにあります。他者を敵対的な鏡として使うことによって主体化する人たちが、いま、主体化で困っている人たちなわけですから。
國分 それは使用関係でなく、支配関係なんだよね。
千葉 そう。そこから使用関係に抜けていくことで、別の主体化に導いていく。そういう政治的実践はあり得るんじゃないかということですよね。
國分功一郎+千葉雅也『言語が消滅する前に』)

 以下は2021年3月27日づけの記事からの孫引き。

 それでは、ラカンは「前提的問題」のなかで、大他者をどのようなものと考えているのだろうか? この問いについての答えは、はっきりしている。次の二つの記述を確認しておこう。

〈父の名〉は、シニフィアンの法を構成するものとして、大他者の場において、象徴的第三項のシニフィアンそのものを二重化 redouble している。(E578)

〈父の名〉の頓挫……とは、言うなれば、シニフィアンの場としての大他者における、法の場としての大他者のシニフィアンの頓挫である。(E583)

 ラカンはここで、それまで単に「大他者 l’Autre」と呼んできたものを、シニフィアンの水準と法の水準の二つに分割している(Miller, 1996c)。そして、前者の「シニフィアンの場としての大他者」は、後者の「法の場としての大他者」(=〈父の名〉)によって二重化されるものであるとされている。この新たな大他者の概念のもとでは、精神病はもはや大他者の除外によって特徴づけられるのではなく、大他者の非 - 二重化(「シニフィアンの場としての大他者」が、「法の場としての大他者」によって二重化されないこと)によって特徴づけられることになる。後のラカンの言葉を使うなら、「精神病の主体は前駆的な大他者 l’Autre préalable に満足している」(E807)、つまり精神病者は〈父の名〉によって二重化される前の前駆的なシニフィアンの世界(原 - 象徴界)に住んでいると言えるのである。
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』 p.241-242)

シニフィアンの場としての大他者」と「法の場としての大他者」という二種類の大他者。いわゆる〈父の名〉とは「法の場としての大他者」と同義であり、それをインストールすることに成功したのが神経症者であり、失敗したのが精神病者である。精神病者とは「前駆的なシニフィアンの世界」すなわち「原 - 象徴界」に住んでいるといえる、と。ここを読んでいてふと思ったのだが、「母」の在と不在からなるセリーを第三項である「父」によって象徴化できない原 - 象徴界とは、情報を「まとめあげ」することのできない自閉症者の有様と重ねてみることができるのではないか? つまり、ここでもやはり精神病者として想定されている主体のありかたは、自閉症者のそれに近いのではないか? ラカン派的な象徴秩序の形成と、綾屋紗月のいう自閉症者には困難なまとめあげと、カントのいう統覚を、乱暴ではあるかもしれないけれども似たような作用として見ることがここでもやはりできる気がする。「法」と「一般性」と「抽象性」に、「法の不在(まとめあげの不可能)」と「特異性」と「具体性(これ性)」を対峙させる図式。

 上について2022年3月27日づけの記事では「ここを読んでいて思ったのだが、〈父の名〉=「法の場としての大他者」とは意味づけの機能ともいえるわけだ。「母」の在と不在からなるセリーを「父」の存在に意味づける。断片的な情報をまとめあげる。だから〈父の名〉がインストールされていない精神病者の言葉は、意味がとりにくく、まとまりに欠けるものとなる。」とコメントしている。
 以下、ふたたび2021年3月27日づけの記事。

それから対象aの変遷について。きのうづけの記事では、対象aの顕現とは〈もの〉の侵入と同義であり、それは象徴秩序を揺るがすものであるとまとめたが、そのような対象aも「享楽のパラダイムが変化」するにともなって(「不可能な享楽」から「正常な享楽」へ!)その位置付けを変化させることになる。ここは重要。二番目の引用は分離についての記述。

 ここまで確認してきた『精神分析の倫理』から『精神分析の四基本概念』までの道のりのなかで、享楽のパラダイムが変化していることは明らかである。『精神分析の倫理』ではシニフィアンと享楽は完全に分断されており、両者の交通の可能性はほとんどないが、『精神分析の四基本概念』ではシニフィアンと享楽のあいだの交通が部分的なものとして再建されている。享楽はもはや不可能なものではなく、対象aという抜け道を通って獲得可能なものになった。対象aは、シニフィアンと〈物〉のあいだの分断をふたたび繋ぎあわせる理論的接着剤として機能しているのである。ミレール(1996b)は、この理論的変遷を「不可能な享楽」から「正常な享楽 jouissance normale」へのパラダイム変換とみなしている。
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』 p.294)

 子供は、この大他者における欠如に対して、自分が先に失った欠如である「存在の生き生きした部分」(…)をもって答える。この二つの欠如を重ね合わせる操作が、分離と呼ばれる(S11, 199/294頁 ; E844)。こうして、疎外によって失われた「存在の生き生きした部分」、すなわち享楽が、大他者(=シニフィアンの体系)における欠如に重ね合わされる。そして、この重ね合わされた欠如の点に、抽出された対象aが到来する。つまり、対象aとは、大他者における欠如(/A)を埋め合わせてくれる対象であるとともに、主体が原初的に喪失した「存在の生き生きした部分」を部分的に代理し、主体に別種の満足を獲得させてくれる対象でもあるのだ(S11, 180/264頁)。
 では、分離の操作によって獲得することが可能になる別種の満足とは、一体どのようなものだろうか? この満足は、たしかに享楽と呼ぶことができる何かである。しかし、それは原初状態にあったと想定される〈物〉を全体的に回復するような享楽ではない。すでに象徴界に参入した主体にとって、そんなことは不可能だからだ。分離の操作によって獲得される享楽は、むしろフロイトが部分欲動と呼んだものに相当する、部分的な享楽である。この部分的な享楽は、身体の全体から享楽をかすめとり、それを身体の一部分(器官)に凝縮したものである(AE368-9)。実際ここでラカンは、欲動は生殖という究極的な目標 goal に達することなしに、口唇や肛門のような部分的器官の周囲を経巡ることによって目的 aim を達してしまうというフロイトの説を援用している(S11, 163-4/238頁)。この享楽は〈物〉そのものを目指すのではなく、〈物〉の断片としての「対象の周りを経巡る」(E849)ものなのである。このような享楽は、後にラカンによって「ファルス享楽 jouissance phallique」ないし「器官の享楽 jouissance de l’organe」(S20, 13)と呼ばれることになるだろう。
松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』 p.292-294)

 そのまま2013年3月27日づけの記事を読み返す。「三ヶ月ぶり四度目の挑戦」だという新人賞に応募するために「A」の推敲に取り組んでいるが、「これはいったいだれの作品なんだと愕然とする。じぶんの力量ではとうてい書きあげることのできないはずの結晶がしかしここにたしかにあることの驚き。2011年4月から10月にかけて我が輩は確実に狂っていた。いったいどうやってこんなものを書きあげたのか。じぶんが書いたというリアリティが圧倒的に不足しているがゆえに自画自賛自画自賛になりえないという不思議。」とあって、まあそうやわな、あれは本当によく書けたもんやと思う、当時のじぶんの力をはるかにうわまわった出来映えやった。
 2013年3月27日にはあたらしい入居者がふたり越してきており、大家さんにひきあわされてあいさつしている。そのうちのひとりは「同志社の神学部で、年齢はじぶんよりも上、たしか三十をまわっているはずである」とあるが、このひとはこの下宿が崩壊するわりと終盤——通称「マコンド末期」——まで残っていた人物で、出ていくちょっと前に水場で、この下宿もずいぶんさびしくなりましたねと話しかけられた記憶がある。彼が去り、大家さんも入院すると、いよいよ下宿先は草ぼうぼう、野良猫たちの巣窟となり、そんななか母屋の風呂が使えなくなったこちらはホースから出した水を直接おもてでかぶるようになるのだ(『グラップラー刃牙』の第一話目のように!)。
 もうひとりの入居者は同志社理工学部の新入生。以下のやりとりを読み返すうちに、そういえばこんな子いたな、たしかすぐ出ていったんだよな、と思い出した。それにしても、当時のこちらはなかなか感じが悪い先住者だと思う。

部屋にもどって首の具合をたしかめながらストレッチをしていると、おもての戸をバンバンやるのが聞こえてきて、マジでバンバンすんなってのと思いながら出ると、くだんの学生で、すみませんけど本棚を運ぶの手伝ってください、と笑顔でいってのける。別にいいけどよー、でもさー、なんかそういうのってさー、こう、なんかちがうんじゃないの、朝の貴重な時間なんだよこれ、んでもっておれいま首と膝に爆弾抱えてんのよ、と内心不満たらたらながらもしかしさすがに大家さんに運ばせるわけにもいかないしというアレからしぶしぶ手伝ったのだけれど、学生の部屋はフローリングで窓もついており、壁も両隣の部屋に接していない。うらやましい。じぶんもこの部屋に住みたかった。壁は二面隣接しているし、窓はひとつもない、豚小屋のようなわが自室である。学生はやたらとさわやかで、はきはきしゃべる。その点については好感が持てるが、しかし起き抜けから肉体労働に参加させられたのが引っかかってしまう低血圧ボーイのため、どうしてもいくらか愛想が悪くなってしまう。朝からうるさく話しかけられると無性にイラっときてしまう例の現象だ。本棚を運び終えて自室にもどろうとするこちらの後ろ姿にむけて、あの!と呼びかけるのでふりむくと、あの!小説家めざしてるひとですよね?がんばってください!と熱いエールを送られてこれにもまたげんなりしてしまう。めざしてるとかじゃなくてとっくに小説家なんだよおれは、とか、がんばるとかがんばらないとかそんなしょうもない域をとっくに越えたところでやってんだよこっちは、とか、起き抜け特有のグチグチした感情ばかりがのどもとをせりあがる。結果的に午前中に起床することができてありがたいのだけれどもそれでも物音や話し声で起されたという負の印象はぬぐいがたく残存し(眠っているところをひとに起されるほど頭にくることはない)、そんなところにおもての戸をバンバンやられたり肉体労働を強いられたりすると悪気のないことがたしかなはずのそのエールと笑顔までもが鼻についてしまう、そういうことは往々にしてあるものだ。

夕食をとりおえてさて作業を再開するかと思ってワードファイルを立ち上げたところでまたおもての戸がバンバンと鳴る。三度目だぞこのクソ野郎が!とイライラしながらおもてに出ると、昼間の学生さんで、あのーいま6号室でビール飲んでるんですけど、来ません?と誘うその来ません?という言葉遣いからして気にくわねえなあおれは! ゆえに、いま作業やっとんでね、とぶっきらぼうに言い放って戸を閉める。彼に罪はない。ただおそろしく間が悪いのだ。そして間の悪さとは時と場合によって罪になりうる。プリーズ・レット・ミー・アローン。読書中や映画鑑賞中ならまだしも、執筆中に水を差されると度し難くイライラする。書き物をしている人間に平気で話しかけるやつはだいたい頭がおかしい。気安く玄関の戸をノックしないでくれ。それ以上距離をつめないでくれ。たのむから静かにしてくれ。きちんと他人でいてくれ。

 ほか、以下のような記述も。頸椎症は筋トレのおかげでほぼ完治したといってもさしつかえない。ストレッチとかジョギングとか、そういう小手先のアレをやるひまがあったら、とっとと筋トレしたほうがいい。これは過度なデスクワークを十五年以上続けてきたこちらが胸を張って断言できる生活の知恵のひとつ。

一日中おなじ椅子にすわり続けていたせいで首と背中がバッキバキだ。カフカ結核を自ら招き寄せた病と呼んだが、じぶんの場合は頸椎にかかわる何らかの損傷がそれにあたいするだろう。カフカは毎日アホみたいに手紙を書く。おれは毎日馬鹿みたいにブログを書く。ムージルは作家仲間からの募金で暮らす。おれは客室から引き下げられた残飯を食う。ヴァルザーはまたもや散歩に出かける。おれは年に二度ほど狂った距離を歩く。イエス

 ひとつ書き忘れていた。午後、(…)から最後に入国した日がわかるパスポートのページを写真に撮って送るようにという微信が届いたのだった。なんのために使うのかは不明。
 読み返しの最中、一年生の(…)さんから微信が届いた。「中国語の「心花怒放」は日本語で何と言いますか」という。これは成語であるから文脈に応じて意訳するしかないと受けたのち、辞書の意味は「(心の中に花がぱっと咲くように)喜びに満ちあふれる、うれしくてたまらない」になっていると続けると、もっと簡単な表現はないかという。いや、これ以上簡単となると、もはや「とてもうれしい」くらいしかないでしょうという感じなのだが、ほかにも「顾名思义」は日本語でどういうかという同様の質問が続き、これもやっぱり他者の不在のヴァリエーションだよなと思う。成語という中国語に固有の表現をどう外国語に移し替えるか、これについては文脈次第でさまざまに意訳するしかないとちょっと考えれば理解できると思うのだが、おそらく(…)さんは中国語の成語ひとつひとつに、いわば一対一で対応した日本語の訳語が存在すると考えている、そこまででなかったとしてもそれに近い考えをぼんやりと有している、だからこんなふうな質問を連続でするわけだ。(…)さんは作文を修正してほしいといった。ほかの授業の宿題や翻訳のアルバイトで引き受けている文章は直せないよと釘をさすと、スピーチコンテストの作文だというので、え? もうそんな時期なの? とびっくりした。はっきりした日程はまだわからないが、校内予選はおそらく来月上旬にあるだろうとのこと。やれやれ。そのスピーチコンテスト予選原稿にサマセット・モームの『月と六ペンス』からの引用を使いたいというのだが、日本語にどう訳せばいいのかわからないといって、满地都是六便士, 他却抬头看见了月亮という一文が送られてきたのだが、これ調べてみたところ、原文は“If you look on the ground in search of a sixpence, you don't look up, and so miss the moon.”らしくて、なんかちょっと違うよなと思った。(…)さんが試しに日本語訳したのは中国語訳からの重訳で、原文とは似ても似つかぬものになっていたが、そこにこだわる必要もないので、彼女の訳文にちゃちゃっと手を加えた。で、その訳文が引用されたスピーチ原稿がその後届いたので、のちほど手直しして返信しておいた。ちなみに、その原稿について「私はタイプが遅いので、写真撮ってもいいですか」とあったが、これははっきり断った。なぜこっちがわざわざ文字起こしまでして返却せねばならんのだ。引くべき線はしっかり引く。外国語のタイピングも練習や。甘えんな。

 明日の授業で使用するデータをまとめてUSBメモリに移すと時刻は23時過ぎ。思っていたよりもずっと時間を喰った。作業のあいだは『Asobi Seksu』(Asobi Seksu)と『Ignore Grief』(Xiu Xiu)と『Civilisation』(Kero Kero Bonito)と『Wake UP!』(Hazel English)を流した。その後、『本気で学ぶ中国語』に着手。一時間ほどやったところで中断し、プロテインを飲んでトーストを食し、ジャンプ+の更新をチェックする。歯磨きをすませて、ふたたび語学。2時になったところで中断し、ベッドに移動して就寝。