20230417

 ラカンはしばしば、彼がそのような難しさをどれだけ重要と考えているか述べている。たとえば、セミネール第18巻における『エクリ』についての見解を見られたい。「多くのひとたちが躊躇うことなく私に「何ひとつとして分からない」と言っていた。それだけでもたいしたものだと気づいてほしい。何も理解できないものが希望を可能にする。それはあなたがその理解できないものに触発されているしるしなのだ。だからあなたが何も理解できなかったのは良いことである。なぜならあなたは、自分の頭のなかにすでに確かにあったこと以外、決して何も理解できないからだ」(…)。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.245)



 11時過ぎ起床。二年生の(…)さんから微信が届いている。授業中の教室に犬が迷いこんできたという。添付されていた写真をみると、テリア系っぽい薄い金毛の子犬が教室のなかで堂々と居眠りしている。リードこそつけていないものの、赤色のハーネスを装着している状態だったので、どこかの飼い犬が逃げてきたのかもしれない。非常にひとなつっこく、学生に触られてもなされるがままだという。
 今日の最高気温は34度。アホ死ね。イージーパンツにTシャツ一枚の格好で第五食堂へ。海老のハンバーガーと牛肉のハンバーガーを打包する。帰宅して食し、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回する。それから2022年4月17日づけの記事の読み返し。

眼の中には劍を藏つてゐなければならぬ。
背の上の針鼠には堪へてゐなければならぬ。
太陽には不斷の槍を投げてゐなければならぬ。
北川冬彦「腕」より)

 作業中、本当に突然、何の脈絡もなく、おおむかしに一度だけメールをくれたひとのことを思い出した。当時はてなダイアリーで書いていた日記経由でこちらのことを知った女性で、あれは「きのう生まれたわけじゃない」よりもさらに前であるからたぶん「.txt」だろうか、当時こちらは(…)でかたちばかりのアルバイトをしていた大学四年生だったか、あるいは卒業してから(…)で働きはじめるまでのあいだけっこうたっぷりあった無職期間だったかもしれないが、相手もたぶんこちらと同世代の女性だった。(…)というアカウントで同じくはてなダイアリーをつけており、当時はまたはてなスターとかなかったんではないか、だから相手の存在を知ったのはこちらのブログをアンテナに登録しているのをリファラ経由で知ってみたいな流れだったと思うのだが、彼女の日記の内容はできちゃった結婚した相手である東大生の夫に対する愚痴とSyrup16gの音楽の話が大半で、そしてSyrup16gをほとんど盲目的に愛聴する女子の少なくないひとがそうであるように、精神を病んでいた。境界性人格障害だったと思う。ブログにはときどき、直接的に言及することは決してないが、こちらが書いた日記の内容に対するアンサーらしい記事が書かれており、その大半が、こちらの才能に対する称賛と敬服といったニュアンスのもので、それは、おれの才能はすさまじいのだが出遅れた分だけそれを発揮するまでに時間がかかるという雌伏の確信を疑いなく持っていた当時の自分、そしてその確信をだれとも共有することのできないことに若いもどかしさをおぼえていた当時の自分にとって、世の中にはまっとうなセンスを持った人間がいるんだなという驚きとともにいくらかの励ましを与えてくれるものでもあった。その彼女から一度だけ、なんの前置きもなく、「いつも読んでます。頑張って。」みたいなメッセージが届いたのだ。こちらもたぶん「ありがとう。がんばります。」みたいなそっけないメッセージを返信したのだったと思う。やりとりはそれで終わった。
 なんとなくだが、彼女はもう生きていないんだろうなと思う。死ぬか、殺されるか、そういう顛末を遂げたのではないか。もし生きていれば、こちらのことを思い出すことも、おそらくはあるだろう。こちらだって彼女のことをこうして思い出したのだから、彼女のほうで思い出さないわけがない。他人のことを祈るとき、他人がじぶんのことを祈っていることにはじめて気づく、みたいな言葉はだれのものだったか?
 古い記憶を、最近、よく思い出す。風化して粉々に砕けた記憶が、ふとした拍子に、窓から吹き込む風に押し出されるようにして家具の下から姿をあらわしたおもいのほか大きな埃のように、こちらの視界に突如姿をみせる。本当にそういうことが多くなってきたと思う。これも一種の「35歳問題」なんだろうか? じぶんがだんだんと過去に生きる人間になってきた証なのかもしれない。すべてが愛しくなる。書き残したほうがいい。だから書いている。もう15年以上も!

 2013年4月17日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。以下は『忘我の告白』より。

 アラファート巡礼月の祭のさいに彼は語った、「おお、愚かな者たちに道を示されるかたよ!」そして彼は、すべての人びとが祈っているのを見ると、ある丘の上に登って人びとの姿を眺めたが、人びとがみなもとの場所にもどったとき、自分の身を打ちたたきながら叫んだ、「崇高なる主よ、あなたが純なるかたであることを私は知っています。あなたは賞賛する者たちの賞賛に汚れず、賛美する者たちのあらゆる賛美、思考する者たちのあらゆる思考に汚れることなく純であられます。わが神よ! 私にはあなたを賞めたたえるという義務が果たしえないことを、あなたはご存じです。私にかわってどうかみずから自分を賞めたたえてください、それこそが真の賞賛なのですから。」
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「フサイン・アル・ハッラージュについて」)

「神を探し求める者は、懺悔の影のなかに、神に探し求められる者は、無垢の影のなかに坐っている。」
「神を探し求める者の走行は、神の啓示に先立って駆け、神に探し求められる者の走行は、神の啓示によって追いこされる。」
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「フサイン・アル・ハッラージュについて」)

 記事によると、どうやらこの日を境に、英語の勉強をはじめることにしたらしい。Skype中の(…)にその旨伝えている。「執筆時間を減らして英語を勉強するというきびしい決断をくだした、夏までにはこちらの英語ももうちょっとマシになっていることだろう、こうやってきみに伝えることで退路を断つという意味もある、これでもうおれは勉強せざるをえなくなったわけだ、というきのう送信したこちらのメールにたいしてむしろクソおおげさな感謝と感動と讃辞が寄せられていた」との記述がある。で、その流れで、それまで何度か英語を勉強しようと思い立つも挫折、思い立つも挫折の経緯をふりかえっている。タイ・カンボジア旅行で(…)と出会ったのがやはりモチベーションとしていちばん大きく、しかるがゆえに帰国直後、実家で居候していたあいだはDuoで一生懸命勉強していたわけだったが、その後京都にもどって(…)で二勤二休で働きはじめたのをさかいにその習慣も途切れてしまう。そのあたりの経緯についても呪詛のごとく書き散らしている。

(…)はじめて英語を勉強する強烈な動機に出くわしたということもあってやる気まんまんだったし、京都にもどってからもむろん続けるつもりであったのだが、クソいまいましいことに二勤二休という奴隷労働にみずからの身をゆだねることになってしまったため、根づきかけた習慣は根絶やしにされた。奴隷として働いたこの三ヶ月間のことは思い出したくない。というか記憶にロックがかかっていてあまりはっきり思い出せない。あるいはブログをつけていないので鮮明には思い出せない(非公開の日記はつけていたが、とんでもなく低いテンションでおざなりに書きつけられた不満と愚痴の二三行が一日ごとに手を変え品を変え披露されるばかりの、きわめて痛々しく苦しいものである)。本当につらかった。まともに小説も書けない本も読めないそんな日々のなかでは当然のことながら英語を勉強する時間などあるはずもない。(…)からのメールを大半無視した。時間があればいちどスカイプしてくれないかしらの誘いもすべて無視、無視、無視! ひどい話だ。ひとでなしだ。労働にたえきれず職場でぶちぎれたことが二度ほどあった。一度めは人員不足のために三連勤を要請されたときのことでおれはこんなとこで働くために生きとんちゃうぞ!!と同僚らの面前で吠えた。二度目は時間がない時間がないと憑かれたようにこぼしつづけるこちらにむけて(…)さんが執拗におれは今日18時あがりやけど(…)くんは20時あがりやもんな、あーうち帰ったら何しよかなー、(…)くんよりも二時間も余分に時間あるから何するか迷うわー、と子供みたいに茶化してきたときのことで、いま思えばほんとうにただの悪ふざけの域を出るものではないのだけれど、このときはキレた。ゆえにあからさまにケンカを吹っかけて((…)さんおれとどつきあいでもしましょか?ね?おれいうとくけど強いっすよ?ためしてみます?ねえ?)近くにいた(…)さんをひやひやさせるなどした。その後数日は(…)さんのことを完全に無視しつづけた。これといったきっかけもなく和解したが、あれ以来どれだけおふざけモードになっても(…)さんが時間ネタを持ち出すことはなくなった。おそらく(…)さん(…)さんあたりに時間のことだけでは(…)をいじるなとの指令が下ったとものと思われる。その(…)さんは当時のじぶんのことを完全に病んでいたというし、(…)さんは恐かったというし、(…)さんは見るからに様子がおかしかったというが、自己認識としては、完全に狂っていた。じぶんは仕事をしないことを選んだ人間なのではなく、そもそも仕事ができないたちの人間であるのだと完璧に悟った。もう、そういうふうにできあがっているのだ。労働社会なんてものはしょせん人工的な仕組みのひとつにすぎず、ゆえにその仕組みから弾かれる欠陥品が出てくるのも当然の帰結であり、その欠陥品の最たるものがじぶんなのだ。じぶんのことを社会不適合者だと自認するつもりなどさらさらないが、それでも心療内科か精神科にいけばおそらくその手のレッテルを思う存分いともたやすく獲得することができるだろう。だがいまや週休五日制だ。光がさした。正気にもどった。元気になった。毎日がとても美しい。これが週休七日制になったら美しすぎて卒倒してしまうかもしれない。時間がないと口にしている人間の大半はそのじつ時間がないことの本当の苦しみを知らない。この苦しみはじぶんだけにしかわからない。そういいきってやってもいい。あと1分を確保することはできるかもしれない、けれどあと10分を確保することはできないだろう、そういうきわきわのところまで時間を削った。にもかかわらず油断して愚痴をこぼせば、時間はじぶんでつくるものだとかみんな働いているんだとかいう見当ちがいも甚だしい抹香臭くて反吐の出るご高説がむけられるとくる。馬鹿野郎が。死ね。と、こうやって書いているうちに当時の憎悪がもろもろよみがえってくるようなところがあってこれじゃあいけない。健康によくない。ゆえに忘れる。臭いものには蓋をしておけ。なんなら上から釘でもうちつけておけ。そして地中深くに埋めよ。犀の角のようにただひとり歩め。
そんな生活をしていて不安にはならないのかとたずねられることが時々ある。不安におもうのはただ戦争の可能性だけだ。戦争が起これば徴兵される。あるいは外に出て働きにいくことを余儀なくされる。クソ忌々しい未来のおとずれだ。働きたくないから戦争に反対する。こう書くとまたしょうもないご高説を垂れようとする愚物がどこからともなくあらわれるかもしれないが、これは言い換えれば、国家の仕組みよりも個人の意志に重きを置くという尊大な宣言だ。自由のあられもない称揚だ。アナーキーインザミー。もはやだれにも従いたくはない。亡命の覚悟もとっくにできている。その可能性も含めての英語のレッスンだ。

 それから(…)とのSkypeでは以下のようなやりとりを交わしているが、まさに予想通りになったわけだ。沖縄にも行ったし、死ぬほどケンカもしたし、(…)は最終的に家出した。

三ヶ月の間タイと日本以外の国にはおとずれないのかとたずねるといまのところその予定はないという。もっともわたしたちがおたがいにうんざりしたなら話は別でしょうけど、そのときはわたしはあなたの部屋を出て行かなければならないでしょうから、というので笑った。予言しておこう。確実にそうなる。宣誓したっていい。一ヶ月の滞在予定らしいが、なんでもかんでもすぐに退屈してしまう強烈に飽き性でわがままで衝動的なあの(…)がわざわざ日本まで来ておいてひとところに滞在するだけで満足するはずがない。とちゅうで沖縄にでも出かけるんでないかとひそかに踏んでいる。そもそもふたりでずっといられるわけがない。最初の三日で確実にケンカはするだろうし、一週間も経つころにはおたがい顔を見るのも嫌になるくらい険悪になっていることだろう。それはいいすぎかもしれない。一週間は少し早すぎる。二週間だ。二週間経てばbreak upだ。そうするとタイミング的にじぶんも盆にあわせて帰省することができてちょうどいいのだけれど。

 それでいまごろどうしているんだろうと思い、かといってWhatsAppはいちどアンインストールしてしまったので連絡がつかない(できたとしてもそうするつもりはないが!)、それで彼女の名前でググってみたところ、(…)というクソ長いタイトルのブログ記事がヒットした。どうやら(…)という小さなギャラリーのNew Presidentになったらしい(ただし、記事の日付は去年の6月)。つるっぱげになっておきながらどのツラさげて言うとんねんというアレだが、やっぱり十年の月日を感じるよなと記事に掲載されている彼女の写真を見て思う。しかし、(…)のウェブサイトのArtists欄に掲載されているアー写のほうの彼女は、ちょっとびっくりするくらい成熟した大人の女性になっていて、えー! マジで! 嘘やん! とたまげた。きれいになったなァ! (…)はたしかこっちの一つか二つ年下だったはず。生きているあいだにいつかまた再会することももしかしたらあるんかな。どうしようもないほどスピリチュアルかつ陰謀論脳であるし、ロシアによるウクライナ侵攻を普通に支持している可能性もなくはないが——いや、さすがにリトアニア人であるからそれはないか? しかしトランプ支持者になっている可能性はやっぱりあるよな。
 ああ、人生ってすごいなァ。本当にすごい。生きているあいだに本当にたくさんのひとと出会うし、そのひとりひとりにもまた人生があるんだもんな。信じられんわ。こんなに自由度が高く、莫大な容量を有しているゲーム、ほかにない。

 今日づけの記事をここまで書くと時刻は15時半だった。授業準備にとりかかる。日語基礎写作(二)で明日やる予定の「(…)」について、例文こそ用意してあるものの「導入」がちょっと少ないなと思われたので、残雪や夏目漱石ジョン・ケージやこちらの写真を用意したうえで、それぞれの生涯についてものすごく短くまとめた文章を用意した。いや、しかし今回の課題は自由度が高い分、学生にとって難易度も高いだろうし、「導入」になど時間を割かず、たっぷり書く時間を与えるべきかもしれないが。
 資料を作成し終えたところで第五食堂へ。バスケコートでは学部対抗試合が行われており、応援に駆り出されているらしいチアリーディング姿の女子学生もちらほら見かける。いまさら気づいたのだが、あの制服ってめっちゃかわいいな。打包して帰宅。食したのち、おもての歓声がうるさいので、いつもよりきつめに耳栓を装着して30分弱仮眠。

 仮眠の明けたところでふたたび授業準備。日語会話(一)の資料もチェックしなおし、必要なものを印刷し、学習委員に送る。食事中にYouTubeでMC漢とZeebraの対談動画をみたこともあり、なんとなくMC漢の音楽をききかえしたくなり、作業中はJAZZ DOMMUNISTERSの楽曲に客演で参加している二曲をくりかえし流した。以前は“Blue Blue Black Bass”のほうが好きだったんだが、今日は“悪い場所”のほうにハマった。
 浴室でシャワーを浴びる。ストレッチをしているあいだ、YouTubeのおすすめに出てきたtha BOSSの"STARTING OVER feat. Mummy-D”を流した。もともとビーフをくりひろげあって険悪な状態が続いていたふたりの共演。Mummy-Dってやっぱラップめちゃくちゃ上手いなと思った。なにより声質がよすぎる。
 コーヒーを淹れて21時過ぎから0時まで「実弾(仮)」第四稿執筆。シーン24の続き。プラス10枚で計438/994枚。突破口が見えた。ファミレスでの会話に本筋とはまったく関係のない無意味なやりとりをガンガン追加したほうがいい。いかなる比喩の結節点にもなりえないもの。そうすることで生じるリアリティがある。まだ足りない。もっと増やす。このシーンは会話劇だというあたまで書いたほうがいいかもしれない。
 夜食に餃子食す。歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックしたのち、ベッドに移動してThe Garden Party and Other Stories(Katherine Mansfield)の続き。蒸し暑かったので冷房をいれた。At the Bayを読み終える。やっぱりこれ、大傑作だな。生涯独身の可能性をおそれるBerylが白馬の王子様的な妄想(匿名的なその存在はheと名指される)をたくましくしている夜中、彼女の部屋のそばにまさにひとりの男がやってくる、やはりheとしてしか名指されないがゆえにその正体は最初Berylの妄想の産物であるかのように読み進めるものには受け止められるのだが、Berylが彼の誘いを受けて部屋の外に飛び出した直後、それが妄想でもないなんでもないHarry Kemberであることが判明する——このあたりの、これ見よがしでもなんでもなくさらっと上品に用いられているテク、やっぱすげーなーと心底感心する。こういう種類のテクがどのシーンでもさりげなくめちゃくちゃ効果的に使われている。うますぎるわ、ほんま。天才。参った。