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 しかしこうした啓示的な作業が間断なく永遠に続くことなどありえないことを分析家は痛感している。実際、非常に稀ではあるが、いくつかの分析では、長い間、均衡状態が続き、作業が停滞していたところに、他の迂回路が見つかるのではなく、むしろ、ほんのつかのまのあいだ啓示がひらめくといったことがある、というところだ。ラカンは、啓示が間断なく永遠には続かないことの理由を理論化しているが、それによると、患者が象徴化しようとしている現実(あるいはフランス語でしばしば言うところの「現実的なもの」)とは、かつて一度も象徴化されたことのないものであるため、この象徴化自体、骨の折れるプロセスだからである。現実が象徴化に抵抗するのだ。この現実的なものをトラウマとして理解すれば、出来事がトラウマ的である理由とはまさしく、子どもたちがそうした出来事に情動を揺さぶられるとき、誰もそれについて話す手助けをしてくれるひとがいない、ということだろう。すなわち、それら出来事を意味の織物のうちに収め、こうしてその衝撃を和らげることができないのだ。分析において患者をこうした出来事まで連れていこうとするとき、そこに言葉はない。この出来事に関するある種の記憶が残っているものの、歴史化、物語化、あるいは虚構化、とどのつまり言語化はなされないままである。第2章で見るように言語は情動に内在しているとはいえ、トラウマの場合にはつねにすでに言語がそこにあるわけではなさそうだ。後から遡って持ち込まねばならないのである。
 ラカンの指摘によると、この言語化への抵抗は、トラウマ、あるいは彼の言うところの「トラウマ的現実」の本性に属している。物理学から拝借したフロイトの喩えによれば、患者がトラウマの核心へと近づけば近づくほどに、斥力は強まり、彼をいっそう強く押し返す。ある意味、ここでラカンが私たちに考えさせようとしているのは、患者が、治療プロセスにいくらかでも望んで抵抗しようとしているわけではない、ということだ。むしろ、患者が取り組む仕事の性質そのものに抵抗はつきまとっているのである。現実的なものは象徴化に抵抗する。枠に収められていない現実的なもの——ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』でロカンタンが出くわした木の根のごとく、どのカテゴリーにも収まらず、いかなる象徴的文脈にも位置しない現実——が、こうした位置設定や文脈設定の作業に抵抗するのだ。象徴は、トラウマ的経験と結びついた情動のうちに内在していない。ある出来事がトラウマ的であるのは、この経験が収まるはずの象徴的ないし言語的パラメーターを、社会的文脈が提供しないかぎりにおいてである。象徴化への抵抗のために、治療に関わる両陣営、つまり患者も療法家もともにうまくいかなさを味わう。そしてそれぞれが、この苛立ちを、同じ部屋に肉体的に自分とは別に唯一同席している相手へとぶつけることもよくある。Z博士は患者の喉を摑んで、そのまま締め上げるなり、なんとかして言葉を吐かせるなりしたがっていたが、彼もまた患者と同じく現実的なものに縛られていると感じていたのだ。患者もまた分析家にその苛立ちをぶつけることがある。自分を助けるためにいるはずなのに、どうも役に立ってなさそうなこの人物に爪を立てるのだ。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.239-240)



 8時過ぎに自然と目が覚めた。アラームが設定してあったのは9時半ごろだったはずだが、どうも二度寝できないふうだったので、そのまま活動開始。早起きをすると、どうも気分が悪い、テンションが下がる、いやな感じ(高見順)になる。なんでかなと思ったが、もしかしたら学校通いしていたころを思い出すからかもしれない。「めざましテレビ」や「とくダネ!」のBGMや出演者顔ぶれを聞いたり見たりするだけでしんどい気持ちになるのと同じ現象。
 朝メシは白湯ですませて、きのうづけの記事にとりかかる。10時過ぎに書き終わる。第五食堂へ。予報によると午後の最高気温は28度らしいのだが、この時点ではまだ20度にも達しておらず、エアリズムの上にカットソーを重ねて着ていたのだが、それでも肌寒いくらい。寮の敷地内にあるゴミ箱にゴミ袋を放り捨てる。そばに銀色の猫がいたのだが、こちらが近づいても逃げず、目が合うなり、にゃーんと鳴いてみせるので、あれ? もしかして飼い猫なのかな? と思った。ニャア! とふざけて返事するところを管理人の(…)に目撃される。そばにいることに気づかなかったのだ。(…)は笑っていた。クソはずかしいわ! 37歳がニャアってなんやねん! カスが! 先祖に詫び入れろ!
 第五食堂で打包。帰宅して食す。(…)くんから微信。今日の食事会について、(…)先生は急用で来れなくなったとのこと。そりゃまあそうだろなという感じ。子持ちに土曜日の夜出てこいというのは無謀だ。18時にレストランを予約している、大学からはタクシーで10分ほどのところ、なので17時30分ごろに寮まで迎えにいきますという。了解。
 ベッドに移動して昼寝する。たぶんそうなるだろうなとうすうす予想していたが、幽体離脱を四回ほど重ねた。そのうち一回はかなり鮮明で、ここまでリアリティのある明晰夢はひさしぶりだなと驚いた(しかし寮の外に出たあたりで解像度が一気に粗くなった)。ちなみに二回目のときだったと思うが、自室を出て上にあがり、爆弾魔の部屋の扉をおもいきり蹴りつけてやった。で、中からやつが出てくるかどうかそのまま待ち受けていたのだが、その途中、あれ、でもこれ明晰夢じゃないかもしれんぞ、明晰夢と思いこんでいるだけでガチの現実かもしれんぞ、という疑いがバッドに入ったときのようにふつふつとわきはじめ、結果、爆弾魔が出てくるのを待つことなく階下に逃げた。アホや。
 目が覚めると14時半だった。三時間近く寝たかもしれない。コーヒーを淹れてデスクに向かう。和歌山市の漁港で選挙の応援演説をしていた岸田文雄に爆発物が投げられたというニュースを知り、うわ、マジか、とびっくりする。怪我人なし。犯人は24歳の男で、動機については弁護士が来てから話すと語っているとのこと。これもまた統一教会絡みなんかな。あるいは模倣犯か。
 きのうづけの記事を投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年4月15日づけの記事を読み返す。大学封鎖が解除された日。経緯は以下の通り。

(…)さんとのやりとり、(…)さんとのやりとり、そしてモーメンツの投稿から得た情報を総合するに、どうやら大学の非合理的な隔離に抗議するために学生たちがいっせいに微博でなにやらメッセージを発信したらしい(大学の公式アカウントみたいなものに対して、感染者がまったくいないのにどうして封鎖するのか? 封鎖するにしても出前まで禁止というのはどういうことなのか? そもそも教師や職員の出入りが自由であれば封鎖してもしなくても同じではないか? 清明節までなくすという決断はあまりに非人情的ではないか? 衛生面が大事だから外での食事を禁ずるといいながら食堂の食事に髪の毛や虫が入っているのはどういうことか? 学生らにマスクを装着するようにといいながら一部の教師はマスクを装着しないどころかタバコを吸ってビンロウを噛んでそこらじゅうで痰を吐いていることについてどう思うか? すべてが官僚主義的であり形式主義ではないか? みたいな長文を送りつけているスクショを見た)。その結果、(…)市政府まで動くことになり(学生が政府に直接電話をかけたみたいな話もある)、即日封鎖解除にいたったという経緯だという。これ、ある意味、めっちゃ民主主義やな、と思った。以前ウェブで読んだ中島隆博安田峰俊の後者による前者に対してのインタビュー記事をちょっと思い出す。「「中国は民主国家ではない」は本当か…日本人が知らない「儒教と民主主義」の密接な関係」(https://president.jp/articles/-/56043?page=1)という記事だ。学生たちが勇気を出して行動を起こしその結果自由を勝ち取るにいたったという経緯に(…)さんもけっこう興奮しているようだった。

 以下は孫引き。

2020年4月14日づけの記事と15日づけの記事をまとめて読み返し。14日づけの記事に《フィールドレコーディングを文学においてやるとすれば(アナロジカルに考えれば)、それはいったいどういうことになるのだろうと考えたところで、あ、青木淳吾とは要するにそういう路線で考えればいいのかもと思った。文学作品として統制されていない生の言語=情報――「地図」や「不動産情報」や「日誌」――を編集してリリースすること。》とあって、なるほどなと思った。

 2013年4月15日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。まずは『忘我の告白』より。これも再読したいなァ。

忘我において体験されるものは(それが何であるかについて語ることがまったくのところ許されるなら)、我の一体性である。しかし一なるものとして体験されるためには、我は一なるものになっていたのでなくてはならない。完全に一体化されていた者だけが一体であるものを受けいれることができるのである。そのときこの人間はもはやさまざまなものを集めた束ではなくて、ひとつの火である。彼の経験の内容、彼の経験の主体が、また世界と我とが合流してしまっているのである。このときにはあらゆる力が共振してひとつの力になり、あらゆる火花が燃えつどってひとつの炎になるのである。このとき彼は営為から遠ざかってこのうえなく静か、このうえなく無言語的な天上の国に委ねられ、営為がかつてその伝達に仕えるはしためとするために骨折ってつくりだした言語からも――また、およそ生命を得てよりこのかた永遠にわたって、一なるもの、不可能なるものを希求している言語、営為のうなじに足をすえてまったく真理に、純粋性に、詩になろうとするそのような言語からも脱却しているのである。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「忘我と告白」)

 私たちは私たちの内部へと耳をすまし――そうしながら知らないのだ、どの海のさわだちを私たちが聴いているのかを。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「忘我と告白」)

 以下のくだりはちょっとおもしろい。前夜、仕事明けに(…)と悪い遊びをした、そのあとのできごと。

13時半起床。ちらかった部屋の入り口に器にもられたカレーが置いてある。朝方大家さんが持ってきた記憶のあるようなないような。きちんと起きて仕事に行くことができたのかと問うメールを(…)に送信したついでにカレーのことをたずねてみると、早朝6時半に合鍵を手にした大家さんが部屋にあらわれてカレーを置いていった、おまえは半分キレ気味でハイハイハイハイと返事していた、で当のカレーにちらっと目をやるなり、おーちょっとうまそうやし、とつぶやいてふたたび眠りに落ちた、その一連のくだりはたいそう笑えるものであった、との返事。

 あと、以下のくだりで語られている「ブレイクスルー」はちょっとLLMっぽいな。やっぱり最初のうちはとにかく量をインプットするという行為が大事なんだよな。脳にデータを喰わせる必要があるのだ。

風呂に入ったのち23時半より読書。Katherine Mansfield“Je Ne Parle Pas Français”の続きを片付ける。いまひとつ筋のつかめないところがあったので読了後にネットでもろもろ検索してみたところこの作品を分析している論文がヒットしたのでそれをぱらぱらっと読んでみたのだが、そこではじめて語り手が男性であることを知って、というかこの作品はいちど全集のほうで和訳で読んでいるはずなのだけれどすでにほとんど忘れさってしまっていて、ゆえにほとんど初読の挑戦のていになってしまったのだけれど、とにかく、女じゃねーのかよ!となると同時に、どうもおれの英語は想像以上にあやしいぞと思った。長文を読むのがいちばんラクで、と書き記している昼間のおのれに疑義をていしたいが、しかしこのおぼろげで、ぼんやりとした、それでいてなんとなくな読書の質感、これは以前にもたぶんちょっと触れたが、リサイクルショップでたまたま手に入れた芥川龍之介全集をちびちびと毎晩一編ずつ読んでいた二十歳の夜を想起させる。文語表現にまったくもってついていけずこれはほとんど古文か漢文の世界じゃないか!と驚き呆れながらもしかし一編ずつはやたらと短いということもあってとにかく無理やり読むだけ読んでみようと、ほとんど文字の上っ面をまなざしでなぜていくだけの、あらすじも登場人物もまったくもって把握できぬ、意味不明の外国語をながめるだけの苦行というほかないその読書が、しかしある瞬間を境に、あるいは自覚できぬほど緩やかな理解の曲線を描きながら次第に、ほんとうになぜかというほかないのだが、理解できるようになってしまって、あれは異国にひとり放り込まれてそのなかで揉まれていくうちにいつのまにかその国の言葉を操ることができるようになっていた、というほとんど体育会系といっていい語学学習論のブレイクスルーを思わせる体験だったように思うのだけれど(ちなみに祖父はそのパターンで中国語をマスターした)、なんとなく、この“The Collected Stories of Katherine Mansfield”という一冊が、外国語を学ぶように日本語を学んだ、というより丸ごと吸収したあれらの夜の日々とおなじ効果をもたらしてくれるんでないかと、語り手の性別を盛大に誤読することにともなうこのあっけにとられる感じの思い当たりあるなつかしさから思った。

 上のくだりにつづけて、以下のような述懐もある。「遅刻者」はこの当時、たびたび口にしていたキーワードだな。梶井基次郎風にいえば、遅刻者は「聖なる時刻」を垣間見ることができるのだ。

ちなみに大学に入学して最初に書かされた(日本語の)小論文はじぶんの知るかぎりクラスメイトの中で最低点だった(いくら勉強にやる気がなかったとはいえこれはちょっと恥ずかしいと思ってひとの目にふれないように隠した記憶があるからたぶん間違いない)。そんなやつでもまあ時間さえかければそこそこの文章を読み書きできるようになるものなのだ。小説家にでもなってひとやまあてるかと志しはじめたばかりのころはコンプレックスのように思えて仕方なかった思春期を文学どころかあらゆる芸術と無縁に無為に無駄に過ごしてしまったこの経歴が、じつをいうとかなりの武器にもなりうるんでないかと最近はときどき思う。というか以前よりときどき思っていたその論理にわずかながら実感がともないはじめたというべきかもしれない。ハイカルチャーにもサブカルチャーにもひとしくごくごく一般的な興味と無関心を保ちながら芸術の外で営まれる生活を地方のヤンキー文化にどっぷり疑問のかけらもなく染め抜かれながら過ごしていたドアホにしか見ることのできぬ光景もあるだろうし、そのドアホが都会に出ていきなり芸術にかぶれてしまったこの変身の衝撃にだってほかのだれでもない自分自身がいちばん今だって驚いているし、多くの作家がインタビューで問われることになる思春期をともに過ごした一冊がマジでないというか本といえば中高通して週刊少年ジャンプグラップラー刃牙しか読んでいなかったわかりやすいドアホがさながら交通事故で頭を打ったとたんに絵心にめざめた多くのアウトサイダーたちと軌を一にするかのごとく辿りはじめたあの遅刻者だけが目にすることのできる無人の道のりのしずけさなんてたぶんほとんどのひとが知らない。じぶんには遅刻するという特権が与えられた。物心ついたときからそばにあって常にじぶんをなぐさめはげましてくれるものとしての文学を知らずにいることができた。これが強みになりうることの確信にいま、具体的な実感がともないはじめている。

 それから、この日の記事の末尾には「これ、すごすぎるな。こういうのがヒーローっていうんだよ」というコメントとともに、毎日新聞の記事へのリンクがはられていたのだが、当然そのリンクは10年後のいま失効している。それでURLを検索してみたところ、全文引いている個人ブログが見つかった。すばらしい内容だったので、ここにも記録しておく。「追悼・三國連太郎さん:徴兵忌避の信念を貫いた(特集ワイド「この人と」1999年8月掲載)」というタイトル。

 徴兵を忌避して逃げたものの、見つかって連れ戻され、中国戦線へ。しかし人は殺したくない。知恵を絞って前線から遠のき、一発も銃を撃つことなく帰ってきた兵士がいる。俳優・三國連太郎さんは、息苦しかったあの時代でも、ひょうひょうと己を貫いた。終戦記念日を前に、戦中戦後を振り返ってもらった。【山本紀子】


 −−とにかく軍隊に入るのがいやだったんですね。


 ▼暴力や人の勇気が生理的に嫌いでした。子供のころ、けんかしてよく殴られたが、仕返ししようとは思わない。競争するのもいや。旧制中学で入っていた柔道部や水泳部でも、練習では強いのに、本番となると震えがきてしまう。全く試合にならない。それから選抜競技に出るのをやめました。


 −−どうやって徴兵忌避を?


 ▼徴兵検査を受けさせられ、甲種合格になってしまった。入隊通知がきて「どうしよう」と悩みました。中学校の時に、家出して朝鮮半島から中国大陸に渡って、駅弁売りなどをしながら生きていたことがある。「外地にいけばなんとかなる」と思って、九州の港に向かったのです。ところが途中で、実家に出した手紙があだとなって捕まってしまったのです。


 「心配しているかもしれませんが、自分は無事です」という文面です。岡山あたりで出したと思う。たぶん投かんスタンプから居場所がわかったのでしょう。佐賀県唐津特高らしき人に尾行され、つれ戻されてしまいました。


 −−家族が通報した、ということでしょうか。


 ▼母あての手紙でした。でも母を責める気にはなれません。徴兵忌避をした家は、ひどく白い目で見られる。村八分にされる。おそらく、逃げている当事者よりつらいはず。たとえいやでも、我が子を送り出さざるを得なかった。戦中の女はつらかったと思います。

 ◇牢に入れられるより、人を殺すのがいやだった


 −−兵役を逃れると「非国民」とされ、どんな罰があるかわからない。大変な決意でしたね。


 ▼徴兵を逃れ、牢獄(ろうごく)に入れられても、いつか出てこられるだろうと思っていました。それよりも、鉄砲を撃ってかかわりのない人を殺すのがいやでした。もともと楽観的ではあるけれど、(徴兵忌避を)平然とやってしまったのですね。人を殺せば自分も殺されるという恐怖感があった。


 −−いやいや入ったという軍隊生活はどうでした?


 ▼よく殴られました。突然、非常呼集がかかって、背の高い順から並ばされる。ところが僕は動作が遅くて、いつも遅れてしまう。殴られすぎてじきに快感になるくらい。演習に出ると、鉄砲をかついで行軍します。勇ましい歌を絶唱しながら駆け足したり、それはいやなものです。背が高いので大きな砲身をかつがされました。腰が痛くなってしまって。そこで仮病を装ったんです。


 −−どんなふうに?


 ▼毛布で体温計の水銀の部分をこすると、温度が上がるでしょう。38度ぐらいまでになる。当時、医者が足りなくて前線には獣医が勤務していました。だからだまされてしまう。療養の命令をもらって休んだ。また原隊復帰しなくてはいけない時に、偶然救われたのです。兵たん基地のあった漢口(今の湖北省武漢市)に、アルコール工場を経営している日本人社長がいた。軍に力をもっていたその社長さんが僕を「貸してほしい」と軍に頼んだのです。僕はかつて放浪生活をしていた時、特許局から出ている本を読んで、醸造のための化学式をなぜか暗記していました。軍から出向してその工場に住み込み、1年数カ月の間、手伝いをしていた。そうして終戦になり一発も銃を撃たずにすんだのです。


 −−毛布で体温計をこするとは、原始的な方法ですね。


 ▼もっとすごい人もいました。そのへんを走っているネズミのしっぽをつかまえてぶらぶらさせたかと思うと、食べてしまう。「気が狂っている」と病院に入れられましたが、今ではその人、社長さんですから。


 −−前線から逃げるため、死にもの狂いだったのですね。


 ▼出身中学からいまだに名簿が届きますが、僕に勉強を教えてくれた優しい生徒も戦死していて……。僕は助かった命を大切にしたいと思う。そう考えるのは非国民でしょうか。


 −−三國さんのお父様も、軍隊の経験があるそうですね。


 ▼はい。シベリアに志願して出征しました。うちは代々、棺おけ作りの職人をしていました。でも差別があってそこから抜け出ることができない。別の職業につくには、軍隊に志願しなくてはならない。子供ができて生活を安定させるため、やらざるを得なかったのでしょう。出征した印となる軍人記章を、おやじはなぜだか天井裏に置いていた。小さいころ僕はよく、こっそり取り出してながめていました。


 −−なぜ天井裏に置いていたのでしょう。


 ▼権力に抵抗する人でしたからね。いつだったか下田の家の近くの鉱山で、大規模なストがあって、労働運動のリーダーみたいな人を警察がひっこ抜いていったのです。おやじはつかまりそうな人を倉庫にかくまっていた。おふくろはその人たちのために小さなおむすびを作っていました。またいつだったか、気に入らないことがあったのでしょう、おやじは駐在所の電気を切ったりしていた。頑固で曲がったことの嫌いな人でした。


 −−シベリアから帰ってから、どんな職業に?


 ▼架線工事をする電気職人になりました。お弟子さんもできた。おやじは、太平洋戦争で弟子が出征する時、決して見送らなかった。普通は日の丸を振って、みんなでバンザイするんですが。ぼくの時も、ただ家の中でさよならしただけ。でも「必ず生きて帰ってこい」といっていました。


 −−反骨の方ですね。


 ▼自分になかった学歴を息子につけようと必死でした。僕がいい中学に合格した時はとても喜んでいた。ところが僕が授業をさぼり、家出して、金を作るため、たんすの着物を売り払ったりしたから、すっかり怒ってしまって。ペンチで頭を殴りつけられたり、火バシを太ももに刺されたりしました。今でも傷跡が残っています。15歳ぐらいで勘当され、それから一緒に暮らしたことはありません。


 −−終戦後はどんな生活を?


 ▼食料不足でよく米が盗まれ、復員兵が疑われました。台所まで警察官が入って捜しにくる。一方で、今まで鬼畜米英とみていたアメリカ人にチョコレートをねだっている。みんなころっと変わる。国家というのは虚構のもとに存在するんですね。君が代の君だって、もっと不特定多数の君なのではないか。それを無視して祖国愛を持て、といわれてもね。


 −−これからどんな映画を作りたいと思いますか。


 ▼日本の民族史みたいなものを作りたい。時代は戦中戦後。象徴的なのは沖縄だと思います。でも戦いそのものは描きたくない。その時代を生きた人間をとりまく環境のようなものを描こうと思う。アメリカの戦争映画も見ますが、あれは戦意高揚のためあるような気がします。反戦の旗を振っているようにみえて、勇気を奮い起こそうと呼びかけている。

 ◇国家とは不条理なものだ


 三國さんは名前を表記する時、必ず旧字の「國」を用いる。「国」は王様の「王」の字が使われているのがいやだ、という。「国というものの秘密が、そこにあるような気がして」


「国家というのは、とても不条理なものだと思う」と三國さんはいう。確かにいつも、国にほんろうされてきた。代々続いた身分差別からすべてが始まっている。棺おけ作りの職業にとめおかれていた父親は、全く本意ではなかったろうが、シベリア出兵に志願して国のために戦った。そうして初めて、違う職業につくことを許された。この父との確執が、三國さんの人生を方向づけていく。


 学歴で苦労した父は、息子がいい学校に入ることを望んだ。しかし期待の長男・連太郎さんは地元の名門中学に合格したまではよかったが、すぐドロップアウトしていく。三國さんは「優秀な家庭の優秀な子供がいて、その中に交じっているのがいやだった。自信がなかった」という。


 時代も悪かった。中学には配属将校といわれる職業軍人がいた。ゲートルを巻いての登校を義務づけられ、軍事教練もあった。


 学校も家も息苦しい。だから家出した。中学2年のことだ。東京で、デパートの売り子と仲良くなって泊めてもらったこともある。中学は中退してしまう。父は激怒した。中国の放浪から帰ってきた時、勘当された。家の近くのほら穴で「物もらいと一緒に寝起きした」という。道ですれ違おうものなら、父は鬼のような形相で追いかけてきた。


 その後、三國さんが試みた徴兵忌避は、不条理な国に対する最大の抵抗だった。後ろめたさはない。圧倒的多数が軍国主義に巻き込まれていく中、染まらずにすんだのは、「殺したくない」という素朴な願いを持ち続けたためである。


 「国とは何なのか、死ぬまでに認識したい。今はまだわからないが、いつもそれを頭に置いて芝居を作っている」と三國さんは話している。

 今日づけの記事もここまで書いた。時刻は16時半前だった。その後はたしか授業準備をして過ごしたのだったか? 17時半になったところで(…)くんから到着の微信が届いたので外に出た。(…)くんは寮の敷地外からスマホを構えてこちらが出てくるのを待っていた。動画を撮っているようだった。白地にカラフルな模様の散らされているシャツを着ていたので、彼らしくないなと思いつつ、どこのメーカーのものかとたずねると、外国のブランドなので日本名がわからないという。スマホで検索して出てきたロゴを見せてもらったのだが、リーバイスで、えー! リーバイスってこんな感じのシャツを出しているんだ! とちょっと驚いた。割引きで半額になったのを買ったという。ひと目見た瞬間、「これはぼくのシャツ」と思ったということ。
 (…)で公務員試験を受けるといっていたけど、あれはどうなったのとたずねると、公務員試験ではない教員試験だという訂正があった。落ちたという。ちょっと意外だった。修士論文の審査結果はまだ出ていない。たぶん今月中には結果が判明するというので、まあ問題ないでしょうというと、そうであることを願っていますという弱気な返事。北門から外に出る。滴滴で呼んだ車はすでに到着している。乗り込む。(…)の日本語学科がやばいかもしれないという話をする。教師のグループチャット内で共有されていたニュース記事のスクショをみせる。(…)くんの所属する(…)でもすでに部分的に教育改革ははじまっているという。外国語ができるというだけでは長所として弱い、そこで外国語+別の専門を組み合わせたコースが新規で開設されているのだというので、たとえば日本語+観光業を学ぶとかそういうこと? とたずねると、肯定の返事。今後、各大学の外国語学部はそういう方向にシフトしていくだろうとのこと。くだんのグループチャット内で(…)先生がまた大学に通って法律を学ばなければならないみたいなことを多少冗談めかしつつ嘆いていたが、あれも日本語+日本のビジネスに関する法律を学ぶというコースがいずれ新設されるかもしれないという将来を見越しての発言だったのかもしれない。(…)くん曰く、とにかくいまの中国は経済的に生産的な分野——要するに、金になる分野——に予算を集中してそそぎこもうとしているとのこと。だから文系の風当たりはけっこうきついらしい(中国社会においてはもともとそうであったが)。先生はどうしますかというので、(…)さんも十年こっちで過ごしたわけだし、ぼくもできればそれくらいこっちで生活しようと思っていたから、いまもし帰国ってなったらちょっと物足りないかな、ほかの大学に移るかもしれないというと、先生だったらどこの大学でも通用しますよと(…)くんはいった。それから例によって雲南省をすすめた。自然が豊かで、のんびりとスローライフを送るにはうってつけな、「芸術家にふさわしい」地方。
 目的地は「お茶漬け」のような食事があるカフェだという。(…)先生が予約してくれたらしい。今晩急用で来れなくなったというのは残念だが、(…)くんは明日会うつもりだという。大学から車で10分足らず。細い路地を入っていった先に白い看板が出ている。看板を見るだけで、あ、シャレたカフェだな、とわかる。入り口にはバンドマンとホストを足して割ったような金髪の若い男が立っている。もうひとりのスタッフもやはりおなじ雰囲気の男。基本的に芋っぽいオタクばかりの日本語学科男子とは全然異なるタイプ。インテリアはちょっと北欧系。(…)くん曰く、最近こういうタイプのカフェが中国でもどんどん増えているとのこと。入り口には雑誌用のラックがあったのだが、そこになぜか『人間失格』(太宰治)の中国語版も置かれていた。ホールは広く、天井は高い。ホールの端にある半分個室になった席に通される。テーブルには予約済みのプレートが置かれている。そのテーブルをはさんでソファに着席。右手は壁、左手はホールに面しており、目隠しのカーテンを閉じることもできるようになっている。QRコードを読みこんでスマホでメニュー表をひらく。お茶が売りの店らしい。食い物もいろいろにあるが、がっつり食うとなると、お茶漬けのセットしかないようだったので、三種類あるセットの中からそれほど辛くないというやつを選んで注文。白米に卵焼きを細くカットしたものと魚の切り身とあとなんかがのっかっている。そこにたれをぶっかけ、急須のなかに入っている茶をそそぐ。それとは別に、唐辛子たっぷりのおつまみと、切れ目をいれたプチトマトに干し梅をはさんだやつがある。後者ははじめて見るものだった。トマトのこんな食い方があるんだというと、最近中国で流行っているとのこと。このセットとは別に、落花生、メロン、いちご、ペロペロキャンディが無料で出た。
 実をいうとすでに仕事が決まっていると(…)くんはいった。西安にある次世代エネルギー関連の企業。修士論文が無事通れば7月から西安に越すことになるという。日本語を使う機会はあまりない。(…)くんが配属されるのはアジア部門であるのだが、仕事で使うメインの言語はおそらく英語になる。ただし日本支社もある大企業なので、いつか日本に配属されることもあるかもしれない、そのチャンスがめぐってきたら手をあげるつもりだという。日本語教師も悪くない仕事だと思うが、やはり日本語しかスキルがないというのがじぶんは嫌だった、日本語にくわえてもうひとつなにかしら武器がほしいと考えていた、北京にいるあいだHONDAに務める日本人社員に中国語をマンツーマンで教えるバイトをしていたが、新型車に関する資料などをいっしょに読んでいるうちにだんだんエネルギー部門に興味が出てきた、そのタイミングで企業のほうから大学院に新入社員誘致の話が舞いこんできた、だからここしかないと思って受けることにした——と、だいたいにしてそういう経緯とのこと。
 いまは「帰属感」がないと(…)くんはいった。以前はいつか(…)省にもどるのだとそればかり考えていたが、いまはなるべく好奇心をもってあちこち見てまわりたいというので、若者としてごくごく健全な発想だよ、そういう気持ちが少しでもあるのであれば絶対そうしたほうがいいと受けた。就職したら日本語能力がなまってしまうかもしれない、現時点でもすでに能力の低下を感じる、さっきから会話をしていても反応が遅くなってしまうじぶんがいる、だから仕事しながら勉強も続けるつもりだ、もちろん英語の勉強もする、そして日本語と英語のほかにもうひとつなにか外国語も勉強してみたいというので、あいかわらず向上心があるなあと感心した。韓国語をやってみようかなと思うというので、これで東アジア三ヶ国語制覇だなというと、世界中のちんぽを楽しめますと突然いうので、クソ笑った。いまは彼氏はいないという。西安は大都市であるし、ゲイと出会うチャンスもたくさんあるから、そういう意味でもよかったとのこと。日本でいう新宿二丁目みたいにさ、ゲイがよく集まる地方って中国にはないの? とたずねると、最近長沙がちょっとそういう感じになってきているという返事。知らなかった。(…)くんはアップルウォッチを装着していた。友人に売ってもらった中古品だという。ベルトだけレインボーカラーのものにじぶんで取り替えたらしい。これだったら見るひとが見ればわかるでしょう? と笑っていうので、なるほどねと受けた。(…)くんは店にいるあいだ、わりとしょっちゅうその時計をチェックした。それでこのあとたぶん予定があるんだろうなと察した。
 そういうわけで長居はしなかったし、二軒目に行くこともなかった(もっとも、これについてはこちらが夜は授業準備をしなければならないと事前に断っていたという事情もあるが)。そのせいでか、ちょっと消化不良の感もあった、前回会ったときはもっとつっこんだ話をいろいろに交わしたものだったが。店の前でいっしょに写真を撮りましょうといわれたので了承。ふたりで自撮り。さらに店の看板の前でこちらひとりでおどけたポーズをとる(あとで送られてきた写真を見たら、片手片足を宙にのばして上体をかたむけている、なんかむかしの明石家さんまがよくテレビでやっていたような道化っぷりになっていた)。
 店の外で(…)くんは煙草を一本吸った。それから滴滴で呼んだ車に乗りこんで大学へもどった。(…)くんはホテルではなく友人の部屋に居候させてもらっているという。大学に到着したところで解散かなと思ったが、寮までついてくるようすだったので、だったらと南門まで彼を送っていくことにした(友人宅は南門から徒歩数分のところにあるらしい)。キャンパスを歩いていると学生時代を思いだすと(…)くんはいった。ここにいた当時も恋愛はしていたのとたずねると、恋人はいなかったが好きだった女の子がいたという返事があったので、え? (…)くん女子でもいいの? とおどろいてたずねると、当時はじぶんの性的志向がいまほどはっきりしていなかった、だから勘違いかもしれないが女子学生にそういう感情を持つこともあったという返事があった。なるほどな。
 いま日本語学科にイケメンはいますかといった。きみのタイプがわからないからなと応じると、じぶんより背が高いひとがいいというので、それはいないと思うなァと受けた((…)くんは180センチほどある)。二年生の(…)くんと(…)くんは180センチほどあると思うが、ふたりとも彼女がいる。じゃあいい、全然関係ない、と(…)くんは笑っていった。西安だったら高身長の男も多いでしょう、まあいちばんいいのは山東省だろうけどというと、山東省の男は全員ちんぽがでかいですというので、クソ笑った。そういう調査結果があるのだという。まあそりゃ身長や骨格とある程度は比例するだろう。(…)くんは「ちんこ」でも「ちんちん」でもなく必ず「ちんぽ」という。そういうところがなんかゲイっぽいなと思う。
 南門の外に出たところでまた写真を撮りましょうと誘われた。大学の看板が出ている前に立って撮るわけだが、(…)くんはすぐ近くを歩いている女子に迷わず声をかけて撮影をお願いした。こういうときの(…)くんのふるまい、日本語学科のほかの男子学生と全然違うよなと思う。これがほかの学生だったら、目の前を横切る無数の学生をしばらく検分しつつじぶんの勇気を固め、このひとだったらだいじょうぶだろうという人物の見つかったところで、えいやっと飛び込むようにして声をかける。(…)くんにはそういうためらいのようなものがまったくない。ただ単に社交的だからというわけではない、じぶんの外見の魅力をしっかり十全に自覚している男のふるまいだ((…)くんは女子にモテる)。
 撮影のすんだところで、じゃあまたね、またこっちに来ることあればよろしく、といって別れる。湖沿いを歩いて帰路をたどる。前からやってきた電動スクーターがわきに停止する。(…)! と声をかけられる。(…)だ。なにをやっていたんだというので、卒業生とご飯を食べていたよと応じる。いまは北京の大学院にいるけど、わざわざ会いに来てくれたんだと続けると、You must be a great teacher!とあったので、Of course! と笑って受ける。girlかboyかとにやりとしながらたずねてみせるので、boyだよと返事。
 寮のそばに到着したところで、今度は「先生!」と日本語で呼びかけられる。二年生の(…)くんが彼女と横並びになって前からやってくる。コラ! デートすんな! 勉強しろバカ! といつものようにいうと、図書館! 図書館! 勉強! 本当! 本当! という反応。のちほど(…)くんからは暗号のような微信が送られてきた。時間をかけて解読した結果、こちらの住んでいる外国人寮の外観をながめながら、なんだかふつうのアパートみたいだと彼女が口にした、そのときに前から先生がやってきたので驚いた——と、だいたいにしてそのような意味だった、と思う。
 帰宅。卒業生の(…)くんから微信。あした(…)に行くので会えないか、と。先約があるからと断る。彼と会ったところでどうせまたAVの話を延々と聞かされるだけだろうし、バリカンのモデルだの手書きの手紙だのに続くめんどうな仕事をたのまれる可能性だってある。それに昨日今日と学生との付き合いが続いているという事情もある。だからパス!
 浴室でシャワーを浴びる。(…)くんから写真がまとめて送られてくる。ストレッチをし、コーヒーを淹れ、21時半から23時半まで「実弾(仮)」第四稿執筆。プラス15枚で計428/994枚。シーン24の続き。注意散漫。徐々によくなっているとは思うんだが、なかなかパッとしない。登場人物がふたりしかいない場面ってどうしても弱くなるな。複数人いるほうが書きやすい。
 懸垂。プロテインを飲み、冷食の餃子を食し、歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェック。それから『本気で学ぶ中国語』を1時過ぎから3時までやったのち、ベッドに移動して就寝。