20240511

 私というのは「広域的なアルゴリズム」によって何重にも補正された状態であって「広域的なアルゴリズム」による補正が弱ければ——弱い補正があたり前の社会であれば——私の私に対する確信ももっと弱いか別のものになっていたかもしれない。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.38)



 8時15分起床。トーストとコーヒー。今日は劳动节の调休で3日(金)の分の補講を行う必要がある。昨日も金曜日だったので、二日連続で二年生の日語会話(四)を行うことに。そういうわけで10時から「私のアイドル」第3回。きのう注意した甲斐もあってか、今日は発表がテキパキと良いペースで進んだ。K.Kさん、E.Sさん、S.Sさん、C.Sさん、R.Iさん、G.Kさん、C.Eさん、G.Sさん、R.Gさん、R.Sさん。文句なしのA評価はS.SさんとG.Kさんくらいか。しかし全体的に楽しめた。K.Kさんのアイドルは三年生のC.Sさんも大好きな農業男子。バラエティ番組の企画で農業やら酪農やらに取り組んでいるかっこいい男の子たちのグループ。なんとなくだが、このグループの活動には政府も噛んでいるのかもしれないと思う。中国ではブルーワーカーを見下す風潮が根強いので、そういう忌避感みたいなものを若い世代から拭いさるために彼らの活動を後押ししているんではないか、と。E.Sさんのアイドルは女子卓球選手。その流れで知ったのだが、今年はパリオリンピックの年らしい。なにもかもが信じがたくクソダサかったあの東京オリンピック、国力衰退の象徴といえばまっさきに思い浮かぶあのオリンピックからもう四年になるの? と心底びっくりしたわけだが、東京オリンピックは一年遅れで開催されたわけだから正確にはあれから三年か。あの当時はまだ日本でオンライン授業をしていた。S.Sさんのアイドルは日本在住の中国人インフルエンサー。街中で見かけた若者にあなたのお宅に中華料理を作りにいっていいですかと声をかける活動を行っている(以前学生から動画を見せてもらったことがある)。C.Sさんのアイドルは俳優か歌手だったと思う。R.Iさんのアイドルは丁立梅という作家。G.Kさんのアイドルは『ハウルの動く城』のハウル。C.Eさんのアイドルも俳優か歌手だったと思う。G.SさんもR.Sさんもそうだったはず。R.Gさんのアイドルは『桜蘭高校ホスト部』のキャラクター。本当にかっこいいので見てほしいですといって紹介しようとした動画がなにかしらのトラブルで再生されなくなったので、まあ動画はいいよと言ったところ、でも! 本当にかっこいい! わたしは紹介したい! とやたらと食い下がったのでみんな笑った。あとでbilibili動画でチェックしておきますと告げたのだが、のちほど彼女から微信で直接くだんの動画がとどいた。ちなみに『桜蘭高校ホスト部』というのは2006年のアニメらしく、いま二十歳前後の二年生らにとってはずいぶん古い作品ということになる。R.Gさんは先月このアニメを知って大ファンになったとのこと。
 授業後、おなじく授業終わりのK先生の姿を教室内に見つけたので、廊下でしばらく立ち話。たぶん数年に一度おこなわれるものだと思うのだが、大学が現在カテゴライズされているグレードにふさわしいかどうか審査するために政府の役人がちかぢか授業をのぞきにやってくるらしく、その関係で主任のC.N先生がかなり忙しくしているという。学生らのほうにも通知が届いていると思うのだが、その期間だけでも授業中スマホを絶対に使わないようにと指導してほしいとのことだったので、1年生1班の後列組にはちょっと釘を刺しておいたほうがいいかもしれない。とはいえ、こちらの授業の大半は6階でやっているわけであるし、そんなところまでわざわざ役人が階段をのぼってやってくるとは思えない。それに前回の、ということは数年前であるわけだが、審査の際にもこちらの授業をのぞきにやってきた人物はいなかった気がする。学生よりもこちらの服装のほうが問題かもしれない。今日もピアスとネックレスとリングでチャラチャラした格好をしていたわけだが、原則として男性教諭のアクセサリーは禁止であると赴任したばかりの当時国際交流処から注意を受けたことがあるのだ。無視し続けているけど。
 来学期の新入生についても話す。新入生がやってくるかどうかいまはまだわからないとのこと。K先生としてはさすがに来学期いきなり日本語学科の新入生が受け入れ禁止になる可能性は低いだろうと見ているようすだが、うーん、どうやろね。新入生を受け入れるのであればやはり1クラスがいいという。1クラスであれば第一志望が日本語学科の子らでクラスの大半は埋まるだろうからというので、やっぱりK先生もいまのやる気のない一年生には手を焼いているのだなと思った。それでもK.KさんやT.Eさんのようなやる気のある子もいますしねという話になったものの、T.Eさんはほかの学院に「転籍」を希望しているとのこと。びっくりした。K先生も本人から直接聞いたわけではなく、クラスメイト経由で聞いたというのだが、いやいや、せっかくあれだけ熱心に授業を受けてくれている学生であるのに! 絶対去ってほしくないんすけど! という感じ。K先生も同意見。
 あと、K先生は英語学科の学生の授業も担当している。第二外国語として日本語を教えているわけだが、その授業はとても楽しいらしい。英語学科の学生らはみんな勉強熱心であり、積極的であり、質問を出せば指名するまでもなくみんなじぶんからバンバン手をあげて発言しようとする、多少発音が悪かったとしてもそれで恥じることなどない、そういう姿勢の子たちがたくさんいるのでじぶんまで楽しくなってしまうのだというものだから、いいなーうらやましいなーとなった。それでいったらいまの二年生が近いかもしれないですね、いまの二年生は明るくて積極的な子が多いのでディスカッションの授業も、ま、あいだにぼくが入ってちょいちょい通訳しつつですけど、なんとか成立しているんですけど、一年後にいまの一年生でおんなじような授業ができるかというと、ちょっとうーんという感じですというと、でも二年生の基礎日本語を担当しているK先生はちょっとクラスのことを心配していましたよというので、ああたしかに、文法的な理解とかそういうのはちょっと、けっこうなんかあやしいところもありますね、だから四級試験の結果とかがどうなるかは正直ぼくもわからないですけどと答えた。
 日本語学科取り潰しの可能性の話から、ほかの大学に移ることとかも考えているんですかとおそるおそるたずねられたので、最近はね、中国に来る前にしていたような生活にまたもどるのもいいかなと思っているんです、週に二日か三日だけバイトして、貧乏暮らししながらあとはずっと小説に集中してっていう生活に、まあ四十代を契機にもどるのもいいかなって考えることも、あるといえばあるんですよね、でもほかの大学に移動するってことはあんまり考えてないですけどというと、行かないでください、ずっとここにいてほしいですと笑いながらいうので、まあまあ、ぼくもなんだかんで五年? 六年? ここにきてからけっこう長いですしね、ここまできたんだからもう日本語学科がなくなるまではいようかなって、親の死を看取るじゃないですけど、ちょっとそんな気分にもなってますねというと、K先生は笑った。

 セブンイレブンに立ち寄ってカレーを買う。帰宅後、メシ喰うないや喰う。30分ほど昼寝したのち、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。2023年5月11日づけの記事にある以下のくだりを読んで、これを10年後になつかしく読み返したくはないなとしみじみ思った。(…)にむかうバス車内のできごと。

 ビート博士は今日もビートをきざんでいた。乗客の数はけっこう多かったのだが、おかまいなしに广场舞に使われていそうなダサい音楽をスマホで鳴らしているし、そのスマホを持った右手をリズムにあわせて上下にふっている。途中乗車した女性客がじぶんの右となりに座ったあともその手の動きを止めない、そのせいで女性客が通路のほうに身体を半分逃すように座っていて、おいおいマジかよ、ここまであからさまに嫌がられとんのにやめへんのか、おまえほんまに大学教員け、とまたしてもおどろかされた。さらに、ビート博士とは別に、途中乗車した赤いキャップをかぶった老人がこちらのすぐ前の座席に着席するなり、演歌のようなこぶしのきいた歌をやはりそこそこでかい声で歌いはじめたので、は? めずらしい鳴き声の動物ばっか集めたサファリパークけ? と絶望した。ほんならこっちもやったろやんけと、こちらもひとりでぶつぶつフリースタイルを開始。こういう呪われたバスはとっとと事故ったほうがいい。

 ほか、「2012年4月後半の記事」に記録されていたという『特性のない男』からの抜き書き。ムージルの日記はあんまりおもしろくないが、『特性のない男』にはさすがにキレッキレの記述がたくさんある。

「一つのガラスの鉢に入っている二匹の金魚のことを、想像してくれ給え」(…)
「まあ、想像してごらんよ! よく客間で見かけるような丸くて大きなガラス鉢だ。序でに、この鉢はぼくらの家の地所ほどに広いものだと考えてごらん、さて、二匹の赤い金魚は薄いヴェールのようにひれを動かして、ゆっくりと上に下に揺れ動いている。金魚がほんとうに二匹なのか一匹なのかは無視することにしよう。お互いにとっては、金魚は差し当たりともかくも二匹なんだろうね。餌に対するねたみ心と性別があるだけでも、そういうことになるだろうね。だって、互いに近づき過ぎたりすると、避け合ったりするものね。しかしぼくには、金魚が一匹だと充分想像することができるんだ。そのためには、ゆっくりとひれや尾を閉じたり開いたりするその動きだけに注意を払いさえすればいい。そうすると、別々にちらちらしているものは、一緒になってゆらゆらしているこの動きの、独立性のない一部に化してしまう。で、ぼくは問うんだが、いつ彼ら自身もそんなふうに感じるようになるのだろうか……」(…)

「じつをいえば、すべての静物画は、神と世界とが水入らずの間柄にあって、まだ人間が存在していなかった天地創造の六日目の世界を描いているんだよ!」

狂気とは、誰もが妥協と中途半端な態度ですることを、妥協もなく限度もなくやるということだ。

青春時代の美とは、誰もが見て回るものに、それぞれの人にしか分からない一面があるかどうかで決まるのである。

アンダースは思い出した――たとえば、小さな写真機の暗箱のなかでのように何かを逆さまにして見るときには、これまで見過ごしていたものが、そこにあるのに気づくものだ。ふだんの気侭な目には動いていないように見えた木、茂み、人の頭などが左右に揺れている。あるいは、人の歩調の特色が意識されてきたりする。外部の物にある絶えざる動きに気づいて、人はびっくりする。また、知覚されない二重像が、人間の視野にはあるのである。というのも、一方の目は、他方の目とは別のものを見ているのだから。だが網膜上の残像が、ごく薄い色の霧のように、この瞬間写し取った映像を消してしまう。そして脳は抑制し、補足して、誤信された現実を作り上げるのである。また耳は、自分の体内の無数の音を聞き逃している。だが皮膚や関節、筋肉や最奥にある自我は、目も耳も口もない状態でいわば地下で徹夜のダンスをしている無数の感覚器官の入り乱れた動きを、送っているのである。

 そのまま今日づけの記事も途中まで書いたのち、17時をまわったところで第五食堂へ。帰路、電動スクーターに雨除けのカバーをかぶせていたCと軽くあいさつ。今夜は雨降りなのだろうか? 帰宅後、メシ喰うないや喰う。
 卒業生の手紙はまだ完成していなかったが、少し時間を置きたかったので、夜はまた図書館で過ごすことに。土日も開館していることは間違いないわけだが、念のために三年生のグループチャットで確認。問題なし。通常どおり22時まで開館しているとのこと。のちほどR.Kくんから個人的に、外国語の書籍が陳列されているコーナーは今日は閉まっているという補足がとどいたが、こちらの目的はあくまでも『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)であるので問題なし。
 保温杯にコーヒーをなみなみそそいで図書館へ。19時過ぎから22時までひたすら『ムージル日記』の続きを読みすすめる。

展望できない関連のなかに置かれた個人は、もはや純粋に悟性的ではない。
(836)

 青年に答える。きみたちはなにになりたいんだ! なんだって。きみたちには反対するものがなにもない。哀れな奴らだ。
(837)

ティーフ。貧しい青春を送っているある田舎の娘が小さな果実を摘んでいるとき、いつでも気違い男が草のなかに臥っているのを見て、男が眼を閉じていればいつでも果実の木の葉を一枚男の傍らに置く。
 人生とは概してそのようなものである。気違いじみたものを見る。それに好意をもつか否か。それ以上のことは知ろうとせずに。
(862)

文章の類型化過程。レヴィ=ブリュール、一四九頁は言う。「抽象的概念的思考の進歩は、かつてそれが具体的なものである場合、思考の表現として使われた記述的な言語=描写素材の減少を伴った……概念の増大する普遍性は、しだいに記述的な言語=描写素材過程であった正確さを失わせた……多数の形態、多数の言語は遂には消滅するまでに使用されることがなくなった。「しだい」にヴィクトル・アンリは言う。「これらの無限の繊細さの知識は曇ってしまった……」「今日、われわれは心的現実性を表現する言語の過程を知らないばかりではなく、きわめて多様な(杜撰に、誤って使用された)形式において、事態の一般的に納得できそうな部分を表現する、文章の類型化過程が生じるに到った。
(865)

 ぼくは父の名で会葬者たちに挨拶した。ぼくは二人のはるかに年とった紳士に挟まれて、先頭に立って馬車の後を歩いて行った。これは芝居がかった行為だった。「民衆」が見つめた。ぼくは、権力が肩に移った王位継承者の感情を理解した。このような死は、国家的行事の意識によって重さがなくなるのだ。死者のかわりにすでに後継者がいる。人びとはこの恐ろしい空洞を凝視しているのではなかった。
(868)

深層感情の心理学に寄せて。ママが亡くなった日、一年後ブリュンで、ハインリヒは一年前の今日そうだったのと正確に同じにディテールを話す。三日間同様に。ぼくは実際に非常に感動し、外面的にも悲嘆の態度をとった。実際の没日の終わり頃、ママはつぎの夜に亡くなったのだが、ぼくは自分が、もうたくさんだという気になっているのを確認した。ぼくは強いて悲しんだわけではない。悲しみはまったく自然に生じたのだが、しかしそれは、身を屈めていて、その姿勢に耐えられなくなりはじめたかのようであった。ぼくはその夜ぐっすりと眠り、翌朝ははっきりとすがすがしい気分になっていた。「いまや彼女は苦しみを終えた」——とひとは言う。しかし実際には、そのひと自身が苦しみを終えたのだ。これを大まかに繰り返して、受難週のつぎに復活祭をつづかせるカトリック教会は、じつに賢明だ。
(881)

平均的人間は、かれらが関心をもつものにおいて才能をしめす。かれらに精神的なものへの関心を抱かせることだけが問題である。
(894)

観照は一つの態度である。神秘家が「わたしは別なふうに認識する」と言うのは、非常によく理解できる。しかしそれは狭すぎる。「わたしは別なふうである」と言わねばならない。それは神学的前提条件によってはじめて、推定上の別な認識になる。
(896)

 進歩には長所と短所がある。それぞれを合計することはできない。そうではなくて必要が交代したのである。そして、いくつもの必要が目覚めさせられる。
(906)

根本態度に寄せて。別な状態を社会生活の担い手にすることが問題なのではない。別な状態はあまりに儚い。ぼく自身、別な状態をいまではほとんど正確に思い出すことができない。しかしそれはすべてのイデオロギー、芸術への愛、エトセトラのなかに痕跡をとどめている。そして、この模造のなかに別な状態の意識を目覚めさせること、それが問題である。なぜなら、それらの構造のなかに、凝固において理解されているこの現象の生が潜んでいるからである。
(908-909)

 もし観念相互の関連がけっして充分ではなく、作者個人における関連、したがってある興味ある作者のすべての種類の個人的な修正[「習性」の誤記?]と間接的な肖像が卑しめられる場合には、主観的でも客観的でもない一つの関連、可能な世界観、可能な人物が残るであろう。この両者をぼくは探し求めている。ぼくが言うことがぼくの過失になる。そしてぼくは愚者ではないから、そこにぼくの長所をもつ。しかし、この個人的なヴァリエーションが問題なのではなく、問題なのは、具体的な関連である。しかし、対象のなかの関連が充分に堅牢でない場合、おそらく個人的な、生成した関連が現われるであろう。それならばその関連はユートピア的に拡大され、作者の像ではなく、作者が愛するものの像を描くべきである。「ぼくはあるものが好きだ」という言葉は、あるものの客観性と同量の自我の主観性を含んでいる! この意味においてひとは考えることができる。そしてそれはぼくの自我に属する個人的な思考でも、真理の非個人性にふさわしい完全に非個人的な思考でもある必要はない。
 ぼくの考えでは、エッセイはこのような思考をもって書かれなければならない。
(915-916)

 ぼくは、個人的な業績は、他者からうけついだ精神的富のほとんど感知されない変更であることを確信しているとはいえ、またこのことはひとが偉大な伝統に負うことについてばかりではなく、一呼吸ごとに摂取するものについても妥当すると信じているとはいえ、ぼくはこれまでの生涯にわたって現代のドイツにおいて別な人間であると感じているとはいえ、ぼくは現代文学の内部で異物として排斥され、誤解され、過小評価されていることを知っている。
(916)

 書見中、三年生のグループチャットにS.Sさんがこちらが図書館で書見している姿をとらえた写真を投稿した。どうやら彼女も図書館で勉強しているらしく、こちらの姿を見つけて遠くから盗撮したようだった。以下がその写真。なんかこの写真で見ると、やたらとがっしりした体格の人物みたいではないか?
 
(…)
 
 帰宅。チェンマイのシャワーを浴び、出前一丁の海鮮味を食す。ベッドに移動後、ひさしぶりにクトゥルフ神話TRPGのリプレイ漫画(http://xn--xz1ax64c.com/manga/manga_index2.html)を読んだ。リプレイ漫画ってじぶんの小説執筆作法に通ずるものがあるなとあらためて思った。既存の作品を下敷きにしてアナロジカルに執筆を進めるこちらにとって、その既存の作品——「A」の場合はムージルの「ポルトガルの女」であり、「実弾(仮)」の場合はジャ・ジャンクーの『青の稲妻』——とはいわば〈法〉の水準にあるわけだが、リプレイ漫画というものもまたその元ネタを〈法〉の水準に据えて描かれるものである。漫画という形式においてはメインキャラクターとして取り扱われるプレイヤーキャラクターは、ゲームの水準ではあっけなく退場することがままあり、その展開を漫画として再現(リプレイ)すると、いわば「お約束」に対する裏切りとして反物語的に機能する(リンク先のリプレイ漫画のなかでは「インスマス」の酷薄な結末がそれにあたる)。いっぽう、こちらの執筆作法においては、アナロジーの破れ目——参照先の作品と執筆中の作品との並走が不可能になる場面——が、ほかでもない〈法〉に対する侵犯(飛躍)のための土台として機能し、作品に(「お約束」には決してとどまらない)特異的な相貌をあたえる契機となる。ゆえに、「物語」批判的な小説を書きたい書き手は、ある程度雑なアナロジーを設定し、ある程度の脱法意識を一種の構えとして有しておくべきだろう。同様に、「物語」批判的なリプレイ漫画を描きたいのであれば、結末から逆算して演出を練りなおすのではなく、メインキャラクターの扱いを(コマ数レベル・セリフ量レベルで)すべてひとしくするなどの規則をあらかじめ設定しておくなどの工夫が必要になるだろう。