20240608

 She played and sang half to herself, for she was watching herself playing and singing. The firelight gleamed on her shoes, on the ruddy belly of the guitar, and on her white fingers. . . .
 “If I were outside the window and looked in and saw myself I really would be rather struck,” thought she. Still more softly she played the accompaniment―not singing now but listening.
(Katherine Mansfield “Bliss and Other Stories”より“Prelude”)



 11時起床。トースト二枚とコーヒー。二年生のT.Uさんからまた作文の添削依頼がとどく。きのうづけの記事の続きを長々と書き記して投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。以下は2021年6月8日づけの記事より。

熊谷 では、ダマシオのいう三つめの自己、「自伝的自己(autographical self)」というのは、どういうものか。私たちは傷だらけ、トラウマだらけです。意識のなかはトラウマで埋め尽くされている。そうしたヒューマン・フェイトである私たちは、傷だらけのままではあまりに痛すぎて、生きることができない。だから、傷やトラウマをなんらかのかたちで物語化したり、意味づけしたりして生きている。トラウマに意味を与える観念とかパターン、あるいは物語を使って自分のトラウマに一貫した意味を与え、物語としてトラウマをまとめ上げることでなんとか痛みに耐えて生きている。ダマシオは、そうした物語化された自己を自伝的自己というふうに整理しています。
國分 なるほど。ところで中核自己というのは必ず発生するのでしょうか?
熊谷 どうでしょうね……。
國分 例えば歩いていてどこかにぶつかって、「あっ痛い!」とかは誰にでもよくあることですよね。だから、原自己の「歪み」は生きていたら当然あるでしょう。言い換えれば、意識というのは必ず発生するのかどうか。
熊谷 まさに先ほどの綾屋さんの当事者研究が関わっているところだと思います。もちろん、いちいち中核自己が発生するわけではない。ほとんどのトラウマは私たちの意識に残らない。私たちは日々、ある程度規則正しい生活を送っていますが、それでもほぼ毎日、規則は裏切られています。しかしそれが毎回意識に上ったりはしない。だから原自己がどれぐらい乱された場合にはじめて中核自己が起動するか、という閾値のようなものがあるのではないかと思います。
 そして、その閾値には、個人差がある。綾屋さんの仮説によれば、自閉スペクトラム症と呼ばれる人たちの少なくとも一部は、この閾値が低いのだということです。つまり、少しでも原自己が歪まされると中核自己が起動する人がいるということです。意識のレンジが広いというのはそういう意味です。あるいは予測誤差に敏感と言ってもいい。少しでも予測から外れたら、意識に上る。
國分 少しでも予測が外れたら、意識に上る。簡単に意識が起動してしまうということですか?
熊谷 そうですね、言い方はいろいろあると思いますが、予測誤差に敏感だとか、意識のレンジが広いなどの表現は、原自己のわずかな歪みで中核自己が起動しやすいと言い換えられると思います。先ほどの綾屋さんの言葉どおり、意識のレンジが広いというと、なんだか気づかいのできるいい人みたいな感じがしますが、じつは非常に生きることが困難になる。
 國分さん、自伝的自己とはいわゆる自己のことと考えていいですか。アイデンティティみたいな……
國分 そうですね。それは、ヒューマン・ネイチャーとヒューマン・フェイトの相互作用でできあがるものと言ってもいいと思います。あるいは、昔、あんなことをしていた私も、今これをしている私も同じ私で、一直線につながっているという「自伝(オードバイオグラフィ)」を持っているという意味での「自己」。
熊谷 ええ。
國分 綾屋さんの「当事者研究と自己感」の文章を思い出しました。自分が自閉スペクトラム症だという診断を受けた帰りの電車のなかで、それまでバラバラだった、放り投げられていたような記憶が一直線に並んでいったという経験についてのお話です。これは時間の生成とでも呼ぶべき出来事ですね。定型発達の場合も時間の発生があったはずですが、それはあまりに幼い頃になされているから、ほとんど記憶されていない。しかし、綾屋さんの場合、偶然にもさまざまな条件が重なって、時間が時間として、直線的なものとして生成する瞬間に、三〇歳ぐらいになってから立ち会ったわけですね。自己の存在はこの一直線の時間の生成と密接に関わっていると思います。それはオードバイオグラフィの基礎になるわけですから。
熊谷 なるほど。そしてもう一つ、綾屋さんの研究で興味深いのが、自伝的自己になるきっかけとして他者が必要だというところです。私もまだつかみ切れてないところですが、これがまた非常に興味深い。
國分 あとでお話ししますが、きわめてドゥルーズ的な問題ですね。
熊谷 そうなんですね。私もまだ確信を持てていないのですが、どうも、原自己、中核自己まではひとりでもできる感じがするんです。でも、自伝的自己になるときに、どうしても他者が必要になる気がします。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.285-288)

 以下は2014年6月8日づけの記事より。

 ――頭(かしら)の露をふるふ赤馬(あかむま)
 日常の一場の光景のほうが天体の巡りよりも、水よりも時よりも、永遠のように眺められることはある。人は死後の眼になっているのだろうか。自身の不在の眼で眺めるとは理からすれば成り立たぬことであり、眼を惹き寄せた場面も、明日の晩も明後日の晩も一年後も馬は露に濡れた頭を揺すっていることだろうと思う程度の、反復にも限りのある事柄であるのに、そこに仮にも永遠のようなものを感じさせられるとすれば、眺めている以上自身は不在でないにしても、周囲の長い短い反復から、わずかの間、零れ落ちかけた徴(しるし)になりはしないか。ふらりと戸外(おもて)へ出た途端などに、よくあることだ。
古井由吉『野川』より「夜の髭」)

 作業中、一年生1班のS.Bさんから微信。「(…)」の日本語読みを教えてほしいというので、「(…)」であると返信。おそらく友人の名前だろう。ついでに期末試験の結果が満点であったことをあらためて告げて褒めまくっておく。彼女がほしがっていた『SPY×FAMILY』のポチ袋も満点の賞品としてあげると伝える。

 「三題噺」清書の添削をする。17時になったところで第五食堂へ。えげつない雨降り。今日から端午节含めて三連休であるというのに。今年の連休はどうも雨が降ってばかりな気がする。学生らがちょっと気の毒だ。
 メシ喰うないや喰う。チェンマイのシャワーを浴びたのち、20時半から23時まで「実弾(仮)」第五稿作文。シーン50、終わる。もっと苦戦すると思っていたが、それほど修正するところはなかった。
 T.Uさんの作文を添削して返却。ラーメンをこしらえて食したのち、「三題噺」清書の添削続き。すべて片付いたところでベッドに移動。
 そういえば、きのうづけの記事に書き忘れていたが、きのうの朝、四年生のK.Kさんから微信がとどいた。「先生には申し訳ありませんが、この間ずっと学校で試験を待っていましたが、試験がないと学校を出てしまいまして、ちょっと遠くに行ってしまって、しばらく帰れませんでした」とのこと。要するに前回追試をサボったことの弁明らしい。それに続けて「オンライン試験の申し込みは可能ですか?」とあったので、大学側があれほど苦心して設けた今回の試験(追々試)に対してすらそんな態度なのかとげんなりしつつ、試験を取り仕切るのは教務室の仕事であるので、実施の方式についてこちらで勝手な変更を加えることはできない、教務室の人間と相談してくれと返信。それにくわえて、やはりなにも言わないままでいるのはちょっと違うと思ったので、彼女がのめりこんでいる例のマルチ商法について、ちょっと踏みこんだメッセージを送っておいた。つまり、「それよりも、ぼくは君が働いている「成功学」を謳う会社について、友人たちから良くない評判をたくさん聞いているので、そちらのほうが心配です。話を聞いているかぎり、1990年代に日本で流行して大きな社会問題になった、主に大学生を狙った詐欺会社と非常によく似ています。ぼくの勘違いであったらいいのですが、授業には行かず、卒論も提出せず、知人からの連絡は無視し、追試まで欠席するという最近の君の行動は、90年代の被害学生がとった行動そのままなので、かなり心配しています。余計なお世話だと君は思うでしょうが、何も言わずに黙っているのも年長者として無責任だと思うので、君にここでぼくの印象を率直に告げておきます」というものであるのだが、1990年代うんぬんはまあ適当なアレである。こちらのメッセージを受けたところで、それではっとして我に返ることができるほどマルチ商法の洗脳はぬるいものではないし、実際彼女からの返信は予想通り「好的,谢谢老师」という形式的なものでしかなかったわけだが、いつかなにかをきっかけに彼女がくだんの会社に対してわずかな疑問を抱く瞬間がおとずれる、その瞬間に生まれたばかりの疑問をおしひろげるためのいわば時限爆弾みたいなものとして「外国でかつて流行していた有名な詐欺」という一種特殊な、彼女の周囲からこれまでさんざんよこされているだろう反対意見とは別角度の指摘が機能すればよいという狙いで送った格好。あとは知らん。