20230604

 その二つの声とは、「正義の倫理(ethics of justice)」と「ケアの倫理(ethics of care)」である。正義の倫理においては、〈それぞれ他人からは切り離された自律的な個人どうしが競合し合う世界で、お互いの権利の優先順位が、抽象的原理によって定められる〉というモデルが想定されている。しかしケアの倫理は、〈お互いがお互いに対して応答し合う責任をもち、誰も取り残されたり傷つけられてはならない〉といった考え方に基づく倫理原則である。したがってケアの倫理では、複数の人たちへの責任がぶつかり合う状況でジレンマが生じるわけだが、そこで取るべき行動が判断される際には、「正義の倫理」の場合のように普遍的抽象的な原理による裁断というよりも、その都度の文脈や状況に即した、総合的な判断が目指されることになる。このように、自己を他者から切り離された存在というより、むしろ他者とのつながりの中に生きる存在としてとらえるのが、ケアの倫理の背後にある人間観、世界観なのである。
(…)
 振り返ってみると、われわれの生活のさまざまな局面に、この二つの倫理原則は顔を出している。大変個人的な体験から例を引いて恐縮であるが、たとえば筆者はふだん精神科外来で診療をしている際に、いつもこの「二つの倫理」の存在を感じさせられる。つまり、病状が重かろうが軽かろうが、あらかじめ約束した時間どおりに来た人を優先するのか、重篤で長時間待てそうにない人を優先するのかというジレンマが常にあるのだ。この場合、「自律的な個人が、契約に基づいてあらかじめ確保した順番を守る」のが正義や自律性の倫理であり、契約云々よりも「重篤でニーズの高い方を優先して手当てする」のがケアの倫理にあたるわけである。
 また、幼い子どもを抱えて働く親たちも日々、この二つの倫理原則の狭間に立たされているといえるだろう。公的な立場での人との約束ごとと、子どもたちのケアのニーズとの間の葛藤である。これらの倫理原則はいずれもどちらか一方へと還元してしまえず、どちらがより重要ともいえない。その間で各自が、どういうバランスで、どういう選択をするのかが日々問われるのだ。
 普遍的正解のない問いであり葛藤であるが、それならそんな悩みはない方がよいかというと、そうでもない。こうした葛藤の狭間に身を置き悩むことによって、人は鍛えられる。
(『精神分析にとって女とは何か』より北村婦美「第一章 精神分析フェミニズム——その対立と融合の歴史」p.22-23)

 ここを読んでいてふと思ったのだが、「正義の倫理」と「ケアの倫理」というペアを目の前にしたひとの多くは、ふつう、前者に非人間的なものを、そして後者に人間的なものを素朴に感じ取るのだろうが(そしてこの「正義の倫理」とはすなわち「法」であるがゆえに、それが非人間的であるというのはある意味正しいのだが)、同時に、特異的な判断をその都度下す「ケアの倫理」だけでは必然的に生じることになるコンフリクト(文中の例に即していえば、おなじ程度に症状の重い外来患者がほぼ同時に来院した場合どうするか?)を回避し解決するために、「正義の倫理」=「法」があるともいえるわけで(このとき「法」は当事者に納得を与えるための根拠として機能する)、そういう文脈にかぎっていえば、「正義の倫理」=「法」もまたきわめて人間的なものであるといえる。



 10時半起床。(…)先生から微信が届いている。こちらが担当するスピーチの練習日、今学期はひとまず水曜日の午後に決まった模様。歯磨きする。右側下段の親知らず周辺が、昨日おとといあたりからやたらと痛むので、そこを磨くときだけ気をつかう。こういうことはときどきある。ググってみたところ、風邪で抵抗力の落ちているときなど炎症を起こしやすいという情報に行き当たる。なるほどこれもコロナ感染の余波みたいなもんだなと思う。
 第五食堂で朝昼兼用の炒面を打包する。寮の敷地内ではまた(…)と(…)夫妻が、昨日組み立てていたのとは別の自転車を(…)といっしょになって組み立てていた。
 狂戦士の食後、13時半から16時半まで「実弾(仮)」第四稿執筆。プラス13枚で計527/1016枚。シーン27を半分ほど加筆修正。苦手意識のあるシーンだったのだが、なかなかうまくやれている。夏休み中に第四稿を終えることはたぶんできる。年内に第五稿はさすがにきびしいか?
 仮眠とる。それからケッタに乗ってスタバへ。三週間ぶりか四週間ぶりになるのか。万达の広場がおおきく変化している。遊具が片付けられ、いつもおばちゃんらが广场舞している場所に屋台がならび、以前屋台があった場所にはしっかりとした店構えのドリンク店などが新規オープンしている。

 以前この広場を通ったとき、ちょっとした小屋のようなものが建設中だった。で、あれはなにに使うのだろう、一時的なイベントのために仮設しているのかなと思ったものだったが、どうやらそれがそのままドリンク店らになっているようだった。
 スタバに入る。(…)さんに雰囲気の似ているパソコンカタカタ少女の姿はない。やはり卒論執筆中の学生だったのだろうか? 仕上げて提出したいま、もはやこの店に用はないということか? 美式咖啡のアイスをオーダーする。店内はガラガラだったが、外卖での注文がたてつづけに入っているらしく、10分ほど待ってくれといわれる。ソファ席に移動し、『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(今井むつみ/秋田喜美)の続きを読む。となりのとなりの席には若い男女カップル。男がスマホでプレイしているゲームを女がべったりくっつきながらのぞきこんでいる。こいつらなんのために生まれてきたんや?
 10分経ったところでレジに向かう。コーヒーを受けとり、レジのそばにあるソファ席に移動する。ガラス張りの壁のすぐそばに位置する席。以前はそのガラスをへだてた先に屋台がたちならんでいたため、通行人がたいそう多く、子どもらがガラス越しにじいっとこちらをのぞきこんできたりちょっかいをかけてきたりすることもあって、ちょっとうっとうしかったのだが、屋台はすでに別の場所に移動している。そして以前屋台のあった場所には、あれはなんの店だろう、もしかしたら高級な槟榔の専門店かもしれないが、あまり客の入っていないようすの真新しい店がどーんとできていて、おかげで人通りは以前より少なくなっている。
 二時間ちょっとのあいだ、ひたすら読み進める。小便もしたくなってきたし、ぼちぼち潮時かなというタイミングでスマホをみると、鹿児島の(…)さんから微信が届いている。今日担当したテーブルの予約名が「(…)」だったとのこと。仕事には慣れたかとたずねると、毎日めっちゃ忙しいとのこと。歩数アプリによれば、毎日5キロ以上歩いている計算になるという。「今おばあちゃんみたい」「毎日「腰痛い」、「足痛い」、「もう死んじゃう」」というので、せっかく温泉があるんだしなるべく毎日ゆっくり浸かるようにしなと応じる。鹿児島市内までバスで30分+電車で1時間の距離にある山中のホテルであるのだが、客は日本人ばかりではなく、中国人も外国人もよくいるというので、これはちょっと意外だった。食事にはやはり苦労しているようす。どれもこれも味が薄く甘い、と。ホテルの卵焼きが甘いのにはびっくりしたというので、砂糖が入っているタイプの卵焼きだね、あれはぼくも全然好きじゃないんだよと受ける。(…)さんとこうしてやりとりするのはひさしぶりであるが、レスポンスがずいぶんはやくなっている印象を受けた。
 帰宅。(…)一年生の(…)さんから微信が届いている。「先生、次の学期も教えてくれませんか。」と。来学期こちらが(…)の授業を担当しないという話が学生らのほうにも届いたのかなと思う。(…)さんはめちゃくちゃいい子であるのでかなりしのびないのだが、来学期は(…)の新入生が二クラスあること、それにくわえてスピーチコンテストの指導もあることを説明、だから(…)の授業を担当する余裕はないのだと伝えた。「(…)先生が惜しいですね」「でもこれからは先生と一緒に遊びに行ってもいいでしょう。」というので、これには「もちろん」と対応。
 シャワーを浴びる。ストレッチする。今度は(…)二年生の(…)さんから微信。パソコンの「画面」と「ディスプレイ」は同じ意味なのかというので、「画面」も「ディスプレイ(display)」も「モニター(monitor)」もひとまず同じ意味であると覚えておけばいいと応じる(ニュアンスの差異を理解するレベルではまだない)。トースト二枚の夜食をとり、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回する。それから2022年6月4日づけの記事と2013年6月4日づけの記事を読み返し、今日づけの記事も書きはじめたが、これは0時半に中断した。
 ひとつ書き忘れていた。夕飯を打包して寮にもどる途中、たばこを吸っているおっさんとすれちがったのだが、その一瞬、わずかに煙のにおいを感じたのだった。あと、スタバに出向く前、街着に着替えて香水をつけたとき、ためしに手首に鼻を近づけてみたところ、ものすご〜〜〜くうっすらとではあるが、においを感じとることができたのだった。初となる回復の兆候だ。
 寝床に移動後は大同生命国際文化基金のウェブサイトで無料配布されている『現代タイのポストモダン短編集』(宇戸清治・訳)をちょっとだけ読んだ。EPUBKindleにつっこむつもりだったのだが、純正ケーブルを使っているにもかかわらずKindle本体をパソコンが認識してくれないためできず(しょっちゅう生じるトラブルだ!)、しかたがないのでiPadの「ブック」で読むことにした。