20240508

(…)『ローマ書講解』という本はおそらく最初のページから一語一語厳密に読み込んでいっても理解できるような本ではないのだろう。よく意味がわからないと思うことを一所懸命蓄えていって、それがあるときに私たちが馴れ親しんでいるのではないもう一つの言語の体系となったときに、全体としてある実感が与えられるような本なのではないか。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.16)



 8時15分起床。トーストとインスタントコーヒー。予報によると今日の最高気温はふたたび30度近くまで達する模様。半袖一枚でも問題ないと判断する。
 10時から一年生2班の日語会話(二)。第22課。衣服に関する表現。おおきな問題はなし。しかし以前K先生も言っていたが、このクラスもやる気のない学生の数がだんだんと増えてきた。ま、平均的な推移ではある。それに1班とくらべたらずっとマシだ。
 授業後、第五食堂に立ち寄る。この時間帯の食堂が『ウォーリーをさがせ!』なみの人口密度の地獄に変貌することはわかっているのだが、もしかしたら……という淡い期待とともに一階にある広東料理の店へ。ビンゴ! ほかの店が長蛇の列になっているのに対し、広東料理の店はガラガラ。ほとんど並ぶ必要なし。キエー! とんでもない穴場見つけたで! これで11時40分終わりの授業後にいちいち外食する必要もあらへん! やっぱりみんな唐辛子がじゃんじゃか入っとるメシが食いたいんやな。ワシみたいな鬼子は薄味の鴨肉で十分でさァ!
 寮の階段でJと遭遇。暑いねと軽くあいさつ。帰宅してメシ食う。ベッドに移動して一時間ちょっと寝る。
 起きる。コーヒーを淹れて、きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事の読みかえし。以下、「2012年3月後半の記事」からロベルト・ムージル『特性のない男』第五巻の抜き書き。

「(…)なぜなら、健康人と精神病者との相違とは、健康人はあらゆる種類の精神病をもっているが、精神病患者はただ一種類のそれしかもっていない、ということなのですから」

だが疑いもなくわれわれは、何のために生きているのかと、いつでも思い出したがる。これが世界のあらゆる権力(暴力)行為の根源です。

 以下はミシェル・フーコー『これはパイプではない』より。

マグリットは類似から相似を切り離した上で、後者を前者に対立させているように思われる。類似には一個の「母型(パトロン)」というものがある。すなわちオリジナルとなる要素であって、それから取り得る、だんだんに薄められてゆくコピーのすべてを、自己から発して順序づけ、序列化するものだ。類似しているということは、処方し分類する原初の照合基準(レフェランス)を前提するのである。相似したものは、始まりも終りもなくどちら向きにも踏破し得るような系列、いかなる序列にも従わず、僅かな差異から僅かな差異へと拡がってゆく系列をなして展開される。類似はそれに君臨する再現=表象(ルプレザンタシオン)に役立ち、相似はそれを貫いて走る反復に役立つ。類似はそれが連れ戻し再認させることを任とする原型(モデル)に照らして秩序づけられ、相似は相似したものから相似したものへの無際限かつ可逆的な関係として模像(シミュラクル)を循環させる。

 以下はドゥルーズ『記号と事件』より。

私たちはプロセスとしての精神分裂病と、病院向けの臨床的実体としてのスキゾの生産を区別する。このふたつはどちらかというと反比例の関係にあるからです。病院のスキゾとは、何かをこころみてそれに失敗し、身をもちくずした人間のことです。私たちは、革命的なものがスキゾだと主張しているのではありません。脱コード化と脱領土化によって成り立つスキゾのプロセスがある、そしてこのプロセスが精神分裂病の生産に変質するのをさまたげることができるものは革命につながる活動をおいてほかにない、そう言いたいのです。私たちは一方で資本主義と精神分析の緊密な関係をめぐる問題提起をおこない、もう一方では革命運動とスキゾ分析の緊密な関係について問題を提起しているのです。資本主義のパラノイアと革命のスキゾフレニー。そんな言い方ができるのは、私たちがこうした用語の精神医学的意味をもとにして考えているからではなく、逆にこれらの用語が社会的にも政治的にも限定を受けるところから出発しているからです。そうしてみてはじめて、これらの用語を特定の条件のもとで精神医学に適応させることができるようになるのです。スキゾ分析の目標はただひとつだけです。それは革命機械や芸術機械や分析機械が、たがいに相手の部品や歯車となりながら組み合わされるということです。もう一度、妄想を例にとるなら、妄想にはふたつの極があるように思われる。ひとつはパラノイアファシズムの極で、もうひとつがスキゾ革命の極。そして妄想はこの両極のあいだを絶えず揺れ動いているのです。私たちの関心をひくことは、結局、専制君主シニフィアンと対立する革命的分裂なのです。
(「フェリックス・ガタリとともに『アンチ・オイディプス』を語る」*ドゥルーズ発言)

開放性はリルケが好んだ詩作上の概念としてよく知られています。しかし、これはベルクソンの哲学概念でもあるのです。重要なのは集合と全体の区別です。このふたつを混同すると、「全体」はまったく意味をなさなくなるし、全集合の集合という有名な逆説におちいってしまうからです。個々の集合は多様きわまりない要素を結びつけることができます。しかし、それでもなお集合は閉じている。相対的に見て閉じられていたり、人為的に閉じられたりするわけです。「人為的に」閉じられると言わざるをえないのは、集合には本来一筋の糸があって、それがどんなに細くても、かならず当該の集合をより広範な集合に結びつけ、結局は集合が際限なくつながっていくことになるからです。全体のほうはまったく違う性質をもっている。時間の序列に属しているからです。全体はすべての集合を横断する。集合が集合に特有の傾向を完全に実現するにいたるのをさまたげるのが、この全体にほかならない。つまり全体は、集合が完全に閉じてしまうのをさまたげるわけです。ベルクソンはことあるごとに注意をうながしている。時間とは開放性であり、変化をくりかえすものだ。時々刻々と性質を変えていくのが時間なのだ、とね。つまり時間とは、集合のことではなく、ひとつの集合からべつの集合への移行をくりかえし、ひとつの集合を別の集合のなかで変形させていく全体のことなのです。

 作業中、一年生2班のK.Kさんから微信。今日の授業終わりに作文コンクールについて通知したのだが、参加したいとのこと。ほかのクラスと同様、このクラスでも連休前に通知しておけばよかった。

 R.UくんとS.Sさんの作文コンクール用原稿を添削して送る。(…)二年生のY.Bさんからスピーチ用の原稿を修正してほしいとメッセージがとどく。たぶんクラスメイトのS.Eさんが外教に添削をお願いすればいいと吹きこんだのだろう。この流れでクラスメイトらから続々と依頼がとどくみたいになってほしくない。(…)といえば元(…)の学生であるS.Fさんから修士論文の口頭試問が無事に終わったという報告とともに、提出するまえに文章をあらためてチェックしてほしいという依頼もとどいたのだった。ほんまに忙しい時期ってなんでこうも依頼がどしどし連チャンで舞いこんでくるんや。
 第五食堂の二階で夕飯を打包。食し、チェンマイのシャワーを浴び、20時前になったところで卒業生への手紙の続きを書きはじめる。22時半に中断。全然ネタありませんわという感じであったし、見通しらしい見通しもろくについていない状態で書きはじめたのだったが、気づけば大筋ができあがっていた。やっぱり手動かしてなんぼやな。毎年毎年思うんやが書き出してみればほんまなんとかなるもんや。昨日おとといに読みかえしたマイルス・デイヴィスの言葉やムージルやの言葉を引用することに決めた。
 カタカタやっている最中、二年生のR.Hから微信。みじかい文章の添削依頼。作文コンクール用の原稿かなと思ったが、「私のアイドル」用の文章だった。修正後、軽くやりとり。「先生、最近私は車の練習に気が狂っていると言っています」「体も心も疲れている」というので、そういえば先週の授業は自動車学校の試験があるからという理由で休んでいたなと思った(中国の大学では車校を理由に授業を欠席するのは問題なく認められる)。免許をとったらごはんをおごってあげるからがんばりなさいとはげます。来週の月曜日が最終試験らしい。
 スマホのメモ帳に記録するだけして書き忘れていたこと。二、三日前に唐十郎の訃報に触れたのだった。唐十郎の作品に触れたことは実は一度もない。しかしこうして比較してみるとしみじみ思うのだが、寺山修司は早逝だった。
 歯磨きしている最中、YouTubeでひさしぶりに柳沢慎吾を見て、口の中から歯磨き粉をぶちまけそうになるほど笑った。柳沢慎吾ルー大柴高田純次には長生きしてほしい。好きな芸能人を選べと言われたらこの三人をかならずあげる。ベッドにムーブした後、『回転木馬のデッド・ヒート』をリードしてスリープ。
 と、書いているいま、ひさしぶりにルー大柴のブログを読んだのが、2024年5月6日づけの「ホワイトジャケット」という記事の中にある「一石ツーバード」というワードで死ぬほど笑った。