20230508

 ミレールはラカン中期をセミネール第一一巻(『精神分析の四基本概念』)からセミネール第二一巻(『欺かれぬ者たちは彷徨う』)までの時間(一九六四 - 一九七四)とし、この時期に対応するラカン第二臨床を「幻想の臨床」と呼んでいる(…)。
 それは端的に言えば、幻想を横断し、欲動に直面することを指している。幻想とは、主体において主体の分割を覆い、自分の欲望が何であるかを知っていると想像させるものである。しかし、幻想の横断(traversée du fantasme)において、主体は空の対象aとの出会いを通して、大文字の他者とは欠如においてしか関係を持たないことを体験し、彼の欲望に関する確信は揺らぎ、この経験によって、幻想は失墜し、主体は解任されるのである。
 「その作用において精神分析主体を支えてきた欲望が解消されてしまうと、彼は最後にはもはや欲望の選択、すなわち欲望の残余[対象a]を格上げしたいとは望まなくなる。この残余とは、彼の分割を決定づけているものであり、彼の幻想を失墜させ、主体である彼の地位を解任する」(…)
 これがミレールが述べる幻想の臨床の理論的な説明である。それでは、こうしたミレールの議論を援用して、ラカン中期理論を臨床に使える形に変形していこう。その際の理論的基盤は、父の名[φ]の代わりに対象aシニフィアンの集合[A]を支え、真理をとりあえず保証しているということである。そして、この対象aの機能がラカン前期における臨床的アプローチをいくぶん変更させる。つまり、真理の場である大文字の他者[A]は対象aという空の対象によって見せかけとなり、真理はフィクションとなるのである。
パロールパロールは真理と呼ばれるものの位置を規定します。私が強調するのは(…)真理のフィクションの構造、つまりは虚構の構造です。実のところまさにそう言えるのです。真理が『私は嘘をつく』と言うとき、その場合にのみ、真理は半分ではなく真理を言うのです」(…)。
 ラカン中期における想定された知である無意識あるいは幻想である無意識においては、真理は確定されず、シニフィアン連鎖上には真理が複数存在することができるという意味で、嘘としていくつもの真理が存在することになる。それは、分析主体の側から述べれば、いくつものシニフィアンを数え上げるということに対応している。つまり「それが私の真理だ」は何度も繰り返されるのである。このような分析主体の行為が中期の臨床形態の骨格である。要するに、前期のアプローチと同様に分析主体と分析家はシニフィアン連鎖を追っていくのであるが、中期ではそれを数え切れないほど繰り返すのである。
 こうした無数のシニフィアンを数え上げるという方法をより具体化するために、幻想の臨床における終わりの部分の理論をもう少し詳しく見ていこう。
 シニフィアンを数え上げその連鎖を追っていくという作業はあるとき終わりを迎える。分析の終わりとは、主体が幻想を反覆し横断していき、エディプス的な布置をもつ根源的幻想(fantasme fondamental)を構成する地点に位置づけられる。この根源的幻想の構成とは「シニフィアンの配列にすぎない」(…)幻想が反覆されることによって享楽が締めつけられ、対象aが浮かび上がる事態を指している。もう少し言葉を足そう。数え上げられていくシニフィアンが幻想を構成し、それによってシニフィアンが享楽を埋めていくかぎりで、埋められないものとしての「享楽の点(…)と呼ぶことができるもの以外に何の地位も持たない」(…)対象a象徴界において実質的な(substantiel)一要素として露わになるのである。極めて単純にいえば、象徴的な諸シニフィアンが現実的な対象aを取り囲み浮かび上がらせるのである。
(赤坂和哉『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』より「第四章 ラカン第二臨床あるいは幻想の臨床」 p.86-88)



 正午過ぎ起床。食堂に出向くのがめんどうなので白湯と飴だけで朝昼兼用の食事とする。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年5月8日づけの記事を読み返す。「実弾(仮)」の資料収集のために2012年3月後半の記事を読み返していた日。以下はロベルト・ムージル『特性のない男』第五巻からの抜き書き。

「(…)なぜなら、健康人と精神病者との相違とは、健康人はあらゆる種類の精神病をもっているが、精神病患者はただ一種類のそれしかもっていない、ということなのですから」

 さて周知のように、腹が立つときに、自分の怒りを誰かにぶちまけるということは、たとえその誰かに責任がない場合でも、じつに大きな慰めとなりうる。しかし同様のことが愛についてもいえるということは、あまり知られていない。だが知られていなくても、それはまさしくそうなのである。愛も、ほかに捌け口が見つからなければ、なんの責任もない誰かに、しばしば吐露しなければならなくなる。

だが疑いもなくわれわれは、何のために生きているのかと、いつでも思い出したがる。これが世界のあらゆる権力(暴力)行為の根源です。

 続けて、ミシェル・フーコー『これはパイプではない』の抜き書き。

マグリットは類似から相似を切り離した上で、後者を前者に対立させているように思われる。類似には一個の「母型(パトロン)」というものがある。すなわちオリジナルとなる要素であって、それから取り得る、だんだんに薄められてゆくコピーのすべてを、自己から発して順序づけ、序列化するものだ。類似しているということは、処方し分類する原初の照合基準(レフェランス)を前提するのである。相似したものは、始まりも終りもなくどちら向きにも踏破し得るような系列、いかなる序列にも従わず、僅かな差異から僅かな差異へと拡がってゆく系列をなして展開される。類似はそれに君臨する再現=表象(ルプレザンタシオン)に役立ち、相似はそれを貫いて走る反復に役立つ。類似はそれが連れ戻し再認させることを任とする原型(モデル)に照らして秩序づけられ、相似は相似したものから相似したものへの無際限かつ可逆的な関係として模像(シミュラクル)を循環させる。

 さらに、ドゥルーズ『記号と事件』からの抜き書き。この時期はやたらと硬派なものばかり読んでいるな。

私たちはプロセスとしての精神分裂病と、病院向けの臨床的実体としてのスキゾの生産を区別する。このふたつはどちらかというと反比例の関係にあるからです。病院のスキゾとは、何かをこころみてそれに失敗し、身をもちくずした人間のことです。私たちは、革命的なものがスキゾだと主張しているのではありません。脱コード化と脱領土化によって成り立つスキゾのプロセスがある、そしてこのプロセスが精神分裂病の生産に変質するのをさまたげることができるものは革命につながる活動をおいてほかにない、そう言いたいのです。私たちは一方で資本主義と精神分析の緊密な関係をめぐる問題提起をおこない、もう一方では革命運動とスキゾ分析の緊密な関係について問題を提起しているのです。資本主義のパラノイアと革命のスキゾフレニー。そんな言い方ができるのは、私たちがこうした用語の精神医学的意味をもとにして考えているからではなく、逆にこれらの用語が社会的にも政治的にも限定を受けるところから出発しているからです。そうしてみてはじめて、これらの用語を特定の条件のもとで精神医学に適応させることができるようになるのです。スキゾ分析の目標はただひとつだけです。それは革命機械や芸術機械や分析機械が、たがいに相手の部品や歯車となりながら組み合わされるということです。もう一度、妄想を例にとるなら、妄想にはふたつの極があるように思われる。ひとつはパラノイアファシズムの極で、もうひとつがスキゾ革命の極。そして妄想はこの両極のあいだを絶えず揺れ動いているのです。私たちの関心をひくことは、結局、専制君主シニフィアンと対立する革命的分裂なのです。
(「フェリックス・ガタリとともに『アンチ・オイディプス』を語る」*ドゥルーズ発言)

開放性はリルケが好んだ詩作上の概念としてよく知られています。しかし、これはベルクソンの哲学概念でもあるのです。重要なのは集合と全体の区別です。このふたつを混同すると、「全体」はまったく意味をなさなくなるし、全集合の集合という有名な逆説におちいってしまうからです。個々の集合は多様きわまりない要素を結びつけることができます。しかし、それでもなお集合は閉じている。相対的に見て閉じられていたり、人為的に閉じられたりするわけです。「人為的に」閉じられると言わざるをえないのは、集合には本来一筋の糸があって、それがどんなに細くても、かならず当該の集合をより広範な集合に結びつけ、結局は集合が際限なくつながっていくことになるからです。全体のほうはまったく違う性質をもっている。時間の序列に属しているからです。全体はすべての集合を横断する。集合が集合に特有の傾向を完全に実現するにいたるのをさまたげるのが、この全体にほかならない。つまり全体は、集合が完全に閉じてしまうのをさまたげるわけです。ベルクソンはことあるごとに注意をうながしている。時間とは開放性であり、変化をくりかえすものだ。時々刻々と性質を変えていくのが時間なのだ、とね。つまり時間とは、集合のことではなく、ひとつの集合からべつの集合への移行をくりかえし、ひとつの集合を別の集合のなかで変形させていく全体のことなのです。

 その後、ニュースをチェックしたり、今日づけの記事もここまで書いたりすると、時刻は14時半だった。

 明日の授業準備をする。はやめに片付いたのでGrim Tidesをちょっとだけすすめる。それから第五食堂でメシを打包し、食し、20分の仮眠をとる。夜食のパンを切らしていたが、(…)まで出向くのがうっとうしいので、第五食堂近くに先日オープンしたばかりのパン屋で菓子パンをふたつ買う。パン屋に向かう道中、「実弾(仮)」リリースのタイミングで個人ウェブサイトを十数年ぶりにたちあげ、そこで『A』と『S』のEPUBとPDFを無料でダウンロードできるようにしようと決めた(『S&T』はたぶん絶版にする)。EPUBでのレイアウトなどもついでに勉強すればいい。BCCKSは不具合がちょくちょくあるしメールの返事もなくて頼りない。Amazonは大資本であるからそこにのっかるのはなんとなく癪だ。もともとろくに金にならない営みをしているのであるし、そもそも文章を書きはじめるきっかけとなったブログだってこうして15年以上無料でばらまきつづけているのだから(しかしそれが大規模言語モデルで一儲けしている連中の餌になっている!)、初心にかえるというか、そもそも大学入学後はじめてインターネットに触れたときのあの驚きと興奮、それはディグればディグるほどおもしろいものがどんどん見つかるあのおもちゃ箱感だったはずだから、そのおもちゃ箱のクソ端っこのほうにじぶんの書いたテキストもやっぱりしのびこませておくのがいい。仮に日本に本帰国することがあれば、紙の本も作ることになるかもしれないが、まあそれは追々考える。じぶんの城が完成したあとは、短編作家として、季節に一本くらいのペースで、その城の本棚に新作を収蔵していくのだ。
 シャワーを浴びる。ストレッチをし、コーヒーを入れ、「実弾(仮)」第四稿執筆。0時前まで。プラス31枚で計497/1007枚。シーン25をいちおうケツまで通したが、まだ弱い、もっとガシガシ書き直す必要がある。シーン24とシーン25とシーン26は前半の山場。ここが折り返し点になる。狙ったわけではないのだが、枚数的にもちょうどそうなっている。
 その後はベッドに移動し、延々とGrim Tidesをプレイしてしまう。ただのアホやね。こういうやつがおるから世の中どんどん悪なんねん。