20240516

 言葉というのはものすごく不完全な道具でしかない。世界や人間の肉体の脈搏つ感じを言葉は全然再現できない。
 言葉がもし何かを完璧に再現することができるというのなら、言葉だけでレンブラントの『夜警』を見たことのない人にそれを伝えて、それを聞いた人が同じ絵を描けなければならない。言葉が完璧な道具だったら、絵の具の色調も筆のタッチも完璧に言葉で、言葉だけで再現できるはずだ。
 同様にベートーベンの『交響曲第九番』だってアルバート・アイラーの『ゴースト』だって聞いたことのない人にきっちりと伝えることができなければならない。もちろんそんなことは全然できないわけで、その再現できない部分はそのまま言葉が世界に対して無力な部分と考えたってかまわないのではないか。「音符だって言語の一つだ」と言ってみたところで、音符さえあればパブロ・カザルスと同じチェロの音を出せるわけではない。演奏者の出す音や画家の筆のタッチは、その人の肉体の骨格や運動性の反映であって、そこには言葉は到達しきれない。
 言葉がそういうものだということがわかっていれば思考についても、言葉だけで組み立てることが思考の完全性を意味しないことになるはずだ。人間の思考は必ず何らかの物や動きや現象からイメージというか思考のための素材を借りてこなければならないようにできているが、人間は素材として借りてきた物や動きや現象を完全に把握できているわけではないのだから。
 しかし言葉を道具として使う側の人間が言葉を世界と対照させるつもりがなかったら言葉は万能のように見えてくるだろう。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.236-237)



 8時15分起床。トーストと红枣のヨーグルトとコーヒーの朝食。
 10時から一年生1班の日語会話(二)。第23課。ぼちぼちええ感じ。指名するのはやる気のある学生だけにとどめるというルール、マジでテンポ良くすすめることができるので、来学期から2班のほうでも導入したい。というか新入生の授業でも導入したいかも。要検討。休憩時間中はS.Eくんと雑談。作文コンクール用の原稿の構成を見せてもらったが、なかなかしっかりしていた。やっぱり本を読む習慣のある学生とそうでない学生とのあいだには少なくとも文章の構成力において歴とした差がある。大学院進学は考えているのとたずねると、まだわからないというので、そりゃそうか一年生だもんなと思った。きみだったら日本の大学院もいいと思うよと言ったのち、卒業後に(…)大学に進学することの決まっているT.Sさんの例を出すと、おお……という反応。
 授業後、二年生のR.Uくんから微信がとどいていることに気づく。リスニングの教科書に掲載されている「「おじさん」「おばさんは」は、39歳から51歳までである」という文章を写真で撮って寄越したうえで「よかったね、先生」「『お兄さん』だ」という。やかましいアホ。そのR.Uくんと彼女のS.Sさんのふたりと廊下でばったりでくわしたので階下までいっしょに移動する。こんな男のどこがいいの? とS.Sさんにふざけてたずねる。いろいろという返事があったので、まあR.Uくん優しいからねと応じると、優しい……? みたいな疑問系の反応があり、それに対してR.Uくんが、什么意思呀! と抗議するものだから、あれでしょ、S.Sさんが微信を送ったのにきみはアニメに夢中になってなかなか返信しないとかでしょ? というと、先生! どうしてわかった! とR.Uくんは笑った。S.Sさん、けっこう束縛の強そうなタイプだと思う。しかしまあこのふたりは仲がいい。クラスメイトらもみんなあのふたりは結婚までいくんじゃないかと噂している。

 セブンイレブンに立ち寄る。しかし目当てのカレーはない。なにも買わずに店を出る。帰宅し、トマトラーメンにたまごをふたつぶちこんで、メシ喰うないや喰う。四年生のR.Mさんから微信がとどく。お、とうとう卒業写真の通知だなと思う。ビンゴ。明日の16時に図書館前に集合との由。問題なし。答弁(口頭試問)は明後日だという。たしか去年もそうだったと思うが、口頭試問よりも先にアカデミックドレスを着用しての集合写真を撮るというのも妙な話だ、学生らもまだまだ「卒業!」という感じでもないんではないか。
 昼寝する。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。以下、2023年5月16日づけの記事より。フーコーが『これはパイプではない』で書いていた類似と相似の違いについての話と共鳴するくだり。

 「無意識の意識化」という治療論にしたがって、根源的幻想へと向かう道程において、幻想は分析主体とともにいる分析家の存在のために転移という形で作動する。つまり、転移は幻想の産物であり、転移は幻想の一種なのである(…)。この転移幻想において音素に注目した諸解釈のやりとりがなされるうちに主体はある根源的幻想へと至ることとなる。こうした根源的幻想の議論に一足飛びに入る前に、まず転移幻想の内実を精査する作業を行いたい。
 フロイトは或る分析主体に関して「彼は転移幻想の助けをかりて、自分が忘れていた過去のこと、あるいはただ自分の中を無意識に通り過ぎたことを、新しいこと、現在のこととして体験するようになった」(…)と語り、そして、転移について「それは、分析の進展によって呼び起こされて意識化されるべき、感情および幻想の新版とコピーであり、医師という人間と過去に関係した人物とがとりかえられているという特性を持っている。換言すれば、過去の精神的な体験のすべては、過去の体験に属するものとしてではなく、医師という人間との現在の関係として、再び現れる」(…)という記述を残している。
 まず、これら二つの引用における転移幻想の「新しさ」という点に注目しよう。転移幻想が「新しい」ものであるということは、まず単純にこの幻想においては過去が一義的に反復されているのではないかということを意味する。そこにはつねに現実の過去に「新しいもの(解釈)」が含まれてくるのであり、だからこそ転移幻想は「新版とコピー」なのである。言い換えれば、幻想においては過去は多義的に反復されるということである。
 次に、これらの「一義的な反復」と「多義的な反復」についてデリダの概念を援用して考えてみよう。彼の用語を用いれば、一義的な反復は反復(répétition)、そして多義的な反復は反覆(itération)と言い表すことができる。この反復と反覆の区別は署名を例にとって考えるとわかりやすい。署名は一見同一の署名の反復において機能している(承認される)ように見えるが、実際には書く度ごとにわずかながらの違いがあり、この差異を含んだ反復が反覆である。図式的に述べれば、反復は同一化する繰り返しで、同一性(identité)を想定するものであり、反覆は他化・変質する繰り返しで、この繰り返しにおいて変質してさえも同じものと認めることができる同じもの性(mêmeté)に基づいている(…)。
 転移幻想は上述のような差異を含んで多義的に反復するのであるが、外傷を例にとり、もう少し詳しくこの「多義性」を検討しよう。
 外傷に関して、先に「現実と幻想が止揚された一つの外傷が確定的にあるのではなく、つねに一からははみ出る余剰が外傷(現実を補足した幻想)には含まれる」と述べたことを思い出されたい。幻想の特徴である二項対立の不可能性とは、この文脈では、現実と幻想が対立しているのではなく混淆しており、しかしながら、一つにはならず差異を維持することを意味している。したがって、まず、これまでの説明で明らかなように、転移幻想において同一の外傷が反復されるという一義的な反復はありえず、また、分析で外傷を扱う際に様々な解釈がなされるわけであるが、そうした解釈を総合したものとしての一つの外傷を目指した外傷の多義的な反復があるのでもない。転移幻想においては、外傷は差異を含んで多義的に反復されるのである。すなわち、転移幻想における多義性とは、一を目指す弁証法的で総合的な多義性ではなく、差異を反復した多義性のことであると言えるだろう。
 このような議論はフロイトの「夢の臍」という構想によって支持される。これは単純には夢の諸要素の中の解釈されない空白の点のことである。すなわち、夢の解釈体系(シニフィアンの集合)には、意味の付与されないゼロ地点があるということである。したがって、この「夢の臍」の構想に依拠して幻想に関して言えば、数え上げられるすべての解釈というものは存在せず、また、仮にすべての解釈が数え上げられたとして、そうした解釈すべてを総合しても、一つの正しい過去の反復としての幻想は出現しない。このゼロ地点によって解釈には終わりがなくなり、主体は無数の解釈を通して、ある時点で不確定的に幻想を構成することしかできないのである。要するに、一つの正しい過去の存在(起源)がない以上、転移幻想は弁証法的な多義性を有するものではなく、またゼロ地点がある以上、それは差異を含んだ「多義的な反復」(反覆)なのである。
 そして、原理的に無数であるシニフィアンを数え上げるうちに、分析主体は何度も反覆されながら更新されつづける幻想に事後的に最小限の再認可能性を見ることになる。それが根源的幻想である。先の署名の例で説明すれば、署名は書くごとに差異があるが、同じ署名として再認されるように、この根源的幻想も、解釈するごとに差異が生まれてくるが、あとから同じ幻想を巡っていたとわかる幻想なのである。つまり、根源的幻想は「或る過去と同一の過去であるという同一性」に基づくものではなく、差異を含む反復から事後的に見出される「或る過去と同じ過去という同じもの性」に基づいている。
 以上の議論から転移幻想は「差異のない存在論的に同一のものの反復」ではなく、「差異を含んだ事後的に同じものの反覆」であることが確認できる。
(赤坂和哉『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』より「第七章 治癒に向けて反覆として機能する幻想」 p.169-172)

 以下は2021年5月16日づけの記事より。「たとえられるもの(意味)がたとえるもの(イメージ)に先行していたそれまでから一転して、たとえるもの(イメージ)がたとえられるもの(意味)をふりきる力で自律的に作動しはじめる。その転換とねじれがもたらす比喩の亀裂が、意味のための余白をきりひらき、賭博の場となる」「暗喩の体系を構築しつつ破壊することで生じる一種の矛盾を、さまざまな意味がそこからねりあげられる鍛冶場として提示する、そのような方法論」、たいそうよくわかる。

夜は新井英樹『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』の続きを最後まで読み進めた。まりあが死んでモンちゃんが覚醒して以降の展開は、それまで厳密に構築してきた図式や比喩的な文脈を破綻させうるものになっている。たとえられるもの(意味)がたとえるもの(イメージ)に先行していたそれまでから一転して、たとえるもの(イメージ)がたとえられるもの(意味)をふりきる力で自律的に作動しはじめる。その転換とねじれがもたらす比喩の亀裂が、意味のための余白をきりひらき、賭博の場となる。この感じはものすごくよくわかる。暗喩の体系を構築しつつ破壊することで生じる一種の矛盾を、さまざまな意味がそこからねりあげられる鍛冶場として提示する、そのような方法論はこちらが「S」でとっているものとまるきり同じだからだ。

 夕飯は第五食堂で打包。帰宅後、メシ喰うないや喰う。明日の日語会話(四)にそなえて期末テストの説明を作成する。二年生のR.Hさんから作文コンクールへの参加をとりやめにすると微信。来月は日本語四級試験と英語の六級試験と期末試験がそろってひかえている。それにくわえて彼女はつい最近まで自動車学校にも通っていた。とても余裕がないとのこと。問題なし。

 19時半から図書館へ。S.Fさんの修論添削続き。20時半に無事終わる。思ったよりずっとはやく片付いた。図書館は昨日も今日もエアコンがついていない。最高気温30度やぞケチんなカス! 卒業生への手紙をあらためてチェックする。
 21時半になったところで図書館を出る。電動スクーターに2ケツしたK.KさんとC.Rくんに声をかけられる。ふたりも図書館で勉強していたとのこと。K.Kさんは院試をひかえているので最近は毎日図書館で勉強している。で、それに付き合うかたちでC.Rくんも図書館に通うようになったとのことで、実際彼の会話能力は日に日に向上しているというのがこちらの実感としてもある。
 帰宅。チェンマイのシャワーを浴び、冷食の餃子を食す。ベッドに移動後、スマホでブラウザでできる落ちゲーを一時間以上プレイしてしまう(2048ドロップパズルというやつだ)。学期末がいよいよ視界の範囲内に姿をみせて、授業準備もだいたい片付いたかなという時期になると、きまってゲームをしたくなる。その後、『ディスタント』(ミヤギフトシ)の続きを読みすすめて就寝。