20240521

(…)音楽やスポーツを考えてみればわかりやすい。まず第一に、いま起きていることは何か? だ。小説だけが読み終わった事後に全体として考えればそれでいいというのはおかしい。この小説と比べて私たちはふだん何と動きの悪い思考で生きていることか。意味というのは動きの悪い思考に生まれるんじゃないだろうか。
 思考の澱みとしての意味。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.305)



 7時起床。きのう就寝したのは3時を過ぎていたのでさすがにしんどかった。クロワッサンふたつ食す。G.KさんとO.Sさんのふたりから体調不良の欠席連絡。
 8時から二年生の日語基礎写作(二)。「三代噺」。難易度の高いお題であるので、いつものように授業の後半のみを執筆時間にあてるのではなく、前半含めて一時間ちょっとを執筆時間とすることにしたのだが、おかげでこちらはなかなか暇だった。寝不足なのでKindleでFlannery O’Connorを読んでみても英文があたまになかなか入ってこない。R.SさんからQQ糖をもらった。また授業中にうんこがしたくなったので五階の便所に行った。
 授業後、四階にある日本語学科の職員室的な部屋でK先生と落ち合う。K先生、花柄のカラフルなワンピースにカーディガンをはおっていたのだが、そのワンピースというのがデコルテ丸出しどころか胸の谷間まであらわになるようなアレで、えー! そんな服を着るひとでしたっけ! とちょっとびっくりした。月末までに教務室に提出する必要のある書類について説明を受ける。ひとつは一年半前にオンラインでおこなった閲読の期末試験の回答と学生の答案画像(突然ゼロコロナ政策が撤廃された大混乱のなかで行われたテストだ)。それと去年の春に担当した写作(二)の書類であるが、これはいつも教務室の人間がわれわれ外国人教師に代わって提出してくれるものであるので、おそらくこちらが用意する必要はない。で、最後に、ここ二年間に担当した考查の教科すべての「成績評定説明」なる書類で、これはこれまで一度も提出をもとめられたことがないわけだが、今回国からの監査が入るということで、急拵えで用意する必要があるという。手本としてC.R先生がこしらえたものを見せてもらったが、この科目は出席点が何パーセントで、宿題が何パーセントで、期末試験が何パーセントですよという説明みたいなアレで、作成するのにそれほど苦労はしないと思う。日本語でいいですかねというと、わたしが中国語に翻訳しますとK先生がいうので、これまで教務室や国際交流処にいろいろな資料を提出していますけど、いまのところ全部日本語で通ってますよ、こんなものどうせ形式主义でしかないのでしょうし誰もチェックしないと思いますから、K先生がわざわざ翻訳する必要もないですよと言った。監査役が直接授業をのぞきにくることはあるのかとたずねると、いちおう監査はすべてオンラインでおこなわれることになっている、だから国が要求する資料をその場ですぐに提出できるように事前にすべて電子化しなければならない、授業のようすにしても教室にもうけられている監視カメラの映像をみせることになる、だから学生らにもなるべく教室の前方に座るようにという通知を出しているしそのための会議まで先日わざわざおこなったとのこと。監査が問題なしとなればいいのだが、仮になにか問題ありとなった場合、来学期に直接監査役が大学をおとずれて教室をのぞくこともあるとの話だったので、クソめんどうくさい話ですねえと受けた。
 四年生のK.Kさんの話になる。彼女が二年生のときから入り浸っているあの会社はやっぱりマルチ商法なんですかとたずねると、学生らはそう噂しているという返事。一度K.KさんのクラスメイトであるR.Kさんが彼女に誘われるかたちでついていったことがあるのだが、すぐに、あ、こりゃあかんわ、となって帰ってきたという。スピーチ教室みたいなアレなんですよねとたずねると、「成功学」という名前でやっているみたいですという返事があり、これにはさすがに笑ってしまった。留年しといて成功もクソもないやんけ! と。大学二年生か三年生のころだったと思うが、いっしょに古本屋をひやかしにいったFがビートたけしのエッセイを立ち読みしながら肩をぷるぷる震わせていて、なんだなんだと相手の手にしている本のページをのぞきこんだところ、たけしの体験談として、ある日「神」を自称する老年の男が東京の路上で演説をしているのを見かけた(と書くと、まるでオコナーの小説に出てくる「なりそこねたキリスト」のようであるが)、それ自体は別にことさらめずらしい風景ではないので気にせず通りすぎた、その後腹が減ったので牛丼屋をおとずれたところ、先の「神」が先客としてカウンターに座っていた、「神」は牛丼の大盛りを注文していたが結局すべて食べ切れず残していた、牛丼の大盛りすら食い切ることのできない「神」がいるかバカヤロー! みたいな、最後のツッコミのところだけ太字になって印刷されているその紙面を目にしたこちらも爆笑してしまい、結局その一冊はこちらが買うことにしたのだったが、K.Kさんの話はこのエピソードとうりふたつだ。「成功学」の名のもとに「成功」だの「進歩」だの「成長」だのを念仏みたいに唱えている団体のそこそこのポジションにある人物が、前代未聞の留年危機におちいっている。そんな状況であるにもかかわらず、昨日の夜もモーメンツで520を記念したパーティーの宣伝をしていたし、今日は今日でそのパーティーの結果を報告する写真を投稿していて、ガンギマリのスマイルをならべた人間が一堂に会しているその写真の中にはたぶんK.Kさん以外にも留年の危機におちいっている学生がいる。
 K.Kさんは一年生のときはとても熱心に授業を受けていた、それが二年生になったころから「成功学」の会社に出入りするようになり、三年生になるころにはほとんど授業にも来なくなりと続いたので、典型的ですね、あの手のグループはまず囲い込もうとしますから、たぶん大学の教員やクラスメイトや家族にもあまり連絡をとらさないようにしているんでしょう、ぼくやS先生の微信に返信をしないのもそれが理由ですねというと、そうなんです、たぶんコントロールされちゃっているんですと言ってK先生は側頭部付近で指先をくるくるとまわした。しかもその会社の上司に当たる人物と恋人関係になっているらしくてとあったので、なにからなにまで型通りですねと苦笑せざるをえなかった。介入していいもんかどうかもわからんが、しかしだれかがしなければならないのだとすれば、「空気の読めない外人」としてこちらがかかわるのがある意味ではいちばん効果的かもしれない。距離の近い中国人がそれマルチやでと言っても聞く耳持たないだろうが、距離のあるこちらがそういうビジネス90年代の日本でもガンガン流行っとったで、なつかしいわァ〜といえば、ふつうとは異なる角度からロックされたその認識に揺さぶりをかけることもできるだろうし、会社側のボスらもたぶん「外人」であるこちらとは揉めたくないはず。
 来学期はとりあえず新入生を受け入れる可能性が高いという話もあった。その場合は1クラスになるという。それはありがたい。さらに、驚いたことに、最近日本人教師から採用してもらえないだろうかという連絡が国際交流処のほうにあったという話もあった。なんでこんな僻地に? 日本人まったくおらんし給料も平均よりだいぶ低いで! という話であるのだが、いずれにせよ現状うちの日本語学科は外国人教師ひとりで十分まわすことができている、それにくわえていつその日本語学科が取り潰しになるかわからない現状もうひとりを雇うわけにはいかないというR外国語学院長の判断が下されたとの由。まあそりゃそうやろ。しかしまったくの外部から採用願いがとどいたのはたぶん今回がはじめてではないか? なにを思ってこんなところに来ようと思ったんや? こちらが言うのもアレだが、正気け? M先生はうちの給料でだいじょうぶですか? お金はたまりますか? というので、ぼくは酒も飲まないしタバコも吸わないし旅行もしないし全然お金使うことがないんで、本と服しか買いませんしその服も大半は淘宝の安物ですから、けっこう余裕があります、でもMさんは四年間働いて終始はプラマイゼロって言ってましたと受けた。
 R.U先生の話になる。ほかの教員らが複数の学生の指導教官を担当するなか、ただひとりC.Sくんだけを担当していた彼女であるが、そのC.Sくんの卒論の最終チェックすらK先生に先日ぶん投げたらしい。なんぼなんでもあのクソババアええ加減にしとけよと腹が立ったので、いま博士課程に通っていますよね? あそこの宿題ぜんぶうちの学生らに丸投げしてますよ、学生らからめちゃくちゃ不満の声があがってます、みんなあのひとに戻ってきてほしくないと言っていますよというと、これにはさすがのK先生もびっくりしていた。こちらとしてはキレた学生のひとりやふたりがさっさとしかるべき部署に通報してくれないかなという感じであるのだが、仮に通報したところで処分がくだされるかどうかはわからん、なんせ关系がものをいう社会だ。
 それから、これは初耳だったのだが、Y.Eくんの大学時代のクラスメイトでひとり、日本に移住している女子学生がいるという話もあった。ネイルサロンを経営しているとのこと。
 あと、先日この部屋に突然見知らぬ中年男性がやってきて、日本語を学びたいのだがどうすればいいだろうかと質問を受けたという話もあった。男性は経営者ビザを取得して日本移住を考えている。しかしビザ取得条件にN2程度の日本語能力というのがある。そこでN2を取得したいのだが、なにかいい方法はないだろうかと、わざわざうちの日本語学科まで相談にきたらしい。こんな田舎からも移民希望者が出てくるのかという驚き。
 K先生と別れる。Jで食パンを三袋買う。レジのおばちゃんとは別に軒先におばちゃんが突っ立っており、となりにある眼鏡屋の店員さんと談笑していたのだが、こちらの姿を見かけるなり、彼は外教だ、大学で日本語を教えていると眼鏡屋の店員さんに説明しはじめたので、ハロー! 你好! とあいさつしておいた。
 第五食堂で閑古鳥の広州料理を打包する。帰宅後、メシ喰うないや喰う。それから三時間ほど昼寝。覚めたところで学生らの微信に返信。K.Kさんから作文コンクール用の原稿がとどいていたので、いま一年生の作文を添削している最中なのでもうすこし待ってほしいと伝える。E.Yさんからは例の口語実践演習なんちゃらの文章添削をたのまれたが、いまはやることがたくさんあって忙しい、RくんやK.Gくんの依頼も断っていると返信。R.Uくんからは例によって質問と雑談。彼はどうやら和歌に関する本を読んでいるらしい。
 夕飯も第五食堂で打包。メシ喰うないや喰う。チェンマイのシャワーを浴び、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。以下、2021年5月21日づけの記事より。

(…)綾屋さんの研究に話を戻しますが、彼女の「アフォーダンスの配置によって支えられる自己」は、タイトルからもわかるように、彼女が当事者研究のなかで、アフォーダンス理論を使って自分の経験を記述したものです。そのなかで綾屋さんはこう書いています。「私は他の人より意志が立ち上がりにくい」。つまり、「内発的な意志が立ち上がりにくいのだ」と。どうしてかといえば、彼女の身体の内側からも外側からも大量のアフォーダンスがやって来るからなのだ、と。前回にも空腹感についての綾屋さんのお話を少し紹介しましたが、もう少しご説明しましょう。
 例えば、胃袋が、今から何かすぐに食べろとアフォーダンスを与えてくる。そして、目の前にあるたくさんの食べ物は、私を食べろとそれぞれがアフォーダンスを与えてくる。つまり、身体の内側からも外側からも大量のアフォーダンスが彼女のなかに流入してくるけれども、それをいわば民主的に合意形成して、一つの自分の意志としてまとめるまでにすごく時間がかかる、とおっしゃる。
 綾屋さんは、多数派が意志と呼ぶものが立ち上がるプロセスを、先行する原因群を切断せずにハイレゾリューション(高解像度)に捉えていると言えるでしょう。また綾屋さんは同書において、「内臓からのアフォーダンス」という新しい表現でアフォーダンス概念を拡張しようとしています。外側からばかりではなく、胃袋をはじめとする内臓からもアフォーダンスが絶えず届けられているのだと。そしてそんな大量のアフォーダンスを擦り合わせる過程を多くの人々は無意識のうちに行っていて、そこではいわば中動態的なプロセスによって意志、あるいは行為が立ち上げられているのだとおっしゃいます。
 綾屋さんにとって、このプロセスは無意識どころではありません。彼女はまさに選択や行為を自分に帰属するのではなく、身体内外から非自発的同意を強いられた結果として捉えており、その意味で中動態を生き続けているのだと言えると思います。アフォーダンスが氾濫するなかで、なかなか意志も行為も立ち上がらない。だからこそ、「ゆめゆめ、中動態は生きやすいなどと思うなよ」とおっしゃる。それは当然のことだろうと思います。もしかしたら、中動態が希望か救いのように語られることもあるのかもしれない。しかし、そのように語られる「中動態の世界」の実際とは、アフォーダンスの洪水のなかに身を置くことを意味しているのです。
 ここには、人がなぜ、「傷だらけになる」にもかかわらず、能動/受動の世界を求めるのかを考えるヒントがあるのではないか。つまり、「犯人は誰なのだ?」のような、近代的な責任の所在を問うという理由だけで、能動/受動という言語体制が維持されるわけではないのではないだろうか。つまり、ひとりの人間が中動態を生き続けるというのはかなりしんどいことなので、多くの人は無意識にそれを避けるようにできているのではないか。彼女の研究からは、そういうことも示唆されます。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.144-147 熊谷発言)

 1年前はちょうどコロナに初感染した日らしく、夜中に発熱していた。たしか一週間ほど寝込んだのではなかったか?
 以下は10年前、すなわち、2014年5月21日づけの記事より。

 洗濯機をまわしてからパンの耳2枚とコーヒーの朝食をとった。読書メーターに『A』の感想があらたに追加されているのを見つけた。ここにきてようやくのマイナス評価と呼べるものだったが、感想の書き手自身がそう断っているとおり、なにひとつ示唆を与えてくれるわけでもない「趣味」の表明にすぎなかった。仮に『A』が新人賞を獲得して出版されたとして、そのときamazonレビューにはおそらくこのような感想が書きつけられるのだろうと予想していたとおりのものだった(ほかに予想していたのは「剣と魔法」式の物語に還元して批判するというものだがこれは先日Yさんが見事にやってくれた)。たとえば歴代の芥川賞受賞作のレビューをざっとながめてみるだけでも、そこにどれほどおおくの「共感できない」「感情移入できない」がまきちらされているか、やすやすと見て取ることができる(ふしぎなことにふだんは本を読まないけれども芥川賞受賞作だけはなんとなく手にとってみる層というのがこの国には一定数ある、ゆえに受賞作のレビューは「荒れる」)。小説というものが共感をベースとして読者をなぐさめはげまし勇気づけるそのようなサプリメントとしての役割をもとめられていると指摘されておそらくひさしいけれど(というかそれは小説ばかりではなく映画でも音楽でもそうなんだろうけれど)、ひるがえってこの社会はいつまで共感と排斥の蜜月関係を維持したまま未成熟にひらきなおってみせるんだろうかと思う。
 村上春樹の小説がベストセラーになるのはしかし共感ベースで考えるとすこしおかしいかもしれない。じぶんの知るかぎり彼の小説には共感や感情移入を許すことのできる「心理」など書きつけられていない。村上春樹にとって「心理」や「内面」というのはすべて村上春樹村上春樹たらしめるあの現実から非現実的へとずるずるとなだれこんでいく動線のうちにこそ(なかば秘教的に)装填されてあるのであって(彼の小説においてはしばしば「世界」と「内面」は一致する)、「心理」や「内面」の体裁をよそおいながら描写されているくだりは一種の断りにすぎない。じじつそれらはおしなべてひらたく類型的であり、表面に徹していっさいの「深み」を捨象している(それは「(近代小説的な)人間」にたいする「(ポストモダンライトノベル的な)キャラクター」の関係に少し似ている)。前者の方法論が成功した結果として「共感」を呼びまねいているのだとしたらまだしも、作家自身もおそらくは意図的に「浅さ」に徹して書きつけているであろう後者の「心理」や「内面」が共感の呼び水として作用しているのであるとしたら、ちょっとこれはどうしようもない。ひとむかしまえに携帯小説が若者らのあいだで爆発的に流行したのと同じで、既視感をなぞる快楽だけが読者を呼びこんでいるということになる。そのような読者はみずからの五感を補強するばかりで、みずからの五感をうらぎり否定しそれどころかときに異物をさしむけてくる、そのような凶暴さをはらみもつ過激な小説を疎んじて忌避する。メロドラマのはじまりだ。

 明日の授業で使う資料を印刷し、今日づけの記事もここまで書くと、時刻は22時半をまわっていた。

 作業中、MちゃんからLINEがあった。ボランティアで日本語を教えている中国人女性、すでにN2を取得しているし文法事項に対する理解はかなり進んでいるのだが、スピーキングがいまひとつなのだという。本人もそこをどうにかのばしたいと考えているので、なにかいい方法はないだろうか、と。英語のスピーキング能力向上には瞬間英作文がいちばん役立ったという実感があったので、それの日本語版を宿題としてやらせてみるのがいちばんいいのではないかといった。つまらない作業にも辛抱強く耐えることのできるタイプであるのなら、レベルに合った長文をシャドーイングするのもいいかもしれないと続けた。もし録音がないのであればMちゃんが標準語のイントネーションを意識して録音してあげればいい、と。
 寝床に移動後、A Prayer Journal(Flannery O’Connor)を少しだけ読み進めて就寝。