20230414

 決して的を外すことのない、失敗しない享楽の地位とはどのようなものなのだろうか。それはまさしく、ラカンによれば、実在しない。しかしそれは、理想ないし理念として、すなわち思考によって思い描くことができる可能性として、自らを強固に主張する。ラカンの語彙では、それは「外 - 在 ex - sist」する。それはしつこく存続し、その要求は、いわば外側からの何らかの強制を備えているかのように感じられる。外側からだというのは、それが、「あれをもう一度しよう!」という願望ではなく、むしろ「他に何かできることがあるのではないか、別の何かを試すこともできるのではないか」という問いだからである。
 私たちが手にする取るに足らない享楽について考えるとき、〈他なる〉享楽こそ私たちが持つべきもの、本来そうあるべきものだと感じる。その可能性を考えることができるがゆえに、そうでなければならないのだ。こうした考えは、中世哲学と共鳴するところがある。カンタベリーのアンセルムスは、「神とは、それ以上に偉大なものを何も考えられないところのものである」と述べる。そして実在することは、最も完全なものの性質のひとつのはずだからこそ、神は実在しなければならない。そうでなければ、神は最も完全なものではなくなってしまう。この神の存在証明は、実在を本質から演繹する試みだとして批判されてきた。おそらくラカンの見方からすれば、それは神の外 - 在を証明するものとして理解できるだろう。
 〈他なる〉享楽という理念は神という理念と密接に関わっている。ここには、ある種の幻想がはたらいている。それは、こうした完全で全体的な満足、実のところ球体的とさえ言える満足を手に入れることができるという幻想である。この幻想は、仏教、禅、カトリック密教神秘主義において様々な形態を取り、種々の名前で呼ばれている。涅槃、エクスタシー、悟り、恩寵などである。(これを幻想と呼んだとしても、私はそれが必ず非現実的であると言っているわけではない。)
 この幻想はとても強力であり、それゆえ私たちは、この〈他なる〉享楽があるに違いない、実在するに違いないと感じる。だが、もしこの幻想がなかったなら、私たちは実際に獲得する享楽に対してより満足できるだろう。それゆえ、ラカンは、幻想にしたがえば〈他なる〉享楽はあるべきだ(すなわち実在するべきだ)と述べているが、実際に、獲得する満足という観点からすれば、それはあるべきではない。というのも、〈他なる〉享楽は単に事態を一層悪くするからである。次のように言えるだろう。それは決して失敗することなく、事態を悪くする。これは、ラカンセミネール第20巻第5章で繰り返している、“c'est la jouissance qu'il ne faudrait pas”という言葉遊びの骨子である(「そうに違いない」という意味のfalloirと「失敗する」という意味のfaillir、これら二つの異なる動詞による言葉遊びである。この二つの動詞は、ある時制では同じ仕方で発音され書かれる。それゆえこの文は、「享楽はあってはならない」であると同時に、「享楽は失敗することができない」という意味だ)。享楽という理念は、決して失敗しない。それは、失敗することなく、私たちがすでに持っているわずかな享楽を、さらにわずかなものにする。
 これら二つの享楽(取るに足らない享楽と〈他なる〉享楽)は、ラカンによれば相補的なものではない。そうでなければ、「私たちは全体へと後戻りすることになってしまうだろう」(…)。相補性という幻想、それは陰と陽、ひとつは男に、ひとつは女にという幻想である。二つの享楽は、相補性ではなく、代わりにある対のかたちをとる。言うならばそれは、存在と非存在という、ギリシャの哲学者たちをかなり「悩ませた」難問(アポリア)の対と同種の構成を持つ(…)。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.220-222)



 11時過ぎ起床。歯磨きとストレッチをすませたのち、身支度をととのえて第五食堂へ。打包。Tシャツにテーラードジャケットという格好だったが、おもてはそれでもけっこう涼しく感じられるくらいだった。雨上がりだったという事情もある。
 帰宅して食す。コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。下痢ラ豪雨に見舞われる。きのうのココナッツミルクのせいかもしれない。
 14時をいくらかまわったところで寮をあとにする。第五食堂の一階にある売店でミネラルウォーターを買ってから外国語学院へ。14時半から(…)一年生の日語会話(二)。第17課。序盤ちょっとだらだらと雑談しすぎたせいで反復練習がややおろそかになってしまった。雑談というか、連休を少しでも満喫することができるように時間割変更を了承した一件についてひたすら恩着せがましいことを口にしまくったあげく、オラッ! 本当に感謝しているんだったら来週までにひとり10元持ってこいッ! みたいなことを言っていただけだが。後半のアクティビティはやや難易度が高かったという印象。教師からあたえられた状況について、「〜ないでください」「〜なければなりません」を用いた文章で説明するというものだが、状況をもうすこし簡単なものにしたほうがいいかなと思った。
 あと、今日は(…)さんが旗袍を、(…)さんが汉服を着ていた。たいそうかわいい。それからめずらしく(…)さんが遅刻した。休憩時間中は、彼女の写真を待ち受け画面に設定している(…)くんのスマホを奪って、画面にキスするふりをした。みんなゲラゲラ笑った。(…)くんはアニメでおぼえた罵倒語「てめえ!」を連発した。(…)くんは『るろうに剣心』が好きらしい。今年またアニメ化するでしょうというと、アニメではなく実写のほうが好きだという返事。
 (…)くんと(…)さんはもともと授業のあとにデートする予定だった。しかし雨が降ってきたのでそのデートもとりやめになった。だから三人でいっしょにマクドナルドにいきましょうと(…)くんがいうので、なんとなくそんなふうになると思っていたわと内心思いつつ、明日北京から卒業生がやってくる、だから今日中に授業準備をする必要がある、ごはんだけならいいけれどそれ以上は付き合えないよとあらかじめ釘をさしておいたうえで了承。
 それで授業が終わったところで三人そろって歩き出した。ピドナ旧市街の入り口近くにケッタを停めておき、そこから歩いて(…)广场のほうに向かう。途中、三年生の(…)さんとばったり遭遇。基本的に毎週のように会う彼女であるが、現状めずらしく二週間ほど会っていなかったことになるのではないか? だからずいぶんひさしぶりな気がする。後ろに傘をさしている女子がひとりいたのだが、見慣れない顔だったので、英語学科の友達? とたずねると、高校時代の友達という返事。(…)さんは地元が(…)であるし、こうして平日にもかかわらず中学や高校時代の友人とも気楽に会うことができるのだろう。
 (…)广场付近へ。大学の西門はまだ工事中。(…)くんが友人からオープンしたときいたというマクドナルドはまだ工事中だった。内装など含めると、オープンまでまだ一ヶ月はかかるんじゃないのというレベル。しかたなしに(…)に向かうことにする。以前(…)さんらとのぞいたことのある玩具店が道中にある。あそこの店に日本のプラモデルやフィギュアがたくさんあるよとふたりに告げると、さすがオタク男子、小走りになって店の中に入っていった。こちらも続く。ラインナップは前回とそれほど変わらず。コナン、ポケモンウルトラマンガンダム、ナルト、ワンピース、呪術海鮮などのフィギュアが陳列されている一画をのぞきながら、高い高いほしいほしいとふたりが口にするのを保護者然として見守る。先生はどれがほしいですかというので、陳列されているうちでもっとも肌の露出度の多いもの(水色の髪の毛をした巨乳女子がビキニを着ているやつ)を指差すと、やっぱり変態教師! やばい! とふたりは言った。(…)くんの彼女の(…)さんもけっこうオタク趣味だったはずなので、彼女の誕生日にここでコナンかポケモンのおもちゃを買ってプレゼントしてあげればというと、それは良いアイディアかもしれませんという返事。ふたりはせっかくこの店に来たのだからなにか買うといった。なにか買うといっても何百元もするようなフィギュアを買うことはできない。そこで(…)くんはレゴブロックのようなものを組み立てて作る怪盗キッドのおもちゃ、(…)くんはフシギダネの車用芳香剤をそれぞれ買った。ただただウケを狙うためだけに、レジで支払いをしているふたりの後ろからさっきの美少女フィギュアを持って近づき、無言のままガチで支払いして購入するというネタをやってやろうかなと一瞬魔が差したが、このノリが通じるかどうかわからない、下手をすればほんとうにただただそのフィギュアをほしがっているものと映じてしまうおそれがある、だからぎりぎりとどまった。(…)や(…)とはわりとそういうノリで無駄な買い物を重ねたものだった。当時こちらがバイトしていたAV店にやってきた現場仕事帰りの(…)が、まったく他人のふりをしながらレジまで中古のスカトロ専門のエロ本を持ってきたときはマジで笑いをこらえるのが大変だったが(当時われわれのあいだでは、バイト先ではおたがいを完全に赤の他人としてとりあつかわなければならないという暗黙のルールがあり、そのルールを遵守した上で相手をいかにして笑わせるかというゲームがしばしば不定期かつ突発的に行われていた)!
 ご満悦のふたりとそろって(…)へ。注文したものが運ばれてくるまでのあいだ、買ったばかりのものをさっそくいとおしげにながめるふたりの様子を見ながら、こういう子どもっぽさの残る純朴な学生らと交流する時間ものこりわずかなのかもしれないなと思った。なんとなくだが、仮にほかの大学に移動することになるのだとすれば、次は都市部になるんじゃないかという予感がするのだ。都市部のボンボンどもを相手にするのはつまらんだろうなと思う。いや、ボンボンにはボンボンのおもしろさがあるのだろうし、それもまたこちらの日記をにぎわせてくれるのだろうが、うーん、でもなァという感じ。(…)くんが(…)さんにメシの写真を送るというので、麺のもられたどんぶりのそばに顔を寄せて白目を剥いた。(…)くんはそのまま写真を撮って(…)さんに送った。われわれが座っている座席は(…)さんが以前ここに来店したときに座った座席らしかった。ぼくの彼女は先生のことを橋本環奈に似ていると言っていますと(…)くんが爆笑しながらいうので、彼のスマホを奪い、(…)さんにボイスメッセージで、「(…)さん、愛しています!」と送った。ふたりはゲラゲラ笑いながら、「先生てめえ!」「クソ野郎!」「てめえ!」「先生てめえ!」「変態!」「クソ野郎!」「先生てめえ!」「てめえ!」と言った。
 腹いっぱいになったところで元来た道をたどりなおした。ケッタを回収し、そのまま第四食堂近くにある男子寮に向かったが、途中売店に立ち寄った。不意にコーラが飲みたくなったのだ。めずらしい! めずらしい! と学生らが驚くなか、レモン味のペプシを購入。(…)くんは学生会の会議があるからといって、じぶんもジュースを買ったあとは、教科書を(…)くんにあずけて去った。その(…)くんと男子寮前でお別れして帰宅。
 二年生の(…)さんに頼まれていたので、「食レポ」の発表順をまとめた用紙を作成し、グループチャットに投稿した。部屋の空気がこもっている気がしたので、今日は小雨が降っていて花粉の飛散量もたいしたことないようであるし、キッチンと阳台の窓をあけて風を通した。ペプシを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年4月14日づけの記事を読み返した。まずは梶井基次郎

 星空を見上げると、音もしないで何匹も蝙蝠が飛んでいる。その姿は見えないが、瞬間瞬間光を消す星の工合から、気味の悪い畜類の飛んでいるのが感じられるのである。
梶井基次郎「交尾」)

 それから封校の日々およびゼロコロナ政策に関する記述。

 学生たちの不満が日増しに高まっている。ここ最近モーメンツで毎日のように封校に対する学生の不満や抗議の声を目にする。もう一ヶ月ものあいだ大学の中に閉じこめられているのだ。しかも出前も通販も禁じられている。(…)では感染者はずっと0人のままだ。(…)にしたところでせいぜい数人発覚したにすぎない。それで大学を封鎖するのはまったく合理的ではない。しかも出入りの禁じられているのは学生だけで、教師や職員とその家族などは自由なのだ。納得のいくはずがないだろう。しかし(…)さんが毛沢東時代のスローガンみたいな調子で「同志諸君、革命にいたるにはまだまだ努力が足りない!」みたいな文章を投稿していたのにはクソ笑った。もっと不平不満をぶちまけまくって解封まで持っていけと体制側の言葉遣いで煽りまくっているわけだ。
 上海は相変わらずひどいことになっている。中国国内でも悲惨な実態がいちおう共有されつつあるらしい。微信のモーメンツや微博での投稿が、当局によって削除されるよりもはやくガンガン拡散しまくっている模様。配給の滞りまくっている地区ではオレオ一箱が5000円以上の価格で取引されているみたいな情報も見た。地元民たちが警察や防護服姿の職員と争っている動画も無数に出回っているし、簡易隔離所の不衛生さを訴える文章や写真も動画もやはり無数に出回っている。こちらは直接確認していないが、疲労でぶっ倒れた医療スタッフを感染者がかついで運ぶみたいな動画が壁の内側でも拡散したらしく、感染者のほうが元気ではないか! というコメントがあふれかえったみたいな話もある。習近平はいまなおゼロコロナを堅持すると主張しているが、これについてはこれまでさんざん自国のゼロコロナ政策を西側諸国のウィズコロナ政策よりも優れたものとして国威発揚に利用しまくってきた経緯があるために、いまさら引くに引けなくなってしまっているという見方が強い。
 上海といえば(…)さんと(…)さんがいるわけだが、ふたりのモーメンツは通常運行であるので、たぶんそれほど問題ない地区なのだろう。(…)くんも上海だが、彼はいわゆる小粉红なので、配達された食料の写真に「共産党なければ中国なし」みたいなスローガンをはりつけてモーメンツに投稿していた。彼の元クラスメイトである(…)さんは吉林省在住らしく、封鎖に対する不満というよりは不安を最近よく投稿している。もう一ヶ月以上封鎖が続いており、まともな食料もろくに手に入らない、このあいだようやくしっかりとした食料らしい食料が配給された、みたいなことを昨日だったか一昨日だったか投稿していた。ネットで見た風刺画にこうした状況を皮肉るものがあった。プールで溺れている子どもがふたりいる。大人がどうにか抱きかかえて救おうとしている子どもは上海で、放ったらかしにされている子どもは長春、そしてそんな三人のはるか水底で白骨化しているのが雲南省かどこかの地方都市みたいなものだ。

 現二年生の(…)さんについての以下の記述には笑った。(…)くんとは結局別れてしまったわけだが。

 モーメンツつながりでいえば、ずっと前から書こうと思いつつも面倒くさくてこれまでメモ帳に記録するだけして放ったらしかになっていたのだが、一年生の(…)さんがマジでやばい。彼女、一日に10件くらいモーメンツに投稿するのだ。こんなに頻繁に投稿する学生、これまでひとりもいなかった。だいたい普通は多くても一日2件くらいだと思うのだが(もっと頻繁に投稿するにしても、普通は連投プラットフォームとして微薄やqqを選ぶと思う)、ちょっと群を抜いている(ちなみにこちらは二、三ヶ月に1件のペースでしか投稿しない)。しかも(…)さんの場合、投稿の半分は自撮りで、もう半分はクラスメイトであり恋人でもある(…)くんの話という調子なのだ。こちらも中国女子らの(外見に対する)承認欲求の高さにはまずまず慣れているつもりなのだが、(…)さんはマジで次元が違うと思う。たぶんクラスメイトたちもうんざりしているし食傷気味なのだろう、彼女の投稿に「いいね」をつけるのは彼氏である(…)くんだけである場合がほとんどなのだが、たとえば、ある日の投稿履歴を追うと、①「画像:自撮り3枚」→②「画像:先の自撮りに対するコメント欄(かわいいね! みたいなポジティブなやつ)のスクショ」→③「文章:解校後は(…)と火鍋を食べにいく」→④「画像:(…)くんが頬杖をついて居眠りしているところ」→⑤「文章:(…)は四級試験が楽勝だと言った」→⑥「画像:自撮り4枚」→⑦「画像:(…)くんと食堂で一緒にご飯を食べているところ」→⑧「文章:解校後は(…)と映画を見る」→⑨「画像:自撮り3枚」みたいな感じ。しかもこれが、マジで誇張でもなんでもなく、ほとんど毎日のように続くのだ。この羞恥心のなさはある意味すごい。いったいどんなカルマを背負ったらこんな恥知らずに生まれ育つことができるのだろう? マジでふたりそろって前世でどんな大罪を犯したのか気になって仕方ない。地蔵の首を落として漬物石代わりにでもしたんだろうか? というか普通の人間であればご先祖様に申し訳がたたないという気持ちによって歯止めがかかると思うのだが、やはり社会主義国家のZ世代であるし、そうした迷信深さなど歯牙にもかけないということなのだろうか? そもそも習近平はこの事態をどう考えているのか? 彼女の投稿をどうして検閲しないのか、こちらには不思議でならない。
 こちらの感じる気持ち悪さはたぶんクラスメイトたちも共有している。実際このあいだ(…)さんたちと散歩したときに二人の話が少し出たのだが、その場にいた全員が全員、「うぇ〜」というふうに顔をしかめてみせたのだった。ま、あんまりそういうふうになりすぎるのも、それはそれでやっぱりよくないのだが、しかしそういう反応をしてしまうその気持ちはマジで理解できる。たとえば、今学期の最後にこちらがふたりのうちいっぽうの口語(一)の成績を低くつけたとして、その場合、もういっぽうが正当な理由も弁明もいっさい持たないまま、それでも猛抗議しにくることは普通にあるんではないだろうかというレベルでやばい。狂い咲きのふたりなのだ。

 2013年4月14日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。まずは『特性のない男』の元ネタである『忘我の告白』の抜き書き。

 忘我体験(エクスターゼ)なるものをなんらかの系列に《編入》するのは私にとっては大事なことではない。私の関心をひくのは、忘我体験における、系列化することのできない固有性なのである。むろん忘我体験にも、それをとおしてなら出来事と出来事の因果的関連のなかへ組みいれられうるような一面がある。しかしそれがこの書の対象なのではない。忘我の体験者のことを私たちは心理学的、生理学的、病理学的に解明できるかもしれない。私たちにとって本質的なものはしかし、そのような解明の向こう側にとどまり続けるもの、すなわち彼の体験なのである。私たちはここでは秩序を形成しようとする概念、ことのほか暗いところに隠れてはいても、秩序を形成しようとしている、そのような概念に耳をかたむけるものではない。私たちは、自分の魂について、またその魂の言い表しがたい秘密について語るひとりの人間の言葉に耳をかたむけるのである。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「序言」)

 けれども、魂それ自体から起こって、魂のなかでなにかと接触したりなにかに抑制されるというようなことなく、みずからの独自性においてのみ育つ体験もある。それは営為のかなたで生じてみずからを完成するのである。他者から自由に、他者には立ち入れないものとして。それは養われる必要がないし、いかなる毒の作用もこの体験にまではおよばない。この体験のなかにある魂はみずからの内部にあり、自分自身をもち、自分自身を――際限なく――体験するのである。この魂がみずからを一体なるものとして体験するのは、もはや、それが世界のひとつの事物にすっかり自己を集中させたということによるのではなく、それがみずからのうちにすっかり自己を埋め、みずからの根底にまですっかり沈潜したからなのであり、このときそれは同時に種子であり外皮であり、太陽にして眼、盃にして飲みものなのである。このようなもっとも内的な体験こそ、ギリシャ人たちが忘我(脱自)すなわち、出てゆくことと名づけたものである。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「忘我と告白」)

 二番目のくだりにある「太陽にして眼」というのは、磯﨑憲一郎の「眼と太陽」の元ネタだろう。磯﨑憲一郎の初期作品はムージル「三人の女」の色濃い影響下で書かれているし(パスティーシュのような記述も頻繁に散見される)、そのムージルの代表作である『特性のない男』の元ネタである『忘我の告白』もきっと読んでいるはず。
 あと、10年前の記事にはDivaの『The Glitter End』に対する言及もあり、そんなのあったな! となつかしくなったので、その後、今日づけの記事を書いているあいだ、スピーカーから流し続けた。

 書き忘れていた。学生ふたりとメシを食ってから自転車の停めてある場所までもどる道中、(…)先生とばったり出くわしたのだった。(…)先生はお菓子のパンパンに詰まったビニール袋を片手に提げていた。こちらに気づくと、胸の高さで片手を軽くふってみせたが、言葉を発するわけではない。そのまま言葉を発さず、袋の中からパイの実みたいなお菓子をひとつ取り出してこちらに差し出すので、いやぼくお菓子は食べないんでと断ったのだが、やはりひとことも発するでもない。(…)先生は学生ふたりのほうを向くと、これがいるかと中国語でいった。ふたりはおどおどしたようすで断った。すると、それ以上言葉を続けるでもなく去った。だれ? だれ? とふたりがいうので、一年生は彼女の授業がないんだなと察しつつ、(…)先生だよというと、なんの先生ですかという。日本語の先生だよと苦笑して応じざるをえない。「こんにちは」も「これどうぞ」も咄嗟に口を突いて出てこない、にもかかわらず学生らには常にひどく高圧的な態度で接しめちゃくちゃな反感を買っている、スピーチコンテストの指導も担当しているが口語能力も作文能力も優秀な学生を下回る、そしてじぶんの本来の仕事をこちらに丸投げしてすずしい顔をしている、はやい話がたいがいあたまにくるクソババアなんだが、さすがに学生相手にそう説明するわけにはいかない。あの先生は日本語ができますかと学生ふたりはこちらにたずねた。先の無言のやりとりを見ただけで、あれ? と思うところがあったのだろう。
 帰宅後に記事を書き進めているあいだ、四年生の(…)くんから微信が届いた。例の卒論代わりの翻訳について、作中に和歌が出てきたのだが意味がわからないので教えてほしい、と。(…)くん、たしか天草四郎の登場する大正時代の娯楽小説かなにかを翻訳している最中だったと思うが、ChatGPT的なものを駆使してもわからないところがたくさんあるという。ChatGPTについていえば、中国政府が大学の外国語学科を減少させる方向に舵を切った理由のひとつに、ああいうものが出てきたからというのもやっぱりあるんだろうなと思う。ChatGPT自体はもちろん中国国内からアクセスできないし、中国産のものをいま各社が競ってリリースしあっているようだが。いつだったか、たしかGoogle Glassがはじめてリリースされたころだったろうか、仮になんらかのデバイスによってリアルタイムで翻訳および通訳が可能にある社会がおとずれた場合、たとえば超高級ホテルやレストランなどのサービス業の一部現場ではむしろデバイス抜きで外国語をあやつることのできる人間を配置することで付加価値とすることもあるだろうと日記に書いた記憶があるが、案外そういう未来も遠くないのかもしれない。
 母親からLINEが届いた。冬もいよいよ終わったのでめだかの鉢の水換えをしたのだが、なんと! 54匹も冬を越していたというので、これにはたまげた。こちらが出国前に世話していためだかはせいぜい10匹たらずだったと思うのだが、いくらなんでも増えすぎであるし、屋外においた鉢での飼育でまさかそれほどの数、越冬に成功するとは! あとは、(…)がこの三月に下血して急性膵炎で入院していたという話もあった。いまはすっかり元気らしい。「(…)とこからメールがきたんやけど」という言葉に、まあいずれはそうなるだろうと思っていたが、向こうのところの飼い主さんと連絡先を交換するような仲になったんだなと察した。
 浴室でシャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを淹れる。22時半から「実弾(仮)」第四稿執筆するも、寝不足気味でありかつ仮眠をとっていなかったこともあり、あたまがろくに働かず、23時半にはやばやと中断した。その後はとっとと寝床に移動して就寝。