20230514

 無意識的な陽性転移は、ラカンでは愛という転移に対応する。というのも、これまでに見てきたように、愛は分析を停滞に導くものであるからである。そして、陰性転移とは、愛が逆方向に転換した攻撃性に特徴づけられていることから、それも愛という転移の一側面であると考えられる。これらの抵抗的な転移は、ともに解釈を通して愛を要求していると言えよう。無意識的な陽性転移は「いつでも全面的に解釈を受け入れます。早く解釈して下さい」といういわば誘惑の形をとった解釈の要求であり、陰性転移は「この状態を解釈しないと分析は終わることになりますよ」という脅しの形をとった解釈の要求と考えられる。
(赤坂和哉『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』より「第六章 共時的なものとして存在する二つの臨床形態」 p.142)



 正午前後起床。第五食堂で炒面を打包して朝昼兼用のメシとする。コーヒー飲みながらきのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、2022年5月14日づけの記事を読み返す。卒業生への手紙を書きはじめている日。こうして一年が経ったわけだ。また、この日は2012年5月分の記事をまとめて読み返している。12日づけの記事には当時のバイト先の常連客とのやりとり。この話もやっぱりいつ読んでもおもしろい。

ひさびさにこのとき(…)のお客さんがやって来た。むろん例のごとく長時間にわたる立ち話がはじまるわけで、今日は二時間ほどまた色々と濃密でディープであやしい話を聞かせてもらったのだけれどその皮切りはたしか(…)さんの交通事故の話題で、前歯もなくしてしまってえらく気落ちしているようだったから幸福と不幸は表裏一体、ピンチとチャンスも表裏一体、前歯がないんだったらたとえば前歯のない顔を活かして営業職に就けばいい、インパクト大だから絶対に取引先に覚えてもらうことができるぞ、このあいだ会ったときそんなふうに励ましてやったのだ、みたいな無茶ななぐさめエピソードからはじまって、だが死んでもおかしくない事故で死ななかったということはこれはやはりまだ死んではないけないという上からのメッセージだったのだろう、と二歩目には早くもスピリチュアルな領域に突入し、それでどういう経緯だったかは忘れてしまったけれど、これはいかなるメディアも報じていない情報なのだがアメリカが内戦の準備をはじめている、アメリカ政府は大量の戦車と猛獣ハント用の銃弾を4億発購入しそれらを各州の警察に配備した、軍隊にではなく警察にだ、アメリカはこれらの兵器を用いてみずから内戦を起こす手筈をすでに整えている、なぜなら戦争は儲かるから、というようなアレがはじまり、ウォール街デモの真相はイルミナティアノニマスの対立であると断言するのに、あのそれって何情報ですか、とたずねると、ウィキリークスだ、とあって、と、ここまで書いたところで関連ワードで検索をかけてみたところ、見事に情報源らしいウェブサイトがヒットした(…)。この手のウェブサイトにありがちな一目瞭然の胡散臭さっていったい何に由来しているんだろう? フォントサイズ? フォントカラー? 段組み? ぜひともバルトに構造分析していただきたいと思うのだけれど、それはそれとして、お話はイルミナティだのフリーメーソンだのに加えて日月神示の予言とかヒトラーの予言とかどんどんどんどん危ない方向に傾きだし、終末世界を描く古今東西の伝承や宗教や神話に共通するのは世界が崩壊する最後の最後のところで半神半人あるいは半霊半人の存在が地上にあらわれて救いをもたらすという展開である、という総括にとどまらず、どういう筋立てだったか、とにかく『マトリックス』は「気づいているやつ」が制作したに違いない、主人公の名称「ネオ」は日月神示の予言に登場する「根尾」と同音、さらにヒロインの名称「トリニティ」の「トリ」は「トリオ」や「トライアングル」という言葉からもわかるとおり数字の3という意味がある、数字の3といえばやはり日月神示の予言の中で重視される数であるし、それをいえば『マトリックス』はまぎれもない三部作である、と最後のは悪ノリしていまじぶんが勝手に追加したものだけれどとにかくそんな感じで、なんか改めてスピリチュアルやら陰謀論やらヒッピーやらロハスやらって相性良いよなぁと思った。ただこのお客さんの面白いところは、前回も書いたかもしれないけれども、ヒッピーかつスピリチュアルな側面が多分にあるにもかかわらず、日本は徴兵制を取り入れるべきだと考えているらしいというところで、それは幸福の科学が政治的にあそこまでthe保守estだと知ったときの驚きとよく似ていたりするのだけれど大川隆法についてはひとまずこの動画ですべて片付けておくとして(…)、なんというか、ラヴ&ピースなカルチャーを愛好しつつも日本は軍隊を持つべき、あるいは核武装すべき、みたいな、そういう組み合わせというのはよくよく考えてたら不自然ではないというか不自然かもしれないけれどありえてしまうんだという事実がじぶんにはとても新鮮に感じられるというのがすごくあって、あれは辛酸なめ子だったか、たしか護憲派の皇族ファンみたいなそのキャラをはじめて知ったときにも目を見開かれる思いがしたのだけれど、じぶんをまず右だの左だの大枠で規定した上でなにか事が起こったときに同類の人間がどう動くのか観察しそれに追従するみたいなありかたを大多数のひとはたぶんとっていて、とっているのだと思うけれど、そうではなくて、あくまでも個別の事例ごとにその都度判断を下す、じぶんの所属する集団や階層の空気を読んだりじぶんという持続する文脈を意識したりすることなく、個別の判断を律儀に下していく、下し続けていく、そういうふうに生きることができればいい、政治的な事柄にたいするじぶんの倫理はもうこれしかないんではないか、と、前々から感じていたこのありようを、まさに体現している、といえばいくらなんでも褒めすぎというか、差別感情と切り離せない陰謀論も戦争まっしぐらな徴兵制もじぶんはクソ喰らえだと思ってやまないわけだしそういうものをたやすく称揚してみせる浅はかな身振りには端的に嫌悪感を覚えるのだけれど、でもま、向かう先は大いに間違っているとはいえこのひとはこのひとなりにその都度の判断をある程度は実践できているんでないか、と、ヒッピーでスピリチュアルな改憲派・徴兵制論者みたいな組み合わせを前にして思う、そういう意味でじぶんの目には魅力的にうつる瞬間もあったりする。ただこのひとが徴兵制を設けたほうがいいかもしれないと主張する理由というのがまた、命を失うすんでのところまでいくぎりぎりの体験を男子たるとも一度は通過すべきである、そうすることで生の力を実感することができる、そのような経験には軍隊生活が打ってつけである、みたいな論法に基づくもので、要するに、グランドキャニオンに子供を置き去りにするネイティヴアメリカンやライオンをひとりで狩りにいかせるマサイの通過儀礼みたいな、そういう面からの徴兵制支持という、政治的意図うんぬんとはまた遠く離れたものだったりするのがアレといえば滅法アレである。
世界を思うがままに操作している特権的な黒幕がいる、という陰謀論を好む主体にありがちな発想というのは、一神教に通じるものがある。と、そんなふうにまとめることで陰謀論の話はいったんやめることにして、じぶんとしてはここから先の話のほうがむしろとても印象に残ったのだけれど、ただこれどこまで固有名詞を明らかにしてしまっていいのかよくわからないので、とある大学、ということにしておくけれど、震災があって二ヶ月ほど経ったときだったか、とある大学が福島から疎開してくる母子を無料で受け入れますみたいなかたちで留学生用の寮を解放したことがあったようで、いや、そもそも事の発端は福島の母子を西へ逃がす活動をしている福島の男性が街頭演説みたいなかたちで援助をもとめた結果、そのとある大学の女生徒が手をあげてそこから話が大学側にも伝わってトントン拍子に、という経緯だったか、なんせまあはっきりとは覚えていないのだけれどとにかくそういうプランがあって、で、そのお客さんも震災以降、原発の勉強会やら内部被曝にかんする講演会だとかに積極的に参加していたらしくてどうにかしなきゃといてもたってもいられないと思っていたその矢先に、とある大学のプランを知って、ボランティアというかチームメンバー募集みたいなのに手をあげたらしい。ただ、そこでいっしょに活動した学生が腐りきっていた、汚れきっていた、日本の政治家以上だ、最悪だった、とえらく語気を荒くするので、いったい何があったんですか、とことの次第をたずねてみると、なんでも最初に手をあげてくれた女子大生、彼女はプロジェクリーダーにあたるわけなのだけれど、その彼女は福島の男性から最初現金で30万円だかをあずかり、それでこっちに避難してきている福島の母子の面倒をひとまず見てほしいと、そういうふうに頼まれたらしいのだけれど、その30万円をあろうことか学生ボランティアたちはじぶんたちの飲み食いの費用にばかばかと費やしてしまったらしく、解放された留学生寮には連日二十人だか三十人だかのボランティア学生、とはいうものの実際はパーティ気分でだべりたいだけの学生どもがたむろし、大半が何をするわけでもなしに飯くって菓子くって酒のむだけみたいな、そんな体たらくだったらしい。で、このままだと30万円が底をついてしまうとプロジェクトリーダーの女の子から電話がかかってきたときにはじめて、今まで黙っていたけれど手伝いひとつせずにただだべる目的できている連中の食事代まで出しているのはなぜか、その費用は彼らにじぶんで出させるべきではないか、とそのひとは軽く叱ったらしいのだけれど、すると、だってうちの学生は目の前の食べ物はみんな食べちゃう習性があるんです、みたいなワケのわからん返事があったとかなんとか。で、そのひとはだいたい仕事上がりにいつもくだんの寮に立ち寄ることにしていたらしいのだけれど、寮の中に入るとだいたいいつも学生たちはこたつに入って寝そべりながらポテチ食って雑談しているだけみたいな、で、子供たちに食事は作ってあげたのかとたずねるといつも決まって誰も作っていない、仕方がないのでじぶんひとりで料理をはじめることになる、むろん誰も手伝いに来ようとはしない、頼みこんだところで十数人いる中からようやくひとりやってくるみたいな、そんな状況がずっと続いたとかいうことで、まあおそらく学生連中から煙たがれていたんだろうな、年上のいかついおっさんが張り切ってるのが疎ましかったんだろうな、それも陰謀論とかスピリチュアルとかそういうあれこれを頻繁に口にされたらそりゃまあ引いてしまうのも無理はないわな、と、学生諸君に同情するところがないわけでもないし、この話にしたところで学生の側からの言い分を聞いていないのであまりどうのこうの断言するわけにはいかないのだけれど、それにしたところでたとえば、新しく清潔な留学生寮を避難してきたひとびとにあてがい学生は古いほうの寮に泊まり込む、という当初の予定を悪びれもせずに逆さまにしたり、避難してきたひとびとを駅までむかえにいって大学まで送りとどける目的でそのお客さんが知人を頼ってわざわざ借りてきた車を、福島から◯◯人の母子がこの日に到着しますよとあらかじめ知らされていた日に私用に用いてしかも事故を起こす、さらにその事故についての報告はいっさいなし、詰め寄ると修理代を根切りはじめる、事故当時の車にはあずかっていた子供が同席、運転手は運転免許こそいちおう持っているものの運転経験はほとんどなし、みたいな、もうどこからどうつっこんでいいものやらさっぱりな状況なんかを聞いているとそれはいくらなんでもちょっとひどすぎるだろと思わざるをえないわけで、とにかくこのままではいけない、こいつらに任せておいたらいずれ大きな事故がおきるに違いない、ということで、友人知人の中からボランティアやらNGOやらそのあたりの経験豊富なひとたちにSOSを出して、それでちょいちょい様子を見てもらったりもしたらしい。その友人知人の中のひとりがいちど学生たちのあまりの体たらくにキレて声を荒げた場面があったらしいのだけれど、そのときもプロジェクトリーダーの女性は、ああわたしそういうの無理ですー、とまるで反省するふうでもなしにひょうひょうと場を立ち去ろうとしたりしたというし、被曝した母子用にとわざわざなんとか玄米みたいなのを無料で差し入れたりしてくれた有機栽培の農業をしている友人さんもいたみたいなのだけれど、その差し入れも結局、大半は学生がかっ喰らってしまったらしく、挙げ句の果てには、「なんとか玄米おいしい、そろそろなくなるから新しいのお願いしまーす」みたいな電話までかかってくる始末だったみたいなことも言っていて、こちらのことを思いきり見くびった態度をとったり小生意気な発言ばかり口にするそうした委細諸々、大小問わず山のように降り積もる毎日だったらしい。とにかくキレたら負けだ、ぶん殴ったら終わりだ、そうしたらもう二度とここに出入りできなくなる、そうなってしまえばだれが子供らの世話をするのだ、と、そういう一心で諸々こらえにこらえたというのだけれど、それでもやはり我慢にも限度があるというもので、あのな、おれこういう仕事してるやろ、やから◯◯人とか●●人なんかもよお知ってるわけよ、つながりあんのよ、そんでな、50万でひと殺すやつとかおるわけ、中にはな、頼んだら50万で殺るようなんがおるわけよ、三人一組でローテーション組んで請け負うてんのやけど、おれな、正直このときばかりはな、封筒に詰めたわ50万円、京都銀行の封筒に、それでその封筒を机の引き出しに入れたまんまにしてな、こらえにこらえた、とかなんとかまあサラッとこわい話が混じっていたりもしたのだけれど、最終的には、おれがこの経験で得たものがあるとしたら忍耐力やな、辛抱の力、子供らのためやと思うたらこらえることができた、みたいなことも言っていた。あのな、いちばん最初にな、福島からこっちに避難してきた小学校低学年の女の子、その子おれに最初におうたとき何て言うたと思う? 放射能もってきてごめんなさい、そんなん言うたんやで、ちっちゃい女の子が、おれもうほんまに胸にぐっとささってな、なんとかしたらなあかんて思うた、ほんまに、まあただおれがなんとかしようと踏ん張ったところで、日月神示の予言によると6月に世界が破滅するらしいからどうしようもないんやけどな……。
で、そのプロジェクトは結局テレビやら新聞やらの取材がわんさか受けるくらい注目を浴びることになって、例のプロジェクトリーダーの女の子なんかもまるで英雄みたいに持ち上げられることになったらしいのだけれど、色々と奔走したそのお客さんや彼の友人知人は完全無視みたいな、女の子も取材の中でいっさい触れないみたいな、だいたいそういう扱いだったらしい。これさっきも書いたことであるけれど、一方の側から聞いた話だけを参照にしてもう一方をこいつら屑だわと断罪するのはちょっと浅はかだし、それに小説でいえばこのお客さんというのはある意味「信用できない語り手」みたいなところもないこともないので余計にそうなのだけれど、ただじぶんが唯一、いっさいの抑制や配慮なんかを取っ払って全面的にその怒りと罵詈雑言にもろ手をあげて参入する気になったエピソードがあって、それは子供たちに焼き物を教えるワークショップ中のこと、そのときに講師役をした女生徒が夜、火をつけたかまどの前に座りこんで酒をのみながら「あたしに出来るのはコレだけだ」みたいなことを言っているのを見たときにはさすがに「じゃがいもの皮剥くくらいは出来るやろが!」と怒鳴りつけたくなったという話なのだけれど、これにはマジで胸糞悪い思いがしたというか、自己陶酔型の似非アーティストないしはさっぶい芸術家気取りほどぶち殺したくなるやつはいない、そういう連中の浅はかさというのは心底吐き気を催す、こういう勘違いしたパチモンどもが寄り添い合って形成した集団ほどサブイボの立つものはない、とこれは心底思う。まあ、そんな話はどうでもいい。総括するに、思い込みの激しくやかましい年長の正義感とボランティアを大義名分にした仲良し学生らの合宿気分が最悪のかたちで衝突したとか、実状はだいたいそんなところなのかもしんないなと無責任に思っている。
あと、ほかにも震災のある二ヶ月ほど前から首から上が毎日カッカッカッカしてやまず、これは近いうちに何かあるぞと周囲に言い触らしていたところ、じっさいそのとおりになった、というような話もあったけれど、いい加減長くなってきたのでもういいや。

 以下は、『彼自身によるロラン・バルト』より。

 見たところ虚辞的なひとつの表現(「周知のとおり」、「ご存じのように……」)が、ある種の言述展開の冒頭に置かれる。彼は、自分がこれから出発点にしようとする命題を、世間の通念、共有の常識に属するものとして設定しておく。すなわち彼が自分の課題とするのは、平凡さに対して反作用をおこすことである。そして多くの場合、彼が鼻をあかしてやらなければならぬ相手は、世間の通念の平凡さではなく彼自身のそれなのだ。まず彼が最初に思いつく言述は平凡であり、その発端の平凡さと争うことによってのみ、ようやく彼は少しずつ書き進める。(…)
 けっきょく、彼の書くものは、《訂正された》平凡さから生まれるのかもしれない。

 この本の中を、アフォリズム風の口調がうろつきまわっている(《私たちは》、《人は》、《つねに》)。ところでマクシム[箴言、格言]は、人間の本性についての本質主義的な観念と抜き差しならぬかかわり合いにあり、古典的イデオロギーに結びついている。それはことばづかいの諸形式のうちで、もっとも横柄な(しばしばもっとも愚かしい)ものだ。それなら、なぜそれを捨てないのか。その理由はあいもかわらず、情緒的である。私がマクシムを書く(あるいはマクシム的な動きを示す)のは、《自分を安心させるため》なのだ。ある不安が生じたとき、私を越えている固定性に自分自身をゆだねることによって、私はそれを軽減する。つまり、「《本当は、それはいつだってそんなものなのさ》」。そうしてマクシムが生まれた。マクシムとは一種の《文=名詞[名前としての文]》である。そして命名するとは、鎮め和らげることである。やれやれこれがまたもひとつのマクシムだ。このマクシムが、マクシムを書くことによって場ちがいな立ち場に見えはしまいかという私の恐怖を軽減してくれる。

 18日づけの記事。カフカに関する記述。

カフカ『ミレナへの手紙』が面白い。一日に三通の手紙+電報みたいな、どうしようもないキチガイストーカーっぷりを発揮していたりして、あーやっぱりこのひとだいぶアレだわと思う。カフカをユーモアのひととして、あるいは分裂症的な性質の持ち主としてとらえるというのは、たぶん、それまでの病のひと、実存のひとみたいなカフカ解釈にたいして反旗をひるがえすべく企てられた戦略としての面が強くて、実際その戦略によってきりひらかれた地平は甚大なんだろうけれど、しかしこういうのを読んでいるとやはり、少なくともカフカ当人にかんしていうならば、大いに神経症的な、パラノイアックなところがあったことは否定できないと思う。たとえば『城』の中盤から後半にかけての破綻にしたって、あれは分裂症的な感性が一方的に生み出したものというよりは、言葉に導かれて、ほとんど筆がすべるようにして、たいした考慮もなく衝動的に書き進められてしまった展開に対して、どうにかそれまでの辻褄をあわせようと、あらかじめぼんやりと想定してあった意味の体系に何とかおとしこもうと、そう試みる必死の、とりあえず手を動かしているうちに何とかならないだろうか方式の、量にものいわせた悪戦苦闘の痕跡のように見えなくもないというか、意味の体系におとしこむにはもうとっくに手遅れで、ボツにするなりさかのぼって書きなおすなりしなければどうにもならない、完全に引き際を見失ってしまったその状態にあってなお、いやいやまだどうにかなるのではないかと執拗に粘ってみせる、まとまりをつけようと偏執狂的にこだわってみせる、そんな闇雲な悪あがきからうまれた奇形のテクストという印象を受ける(そしてそんな『城』の「こだわり」とはほとんど無縁の、行き当たりばったりのエピソードをただまっすぐにつなげるというきわめて単純無垢な、もっとも力の抜けた作品として『アメリカ』があるんじゃないだろうか。『アメリカ』第一部の「火夫」はたしかにまとまっているが、それは正確には、偶々まとまってしまったものであるというべきだ。作品の感触がその成り立ちをはっきりと物語っている)。やけくその行き当たりばったりで書きすすめる一息の衝動と、それでもなおひとつの体系におさめてみせようとする舵取りの、そこで生じる摩擦熱の度合いによって、『城』から『アメリカ』への振れ幅が生まれる、みたいな。

 以下はグスタフ・ヤノーホ『カフカとの対話』より。

 別の機会に――私がドクトル・カフカに青少年犯罪のあるケースを話したとき、話題はふたたび小篇『火夫』のことに及んだ。
 私は、十六歳のカルル・ロスマンの姿には、なにかモデルがあったものかどうかをたずねた。
 フランツ・カフカは言った。「モデルは多いといえば多かったし、ないといえば、まったくありませんでした。しかし、もうすべては古い話ですからね」
「若いロスマンの姿も、火夫の姿も、じつに生きいきとしています」と私は言った。
 カフカの顔付きは曇った。
「それは副産物にすぎません。私が描いたのは人間ではない。私はひとつの出来事を物語ったのです。これは一連の形象です。それだけです」
「でも、やはりモデルがなければなりません。形象は見ることが前提です」
 カフカは微笑んだ。
「人が写真を撮るのは、ものを意味の外に追っ払うためなのです。私の書く物語は、一種肉眼を閉じることです」

「絵をお描きなのですね」
 ドクトル・カフカは微笑って言訳をした。「いや、これはいい加減ながらくたです」
「見せていただけますか。僕は――ご存知のように――絵に興味があるんです」
「しかしこれは、人に見せられるような絵ではありません。まったく個人的な、だから読み取ることのできぬ象形文字にすぎないのです」
 彼は用紙をつかむと、両手でくしゃくしゃに丸めてしまい、机の脇の屑篭に投げ込んだ。
「私の図形には正しい空間の比例がない。それ自身の水平線というものがない。私が輪郭に捉えようとする形象のパースペクティヴは、紙の一歩手前に、鉛筆の削ってないほうの端に――つまり私の内部にあるのです」
 彼は屑篭に手を入れ、つい今しがた投げ込んだ紙玉を取り出し、皺を伸ばすと細かく切れぎれに破って、烈しい勢で屑篭に捨ててしまった。

「予期しない訪問を邪魔だと感じるのは、どう見ても弱さのしるしです。予期されぬものを怖れて逃げることです。いわゆる私生活の枠に閉じこもるのは、世界を統御する力に欠けているからです。奇蹟を逃れて自己限定に走る――これは退却です。生活とは、とりわけものとともにあること、つまりひとつの対話といっていい。これを避けてはいけない。あなたはいつでもお好きなときに来ていいのです」

「それほどあなたは孤独なのですか」と私はたずねた。
 カフカはうなずいた。
カスパル・ハウザーのように?」
 カフカは笑った。「カスパル・ハウザーよりもはるかに惨めです。私は孤独です――フランツ・カフカのように」

 その後、2013年5月14日づけの記事も読み返して「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲し、今日づけの記事もここまで書くと、時刻は16時半だった。

 (…)くんと(…)さんのスピーチコンテスト用原稿をチェックして返却。それから卒業生に送る手紙の続き。17時半前に中断。ほぼほぼ完成した。あとはちょくちょく細部を修正するのみ。夕飯は第五食堂で打包。食したのち、ベッドで15分ほど仮眠をとる。日曜日の夜なのでスタバであるが、ケッタの鍵が壊れたままであるので、万达の駐輪場に停めておいたらパクられるかもしれないという懸念もあり、先週にひきつづき今日もまた在宅することに。とはいえ、ずっと部屋にこもるのもなんか違うなというわけで、瑞幸咖啡に出向いてアイスコーヒーを買うことにした(今日はけっこう蒸し蒸しするのでアイスコーヒーが飲みたい気分だったのだ)。
 それで店まで出向いた。カフェというよりは単なるドリンク店という間取りの店内なので(入り口の窓に面したカウンター席が6つあるきり)、ここで書見するのはやっぱりちょっと違うかなと思いながらも、いちおう『ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』(樫村愛子)は持ってきていたので、オーダーしたものができあがるまでのあいだスツールに腰かけて読むことに。先客は男女カップルのみ。女のほうが注文したものを飲みながら、ブリッブリに甘えた作り声で“好喝〜♪”だの“好好喝〜♪”だの狂った九官鳥のようにくりかえしているので、先祖に謝れ馬鹿野郎がとイライラした。ココナッツミルク入りのアイスコーヒーが用意されたところで、そのまま店内に居座り書見を続けてみることにしたのだが、以前(…)さんとサシでだべったときも思った、ここのスツールはテーブルの高さと全然合ってない、とにかく低すぎる、客が長居できないよう悪しきアフォーダンスを施すにしてももうちょっと加減があるだろと言いたくなるくらいにひどい、そういうわけで15分ともたずに退散した。
 で、寮にもどる。リビングのソファに座って書見の続き。『ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』、やっぱりめっちゃおもろい。あと、新書ということもあってか、かなり読みやすいと思う。

 スティグレールは、マクドナルド的主体の問題を、「象徴の貧困」の概念で記述する。
 スティグレールによれば、「象徴の貧困」は、「シンボル(象徴)」の生産に参加できなくなったことに由来する「固体化の衰退」を意味する。スティグレールによれば、「シンボル」とは、知的な生の成果(概念、思想、定理、知識)と感覚的な生の成果(芸術、熟練、風俗)の双方を指す。
「ハイパーインダストリアル時代」とされる情報化が進んだ社会において、計算という営みは生産の分野を超えて拡大している。マクドナルドの労働者のように、サービス労働まで計算され、管理されるようになり、何もかも計算可能性の中に放り込まれる。そして、それに相関して産業の領域は拡大していく。それは、今までなら考えられなかった領域にまで拡大し、例えば、ちゃちな心理学的計算は、人事管理や教育の領域にまで拡大する。
 スティグレールはそのことにより、以下のようなプロセスが起こると指摘する。

 人間の注意は、未来把持(現象学の用語で、未来が現在に先取りされている状態。過去把持と対。樫村注)によって前に向かって張りつめられている。対象への先行する期待が、対象を注意の対象として構成している。(略)が、ハイパーインダストリアル時代のハイパーシンクロニゼーションは、期待を過去把持の装置によって計算された結果に変えてしまう。その装置は、原則として唯一、特異なものであるはずの過去把持の蓄えを規格統一し、画一化してしまう。本来ならば、その蓄えが唯一の特異なものであるというまさにそのことによって、注意深い意識は自分について何かを学ぶ。意識が他に向ける注意とは、自身のもつ他性、他のものに変化する可能性、自分の個体化が未完成で開かれた状態でいることを映し出す鏡である。

 例えば、自分が読んできた読書歴の記憶は、その人にとって唯一無二の経験であり、その人のアイデンティティを形作るものである。が、ウェブ書店のアマゾンは、この個人の記憶を規格化された情報として扱い、同じ本を読んできた人たちの情報と形式的同一性をもつものとして、彼らが他にも読んだ本を推薦する。
 そのリストは、確かにある種の蓋然性をもつ情報を提供するかもしれない。が、むしろそのリストにない次の本の選択が、創造性や固有性を生むだろう。
 スティグレールのいうように、予測不能性をはらんだ未来への期待こそが、個人の実存性を支える。すなわち、不確実な未来に対して、計算可能性を超えて想像し、行為することが、個人の生の固有性を形作る。が、情報の氾濫は、主体のこのような労働を節約しようとするあまり、主体にとって創造性を意味する行為そのものも奪ってしまう。
 アマゾンが単純なリストの提示でしかないのに比べ、SNSミクシィなど)に入って、日記検索やコミュニティ検索をすれば、同じ本を読んできた多数の人々の、より私的で固有の経験に出会えると思われるかもしれない。
 しかし、結果は同じである。もしそこで提供される情報を分析して自己の経験と関係づける作業を放棄し、ただ大多数の意見に同化してしまったら、「固体化」はやはりなくなってしまう。
 どんなに大多数の他者の経験が指し示されたとしても、「自身のもつ他性、他のものに変化する可能性」による選択は、固有のものである。なぜなら、人間の記憶や経験の多様性と複雑性により、一つとして同じ経験を生きた人生がないように、一人の人の生はいかに情報社会になっても固有のものだからである。
 また、たとえ、ある人の選択が結果的に多数の人々の選択と一致したとしても、選択に至るプロセスが、その人の行為にとって重要である。
 これに対し、現在の商品戦略は、この個人的な行為や知的行為そのものを面倒な労働として捉え、この労働を節約し商品化する。「動物化」する主体とは、この労働の節約にのってしまう主体であり、資本にとって都合のいい消費者である。しかし、その便利さにのることは、もっと重要なものを失うこととなる。
(92-95)

 このくだりを読んでいて、まずはものすごく単純に、やっぱりほかのひとがあんまり読んでいないような本を読んだほうがいいよなと思った。いや、そんな簡単な話でもないのだが、でも、だれも読まないような本ばかりずっと読み続けている人間というのは、やっぱりそれだけでちょっと別種の力をもっていると思う。YouTubeなんかもアルゴリズムでガンガンおすすめ動画が表示されるようになっているから、実際、YouTubeのトップ画面に飛ぶたびにものすごく窮屈な印象を受ける、じぶんの体臭でいっぱいになっているような風通しの悪さを毎回感じることになる。一時期それがたいそう嫌で、なにかの都合でキャッシュを全消ししたタイミングだったろうか、わざと全然興味のないような動画や再生回数の少ない動画ばかりをザッピングしまくっていたことがあり、結果、本当にわけのわからん、どこの国のだれがなんの目的で撮ったのかマジで不明なものばかりがトップに表示されるようになって、あれはいまおもえばけっこう面白かった。本でいえば、大学生を卒業するまではなぞのブックオフ縛り——本はブックオフで売っている100円のものしか買ってはいけないというルール——をしていたわけだが(当時は図書館を利用するという発想がなかった)、ブックオフの100円コーナーというある意味では大衆性の極地みたいなスペースだけを根城にしていたあのいとなみは、大衆の最大公約数的なものの摂取を強いるアルゴリズムにのっとっていたといえると同時に、それでもなんらかのバグやエラーのような出会いがいちおうはあった。というか、それをいえばそもそも、じぶんにとって重要な作家であるムージルもオコナーもマンスフィールド梶井基次郎も、全員、出会いはブックオフの100円コーナーだったんではないか。
 そんな話はどうでもいい。とにかくここでスティグレール樫村愛子が語っている個体化の議論——特異的な生成変化の道筋を維持し続けること——というのはよくわかる。こちらがたびたび「外圧」や「受動性」という言葉を使って語ってきたことと根本はおなじだ。ほかでもない自分自身の身体、つまり、この生を実験的に生きること、生を管理しすぎないように、計画しすぎないように、外圧が招き寄せられる余地をつねに設けておくこと、外部から機会がおとずれるのをじっと待つこと、そしてその機会がおとずれたら、それをいわば「啓示」としてでっちあげ、それがフィクションであることを自覚しながらあえて倒錯的にのっかること。(…)と円町のあばら屋で二人暮らしをはじめたのも、そこに(…)さんが加わって三人暮らしになったのも、タイ・カンボジア旅行をすることに決めたのも、英語の勉強をはじめたのも、(…)で働くことになったのも、中国に渡ることになったのも、とどのつまり、19歳以降の人生はほぼすべてといっていいほど外からやってきた流れに乗っただけでしかない。じぶんから主体的に動いたことといえば読み書きだけで、あとはもうおまけだからどうでもいいとうっちゃっておくがままにしておいた、その結果としていまのこのでたらめな来歴があるわけであり、二十代の半ばごろ、読み書きをたしなむひとびとの界隈に属したほうがいいのではないか、バイトをするにしても就職するにしてもそういうのと関係のあるところに行ったほうがいいのではないかと周囲から言われたことがたびたびあったし、じぶんでもそうかなと考えたこともあった、しかし三十代になるころには、これはこれでよかった、こんなふざけた経験ばかりできる人生だとは思わなかった、と「すべて、よし!」(大江健三郎)の肯定感を得るにいたった、そういう認識の変化もあり、だからいまも、この外圧、換言すれば、偶然性やランダムネスということになると思うのだが、そういうものが生じる余地、そういうものがおとずれるスペースを確保しておくことが大切だという、ほとんど直感に近いアレがある。(…)さんが将来を見据えて日本語学を専門とする大学院に進学すると決断したとき、(…)くんもそうしておいたほうがのちのちのためになるんじゃないかと、当の(…)さんからだったかあるいは別の人物だったかもしれないが、そういうことを言われたこともあったが、そのときこちらのあたまによぎったのは、そんなことをしてしまえばそっち方面に可能性がしぼられてしまうという危機感だったし、レベルの高い有名大学からの誘いに食指が動かないのもやっぱりおなじかもしれない、そんな深いところにまでもぐりこんでしまえば外に出れなくなってしまう、ぴかぴか光るキャリアがあったらおそらくこの業界でずっと余生を過ごすこともできるだろうが、それは逆にいえば、ある日いきなりフロント企業でヤクザといっしょに働きはじめる、ある日いきなり中国にわたって大学で働きはじめる、そういうとっぴな出来事が今後の人生で生じる可能性が低くなってしまうことにほかならず、それはやっぱり嫌なのだ。なんせこちらは基本的に腰の重い人間なので、いちど腰をおろしてしまうとそこに延々といすわってしまう(実際、これまでの職場は三つとも閉店および閉館をきっかけに辞めているわけであり、自発的に辞めたわけではない)、そういう自覚があるからこそ、下手に有名大学になどいってしまうとマジでずっとそこで働き続けることになってしまいかねない、それはやっぱりダメでしょ、いつ取り潰しの憂き目にあうかわからんようなレベルのところにいたほうが「移動」を強いる外圧と隣り合わせになっていいでしょうという計算が実際マジであるのだ。何重にもまどろっこしいことを言ってるなと思われるかもしれんが、じぶんの行動原理は実際こういう感じだ。自発的には決してあちこち動きたくない、しかし外圧によってあちこち動くよう強いられることを受け入れる覚悟はあるし、むしろ適度にそうなることを望んでいる。これはつまり責任をとりたくないということなのだろうか? 自発的な行動の結果おとずれる事態をじぶんの選択に起因するものとして引き受けたくない? あるいは真逆かもしれない。なにもしない、ただただそのときが来るのを待つ、その結果おとずれたものをそれがどういうものであろうといわば運命——これは選択の対義語だ——としてあますところなく引き受ける、そういういわば寝たきりの——あるいは寝そべりの——勇気だろうか? 運命愛を知ったバートルビー



 ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」がこの「移行対象」であったことを、米マルクス主義批評家ジェイムソン、スロヴェニアラカン派哲学者ジジェク社会学者の上野俊哉が「消滅する媒介装置 vanishing mediator」という議論により指摘している。
 ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」とは、マルクスの「下部構造が上部構造を決定する」というテーゼに対するアンチテーゼとして、社会変動にむしろ上部構造であるイデオロギーが強く関与することを示唆した議論である。ウェーバーは、西洋に唯一起きた近代化は、一見近代化や資本主義とは相反する、宗教である「プロテスタンティズムの倫理」の思想が準備したと議論した。
 近代初期の資本家たちは、これまで卑しい行為とされていた金銭獲得に励んだ。なぜこれまでと一八〇度反対の思想や信条をもてたのだろうか。それはプロテスタンティズムの生み出した「神のための利得行為」という思想(=移行対象)のもとで、現実に利得行為に励むことができたのである。「神のための利得行為」という橋渡しが必要だったのである。
 その隠れ蓑のもとで、利得行為は習得され習慣化され、それが身体化され社会化されれば(マルクスのいう物質的無意識的レベル、唯物論的レベルで)、もはやプロテスタンティズムの倫理は形骸化し必要ではなくなり、捨てられていく。
 このように、移行空間の議論は、単に幼児の発達過程の問題としてだけでなく、「消滅する媒介装置」という議論として広く論じられる。そして人や社会が大きく変容するとき、主体の解体を防ぎ、ラディカルな変容を支えるものとして議論できる。
 中国において、共産主義というイデオロギーが、人々が思想的な崩壊やアノミー(信念や規範が崩壊し混乱すること)、アパシー(無気力)に陥らず資本主義に移行するために必要であったように(マフィアなどがはびこり、より社会が不安定化したロシアの困難と比較すれば了解できる)。
 人の信念や思想や主観的な考えの変更には時間がかかる(マルクスが、上部構造の変容は下部構造に遅れ、時間がかかると指摘したように)。新しい現実(母のいない現実)に対応するために、前のイデオロギーと連続性をもつイデオロギーが必要となるのである。
 イスラム原理主義は、イスラムの近代化におけるプロテスタンティズムの倫理であるという指摘もある。
 あとで見るように、一九六八年のイデオロギーは、古い共同性や禁欲的・神経症的主体を解体して、消費社会と消費主体を構成する移行空間となった。六八年のイデオロギーは、古い共同性を解体するために、「セラピー的な新しい共同性」というイデオロギー(移行対象)を動員した。そしてそれは、今は消失してしまった。資本主義への本格的な移行の中で、当時、理念として掲げられた共同性は、現代社会においては全くその影を失ってしまった。
(120-122)

 マックス・ウェーバーってまったく読んだことないんだが、こんなにおもしろいことを言っているのかと驚いた。あと、ここで語られている消失する移行対象(イデオロギー)の議論を見て、もしかして最近出版された王寺賢太の『消え去る立法者』もこの議論と併走するような内容だったりするのかなと思った。いや、タイトルから受けた印象だけのアレにすぎんけど。『消え去る立法者』は一時帰国した際に買おう。

 例えば、庭にきれいな桜が咲いていて、母親が「きれいな桜だね」「桜」とくり返し、子どもが指さされる目の前の映像に「桜」という音声を記憶において結合させていくとしよう。
 次に子どもは、目の前をひらひら飛んでいく蝶を見て、花びらとの類似性から「桜」というかもしれない。このとき母親は、「あれは桜じゃなくて蝶だよ」と訂正するだろう。こうやって言葉は獲得されていく。
 すなわち、このとき子どもは、桜の映像に対し、桜は「ひらひらしたもの」であり「蝶ではない」という情報をつけ加えていく。しかしこうやって追加情報をつけ加えられるのは、桜は「ひらひらした」「蝶ではない」「X(何か)」と措定できる、「X(何か)」という空項があるからである。
 これに対し、ある種の統合失調者はこの空項が作れない。彼らは、「桜は蝶でない」とするか、「桜はひらひらしている、蝶はひらひらしている、桜は蝶だ」という三段論法をとってしまう。「X」という空項がなければ「桜は蝶のようである」という「留保的な措定」ができない。
 何かが真実であるといきなり決定的な形で措定されるのではなく、試行錯誤の中で間違いが否定され、その中で真実が成立していくのが人間の言葉や情報の獲得過程である。ここでこの否定はいきなり外に現れるのではなくて潜在的なものであることに意味がある。
 ところが、ある種の統合失調症者では否定が顕在化する。これに対し健常者では、先に見た留保的措定があるので、「桜は蝶ではない」という顕在的否定にはならず、「桜は蝶ではない」という潜在的否定に留まり、何か別のものという留保、存在の肯定と保持がなされる。
 人間において言葉が何とでも結合し、驚くほどの可塑性をもつのは、カストリアディスも示唆していたように、このXという留保的措定ができるからである。留保的措定は、他者によって支えられる(今はわからなくてもすべてを知っている母がいつか教えてくれるという期待において)。また、現実的には時間によって支えられる。未来とは他者であり、だからこそ他者が解体すると時間が解体するのである(時間とはフィクションであるから)。
(129-130)

 ここでは、留保的措定能力の失われている人間として一部の統合失調症者があげられているけれど、度を超えた、ほとんど荒唐無稽なことを口にしている、エクストリームな陰謀論者たちもある意味にこれに当てはまるよなと思う。「何かが真実であるといきなり決定的な形で措定されるのではなく、試行錯誤の中で間違いが否定され、その中で真実が成立していく」「人間の言葉や情報の獲得過程」がほとんど失効しているというか、留保的措定能力そのものは残っているにしてもごくごくわずかにすぎず、全然辛抱が足らんことになっとるというか。わからないということに耐えられない。判断の宙吊り、結論の先延ばしに耐えられない。白と黒のコントラストに目を奪われ、グレーゾーンとグラデーションを審美することができない。
 書見を中断してシャワーを浴びる。ストレッチと懸垂をし、プロテインを飲んでトーストを食し、今日づけの記事を途中まで書いたところで、歯磨きをしながらジャンプ+の更新をチェック。その後、寝床に移動。