20240515

 この連載を通じて「因果関係」という言葉を何十回書いたか見当がつかないけれど、一つか二つかせいぜい数個の入力に対して一つの結果が出てくるというふつうにイメージされる直線的な因果関係の思考法が、私には思考の省略か怠慢としか感じられないのだ。
 過去の経験から現在の自分を語る語り方は、現在の自分の説明として便利な過去をピックアップしているだけだ。殺人でも自殺でも、そこに至るプロセスを小説的に丁寧に積み上げていけばいかにも必然的に逃れようがないものと映るけれど、最後の決定的なアクションの寸前に大爆笑がその人を襲えば全部吹っ飛ぶようなものなのではないか。
「思考の省略か怠慢」と書いたが、それは言葉を換えれば、出来事の美学化ないしドラマ化のことであって、どれだけ悲惨な状況であっても因果関係によって逃れられないという思いが生まれれば本人には救いとなる。カタルシスということで、小説家はそれを使って自我や自我の内部のドラマを作り出す。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.217-218



 8時15分起床。トーストと红枣のヨーグルトとコーヒーの朝食。
 10時から一年生2班の日語会話(二)。第23課。日に日に集中力のなくなっていくクラスであるが、今日の授業はこちらの教案にも問題があった。簡単すぎる。一年生の前期は完全な初学者がクラスの三分の二以上を占めるのであるし、簡単すぎる問題をとにかく反復練習する時間を設ける必要があるとは思うのだが、後期になると既習者を中心に日常会話を交わすこともわりとできる子たちが増えてくるので、『みんなの日本語』に掲載されている機械的な練習問題ではなく、もうちょっとひとりひとり自由に答えさせる問題を投げたほうがいい。第23課でいえば、文型1が「動詞辞書形/動詞ない形+とき」で、文型2が「い形容詞/な形容詞/名詞+とき」であるのだけど、たとえば「道がわかりません。地図を見ます。」というふたつの文章を上の文型にしたがって「道がわからないとき、地図を見ます」という一文にまとめるという教科書に掲載されているような問題は完全にシカトし、「〜とき、ゲームをします」「〜とき、お酒を飲みます」みたいな文章を提示したうえで、空欄を自由に埋めて発表してくれというふうなスタイルでやったほうが、文法の基礎がすでにあたまに入っている学生にとっても歯ごたえがいいだろうし、お調子者の学生ややる気のない学生らにとってもボケや脱線の契機となりうるという意味でやはりいいだろう。これは来学期以降の課題だ。教案を全面的にそういう形式に作りなおしたい。自由度の高い口頭作文を、応用問題としてではなく、基礎問題として最初からやる(そして教科書に掲載されている練習問題は最初から音読用素材として使用する)。アクティビティはアホみたいに盛りあがった。ここ最近では一番盛りあがったかもしれない。「雨が降ると、川の水が増えます」みたいな「〜と、……」の短い文章をグループで順番につなげていくゲーム。こちらが事前に用意しておいたNGフレーズを使用したグループは敗北というルール。ただ、そもそもの「〜と、……」という文型に対する理解がかなり浅いという問題があったので、このあたりは要改善。
 授業後、老校区にある快递で化粧水と乳液を回収。その後、第五食堂の一階で閑古鳥の広州料理を打包。帰宅してメシ喰うないや喰う。食後はいつものように昼寝をするつもりだったのだが、スマホでなんとなく検索して見つけてしまったブラウザでできる落ちゲーをプレイしているうちに冴えてしまったので、結局一睡もせずデスクにもどった。

 きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事の読み返し。以下、2014年5月15日づけの記事より。『族長の秋』(ガブリエル・ガルシア=マルケス)の感想。

 それで『族長の秋』についていうならば、これは序盤から終盤までずっと抱きつづけていた印象であるのだけれどいちばん最初に登場した一人称「われわれ」がとにかく肝で、この人称の恩恵にあずかって(あるいはその可能性を最大限に汲み尽くすことによって)書かれた感がある。この「われわれ」は大統領による専制政治という長いひとつらなりの歴史の事後(直後)に立つ傍観者(目撃者)として――つまりいち登場人物の資格を有して――冒頭から登場するのであるのだけれど、同時にまた、記述の出来事の細部にわけいるにつれてたびたび召還されることになるさまざまな「声」の総体(器)としての「われわれ」も兼ね備えており、たとえば後者の「われわれ」は前者の「われわれ」をもそのうちにはらんでいるというその意味で、ここでいう「われわれ」はレベルの侵犯を内包したある種の矛盾した人称であるともいえるのだけれど、その齟齬こそが語りをスイッチさせる蝶番として故障寸前のところでこの作品の語りを可能たらしめていると、おそらくはそのようにいってみることもできるだろう(歴史の事後とその渦中を股にかける――それらを往来する独自の語りを可能にするトリックとしての――二重映しの「われわれ」!)。たとえば『灯台へ』のウルフやマンスフィールドにおいて「語り」のスイッチとはたとえ三人称というアリバイがあるにしてもそのまま「語り手」のスイッチに等しく、さまざまな人物の内面を風景ごと貫通し縫いすすんでいくその記述にはしばしば各人物の独白や心理描写がさしはさまれるし、みずからを語ることをゆるされた彼らはたとえどれほど短いくだりであったとしてもそのときたしかにみずからの声によって語りの主導権を得る(そしてそれによって「人物」としてたしかな主体化を遂げる)。それにたいして『族長の秋』の語りは、さまざまな「声」を地(の文)に呼びまねきながらもしかしその声の主体に寄り添うことのない遠巻きの――文字どおり他人事の――距離感を徹頭徹尾維持しつづける(じじつ無数の「声」はほとんど「引用」のようにして即物的に処理されることになる。語りをスイッチするための慎重な手続き――バトンの受け渡し・主導権の継承のための儀式――の痕跡はほとんど認められずどこまでもぶっきらぼうである。さまざまな一人称が召還されるもののその正体のあいまいなまま打ち捨てられることすらけっして稀ではない)。ゆいいつ大統領だけが独白を独白として、心理描写を心理描写として語ることを許されているようにみえるが、それも近代小説的な「内面」とは無縁の、それ自体はなにひとつ目新しい機微にかかわっているわけでもない手垢のついた既知の感情、すなわち「内面」の距離感でいまさら語られるにふさわしいとは到底いえない戯画とも典型ともつかぬおおざっぱな喜怒哀楽の発露の域を出ないものである。つまりその感情はどこまでも一面的で、戯画的で、デフォルメされたもの、読解の対象になりうる(近代文学的な)「深淵なる内面」などとは無縁の、疑いのない「浅さ」に徹して描かれている――ちょうど風景や荒唐無稽な出来事を描写するのとおなじ水準で。あるいはこの点にかんして、大統領のモノローグにはおうおうにして演劇的な身ぶりがともなうことを指摘してみるのもいいかもしれない。歎きのたびごとに(母親にたいする)「呼びかけ」がつきまとう点などは古代ギリシアからシェイクスピアにまでいたる古典的な演劇上の作法そのものである。そしていうまでもなく古典的な演劇において語られない内面の閉域など存在しない。同様に、名前を有する主要な登場人物にしたところでただその行為を通して、外面的な描写を介することによってのみかたちづくられるばかりで、彼らには奥行きもなければ深さもない。彼らの行為にせよ発言にせよなにもかもすべてが解釈の余地のない明白な一義性につらぬかれている。心理描写や独白さえもが目撃(傍観)された「出来事」とおなじそっけなさと簡潔さと「浅さ」で語られ描写されるこの作品において(むろんいうまでもないが、大統領の独白同様、作中で怒濤のように押し寄せる荒唐無稽なエピソードの数々になんらかの「意味」を読み取ろうとするのは野暮である)、多種多様な声は――たとえ大統領のものであっても――けっして語りの主導権を得ることができない。語りは独裁されているのだが、その独裁は大統領によってではなく、その大統領さえをもうちに含む「われわれ」(総体としての「われわれ」)でありながらときとして名もなき市民の集合体としての身ぶりをとることもある「われわれ」(目撃者/傍観者/いち登場人物としての「われわれ」)の、冒頭から終盤までひそやかに持続する二重の低音によって遂行されている。ここにこの作品の痛烈なアイロニーがある。「大統領」でありながら「われわれ」によって独裁されているという語りの構造は、単なる飾り物と化した(あるいはもともと飾り物でしかなかったことを自覚するにいたった)大統領と彼をそう仕立て上げた軍部や閣僚や取り巻きの「われわれ」という説話上の構図と対応しているし、「大統領」をすらそのうちにふくんでひらたく均してしまう「われわれ」という一人称複数の絶対的に平等なありようは(これは「A」において泉で出くわした幼子が無敵の代名詞「それ」を乱用する場面に通ずる)、専制政治にたいする民主主義の立場からの力強いカウンターとして読み取ることもできる)。あるいはこれは蛇足かもしれないけれども、この絶対的に平等な「われわれ」というのはおそらくこの作品のなかでゆいいつ、読者が同一化を遂げることの可能な主体でもある。というのも、ありとあらゆる目撃はつねに読者による読書という行為を介して遂行されていくわけだから(ちなみに作中で多用される「〜を見た」は、なにもかもを「出来事」の水準でとらえなおそうとするこの作品のありかたと奇妙に共鳴する)。あと、「原因→結果」の語りではない、けれども「結果→原因」の語りでもない、「(結果)→原因」の語りともいうべき、「週末にハゲタカどもが大統領府のバルコニーに押しかけて、窓という窓の金網をくちばしで食いやぶり、内部によどんでいた空気を翼でひっ掻きまわしたおかげである」という出だしの一行はちょっと強烈だった。あるいはこの「(結果)→原因」という公式によってあらわすことのできる一行こそが、作品の構造(時系列の混線)を予告し暗示しそしてまた解きほぐすためのキーにほかならないとの仮説をぶちあげてみれば、ちょっとおもしろい批評のひとつやふたつこしらえることもできるかもしれない。いくつかのエピソードにふられている具体的な日付もすこし気になった。時系列の迷宮を解きほぐすためのヒントとしてあるのか、あるいはそれをますます促進するものとしての罠としてあるのか。それでもって日付と「秋」のかかわりはいかに?

 作業中、K先生から微信。夏休みは予定どおり7月4日からであるとのこと。一年生2班のH.Yさんからも微信。今日の授業中に盗撮したものらしいこちらの写真を颜值を計測するアプリにぶっこんでみたところ、「星々のことを美しいと語る人間はきっと彼の目を見たことがない」という文章とともに高い数字が表示されたという。しょうもないアプリがあるもんやなと思いつつスクショを確認したのだが、黒板の前に立っているこちらのぼやけまくった横顔を計測した結果らしくて、この写真で顔面偏差値もクソもないやろと思ったし、そもそもこの手のアプリでひどい結果が出ることなんてあるんけと思われたので、こちらがハゲあたまをさらして変顔しているのに中山きんにくんの肉体をくっつけたクソコラ画像を送り、これで計測してくださいとお願いしたところ、それでも上位85%という高い数字が出たらしい。付されていた文章は「ヴィーナスの貝殻をあなたにあたえたい」というもので(原文はもちろん中国語)、意味がよくわからないというので、ボッティチェッリの《ヴィーナスの誕生》の画像を送り、この貝殻からぼくが生まれてもおかしくないほど美しいという褒め言葉でしょうと解説した。H.Yさんからのちほど夜遅く、《ヴィーナスの誕生》のヴィーナスをこちらに置き換えたクソコラが送られてきた。せっかくなので記念にここに掲載しておく。
 
(…)
 
 17時をまわったところで第五食堂へ。打包して帰宅後、メシ喰うないや喰う。食後、一年生1班のS.Bさんから微信。夜は時間がありますか、と。以前こちらにくれると約束した故郷の土産について、「そのお土産、母は長すぎて食べられないと言っています。コーヒーをおごって謝るつもりです。許してください」という。賞味期限が切れてしまったという意味かなと推測しつつ、コーヒーをおごる必要はないと応じたところ、「大丈夫ですよ。私自身もお金を稼いでいます。先生もいい友達です」「だから先生は心配しないでください」「友達と同じでいい」とのことで、やっぱりこのパターンになるんだよなと思った。うちの学生はだいたいみんなこちらをこんなふうに「友達」扱いするのだが、教師としてこれをすなおによろこんでいいのかどうかわからない。いや、「友達」的な立場であっても転移の生じる余地はあるのだろうし、そもそも「教師」という職におまえはそれほどこだわりがあるのかと問われたらいや全然というのが率直なところであるのだが(もちろん銭をもらうからにはその分やることはちゃんとやりまっせ式の(…)時代に培われた職業倫理はいまも生きているが)。「最近ますます日本語が好きになりました」とメッセージが続いたが、これはちょっと嘘くさいな、こちらに媚びているなという印象。しかしS.Bさんはアニメ好きであるし人見知りもあまりしないタイプであるし授業中もけっこう明るくて——と書いていてふと思った、R.Sさんだ! R.Sさんとキャラが似ているのだ! いや、R.Sさんはめちゃくちゃ人見知りするし、そのくせいちど打ち解けると死ぬほど図々しくなるわけだが、なんとなくあのひとなつっこさをS.Bさんもまたもちあわせている気がする! アニメの「中の男性はみんなかっこいいと思います」というので、このひとがいちばんかっこいいと思いますよというメッセージとともに先日図書館にいるところを盗撮されたこちらの写真を冗談で送ったところ、すぐにスクショが送られてきた。こちらとの微信でやりとりを交わしている最中のスクショだったが、背景が先ほどこちらの送った盗撮写真になっていたので、あ、そういう設定もできるんだな、そういえば学生たちがモーメンツに投稿している微信のスクショはたいていオリジナルな背景になっていたなと思い、それでこちらも試してみようというわけでS.Bさんが先日送ってくれた彼女と彼女の友人? 姉妹? のツーショット写真を背景に設定してみた。で、そのスクショを送ってみたところ、「感動!」という反応に続けて、「チャットの背景に設定されることは好きを表現する一つの方法であり、必ずしも愛情ではないが、それは他人を楽しませ、重視され、関心を持っていると感じる」「だから!感動して泣きそうになった」という精度の悪すぎる翻訳機能を噛ませた、いかにも中国の学生が教師に対して使いそうなおおげさな返信があったのだが、それはともかく、「関心を持っていると感じる」という部分に、ああ、これはよく目に耳にするフレーズだなと思った。たとえば、体調不良で授業を欠席した学生に対してだいじょうぶですかとメッセージを送ったり、あるいは四級試験に合格した学生に対してひとりずつおめでとうのメッセージを送ったり、院試をひかえている学生に対してがんばってくださいのメッセージを送ったりすると、こんなふうに「関心」に対する感謝を述べられることが多々あるのだ。日本語の「関心」と中国語の「关心」はおそらく微妙にニュアンスが異なり、なんとなくであるけれども学生らの用法から察するに、中国語の「关心」には「興味・関心を持つ」のほかに「気にかける」「心配する」というニュアンスもおそらくあるんではないかと思うけれども、先ほどのS.Bさんの返信にはその「関心」のとなりに「重視」という言葉も並んでいて、そう、この言葉もこうした文脈でよく目に耳にする。それで思うのだが、「重視」が(同義語とまではいかないにしても同じ方向性の単語として)となりに並びうる「关心」という単語には、「コネ」を意味する「关系」の「关」とおなじニュアンスもふくまれているのかもしれない。つまり、あなたに「关心」があるということは、あなたをちょっと贔屓目に見るみたいな、そういう特別扱いの意味合いがあるんではないかということなのだが、実際はどうだか知れない。しかしこの仮定は的外れなものではないと思う。悪くいえば「えこひいき」、良くいえば「特別扱い」と名指される行為は、中国の教育現場ではなんら非難の対象となることなく大手をふってまかりとおっており、それについては八月長安も『チェロと私と牧羊犬』のなかで書いていたが、
 と、ここまで書いたところで眠くなってきたので、やめる。どうでもええわ、こんな話。

 図書館へ。S.Fさんの修論を添削するつもりだったので、ひさしぶりに、というかもしかしたら今学期はじめてのことかもしれないが、iPadを事前に充電して準備しておいたのだが、図書館までは徒歩で五分とかからないわけであるし、ふつうにMacBook Airをスリープモードのまま運べばいいんではないかと気づいた。で、そうした。図書館で作業することにしたのは、眠気防止のためももちろんあるが、それよりも自室で作業しているとイライラしてしまいそうだったから、なんでおれの貴重な時間をこんな一文の得にもならんことに費やす必要があんねんとキレてしまいそうだったから、それだったらひと目のある図書館でカタカタやったほうがいいのではないかというあたまがあったわけで、年をとると脳の感情を司る部位が弱くなってしまってそのせいで涙もろくなったりイライラしやすくなったりするというけど、じぶんも順調にそういう老化のパターンをたどっているんだろうなと思うとそのことにまたがっかりするしイライラするしつまるところいちいち感情がおおげさになる。
 三階のいつもの席に着席。19時半過ぎから閉館22時までひたすらカタカタしまくる。かなり集中した結果、一気に38ページまで進めることができた。明日の夜またおなじだけ時間を費やせばおそらく片付く。S.Fさんの修論は日本軍が華南地方においておこなった宣撫工作についてなのだが、参考文献としてたびたびひかれている『南支教育従軍記』(松永健哉)のなかに、「支那人に対する我々の常識からしては、割に晩婚な女が多く、彼女たちにその理由を訊くと、『私は独身主義です』と答へるのが多いので変な気がした」という一節があって、え? 当時の南方の中国人女性ってそういう感じだったの? いまと同じじゃん! とびっくりした。
 帰宅。チェンマイのシャワーを浴び、ストレッチをし、トーストとヨーグルトの夜食をとる。H.Yさん作成のクソコラをモーメンツに投稿し、『((ika))』(Tempalay)や『AMAI ALBUM』(チプルソ)を流しながら今日づけの記事の続きを途中まで書き、寝床に移動後は『ディスタント』(ミヤギフトシ)の続き。