20240430

 私は書き手の意図——ひいては人間が思考する意図——はたいしたことではないと思っている。小説があらかじめ想定された書き手の意図の範囲内でおさまってしまったら、小説は人間の思考の範囲の中でおさまってしまう。
保坂和志『小説の誕生』 p.399)



 6時15分起床。外は雨降り。最高気温もひさびさに20度を切った。トーストとコーヒーの食事をとったのちケッタで外国語学院へ。
 8時から二年生の日語基礎写作(二)。前半で「ニュースの原稿」清書。窓の外からびゅーびゅーいう風の音がきこえてくる。幽霊みたいだねというと、みんな笑う。途中で五階の便所に移動してうんこ。この曜日この時間の授業中にうんこするのが癖になっていないか?
 後半で「早口言葉」を五つ紹介。三回連続で上手に言えるようになったらミルクティーかコーヒーをおごってあげると約束する。それから「定義クイズ」の残り。途中「あだ名」という単語を説明する流れで、中国であだ名といえば「小◯」とか「◯◯」というかたちが多いよねと話に(◯にはファーストネームの漢字一字が入る)。ほかに「阿◯」というかたちもあるというので、じゃあぼくは「阿三」なの? とたずねると、「阿三」はインド人のことですと学生らが笑いながら言う。さらにだれかが「小三」と口にする。教室が爆発でもしたんじゃないかといういきおいでわいたので、なになに? とたずねると、「小三」は愛人という意味なのだとR.Uくんがいう。聞いたことがある! でもどうして? とかさねてたずねると、「(愛人は夫婦にとって)第三者だから」とR.Kさんがいう。なるほど!
 授業を終えて教室を出る。きのうChatGPT事件があったからだろう、今日のR.Hくんはさすがにおとなしかった(とはいえ、最後の「定義クイズ」にはけっこう積極的に参加していたが)。外国語学院をあとにする。(…)で食パンを三袋買う。セブンイレブンでカレーとライチのジュースを買う。帰宅して食す。
 きのう風呂からあがったあと、寝巻きとしてユニクロのTシャツを着用したのだが、それがやたらと変なにおいがして、生乾きの洗濯物特有のあの気持ち悪いにおいとちょっと似ていたのだけれどもそれだけではない、ちょっとこれまで嗅いだことのないにおいで、だからといってそこまで強烈というわけではない、着用している状態でなんらかの動作をとるとときおりふわっとにおってくるという感じであるのだけれども、いずれにせよ気持ち悪い。で、これはもしかしたら洗濯機のほうの問題なのかもしれないと思われたので、食後、洗濯槽洗浄のスイッチを押して洗剤をなみなみそそぎこんでおいた。
 ベッドに移動する。一時間以上寝た。起きると、R.Uくんから作文コンクール用の原稿がとどいていた。中身にざっと目を通したが、こちらとのやりとりがちょっとラノベみたいな文体で書かれていて、さすが二年生で一番のアニオタだけあるな! と感心した。洗濯機をのぞきにいくと、洗濯槽に水がたまったまま停止していたので、あ、排水はたしか別途じぶんのタイミングでボタンを押す必要があるんだっけと思い、適当なボタンを押した。すぐに排水された。きれいになった洗濯機におかしなにおいのついているヒートテック複数枚とほかの衣類をぶちこんだ。これでたぶん問題ないはず。
 さて、明日から五日間の連休である、というか実質この午後から連休開始や! わっしょい、わっしょい! といっても调休が二日間ある関係で全然すなおによろこべないというか、中国政府はマジで调休というクソ制度をいますぐ撤廃すべきだと思う。こちらが赴任した当時はこんなクソ制度は存在しなかった!

 14時前から作文。「実弾(仮)」第五稿。シーン38、片付く。シーン39もあたまから尻まで通す。ここもおそらくそれほど手こずることなく終えることができるはず。
 第五食堂へ。ひとが少ない。おかずも少ない。午前で授業の終わった学生らはみんな帰省したり旅行に出かけたりしているのだろう。食堂、連休中は営業しない可能性がある。スケジュールを知りたい。
 打包したものを食す。「小三」ネタをモーメンツに投稿し、チェンマイのシャワーを浴び、きのうづけの記事の続きを書き、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。以下、2011年9月8日づけの記事より。『カフカ 実存と人生』(辻ヒカル)から。

自分のもっている最終目標という点からわたし自身を検討してみると、そこからつぎのようなことが明らかになるのです。つまり、わたしは本来よい人間になろうとか、最高の法廷に適応しようとか努めているのではなく、わたしが努めているのはそれとはまったく反対に、人間社会や動物社会全体を概観し、その基本的な偏愛や願望や道徳的な理想などを認識して、それらをかんたんな規定に還元し、その方向にそってわたし自身をできるだけ早く発展させようということであり、その発展の結果、わたしがだれにでもみんなに気に入られるようになり、しかも(ここに飛躍があるのですが)その気に入られた結果としては、わたしがみんなの愛を失うことなく、結局のところは、火焙りにされないただ一人の罪人として、わたしのなかに宿っているいろいろな下劣さを、すべての人の目の前に公然とさらけだしてもかまわないようになる、ということなのです。これを要するに、わたしにとってはただ人間の法廷だけが問題なのであり、しかもこの人間の法廷をわたしは欺こう、ただし、嘘をつくことはしないで欺こうとしているわけです。

 以下は2011年9月18日づけの記事より。『死者の挨拶で夜がはじまる』(丹生谷貴志)から。

そこで……子供の心を持ったひとならこれが帽子ではなくて象を呑み込んだ大きなヘビだとわかるはずです……サン・テグジュペリの『星の王子さま』の冒頭の一節が浮かぶ。大嫌いな一節。子供の心を持ったひと? 子供の世界には確定した情報の量が希薄だ。その結果彼らはその希薄な確定情報を寄せ集めて膨大な物理的知覚情報を処理するしかない。そこから彼らの「説明」は大人からすれば突飛な、愛らしい空想の趣を帯びて聞こえることになる。ヘリコプターのプロペラが見えなくなるのは、あまりに早く回るからプロペラに風と光が混ざってしまうからだ……青虫の腹が揺れるのは中に葉を溶かす工場があるからだ…… 蟻たちは青虫の首を運ぶ警察を持っている……しかし、その論理は本質的に異様なほど唯物論的である。彼が希少な情報を駆使して自らに説得しようとしているのはひたすら物質的世界であって空想や夢の世界ではない。だからその説明が大人の目から愛らしい想像に見えても、彼らは想像しているのではない。そこにはメタファーはない。そこに「子供の世界」の想像豊かな夢の広がりを読み取るのは大人の側の勝手な視線の問題であり、そこには実際上ロマン主義はほとんどない。子供の世界が無気味なのは夢が完全に欠如しているからであるだろう。子供は夢見ない。夢見るのは大人であって子供ではない。

 読み返しのすんだところで、今日づけの記事も途中まで書いた。それからR.Uくんの作文コンクール用原稿をチェック。ただ添削するだけではなく、書き直しを前提として、全体の構成をどのように変更すべきか、論旨の一部について具体的にどういうふうに書き直したほうがいいか、そういう指示をいちいち書きつけていく必要があるので、なかなか大変。しかしその過程でなぜか、今年の卒業生に送る手紙の内容についてひらめきを得たので、これにはちょっとほっとした。今年はどうしたもんかなと最近けっこうやきもきしていたのだ。作業の合間に懸垂をし、K先生からいただいたブルーベリーを食す。寝床に移動後はめちゃくちゃあっさりと眠りに落ちた。