20240513

 しかしここでは、一つ目では怒ったこと、二つ目では不機嫌になったこと、三つ目の引用では逡巡らしい逡巡は書かれないまま決意が、はっきりと書かれている。私は映画を見ているような感じがした。役者の表情の演技やその他の全体の演出からわかる程度の心の状態だけを示し、それ以上複雑なところにまでは踏み込まないというか必要ないというか。
 心の状態を説明するために費やされる文章量が少なく、しかもそれら心の状態は短時間で変化して次の状態に落ち着く。読者は心の推移する様子が丁寧に書かれていればそこに心理的な同調が生まれて、主人公に肩入れしたり、主人公の身になって怒ったり悲しんだりするはずだが、この小説では短くはっきりと(つまり思わせぶりでなく)書かれてしまうから、読者は外から見ているような気分にしかならない。これは近代小説における〝心理〟とは違うものなのではないか。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.67)

 ここで書かれていることは本当に重要。少なくとも「実弾(仮)」については、執筆に着手した当初、この感触に近いものを徹底するつもりだった。途中からそうした「徹底」そのものが稚拙なものに思われて、あえて遊びや緩みを設けることにしたわけだが、敲を重ねるうちに今度はそれがまた度を越しつつある。ゆえにぼちぼち締めるところを締めなおしていこうかなと思う。



 9時半起床。トースト二枚とコーヒーの朝食。
 11時前から「実弾(仮)」第五稿作文。14時半まで。シーン43の続き。とりあえず片付けたが、ちょっとむずかしい作業があった。湿っぽいのだがボツにするわけにはいかない記述を、湿っぽくならないような位置にうまく配置するというのがそれで、なかなかけっこう悩んだ。とりあえずこれでいってみるかという落としどころは見つかったのだが、こういうのは時間をおいて読み返してみた途端、なんじゃこのクソは! と唖然とするパターンになりがちなので、要注意。しかしシーン43も全体的にがっつり修正したものだ。第五稿でもこのレベルの修正かと苦笑せざるをえない。終わりがみえないのだ。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。途中、母からLINEでKの写真が送られてきた。左の前足の爪が伸びて痛がっているようだったので獣医のところに連れていって抜いてもらったとのこと。食欲はあいかわらずあるとのことだったので、夏の一時帰国の際にも元気に再会できそうだ。母に胸椎の具合をたずねると、いまはコルセットを装着して生活しているとの返事。外すとやはり痛いらしい。コルセットの装着期間は三ヶ月。こちらが帰国するころに外れているかどうか微妙なライン。
 三年生のR.Kくんから日本語に関する質問の微信がとどいたので、ちゃちゃっと返信。
 そのまま今日づけの記事もここまで書くと、時刻は15時半をまわっていた。作業中は『世界各国の夜』(VIDEOTAPEMUSIC)と『sketchy.』(Tune-Yards)を流した。

 街着に着替えて買い物へ。最高気温は29度。今年は去年にくらべるとそれほど暑くない気がする。日差しがするどいのでサングラスをかける。ケッタにのってまずはJで食パンを三袋買う。パッケージが変更されていたが、中身はおなじらしい。いつものおばちゃんに今日は暑いねというと、だからエアコンもつけたんだよという返事。しかし店の入り口の扉は開けっぱなしになっている。そのままYにはしごする。YのとなりにC銀行の支店ができていた。いまは工事中のようすだが、あの分だとそう遠くないうちにオープンするだろう。店ではレモンティー、红枣のヨーグルト、エビとたけのこの餃子、袋麺二種、ごま油、ネギ油を購入。ついでにTを食べたい気持ちがないこともなかったが、どうせまた来週授業終わりにおとずれるだろうしと今日はパスすることに。

 帰宅。今日づけの記事の続きを書く。卒業生への手紙も軽くチェックする。第五食堂で打包し、帰宅してメシ喰うないや喰う。食後、二年生のR.Uくんから微信。「もしある物、見てもリンゴ、味もリンゴ、匂いもリンゴ。その物の正体は何のか先生にとって重要だろうか」という。「りんごではないものだけど、外見もりんご、味もりんご、匂いもりんごであるものを、りんごとして受け入れることができるかどうかという問題?」とたずねると、然りの返事。りんごであれば受け入れることができるだろうが、「たとえば、恋人を亡くしたあと、その恋人と外見がまったく同じ、記憶も完全に同じ人物を、テクノロジーによって誕生させることができたとして、果たしてその人物を恋人と同一人物として受け入れることができるかどうか」という問題であればむずかしいかもしれないと応じる。「ではでは」「完壁で違和感がない夢と厳しい現実、僕らはどっちを選択すれば正解といえるか」と質問が続く。夢は覚めることがない、決断後の余生はどちらか一方の世界で過ごすことになる、記憶は当然持ち越す、と。つまり、ほかでもないいま生きているこの人生の続きを、一種のチートモードで生きるか、あるいは現実のまま生きるかという問い。これまでの人生をなかったことにしたくないので現実を生きると答える。「ぼくは自分がこれまで生きてきた38年間がどのような結末を迎えるのかを確かめたい。でも、夢の世界で生きることを選んでしまうと、その結末を見届けることができない。ぼくが知りたい結末はあくまでも「幸福も不幸も等しく訪れる世界」を生きてきたぼくの人生の結末だからね」「「幸福しか訪れることのない世界」の結末には興味がない。それはぼくが生きてきた38年間とは関係がない」「なにより自分の過去が否定されてしまう。それが耐えられない」「おなじ質問を中学生や高校生のときに受けていたら、違ったふうに返事していたかもしれないよ」「でも、ぼくは38年間生きてきた。この38年間の過去をやっぱりなかったことにしたくないな。幸福も不幸も含めて、ぼくが生きてきた38年間の続きを知りたい」と。「では、先生は夢を選んだ人が卑怯だと思うか」というので、思わないと返事。「戦場で生きている幼い子どもが、幸せな夢の世界で生きたいと願うことを、ぼくに否定する権利はない」「これは「安楽死」や「自殺の権利」に関わる議論になるけどね」と続けると、みんなの答えとはずいぶん違うねという返事。一般的な中国人であれば、夢の世界を選ぶ=現実から逃げるから悪いものだと答えるという。それはしかし、教育現場において中身すっからかんのスローガンや空虚なきれいごとばかりが学生らに一種の「正解」として押しつけられている、その「正解」を自分の「答え」として答えるというあのパターンでしかないのでは? つまり、質問に対する「正解」としてそう答えているだけで、答えた人間が本気でその質問にむきあった——わが事としてシミュレートしてみた——結果では全然ないのではないかと思ったが、それについては言わないことに。R.Uくんからはのちほど「先生、先の問題が、僕はまた一つの考えがあった。それはさあ、夢というのは自分の意識を基にして作ったものでしょう。自分の認識以外のものは出ないでしょう。例えば、僕、今の数学レベルは高校生ぐらいだったら、僕の夢の世界の数学はそれ以上の知識がなくなってしまうかもしれない。周りの人達も同じです。僕の夢の中の彼らは本物ではない、彼らの魂は僕に奪えられた。こう考えると、夢中の世界はすごく怖いだと思い始めた。やばりいやだな」「みんなは立体的な人ではなくなっていく、ただ僕に向けて綺麗な絵になるかもしれない」というメッセージがとどいた。さらに先の「りんご」の問題を人間にあてはめて考えるとこわくなってくるというので、哲学的ゾンビやスワンプマンや世界五分前仮説などという言葉で検索してみなと伝えた。
 ベッドで20分ほど寝る。チェンマイのシャワーを浴びたのち、S.Sさんの作文コンクール用原稿を詰める。これはわりとすぐに片付いた。さらに卒業生への手紙も詰める。ほぼ問題なし。
 夜食として食パンを一枚だけ食ったのだが、味が相当落ちていた。これ変更になったんパッケージだけちゃうやろとすぐに思った。いや、パッケージの変更が原因で風味が落ちてしまっている可能性もなくはない。というのも以前のパッケージにくらべて変更後のパッケージはあきらかに安っぽくなっているのだ。どちらも紙のパッケージなのだが、以前のものはかなり厚手でしっかりしており、それゆえにちゃんと密封できていたのだが、変更後の紙はめちゃくちゃ薄くて安っぽく、なんやこれ画用紙け? みたいなアレで、どうもろくに密封できていないんではないか? それゆえに風味ががくんと落ちてしまっているんではないか? 少なくともパッケージにかかる費用が以前のものにくらべてだいぶ節約されていることはまちがいない。こういうのも不景気のあらわれなんかなァと思った。
 寝床に移動後、『ディスタント』(ミヤギフトシ)の続きを読みすすめて就寝。なかなかおもしろい。