20230606

 人間には、男根一元論的認識と両性性的認識がともに存在しているのではないか。シャスゲ-スミルゲルは少年ハンスのケースを通して、こうした可能性を示した。認識の際のこうした二種類のモードは、「ファリック・ロジック(男根期的論理)」と「ジェニタル・ロジック(性器期的論理)」とも呼ばれている(Gibeault 1988)。人間には本来一種類しかなく、一つの種類の性あるいは性器(ペニスあるいはファルス)しか存在しない、それが「ある」側と「ない」側が存在するだけだというのがファリック・ロジックであり、それに対して(単純な「ある」「ない」ではなく)異なる種類の性あるいは性器があると発想するのがジェニタル・ロジックである。前者の「ファリック・ロジック」的思考から出発すると、自他を含めた人間は「ファルスを持つ」かあるいは「去勢されている」か、「多い」か「少ない」か、「能動」か「受動」かといった軸で選別され分化されてゆき、すべてがそれに従ってオーガナイズされることになる。それは性の間にある違いを単純化しているがゆえに、認識の主体にとっては比較的心理的負荷が少ないかもしれない。けれども単純化であることには変わりなく、事態の歪曲は避けられない。それに対してジェニタル・ロジックは、男性性と女性性を(能動と受動といった認識でなく)「違い」として認識していく思考である。ではこの二つのうち、ジェニタル・ロジックの方が「高等な」思考であり「より成熟した」思考なのだろうか。論文の著者アラン・ジボーは必ずしもそうではなく、両者はわれわれの中に、無意識のロジックとして併存し続けているという。この論文は、精神分析ジェンダー論にかかわる論文集である『ジェンダーの謎』(Breen 1993)にも収載されているが、編者のブリーンもこの両者を、どちらに収斂するでもなく葛藤的なまま併存し続ける二要素ではないかと示唆している。
 この違いは、新しい精神分析の潮流である関係精神分析でしばしば言及される、「一者心理学」と「二者心理学」の違いととらえるとより理解しやすいかもしれない。男根一元論(ファリック・ロジック)は、ファルス(あるいはペニス)を持つ男性側を主体とし、女性の側を持たない存在として客体視した一者心理学的認識といえる。それに対して両性性に基づく見方(ジェニタル・ロジック)は、異なる二つの主体がいるととらえる、二者心理学的認識といえるだろう。後者の二者心理学的認識は、より複雑なため維持するのが困難なところがあるが、後者の一者心理学的認識はそれに比べ事態を単純化している分、認識者にとってはより負荷が少ない。そのため防衛にも使われるということになるのであろう。
 関係精神分析ジェシカ・ベンジャミンは、一者心理学的な認識のあり方と二者心理学的な認識のあり方について、前者が後者へと単純に進化発展するとは述べていない(Benjamin 1998)。むしろ、一者心理学的な見方から二者心理学的な見方へと切り替わる瞬間があってもそれは長くは維持されず、再び一者心理学的な見方へと戻るといった、両者間での揺れを想定している。「ファリック・ロジックとジェニタル・ロジックは無意識の中で、葛藤しつつ併存している」という考え方も、ベンジャミンが描くこうした一者心理学的認識と二者心理学的認識の関係性を思いうかべると、より理解しやすいかもしれない。
 これは抽象的で、現実とは無関係な話に思えるかもしれないが、決してそうではない。というのも、人間に無意識的に存在するこの性についての二つの認識のモードが、先に述べたフェミニズムの平等派と差異派の発想の違いにそのまま直結しているからである。そして平等派と差異派の二つが、最終的に女性と男性のあり方はどうあるのがよいのかについての長い論争の中で、決してどちらにも収束せず「葛藤しつつ併存して」きていることの理由も、この無意識的な二つのモードの葛藤によって説明しうるからである。
(『精神分析にとって女とは何か』より北村婦美「第一章 精神分析フェミニズム——その対立と融合の歴史」p.44-46)



 10時半起床。歯磨きとストレッチをすませて第五食堂へ。炒面を打包。午前の授業がまだ終わっていない時間帯だったので客も少なく、それで余裕があったのだろう、厨房のおばちゃんとおっちゃんが鉄鍋をふりながら夏休みは帰国するのかというので、帰国するつもりだ、もう一年九ヶ月も帰っていないと受ける。航空券はいくらくらいだというので、だいたいの旅程を説明したのち、Trip.comで確認した金額を告げると、很贵! とおどろいてみせるので、新冠以前はもっと安かった、いまは高い、以前は夏休みと冬休みに帰国していたが、いまはどちらかしか帰国できないと思うと告げる。給料はいくらだ? とおきまりの質問がある。中国人はマジで、あなたの名前は? 年齢は? 結婚しているのか? に続くくらい一般的であたりさわりのない質問として、給料はいくらだ? とたずねてみせる。しかしこれも田舎の中年および老年だけの話かもしれない、都市部の若者になると話が違ってくるのかもしれない。給料がいくらなのかよくおぼえていないので、7000元だととりあえず適当に受ける。たぶん食堂で働く彼女らの倍以上はもらっている。

 帰宅。狂戦士の食事をとり、コーヒーを飲み、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年6月6日づけの記事を読み返す。2013年6月6日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。
 (…)先生に微信を送る。ニュース記事校閲の報酬がふりこまれていない件について、三月か四月だったか、こちらの口座にふりこもうとすると余分な税金が発生するため、月をあらためてふりこむという話になっていたが、あれはどうなったのだろうか、と。
 寮を出る。ピドナ旧市街入り口の売店でミネラルウォーターを買う。そのまま外国語学院の教室へ。14時半から日語会話(三)の期末試験。本来は日語基礎写作(二)→日語会話(三)という時間割であるが、どちらも会話の期末試験の時間に当てる。試験の内容は「今学期一番面白かったできごと」「思い出の写真」「私の秘密」「他人の悪口」のうち、ふたつを選んでこちらに説明するというもの(適宜質疑応答もする)。今日試験を受けたのは(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さんの21人。(…)さんからはコロナに感染したので日程を変更してほしいという微信が届いた。二度目の感染。
 印象に残っている話を記録する。まず(…)さん。「私の秘密」について、じぶんは鬱病であるという。そう打ち明けた途端にぽろぽろと大粒の涙をこぼしはじめたので、あ、たぶん周囲に理解者のいないパターンだな、と察した。病院に通って診断されたわけではない、しかし高校生のころからそういう兆候があった、大学に入学してすぐ「心理テスト」を受けた、するとやはりその可能性が高いという評価が出たと続ける。家族や友達など相談する相手はいるのかとたずねると、だれにも打ち明けたことがないという。打ち明けたところで理解してくれる気がしないというので、相棒の(…)さんにすらいうことができないわけだなと思った。こちらもかつて鬱病と不安障害をわずらったことがあると話す。(…)さんはやはり少々驚いているようだった。とにかく辛いときは休めと伝える。無理をしてはいけない、がんばる必要もない、今日はちょっとダメだなと思ったら授業も休めばいい、(…)先生であれば理解があるし正直に打ち明けても問題ない、しかし(…)先生や(…)先生のように理解のないひともいる、そういう教員の授業であれば風邪をひいたと適当な理由をつけて休めばいい、とにかく楽に生きろ、じぶんを甘やかせ、という。話が終わったあとも(…)さんは涙がしばらく止まらず、結果、なかなか教室の外に出ることができなかった(廊下ではほかの学生たちが順番を待っている)。テストはひとりにつき7分から10分の予定だったが、しょっぱなからいきなり15分オーバーの長丁場。
 (…)さん。「今学期一番面白かったできごと」として、ルームメイトの(…)さんが入浴中足をすべらせて便器を踏み砕いてしまったというエピソード。底のバキバキに割れた便器の写真もみせてくれる。クソ笑った。修理代は大学が出してくれたらしい。それから「他人の悪口」として、やはりルームメイトの(…)さんがしょっちゅう夜食を食べるせいでじぶんも腹が減ってしまい、結果、夜食につきあって太るはめになってしまったというのだが、その際に「飯テロ」という単語を口にしてみせたので、どこでおぼえたんだよと苦笑した。どうも似たような言葉が中国語のスラングとしてもあるらしい。日本から輸入されたっぽい。
 (…)さん。「私の秘密」として、ネット詐欺にあったというエピソード。大好きなオンラインゲームがあったのだが、あるとき顔も知らないひと——たぶんオンラインゲーム仲間だと思う——からアカウントを貸してほしいと言われた。それでアカウントのIDとパスワードを貸したところ、相手はすぐにパスワードを変更、そのままアカウントをのっとられたというのだが、その話をしながら(…)さんはしきりに「もう大学生なのに!」「大学生にもなって!」と自身大笑いしながらくりかえすので、こちらもつられてゲラゲラ笑った。アカウントには総額5000元ほど課金していたらしい。いまはもうそのゲームをしていないのかとたずねると、していないという返事。考えようによってはよかったかもしれない、ゲームを卒業することができたと続けてまた笑うので、こちらもやっぱり笑った。(…)さん、全然勉強していない学生というイメージがあったし、実際先学期の成績もかなり低かったのだが、今日話してみた感じ、少なくとも口語はなかなかけっこうできる。なにより話がおもしろい。いや、それは試験の評価には関係ないのだが。
 (…)さん。「他人の悪口」として、合唱サークルの失礼な後輩について話す。彼女はモーメンツにしょっちゅう中国の伝統舞踊のようなものを踊っている動画をあげているので、その点言及してみると、それとは別に合唱サークルにも参加しているとのことで、要するに、音楽が大好きなのだろう。日本語はからっきしだが、やりたいことをやりまくる学生生活を送っているようすなので、すべてよし!
 (…)さん。「今学期一番面白かったできごと」として、便器を踏み砕いたエピソードを本人の口から説明。入浴中、床がせっけんのせいですべりやすくなっていた、それでつるりとなった、結果どうにか踏みとどまろうとしてのばした足が便器の内側を踏み砕く格好になったとのこと。怪我はしなかったのかとたずねると、しなかったという返事。
 (…)さん。「思い出の写真」として、武漢旅行時に見たメイド服を着た子犬の写真を見せてくれる。飼い主は二十歳くらいの男性。メイド服のほかに、犬用のセーラー服、犬用のスーツなども持っていると語っていたらしい。周囲にはギャラリーがたくさんおり、みんな写真を撮っていたとのこと。それから「私の秘密」として、子どものころに空き地で虐待されて死んでいる黒猫を見た、その夜熱が出てうなされることになった、中国では伝統的に子どもは「鬼神」に触れやすいといわれている、じぶんは人類をうらんだ黒猫にたたられたのではないかというエピソードの紹介。なかなかおもしろい。
 (…)さん。「思い出の写真」として、黄山を登山した際の写真を見せてくれる。雲海と初日の出。すばらしく美しい。山頂までは「ケーブルカー」で移動したが、その車内でこちらとそっくりの日本人を見かけたという。めがねをかけて、ひげをはやし、正確な発音で「だいじょうぶ」と口にしているそのようすを見て、あ! 日本人だ! と思ったとのこと。
 (…)さん。「私の秘密」として、八歳のころに母が骨癌で亡くなったという話。これにはなかなかおどろいた。母亡きあとは祖父母が大切に育ててくれたのでそれほどさびしくはなかったという。二歳下の弟は母の記憶がほとんどないかもしれないとのこと。ちなみに父親には現在恋人がいる。再婚はしないらしい。それから「思い出の写真」として、去年の夏休みのアルバイト先で撮った写真や動画をみせてくれた。たぶんショッピングモール内の施設だと思うが、子ども用の射的場のような場所で、(…)さんはそこで的の風船をこしらえたり景品のぬいぐるみを補充したりしていたという。一ヶ月で3000元稼いだというので、田舎のバイトとしてはまずまずではないかと思ったが、労働時間が朝の9時から夜の11時までだったというので、いや全然割に合わんやんけとなった。しかし本人としては毎日かわいい子どもと交流することができてなかなか楽しかったという。今年の夏休みもバイトするのとたずねると、わたしがバイトをやめたあとに「倒産」しましたというので、笑った。
 (…)さん。「私の秘密」。ノートパソコンの画面を壊してしまった。修理屋にもっていったら1300元請求された。親には言えないので、今学期自分で貯めたお金で支払った。エピソードとしてはめちゃくちゃ弱いが、日本語そのものは達者なので高い点数をつけた。ただちょっと気になるのが、以前サシで瑞幸咖啡に行ったときもそうだったが、彼女は恥ずかしくなると吹き出してそのままケラケラ笑う癖がある。それ自体はかわいらしい習性であるのだが、しかし来月から働く長野の旅館で、たとえば上司や同僚がなにかを説明している最中にこの癖が、一度や二度ではなく頻発するようであれば、それもクソ忙しくバタバタしているときにそうなるようであれば、話がその笑いのたびに中断されることになるそのことにイライラするひとも出てくるかもしれない、それがちょっと心配ではある。
 (…)さん。「他人の悪口」として、体育の男性教師が授業にいつも遅刻してくるという。さらに、今学期の成績がかなり悪かった、しかし試験でじぶんとおなじくらいの出来栄えだった別の女子学生の成績はよかった、彼女はその教員とふだんから仲が良い、だからたいそう腹が立つとのこと。これについてはなんともいえない。なんともいえないというのは、つまり、学生らがしばしば、おそろしく浅はかな、思い込みというよりももはや妄想に近いほど理不尽なやっかみを抱えることを知っていると同時に、教師は教師でしばしば、やはりおそろしく浅はかな、日頃から懇意にしている学生にあからさまな下駄をはかせるという行為を平気ですることを知っているからである。これらはコインのうらおもてみたいなもの。
 (…)さん。姪っ子だったか、生まれたばかりの子どもの写真を見せてくれたのだが、その際に名前をたずねたところ、「小名」はうんぬんかんぬんという。なにそれ? とたずねると、中国では幼子にたいして本名とは別に「小名」をつける習慣があるのだという。初耳だった。Weblioには「(子供が6,7歳になって学校に入るまでの名前で,長命を願ったり男系の子孫を望んだり,または子供の生まれた年月・十二支や体形の特色などを考えてつける.)」とある。それから「他人の悪口」として、先日髪を染めるためにおとずれた美容室で、じぶんのとなりに座っていた客を担当していた美容師が延々と広州にいる「生活者」の悪口を言っていたという。よくわからなかったので詳しくたずねてみると、どうやらアフリカ系の出稼ぎ労働者らに対する差別的発言をずっと口にしていたということらしい。微博でもよくそういう意見を目にするといきどおったようすでいうので、差別ということだよねと受けると、これは中国社会の問題ですと力強く口にしてみせるので、偉いなァ、この子は狂った小粉红なんかとは全然違うなァと感心した。すばらしいと思う。
 (…)さん。「私の秘密」として、実は鬱病であるという告白。(…)さんとは違い、実際に病院に行って診断も受けたとのこと。高校生のときは一年間休学していたという話もあったが、これは聞き間違いかもしれない、なぜなら両親には秘密にしているという話がのちほどあったからだ(さすがに両親に秘密にして一年間休学することはできないだろう)。両親はきっと理解がないという。友人にもまだ打ち明けたことがないというので、(…)さんとおなじパターンだ。排他的ペアをなしている(…)さんにすら打ち明けていない。双極性障害をわずらっている(…)さんや(…)さんもやっぱりそうだったし、たしか(…)さんもそうだったと思うが、精神を病んでいる中国の学生たちはみんな口をそろえて親や友人には言えない、だれも理解がないからという。それが悲観的なポーズでもなんでもなく、実際、この社会の大部分の大人たちはそうした方面についての理解がほとんどまったくないことは、大学で教鞭をとっている、いわば高い教育を受けているはずの教員らですら、たとえば(…)先生や(…)先生などが顕著だが、鬱病のことを本人の気持ちの問題だと断言してはばからない、そんなものは気の持ちようでしかない、甘えているだけでしかないみたいなことを平気でいう、そういう現状を目の当たりにしているこちらも重々承知しているし、そもそも日本語をろくにあやつることのできない学生がわざわざ、こうしたテストの場であったり、あるいは作文であったり不意のメールであったりすることもあるのだが、自分は実はこれこれこういう病気をわずらってとこちらにひそかに告白してみせる、言葉の壁をどうにか乗り越えてまでじぶんの窮状を訴えてみせる、その事実だけで、彼女らの周囲に理解者のほとんどいないことがわかる(これについてはそれこそ一年前、(…)さんとの食事会で、中国社会の印象はどうかとたずねられたときに答えたばかりだ)。これは神経症や精神病の話だけではなく、セクシャリティの話でも同様であるし、あるいは「離婚」や「死別」などの家族に関する話なんかもそうであるのだが、そういう話題に対するタブーの意識が強烈というか、周縁的なものにたいする社会全体の理解度の低さというものが、日本にしたところでまだまだ全然誇れるものではないだろうが、それにしても中国の場合はちょっと尋常ではないとつくづく思う。こちらは外国人であるし、学生らがこちらを評価する言葉にほぼかならずといっていいほど「自由」という言葉が入るそういう印象を与える存在であるらしいから、学生らもこのひとだったらというわけで親にも親友にいえない話をしばしば(ある意味では母語よりもはるかに自身を対象化しやすく距離をとることのできる外国語で)訴えるのだろうが、そういう学生らの判断を思うと、ときどき辛くなる。だれにも言えんままはきついよな、と。
 (…)さん。「他人の悪口」として、母親が酒飲みだと訴える。アル中というわけではない、ただ酒癖がかなり悪く、酔っぱらうとしばしば彼女を含む娘たちを叱りつけるらしい。最近も(…)さんの姉が酔っぱらった母親に暴言を吐かれて泣かされたというので、それはちょっとうっとうしいなとなる。母は「米酒」を愛飲しているとのこと。(…)さんは自分は絶対に酒など飲みたくないという。
 (…)さん。「私の秘密」として、喫煙と飲酒の習慣が今学期から身についてしまったという。先学期に彼氏ができた。しかしその彼氏は今学期、軍隊に行くといった(大学を卒業してなのか、中退してなのか、こちらにはよくわからない)。じぶんは別れたくなかったが、彼氏の気持ちはゆるぎなかった。結果、失恋の傷を癒すために、酒を飲んだり煙草を吸うようになったりした、すっかり「堕落」したというので、おおげさだなァと内心思いつつ、お酒を飲むのも煙草を吸うのも自由だよ、別に悪いことではない、堕落ではないよと受けると、でもじぶんは以前そういうものが大嫌いだったのだという。いや、そんなこというたらおれなんか(…)も(…)も(…)もやっときながらこうやって大学の教壇に立っとるわけやしと言いそうになったが、さすがにそれは刺激が強すぎるだろうからパス。しかし(…)さん、このクラスでいちばん遊び人っぽい女子学生であるのだが、それでもなおこういう保守的な認識なんだなとびっくりする。酒と煙草が「堕落」なのだったら、こちらも含めて(…)にいた人間は全員アビスゲートの向こうの四魔貴族なみにアレだということになってしまうのだが。ところで、(…)さんには姉がひとりいるらしいのだが、(…)大学の医学部だったか薬学部だったかに在籍しているらしい。これにはかなりおどろいた。相当エリートやんけ。そんな姉ちゃんとくらべられたら彼女もなかなかきついだろうなと思う。
 (…)さん。きみはもう試験を受けなくても優秀ってわかってるけどというと、じゃあもう受けずに帰りますとちょけてみせるので、アホと応じる。「思い出の写真」として、彼女、父親、祖父、祖母、おばの五人で正月に撮ったものを見せてくれる。母親がいないじゃんと思ったところ、「私の秘密」として、小学校五年生のときに両親が離婚したという話がある。以前先生に言ったかもしれませんというので、いや初耳だよと受ける。しかしたしかに彼女が語る家族の話のなかには母親の気配がいっさいなかった、というか常に父親と祖父の話ばかりだったなと思う。母親とは現在、一年に一度会うか会わないか。日頃のやりとりは生活費(小遣い?)の受け渡しを微信で交わすのみ。関係があまりよくないのかというと、よくないというより会ったところでなにを話せばいいのかわからないのだという。そもそも母親がいなくてさみしいと感じたことがない、離婚後はおばがずっと母親代わりだった、父親も祖父母もずっとやさしくしてくれた、だからさみしいと感じたことが全然ない、ときどき家庭の話をするとかわいそうだとかさびしかったでしょうとか同情されるのだが、本当にまったくそういう感情とは無縁のままいままで生きてきたので、かなり困惑してしまうのだというものだから、それは父親とおばさんに感謝だねと受ける。(…)さんはそもそも根が明るい。それに自己肯定感もけっこうみなぎっている。日本でも中国でもいろいろ見てきた機能不全におちいっている家庭で育った人間特有の屈折——それは当然こちらももちあわせているものだが——が全然認められない。だから彼女のさびしくないという発言は強がりでも逆張りでもなく、シンプルかつ率直な本音なのだと思う。
 (…)さん。「私の秘密」として、四歳のときに両親が離婚しているという話。以降、母親と母方の祖父母といっしょに生活しているのだが、母とは特に仲が良く、なんでも相談するような間柄らしい。だから(…)くんと別れたあとなんかもしょっちゅう泣きながら電話していたとのこと。(…)さんについては父親のいない家庭で育ったという話がかなりしっくりくるというか、今日この話をきいたときも全然おどろきはなかった、父権的なものに転移しやすい性質を持っているのがわりと日頃のようすから察せられるので。ついでなのでスピーチ練習の状況について確認してみたところ、一年生の代表は(…)くんに決定(これは以前本人から聞いた)、二年生の代表は彼女と(…)さんのふたりが候補であるが後者は現在コロナ療養中、そして三年生の代表は(…)くんに決まったというので、これには、えー! とびっくりした。(…)くんはそもそも予選にすら参加していなかったわけだが、候補にあがった人物がことごとく院試に参加すると表明したためだろう、結局、院試にも参加しないし日本にインターンシップにいくわけでもない彼が代表として選ばれたというわけだ。彼はいちおう去年も候補にはなっているし、鍛えればそれ相応のかたちにはなるのかもしれないが、でもやっぱりそれ相応止まりであるよなという印象。
 (…)さん。唯一メモが残っていない。たぶんそんなに印象的な話がなかったのだろう。しかし評価はぼちぼち高い。リスニングがけっこう優れていた。
 (…)さん。「他人の悪口」として、ルームメイトがトイレ掃除をしないという話。ルームメイトは現在自分以外全員が英語学科の先輩だという。立場が弱いわけだ。以前は(…)さんもルーメイトだったわけだが、彼女は今年で卒業。彼女は例外的に很好だったというのでちょっと笑った。
 (…)さん。「思い出の写真」として、生まれたばかりのいとこの写真をみせてくれる。いとこには年の離れた兄と姉がいるのだが、ふたりは難病だという。なんという病気かとたずねると、庞贝とある。これ、ググってみると、「ポンペイ」のことらしい。そしてこれははじめて知ったのだが、「ポンペ病」なる病気があるのだ。「ポンペ病は、細胞内でのグリコーゲンの分解に必要な酵素が生まれつき足りないために、全身の細胞(特に筋肉の細胞)にグリコーゲンが蓄積する先天代謝異常症です。 発症時期により乳児型、小児型、成人型に分けられます。 乳児型は出後数カ月以内に筋力低下をきたします。」とのこと。生まれたばかりのいとこもその病気をわずらっているのかどうかはわからないが、兄のほうはすでにベッドで寝たきりに近い生活を送っている、中学生である妹のほうはいまは「普通の生活」を送っているらしい。薬の費用もめちゃくちゃ高いらしく、たしか一年で四十万元だったか四百万元だったか、政府の補助があるので実際はそれほど払う必要はないのだが、それでもなかなか大変そうな話だった。あと、「私の秘密」として、日本語学科を専攻した理由として英語が苦手だったからと周囲には言っているが、実際はそうではない、高校生のときに付き合っていた彼氏が日本語を勉強していた、だからじぶんも日本語を勉強することにしたのだという話があった。彼氏は高校卒業後そのまま日本の南山大学に留学、(…)さんとしては大学は中国で日本語を勉強、その後日本の大学院に進学して彼氏と合流という計画でいたそうだが、コロナ禍によって彼氏の一時帰国が不可能な状態が長らく続き、それがきっかけとなって一年生のころに別れてしまったらしい。
 (…)さん。「思い出の写真」として友人が飼っていた子犬の写真をみせてくれる。一歳未満。しかしもう死んでしまったという。「蚊取り線香の中毒」が原因だったらしい。写真をみるかぎりトイプードルのような外見だったが、ラブラドールレトリーバーとなにかのミックスだという。「今学期一番面白かったできごと」は、先々週だったか、彼氏の働いている蜜雪冰城の店内でテーブルに腰かけて日本語の単語を暗記していたところ、見知らぬ男子学生がおなじテーブルにやってきた、そしてじぶんも日本語を勉強している、そのうちN2を受けるつもりだといった。男子学生は(…)さんが使用している単語アプリに興味があるといった。教えてほしいというので、言われたとおりに教えた。すると今度は、アプリの使い方がわからない、いろいろ詳しく教えてほしいので微信の連絡先を教えてくれないかと続いたという。要するに、日本語学習にかこつけたナンパだったわけだが、その一部始終を彼氏は店のレジの向こうからじっと見ていた、そしてその彼氏の様子を同席していた(…)さんの友人が口にすると、男子学生はそこではじめてレジの店員が彼女の恋人であると気づいた、そしてものすごいいきおいで走って店を出ていったという。これはなかなかおもしろい話だ。走って出ていくというのがいい。ちなみにその男子学生はこちらのことも知っていると言っていたらしい。しかし日本語学科の学生ではない。知ったかぶりか、ただどこかでこちらの姿を見かけただけか、たぶんそういうアレだろう。ところで、(…)さんの口語能力はこちらの想定以上だった、リスニングもほぼ問題ない。少なくとも今日このときの印象だけであれば、(…)さんを上回っているんじゃないかと思う。この状態で三ヶ月間インターンシップに参加すれば、かなりぺらぺらになって中国にもどってくることになるかもしれない。ちょっと楽しみだ。すばらしい。
 (…)さん。「私の秘密」として、じぶんは両親に愛されていないかもしれないという。子どものとき、大雨が降った、ほかのクラスメイトはみんな両親が学校まで迎えにきたのにじぶんの両親は迎えにこなかった、ふたりは妹と弟の迎えにいっていた。おなじようなことが、たしか中学生のころといっていただろうか、もう一度あった。それは単純に彼女が長女だからじゃないのかと思ったが、言葉の壁があるせいでうまく説明することのできないその他多くの傍証がもしかしたらあるのかもしれない。しかし現在は両親との関係はそれほど悪くない。そういう印象をもったのはあくまでも過去のことらしい。弟と妹との関係もよいとのこと。

 授業を終えて教室を出る。(…)先生から返信が届いている。今日の午後まさに財務処から書類を受けとったところだったので連絡しようと思っていたとのこと。ニュース記事校閲の報酬については、やはりいっぺんにこちらの口座にふりこむと税金が発生してしまう、そこで事情を伝えた日本語学科の学生四人の口座に報酬を分けてふりこみ、その後彼女らから微信経由でこちらにしかるべき額を送信するというかたちに決まったという。了解。
 ケッタに乗る。ピドナ旧市街を出て、新学区のほうに渡るために横断歩道の前で信号を待っている最中、三年生の(…)くんと(…)くんから声がかかる。ふたりで餃子を食った帰りだという。(…)くんはめずらしくカチューシャをつけていた。前髪が邪魔になってきたからだという。(…)くんは大学院試験にそなえて毎日図書館で勉強している。(…)くんは両親の後を継いで料理人になるのかとたずねると、両親はその道に反対している、じぶんには教師になってほしいと考えているようだという返事。意外だった。味覚障害および嗅覚障害がもう一週間以上続いていると訴えると、(…)くんも前回感染した際に一週間ほど完全に嗅覚を失ったといった。トイレでうんこをしてもまったく臭くなかったというのでクソ笑ったが、しかしそれでいえばたしかに、先ほど外国語学院の便所でこちらは二度にわたって小便をしているわけだが、常ならば地獄のように臭くて不快なあの空間がまったくの無臭だった、そう考えてみるとコロナ感染もなかなか便利なものではないか!
 ふたりと別れて第三食堂へ。海老のハンバーガーと牛肉のハンバーガーを打包する。帰宅。(…)さんに期末テストは来週の火曜日でかまわないと返信を送る。はじめて感染したときよりも今回のほうが症状が重いらしい。熱が出て気分が悪いという。
 (…)さんにはげましの微信を送る。今日は打ち明けにくいことを打ち明けてくれてどうもありがとう、と。「今日の会話はとても収穫があって、先生は私を理解してくれてありがとう。」とじきに返信が届く。きみのことを理解してくれる友人や恋人ができるといいねというと、「私は必ずあると信じていますが、今はまだ縁が来ていません。」という返事。
 (…)さんにも激励の微信を送る。もともと優秀な学生だとは思っていた、しかし今日テストをやってみてこれほどスムーズに会話できるとは思わなかった、本当にびっくりした、と。(…)さんは来月から三ヶ月間長野県だが、きみの能力であれば会話には不自由しないと思う、ただ江西省の料理とは違って日本食は味がとても薄いので苦労すると思うというと、じぶんは浙江省での生活が長かったし友人らと和食の店にもよく通っていたのでだいじょうぶだと思うという返事。それでいえば、(…)さんも両親が離婚? 死別? して、その後再婚、血のつながっていない兄弟姉妹がいるみたいな複雑な家庭だったはずで、学生たちからしばしば聞く話であるが、近年の中国の離婚率は実際けっこう高くなっているようす。それでいえば、一年前だったか二年前だったか三年前だったか、高まる離婚率対策として、役所が離婚届を正式に受理するまでのあいだに一定の冷却期間を設けるみたいな政策を打ち出して、しかもその仕組みというのがその冷却期間中に夫婦のいずれかが離婚届の取り下げを申し出れば申請はなかったことになるみたいな仕組みで、DV夫がやりたい放題できるだけじゃねえかみたいな批判をけっこう浴びていたはず。
 (…)さんから微信が届く。恥ずかしいときにいつも笑ってしまう、こんな状態で日本にいってもうまくコミュニケーションがとれるかどうか心配だというので、まずは会話に慣れるのが先決だ、慣れたらそんなふうに吹き出すこともないだろうと応じる。

 シャワーを浴びる。あがってストレッチをしたのち、今日づけの記事を書きはじめる。一年生の(…)さんから微信。期末試験の結果について知りたいというので、最低点を基準にして成績をつけるので全員の試験が終わるまで確かなことはいえないと応じる。(…)さんはリスニング問題をひとつ落としてしまっているのだが、スピーキング問題はすべてパーフェクトでありかつなめらかであったので、現時点で「良」以上であることは確実、試験前に暫定的に設けた基準に照らしてみれば「優」にも届く結果にはいちおうなっている。留学するためには優秀な成績をおさめる必要があるのだというので、日本に留学するつもりなのかとたずねると、韓国の延世大学に留学したいという返事。「毎学期末の各科目の平均点85以上を保証しなければなりません。」「日本語と韓国語とieltsを一生懸命勉強しています。」とあるので、韓国の大学に留学するという話を学生から聞くのはこれがはじめてであるなと思いつつ、延世大学でググってみると、「韓国では、ソウル大学校高麗大学校と共に「SKY」と呼ばれる3大トップの最難関大学の一つである」とあって、また大きく出たもんだなとびっくりした。
 (…)さんからも微信が届く。「先生は本当に温かい人です, どうもありがどう!」と。鬱病の告白を受け止めたこちらに対する礼の意味らしい。あれだけ親しく付き合っている、傍目には親友といってもさしつかえないようにみえる(…)さんにすら、病気のこととなると打ち明けることができない、(…)さんと(…)さんのペアについてもいえることだが、そこにこそむしろ社会の病理を見る思いがする。
 しかしこうして記事を書いていて思うのだが、やっぱり人生というやつは、そのひとつひとつは過酷でしんどいものかもしれないが、総体として見た場合、一種はるかな感動をともなってこちらにせまってくるものだ。学生ひとりひとりと普段からこんなふうに話すことができたら退屈しないんだけどなと思う。アニメやゲームの話なんかよりもずっとおもしろい、やっぱり魅力的なのはエピソードなんだよな、思い出話なんだよ、実存に触れるなにかであるのだよな、と、書いていてふと思ったのだが、こちらはもともとそうしたナイーヴな話題を口にする空気を作りあげるのが得意であるというか、ふつうに話しているだけであるのに、これはある意味がさつであるということなのかもしれないが、気づけば相手の実存に土足で多少乱暴に踏み入り、踏み分け、シリアスな話題をしかし明るく打ち明け合う、そういう会話をそれほど親しくもない相手と交わしはじめるという一種の特性があるのだった(それは(…)で働きはじめた十年前の日記を見ているだけでもよくわかる)。学生らともそれくらい強引なコミュニケーションをとったほうがいいのかもしれない。面子文化であるし、ナイーヴなあれこれを集団の前でさらけだすことにはやはり抵抗があるのかもしれないが、すくなくともこちらとサシであればおそらく問題ない、というか作文やテストを通して学生らのほうでむしろ積極的にそういう打ち明け話をしてくるくらいであるのだから、それこそが(教師であり、外国人であり、しかるがゆえに転移の対象となる知を想定された主体として)もとめられている役割なのかもしれない。
 今日づけの記事を中断してトースト二枚を食す。モーメンツをのぞくと、卒業生の(…)さんが婚約を報告している。去年の卒業生。彼女はたしか内モンゴル出身の少数民族だったはずだから、(…)さんと同様、高校卒業後少数民族専門の教育機関に一年通ったのちに(…)に入学したというパターンかもしれない、仮にそうだとすると年齢は現在24歳ないしは25歳であるわけで、いや、やっぱりはやいわ。彼女はちょっとしたモデルのような仕事をしていたはずだから、相手の男性ももしかしたら同じ業界の人間なのかもしれない。
 ベッドに移動後、『現代タイのポストモダン短編集』(宇戸清治・訳)の続きを読む。「崩れる光」(プラープダー・ユン)を読んだが、これは最初の数行を読んだ時点で、あ、ほかの作家とは違うな、と思った。実際、ほかの収録作とはことなり、なるほどこれは「ポストモダン短編」に名前負けしていないなというできばえで、ほかの著作にもちょっと興味がわいてくる。というか、プラープダー・ユンという名前に聞き覚えがあって、どうしてだろうと思ってググってみたところ、『ゲンロン』で連載をもっていたり、2021年に福岡アジア文化賞を受賞したりしているので、たぶんそのあたり経由で知ったのだろう。